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政治は21世紀の国家像を語れ
〜天下国家を語らずして政治の存在意義は無い〜

 中島 健

1、はじめに
  8月13日、多くの「重要法案」を審議した第145通常国会が閉会を迎えた。
 今回の国会では、参議院で過半数に及ばない小渕恵三・自自連立内閣は、自民党内からの異論を退けつつ公明党との事実上の閣外協力を組み、衆参両院で安定多数を確保。 ガイドライン関連法案 、組織犯罪対策法案、それに 国旗・国歌法案 といった「重要な」法案を十分な審議の後可決・成立させていったが、これに対しては野党や一部大手報道機関から「法案を次々と可決してゆく強権政治」「自自公の『数の論理』」といった批判が繰り返し浴びせられていた。
 確かに、今回の国会では、 ガイドライン(周辺事態)法案 等の他、中央省庁改革推進法、地方分権一括法、憲法調査会を設置する国会法改正、住民基本台帳法改正、公務員倫理法といった所謂「重要法案」が多数可決され、また賛否を巡って新聞各社が紙面を賑わせたのは事実である。また、これらの法案の審議に伴う混乱も、終盤の野党三党によるフィルバスター戦術(異常に長い演説を行うことによって審議を遅滞さえる行為)、牛歩戦術(異常に遅く歩行することによって投票行動を遅らせる行為)以外はほとんど起こらず、国会外でも、かつての安保改訂時のような大規模な抗議行動はついぞ見られなかった。特に、 日米安保条約 を実効性あるものとし、朝鮮有事における我が国自衛隊の役割を明確化した ガイドライン関連法案 が、7年前の PKO協力法案 採決当時の如き醜態を見ずにあっさりと成立したことは驚きでもあり、また冷戦の終結に伴う保守・革新の不毛なイデオロギー対立に終止符が打たれたことを喜ばしくも思うのである。

▲国会議事堂(東京都千代田区)

 しかしながら、果たして今回の国会で成立した一連の「重要法案」は、本当の意味で、つまり21世紀の我が国の国家像を占う上で「重要な」法案だったのであろうか。

2、成立したのは本当に「重要法案」だったのか
 なるほど、確かに情報公開法であるとか中央省庁改革関連法といったものについては、その一端をうかがうことができるかもしれない。自自連立政権の発足にあたって自由党が主張していた国会における官僚答弁の「原則」廃止を定める国会活性化法などは、各論としてはかなり画期的なものであった。しかし、今回「重要」と称されたその他の法律、例えば前述したガイドライン関連法案も、元々は前の橋本龍太郎内閣時代に「日米安保共同宣言」がなされて以来懸案となっていた事項であり、しかもその内容は、およそ一国が他国と軍事同盟を結ぶ際には当然に決まっていてしかるべきことを当然の如く決定しただけであって、何等目新しいものがあるわけではない。むしろ、我が国がアメリカと 安全保障条約 を締結しておきながら、このような実効性のある法律を今日に至るまで制定していなかったことを異常とすべきであろう。あるいは、憲法調査会を設置する国会法改正も、従来憲法改正発議権を唯一持つ国会にこのような組織が存在しなかったこと自体が問題だったのであり、「論憲」の第一歩を踏み出したものとして当然といえば当然の変化であろう。「重要法案」の中でも多くの反対があった通信傍受法についても、それが憲法の保障する「通信の秘密」という制度的保障と抵触する(蛇足ながら付言すると、「通信の秘密」は人権そのものではなくてそれを達成するための一手段に過ぎない)が故に議論を呼ぶことはあっても、これが21世紀の我が国のあり方を根底から変革するというわけではない。ましてや、日の丸を国旗、君が代を国歌と定める「 国旗国歌法 」は、言うなれば従来我が国の象徴として慣習的に運用されてきた日の丸・君が代の存在を確認し、一部の教育現場における(公務員にあるまじき)異常な騒ぎを静めるためのものであって、それが基本的人権と抵触するだとか国家像を根底から変革するといったものでは全く無かった。更に、単にそれまでの住民基本台帳等の情報をコンピューター化するというだけの内容の改正住民基本台帳法に至っては、個人情報の保護の点で論じる余地があったとしても、その他の諸論点(例えば、「国民総背番号制につながる」といった意味不明な批判)については、ほとんど「コンピューター化社会を受容すべきか否か」といった抽象的文明論的な次元でしか有り得なかったのである(なにしろ、この法案の実質的な意味は、例えば「市民図書館の蔵書管理を電算化するのかどうか」と同程度しかないのだから)。
 以上を総括すれば、今回成立したいわゆる「重要法案」とは、それまでの55年体制の下でのイデオロギッシュかつ衆愚的な時代状況・政治状況の下で、論壇での議論すら封じられていた懸案事項、あるいは最近の情報化社会の進展に伴って対応すべき事項だったということなのであり、あの無思考的で「何でも反対」に堕落していた旧社会党全盛時代の後始末をようやくつけることが出来たというだけのことなのである(第一、 国旗・国歌法案 のような法律は本来、それこそ2〜3時間の審議でケリをつけるべきであろう)。安定多数とはいえ、決して絶対的な多数を占めているわけではない自自公三党が今回、かつての自民党単独政権時代を上回る巨大な「安定多数与党」に見えたのは、55年体制時代は単独で圧倒的多数の議席を確保していた自由民主党といえども、東西イデオロギー戦争の前にまっとうな議論が出来ない状態にあり、その「多数」のもたらす意味が大きく異なっていたからであろう。

3、白日の下に晒された民主党・公明党の問題点
 むしろ、今回の国会で明らかになったのは、野党第一党である民主党(菅直人代表)の欠陥と、同じく閣外協力として与党を「数」の上で助けながらもその大胆な変節ぶりを国内外に見せ付けた公明党(神崎武法代表)の怪しい政治路線であった。
 たとえば、広島県の高校校長の自殺を機に国会後半ではじまった 国旗・国歌法案 の審議において、採決に反対する少なくない衆参の民主党議員達から「審議をつくせ」「国民的理解が得られていない」といった見解が飛び出したが、私は、こうしたコメントが飛び出てくること自体に、民主党議員の歪曲された民主制理解を見出すのである。確かに、国家運営上の複雑な技術的論点を含む問題、例えば通信傍受法案であるとか中央省庁改革関連法案といったものについては、なお議論を尽くすことによって各論的・技術的な問題点を明らかにし、必要であれば法案を取り下げたり修正したりすることにも意義があろう。あるいは、21世紀の国家像を大局的に決定するような法律案については、長時間の討議も必要であるかもしれない。しかし、どの旗を国旗としどの歌を国歌とするかといった極めて非技術的かつ価値的・感情的な問題については、当初からこれが長時間の議論にはなじまない性質のものであって、永遠の論争を止揚するために「多数決の原理」が働くのである。しかも、実際には、衆参で地方公聴会も含めて十分な審議時間がとられており、更に、戦後の我が国における度重なる国旗・国歌論争の「層の厚さ」を考えれば、国会審議はほとんど省略しても構わなかったはずである。それを、「審議がつくされていない」「国民の意識と乖離している」等といって採決、ひいては法律化そのものに反対するというのは、極めて手前勝手な民主制理解という他無かろう。こうした行為は民主党の責任政党としての信頼性を疑わせるものであり、如何に実際の国会対策上必要であったとしても理解し難いものである。
 同様の問題点は、いみじくも国会終盤の一連の「抵抗運動」で顕著になった。参議院本会議の投票は98年から、 PKO協力法案 当時の「牛歩戦術」という55年体制の愚かなるイデオロギー対立を象徴する反民主的な行為を封じるために、伝統的な登壇式から押しボタン方式に変ったのだったが、本来は、そうしたシステムを導入しなければ牛歩の如きつまらぬ行為を封じられない我が国政治の在り方こそ恥ずべき問題と考えるべきであろう。しかも、実際には、「出席議員の5分の1以上の要求があったときは、登壇式に変更できる」とする規定を今回民主・共産・社民の各党が悪用したことで、この恥ずべき押しボタン方式の意義すら完全に失われてしまった。民主党など野党三党にしてみれば、自自公三党によって押し切られっぱなしだった国会審議に楔を打ち込み、せめてもの抵抗の姿勢を演じたかったのであろうが、それが却ってこの三党の無責任ぶり、政権政党としての相応しくない状況を露にしてしまったといえるだろう(最近、病気で入院した上杉光弘官房副長官も、これが原因だと噂されている)。これは、議事が政府提案なのか野党提案なのかを問わない。ましてや、些末な事項を延々と述べるフィルバスター戦術や動機の著しく不純な動議の連発に至っては、「言論」によって国政を決するという国会のあり方を極度に歪曲するものであり、「市民のための政党」を自負する(あるいは、そう己惚れている)政党が「言論の自由」をナチズム的に悪用する反民主制的衆愚的な態度であって、今どき小学校の学級会ですら見られない珍現象である(斎藤議長の職権による投票時間の制限は、その意味で正に画期的であった)。(民主党議員ではないが、)牛歩戦術で共闘した社会民主党・護憲連合の福島瑞穂参議院議員は「首相問責決議案のような重要な決議で採決の時間を制限することは投票権の侵害。委員会で盗聴法を強行採決しなければ、真夜中に朦朧としながら議論する必要も無かった」と自自公三党側を非難したというが、委員会裁決の際委員長のもとに詰めより、議事録を暴力的に奪取しようとした野党側の「民主制の侵害」を棚に上げた不見識な発言としか言いようが無い。福島議員は弁護士ならば、判決に不服を持った被告人側が裁判長を取り囲み速記録を奪う行為が如何に野蛮であるかがお分かりのはずであろう。更に、福島議員は「時間制限が不当」というが、決議案につき態度を決め兼ねている議員が実際に困っていたならばともかく、実際には当然賛成であるはずの当の提案者側が「態度を決め兼ねているから時間が欲しい」等というのは、国会において議論の場を共有している他党の議員に著しく無礼なことであろう。
 無論、民主党議員の中にもこうした子供じみた抵抗を嫌った良識ある議員も数多く居たであろう。実際に、牛歩戦術の「党議拘束」を敢えて無視した議員も散見されたということは、まだしもの救いになっている。しかし、牛歩戦術という唾棄すべき行為の発案者たちである旧社会党系議員、及び国政の実質よりも政治的パフォーマンスによって国民大衆を扇動することに興味がある党代表を抱えている限り、旧民政党系・旧民社党系の議員が浮かばれることは無い。そもそも、民主党が確固たる21世紀の国家像を提示することが出来ないのも、旧民政党系・旧民社党系・旧さきがけ系・旧社会党系といった政治路線がバラバラの政治家が「菅直人・反自民・反小沢」という結集軸で集っているからであり、政党のあり方としては、リベラル的保守から本当の保守政治家まで、「政権党である」という一点の結集軸で政党を構成している自由民主党と大してかわらない。先の参議院選挙で民主党が橋本龍太郎「自社さ連立」政権を「数合わせの野合である」と酷評していたが、何のことはない、当の民主党も又その内実は野党版「自社さ野合政党」だったのである。そのことは、最近立候補者が確定した民主党の代表選挙を見ても明かである。支持基盤が単に「国民的人気」であったことが露呈した菅直人現代表(9月1日現在)、菅代表に対する感情的な反発から支持を集めたものの、記者会見でも具体的政策等を一切述べようとせず、何故立候補したのかが外部の人間にはさっぱり見えてこない鳩山由紀夫幹事長代理(これは、「民主党」最も嫌う「永田町の論理」ではないのか?)、そして「連立野党」の旧社会党部分を代表する横路孝弘総務会長という顔ぶれは、民主党という政党の魅力の無さ、「自社さ」連立ぶり(自・さ=鳩山、社=横路、さ=菅)を自ら告白するに等しいものであったといえるだろう。こうした現状を打破するためには、責任ある大人の政治を目指す国会議員に現政党を脱党の上真の意味での責任ある政策新党を(無論、自民党や自由党からも迎え入れて)結成してもうらうしかないだろう。
 一方、民主党の如き先祖帰り的な愚行に出なかった分、旧野党・公明党の「政権参加」という行動はそれなりに評価されてしかるべきかもしれない。少なくとも、フィルバスター戦術だの牛歩戦術だのを繰り出して、無益かつ無責任な国会の混乱を招くよりは、閣外協力の見返りに法案の修正をはかるといった公明党の姿勢は、その点に関しては信頼性も高いといえるだろう。しかし、依然として多くの有権者は、何故先の参議院選挙で自民党政治の問題点を声高に叫んでいた浜四津敏子代表代行の率いる政党が統一地方選挙の直後に一転して与党よりになったのか、あの参議院選挙の時の厳しい橋本政権批判は何だったのか、という根強い不信感を抱いている。無論、政治とは結果責任であり、結果がよければ過程の問題点はある程度無視し得るのであるが、公明党の如き「コペルニクス的転回」が何度も続くことになると、結局は再び国民の政治不信・選挙不信を惹起するだけである。事実、1994年に村山富市内閣が誕生し、社会党が「自衛隊合憲・安保堅持」の「コペルニクス的転回」を果たした後、同党(後に社会民主党)は(公明党を与党としても)野党第3党、日本共産党の後塵を拝する存在に転落した。そしてそれは、公明党自身は勿論のこと、連携を決定した自民党の首も絞めることになるのではないだろうか。公明党が、創価学会という一宗教団体からの支援だけでやっていくことで満足なのであればともかく、その他の国民からも信頼され得る中道政党としての期待を集めたいというのであれば、こうした理解困難で政治不信を煽るが如きドラスティックな政治路線の転換は、今後一切慎むべきである。
 なお、蛇足ながらここで付言すると、更に問題なのは公明党と統一会派を組んでいる「改革クラブ」(小沢辰男代表)のあり方である。衆議院議員9人、参議院議員2人を擁するこの政党は、元々新進党解党時に公明党と統一会派を組んだのであったが、先の参議院選挙の際は改選議席が無かったこともあってほぼ沈黙を守り、公明党と異なり声高に自民党政治をなじるといったことは無かった。しかし、ではこの政党が一体何を「改革」し、誰のために存在しているかということになると、話は全く不明瞭になる(不明瞭な点では、小渕内閣不信任決議案で賛成と反対に割れた「さきがけ」もそうであるが)。保守系野党なのか、単なる公明党の別働隊・増強戦力なのか、それとも自民党復党予備軍なのか。今回の公明党政権参加を機会に、改革クラブにはその存在意義を根本から見直してもらいたい。国費で歳費を支払っている以上、自己の政策のアピールは政党・議員の義務である。

4、本当の「重要法案」はまだこれから
 さて、以上の如く、今回の国会では野党・民主党の「55年体質」「自社さ連立体質」が明らかになったわけだが(付言すれば、土井たか子党首の社会民主党には当初から何等の期待もしていない。)、さりとて当の自自公側が21世紀の国家像を大胆に提示したというわけでもない。「真空総理」とはよく言ったもので、小渕総理の「富国有徳」なる抽象的なスローガン以外で実質的に内閣支持率を支えているのは、東京証券取引所における平均株価の上昇に過ぎない。新進党時代からそうしたビジョンをある程度提示してきた自由党(小沢一郎党首)は別として、自民党も公明党も、残念ながら前述した民主党と同程度にとどまっているのが現状なのである。事実、今回成立したいわゆる「重要法案」の中で、真の意味で重要だと思われる「国会活性化法」は、連立政権参加にあたって自由党側が要求したものであった。
 では、本当の「重要法案」とは何か。一言でいえば、それは我が国の21世紀の国家像を描き出すような法案のことであり、「右肩上がりの経済成長」が終わった今、「国民所得倍増計画」にかわるような国家理念を示すような構想のことである。
 例えば、外交・国防の分野では、1996年の「日米安保共同宣言」、更にこれを実効化する1999年の「 ガイドライン関連法 」によって、東アジアの平和と安定に共通の利益を見出す我が国とアメリカは、今後とも政治的・軍事的な同盟関係を維持してゆくことを確認した。この日米両国の枠組み合意自体は、一つの堅実な政治的選択として評価できるが、問題はそうした枠組みにおける我が国自身の役割分担である。共同宣言が「自社さ」連立内閣時代に出されたものであったことから、これに多くを期待するのは困難だったのかもしれないが、少なくとも憲法上・政治上の制約から、我が国が(基地提供、情報交換、後方支援等の)完全に受動的な軍事的役割しか負わないとした同宣言は、日米両国の政治力学、つまり両国の垂直分業体制と日本側の少ない発言力の固定化を一層促すものである。湾岸戦争における世界的な対日批判を想起するまでもなく、今日、なお政治的・軍事的役割の負担はそのまま政治的発言力の増加につながるのであって、行動は問題に対する主体的・責任ある参画の意思表示となるのである。その点からすれば、現在の「日米新同盟」体制は、結局のところ協力による成果の大半を「行動する国」によって奪われる結果に終わる可能性が高かろう。我が国が未だに憲法上・政治上の制約からこうした状況に置かれているのは、とりもなおさず我が国自身による現実的な国家戦略(特に国家安全保障政策)の構築ができていないからである(それに加えて、誤った憲法理解から、根本的な国家戦略が 憲法 に常に拘束されるべきだとする実定法至上主義的思考がこれに加担したといえるだろう)。
 あるいは、外交・国防という最もクリティカルな分野でなくとも、例えば政府部門の関与が必要な経済・金融の分野では、近年「金融ビックバン」の号令の下に金融自由化、規制緩和の潮流が主流をしめているが、今後我が国が、アメリカの如く一般国民までもが株取引等のマネー・ゲームに興じる国家となるのか、それともコツコツとよい品物を世界に供給することによって利益を得てゆく実物経済優先の国家となるのかについては、未だ不明である。
 従って、今後政府与党及び外交防衛当局に期待されることは、まず第一にこうした国民的状況の改善であり、その根源的結果としての「憲法改正」であろう。先日、『文藝春秋』9月号に小沢一郎・自由党党首の憲法改正論が掲載されたが、その主眼は、憲法第9条に現在の政府解釈を後押しするような第3項を追加して、自衛隊及び国連平和協力活動を完全に合憲化しようというものであった。しかし、これでは例えば「国民の安全を世界の平和愛好国に依存する」と堂々宣言している前文や交戦権を否定する第2項はそのまま残されることになり、 現行憲法 の平和主義的基調の弊害を完全には除去しきれていない。「安全を平和愛好国に依存する」等というのは、単に自衛隊が違憲か合憲かという問題を飛び越えて、そもそも我が国政府が独立した主権国家なのか、自主外交をしていこうとする意思があるのかどうかさえ疑わしめる文言なのであり、この部分が手付かずの憲法改正論はほとんど無意味であろう。

5、おわりに
 国民は、自分の日々の生活で忙しく、「21世紀の国家像」といったことを四六時中考えているわけにはゆかない。
 それ故に、それが許されている「エリート」たる政治家こそは、日々頭脳と脚を駆使して、この「日本」という一つの巨大な社会をどちらに進めて行くのか、それこそ血を吐くような思いで必死に思考しなければならないはずである。にも関わらず、今回の国会で改めて露呈したのは(というより、以前からわかっていたことではあるが)、与党である自民党・公明党の無思考ぶりであり、また野党第一党・民主党のそれである。国民性の傾向から政治手法が制限されることがあるとはいえ、リーダーシップ無き政党に、そもそも政策を論ずる資格は無い。「民主」とは、民意を忠実に反映さえすれば、その結果責任はすべて「民意」つまり国民に転嫁できるといった消極的・無責任的な意味ではないはずである。そうであるならば、代議政体は不要であり、「民主党」なるものはそもそも論理矛盾ですらあろう。その意味では、与党でも自由党はそれなりの展望と理念とを提示していたし、国家像の内容や普段の詭弁的かつ反民主制的な発言は大いにに問題ながらも、曲がりなりにも政策を結集軸とし未だに社会主義国家を目指している日本共産党(不破哲三委員長)は、民主党・社会民主党と比較してまだしも好印象を受けるというものである(そういう意味では、実は「民主」と名のつく政党は皆問題点を抱えているということになる)。
 東西冷戦のイデオロギー的呪縛から開放されて10年がたつ今こそ、政治は現実的な議論をはじめ、「21世紀の国家像」を語り出すべきではないだろうか。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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