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小国意識から目覚めるとき(第1回)
〜戦後外交と国民世論を問いなおす〜

 中島 健

■1、はじめに

 最近の我が国における政治状況を見てみると、自自公連立によって手厚く支えられた第2次小渕内閣も発足し、政治は既に西暦2000年へむけて次の主題を探そうとしているかに見える。例えば、高齢化社会の到来に伴う年金改革問題やWTO(世界貿易機関)の新たな交渉がそれであり、また9月の与野党党首選挙で再び盛りあがった憲法改正論議がそうである。
 ところで、今まさに終わろうとしている1990年代の我が国における政治のキーワードは、1にも2にも「改革」であった。即ち、政治分野においては、「金権政治の温床になった」として中選挙区制度が小選挙区・比例代表並立制に改正され、政治献金の規制が厳しくなった。経済・金融分野においては、非製造業における国際競争力の無さや行政による過保護が問題とされ、規制緩和や金融ビックバン、護送船団方式の廃止といった「構造改革」が叫ばれた。更に、一連の官僚不祥事に端を発した行政の分野では、中央省庁のあり方を抜本的に見なおすこととなって、2001年度から新省庁体制に移行すべく、現在でも各省設置法案の整備が続けられている。こうした一連の「改革」論議は、最近でこそかなり下火になってはきたものの、新しい10年を迎えつつある現在でも、例えば大学入試改革といった教育改革、あるいは法曹一元化問題といった司法改革という形で、脈々と継続している。
 ところで、こうした一連の改革においては、分野によってその進捗状況にはかなりの温度差があったことは周知の事実である。例えば、問題が最も深刻であると受けとめられていた金融問題において、従来の大蔵省が主導する型の保護行政を根本的に見直す「金融ビックバン」が決行され、今日に至ってもその余波を受けた金融機関の統廃合が進んでいる。反対に、例えば財政構造改革の分野においては、当初、財政赤字の拡大を最大の問題としていたはずの国民世論が、景気の悪化に伴って手のひらをかえすように財政出動による不況対策を強く求めるようになったことから、橋本内閣後期に至って財政健全化政策は完全に忘れ去られてしまった。
 しかしながら、これら平成時代の改革論議の中で、我が国が歴史的、構造的な問題として抱え、改革を最も必要とする分野であるにも関らず、議論が最も低調に推移し、私には国民世論の側がむしろ改革に冷淡であった分野が存在したように思える。それは、外交、特に安全保障の分野における改革である。

■2、湾岸戦争での教訓

●2-1 日本外交の消極性
 戦後半世紀の歴史の中で、我が国の外交・安全保障政策がはじめて根本的な変革を迫られたのが、1990年から91年にかけての湾岸戦争(湾岸危機)であった。
 湾岸戦争以前、即ち東西冷戦の最終段階であった1980年代においては、我が国とアメリカ合衆国との関係は、一方では半導体協議等貿易摩擦の問題を抱えており、ワシントンでは「安保ただ乗り」論が喧伝されていた。しかしながら、安全保障の分野では、デタント後の「新冷戦」に対処すべく、日本側が防衛力整備の努力(例えば、鈴木善幸総理の「1000マイル・シーレーン防衛」発言や中曽根康弘総理の「日本列島不沈空母」発言、「三海峡封鎖宣言(有事の際、宗谷、津軽、対馬の三海峡を封鎖してソ連太平洋艦隊の動きを封じるというもの)」、ロッキード「P-3C」対潜哨戒機導入、防衛費GNP1%枠突破など)を行い冷戦の最終的勝利に貢献したために、本質的には終始良好なかたちで推移していた。実際、これをよしとしたアメリカは、冷戦後の東アジア秩序について、当初は我が国の意向も十分反映しようとしていた節があると言われているが、しかしながら、そうした良好な関係は、90年の湾岸戦争における我が国の対応によって、大きく揺らいでしまった。
 90年8月2日未明、イラクのサダム・フセイン大統領は、突如軍をクウェートに侵攻させた。オイルダラーに溺れ、軍事力の整備を怠っていたために弱小だったクウェート軍は即座に蹴散らされ、イラク軍はクウェート全土を占領・併合。ジャビル首長は国外に脱出したのだったが、この時の国際世論は、イラクの不法な侵略行為を許されざるものとして団結し、国連の集団的安全保障体制を発動して、軍事力を行使してでもイラクの平和破壊行為を認めない、と高揚した。実際、イラクの侵略から5日後には、米軍の緊急展開部隊第1陣がサウジアラビアに展開をはじめ、最終的にはアラブ諸国を含めて29ヶ国が何らかの形で軍事的貢献を行い、湾岸の秩序維持をはかった。この時は、憲法解釈上NATO域外への派兵が出来なかったドイツですらも、イラクに隣接するトルコまでの輸送任務を担当する形で多国籍軍に参画した。そして、冷戦時代にはほとんど機能しなかった国連安保理がはじめて実効的な決議を行い、国連憲章第7章に基づいて多国籍軍の武力行使を認める決定を下したのであった(もっとも、この点につき私は、湾岸戦争における国連の行動は、冷戦時代と比較して決して大幅に変化したとは考えていないし、実際に冷戦中も第7章に基づいて武力行使を認めた例は存在する)。
 ところで、この時、産油地である中東の平和と安定に大きな関心を寄せざるを得ない我が国は、大蔵省の迅速な行政指導によって経済制裁にこそいち早く参加し(これにより、イラクがクウェートで接収・略奪した資産の不当な売却を阻止出来た、と言われている)、更に10億ドルの資金協力も表明したのであったが、人的貢献、ことに軍事的な分野における「血を流す」貢献については、武力行使の禁止と戦力不保持を定める憲法上の制約、つまり我が国独自の特殊な論理を盾にして、これを拒絶してしまったのであった。例えば、危機初期の段階でアメリカ政府は、「砂漠の盾」作戦に必要な後方支援業務(兵站輸送など)や掃海艇の派遣といったことを日本側に打診している。これは、超大国アメリカといえども後発国に押されて海運業が衰弱しており、一国では十分な商船を徴用できなかったからなのだが、これに対して我が国は、国内海運業界の反対や「武力の行使」を禁じた 憲法第9条第1項 の制約もあってこれに答えることが出来ず、結局、テント等を搭載した形ばかりの民間貨物船1隻と、四輪駆動車を搭載した自動車運搬船1隻を湾岸地域に送り出しただけであった。その後も、あとで述べる「国連平和協力法案」が国会審議で廃案となる等して、湾岸戦争中、軍事的貢献の道は遂に開かれる事は無かったわけである。

●2-2 消極性の根源
 しかも、こうした後ろ向きの態度は、単に「憲法上の制約があってやむを得ずとられた」というだけでなく、実際に政治や行政の中にも、現実の国際政治の認識や「軍事的貢献」の意義を理解せずに、「軍事」というファクターを極力無視しようという意識を持つ当事者が少なくない数いたことによって、一層強化されていたと言えよう。
 例えば、政治の分野においては、憲法平和主義の擁護と安保自衛隊反対を党是とする野党・社会党は言うに及ばず、後に条件付で資金協力を認めた公明党や、与党にして現実主義的な保守政党であるはずの自由民主党内にも、「国際貢献は非軍事的分野に限るべきだ」といった見解や、自衛隊に対する偏見を持つ政治家が少なくなくいた。そして、それらが「国連平和協力法案」成立に対する与党の情熱の無さ、首相官邸の指導力の無さとなって現れてしまったのである。ことに、派閥の領袖ではなく、「ハト派」として知られる当時の海部俊樹総理は、自衛隊派遣を選択肢から出来得る限り外そうとし、ブッシュ大統領側から厳しい要求を受けるまで、集団的自衛権論議にも否定的な態度を崩さなかった。そして、永田町全体としては、(当時の小沢一郎自民党幹事長を除いて)議論は「非軍事的貢献」へと傾いて行った訳である。
 一方、行政の分野では、湾岸危機を主管していた外務省内部で、適切な指導力が発揮されなかったために組織全体が混乱し、迷走する政治サイドをカバーすることも出来なかった。例えば、当時の外務事務次官は、一方では「世界全体のルールのためには、日本の特殊事情を訴えるのを控えるべきだ」ということを雑誌「外交フォーラム」の記事上で主張しておきながら、ひとたび湾岸戦争が勃発すると、「自衛隊は結局放置すれば暴走してしまうモンスターだ」といった持論によって軍事的貢献に反対の立場をとり、結果として国際世論における我が国の印象を一層悪くしてしまった。しかも、こうした外務省内部の混乱に加えて、資金協力のあり方を決める立場にあった大蔵省との間で権限を巡る省庁間の争いがあり、日本外交全体の危機対処能力の足を引っ張る結果となった。これは、我が国が唯一為し得た財政上の貢献策について度々外交当局と対立を重ね、資金協力の外交上のタイミングを失して後にアメリカ側から「日本の貢献策はtoo little, too lateである」との批判を招くことになった。

 

▲対応が問題視された外務省(左)と首相官邸(右)

 加えて、最大の問題点として、そもそも国民世論の内に、軍事的貢献に対する無条件の拒否反応や、国際情勢の現実に対する認識の甘さがあったことは否めない事実である。例えば、ちょうど我が国に対する軍事的貢献の要求が噴出していた90年12月の朝日新聞世論調査によると、「湾岸危機のような国際紛争が起きた場合、日本はどんな態度をとるべきか」という問いに対して、「資金援助にとどめる」が33%、「人的、財政的貢献は一切せず、外交面で努力する」が29%、更に「民間人グループを派遣する」が19%で、「自衛隊を派遣する」と答えたのはわずか9%であった。この数字は半年後の調査では19%に上昇するが、それでもまだ3分の2の人々が非軍事的な分野での貢献を主張している(しかも、驚くべきことに、12月の時点で「何等の貢献せず」と答えた人が29%もあった)。また、91年6月19日の朝日新聞世論調査では、湾岸戦争での我が国の貢献策について、「やり過ぎだ」が14%、「適切だ」が36%、「足りない」が39%で、アメリカにおける世論調査で71%が我が国の役割を「評価しない」と答えている状況とは大きくかけ離れている。

●2-3 国際世論からの批判
 さて、こうした国内の論調の結果、我が国は中東の平和と安定に大きな利害関係を有しながら、その維持には特段の軍事的貢献はしないということに相成ったのだが、これでは、同じくこの地域に強い利害関係を持ち、イラクを封じこめるために軍隊を派遣していた多国籍軍参加各国、ことにアメリカの理解は到底得られるところではなかった。例えば、世論に敏感なアメリカ議会は、日米貿易摩擦の影響もあり、「在日米軍駐留経費を全額日本側が負担しなければ、毎年5000人ずつの在日米軍を撤退させ、『安保ただ乗り』をさせない」との法案を下院で可決したし、あるいは、日本の貢献に不満を持つ港湾労働者達が、日本船舶に対する港湾荷役のボイコット運動を行う、といった動きすら見られた。既に述べたように、湾岸戦争後の世論調査では、実に71%のアメリカ国民が戦争中の日本の役割を「あまり評価しない」「全く評価しない」と答えており、我が国の憲法上の制約については、51%のアメリカ国民が「取り外すべきだ」との意見を表明している。こうした対米安保関係の悪化は、結局冷戦後の今日に至っても、クリントン政権初期に「経済安全保障」が喧伝され、あるいは96年の日米安保再定義が官邸ではなく外交・防衛当局主導で行われたことからも明らかなように、アメリカ政府内部の対日観として定着している、といえるだろう。
 結局、当時の我が国は、90年10月、小沢幹事長の主導で国会に提出された「国連平和協力法案」も野党の猛反対や政府答弁の食い違い等もあって撤回されてしまい、軍事的貢献の可能性を自ら閉ざしてしまう。そして、これ以降は、アメリカ政府から要求されるがままに、どんぶり勘定的に決定された130億ドルもの「資金協力」を行わざるを得なかった。しかも、湾岸平和基金に振り込まれたその資金使い道や、湾岸戦争全体の行方については何等政治的発言力を持つことが出来ず、戦争中の日本外交は事実上多国籍軍の軍事行動を見守るだけに終わってしまったのであった。91年3月11日、アメリカの有力紙に掲載されたクウェート政府の感謝広告の中で、「クウェート解放に貢献した30ヶ国」のリストにJAPANの文字が無かったことは、事実上戦費の大半を負担した我が国の資金協力が、実に何等の国際的評価も受けなかったことを如実に表しているものと言えるだろう。

(以下、次号)

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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