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小国意識から目覚めるとき(第2回)
〜戦後外交と国民世論を問いなおす〜

 中島 健

■3、戦後日本外交の問題点

 それでは何故、我が国外交は湾岸戦争において「敗北した」のであろうか。その背景には、戦後半世紀の間に、敗戦国から経済大国に成長する過程で国民世論が陥っていた、外交に対する誤った認識が潜んでいる。

●3-1 国民国家の機能
 そもそも、国際政治が行われている「国際社会」は、基本的には主権国家、あるいは国民国家によって構成された社会である。無論、現代の国際情勢を見てみると、市民団体等のNGO(非政府組織)や多国籍企業といった国家意外の主体が、国境を半ば無視する形で活動しており、その役割は年々認められて来ている。しかしながら、国際政治において主軸となっているのは依然として国民国家間の交流、つまり外交関係だし、こうした「国家でない主体」が国民国家の担っている機能全てを代替しているわけでは無論ない。その意味では、国民国家は唯一の主体ではないが、しかし依然として最も重要な主体なのである。
 では、こうした国民国家は、一体どのような機能を果たしているのであろうか。
 第一にそれは、要素として「力」あるいは「軍事力」を持つ、と言うことが出来る。自国の領域の安全を侵略者から守り、自国民の生存を物理的に保障するというこの機能は、近代国家のそもそもの成立原因が軍事的要請にあった点を想起すれば当然のことであるが、現代に至っても、国際政治の最も原始的な部分において「軍事力」が重要な意味を持ち安全保障上の役割を果たしていることは否定できない事実である。例えば、日米両国の「国力」を比較してみた場合に、我が国が圧倒的な劣勢に立たされるのがこの「軍事」という部門においてであるし、又地域紛争等の局面において、事態の収拾を図る手段、あるいは非軍事目的を完全に・安全に達成する手段として、なお軍事力の有効性は薄れていないのである。
 第二にそれは、「利益」あるいは「経済」的な活動単位であると言えるであろう。誰もがある国家の中で経済活動を営んでおり、経済学的に「政府部門」と呼ばれる部門が公共財を提供することで、実際の経済は成立している。無論、世界経済が連動して動く昨今、例えばアメリカの景気変動が我が国の経済状況と密接に関っているのは事実ではあるが、日本国内における景気動向と、アメリカにおけるそれとでは、国内のほうが影響が大きいのは明らかである。事実、冷戦時代末期、アメリカが軍拡によって経済的に疲弊していたころ我が国はバブル景気の真っ只中にあったのであり、しかしその後、我が国が戦後最悪の不況を経験している中で、技術革新に成功したアメリカはかつてない息の長い好景気を今経験している。
 第三に、国民国家は以上のような「政治」と「経済」という2つの要素だけでなく、3つ目の要素として「文化」ないし「価値」を持っている。つまり、そこに住んでいる人々の中に共通の行動様式と価値体系が存在しており、一つの文化情報共同体が成立している、ということである(その点、我が国はこの均一性が比較的高い)。逆に、一度こうした側面の統一性が崩れてしまうと国内民族紛争の火だねともなるわけで、文化的単位と政治的単位にズレが生じたユーゴスラビアで激烈な内戦が戦われたのもこの典型的な例であろう。

●3-2 「軍事」と「経済」の本質とその重要性
 しかも、ここで注意すべきは、これら3つの要素は、まずは「力」あるいは「軍事」の体系が最も重視され、次いで「経済」(利益)及び「文化」(価値、正義)が重要視されている、ということである。
 そもそも、「軍事」とは一体何なのであろう。「軍事」とは、大枠としては例えば「軍人・軍隊・軍事力・戦争・防衛などのことに関する総称」等と定義されるが、より本質的には、それは軍隊の最も基本的な機能である破壊、占領、支配を可能たらしめる強制力である、ということが出来る。そして、そうした基本的な作用を手段として、一般に一国の軍事力は、「抑止力」の発揮や相手国に対する「強制・誘導」、更にはそうした強制を拒絶するだけの「拒否抵抗」といった機能を担う。
 一方、「経済」つまり「利益」の本質とは、ある主体の満足つまり効用であると言うことができる。そして、具体的には、そうした効用は支払い手段(価値保蔵手段)としての「貨幣」がこれを担うことになる。
 さて、以上のことから、「軍事」とは具体的、物理的かつ直接的な概念であるのに対して、「経済」とは抽象的、観念的かつ間接的な概念である、といった違いが見出されるだろう。即ち、既に述べたように、「軍事」とは占領や破壊を行う以上実体的な概念であるのに対して、「経済」の本質がある主体の「満足」という精神的なものである以上、それは抽象的かつ観念的な概念であるといえるわけである。
 ところで、これらのことから、「軍事」と「経済」には、いくつかの重要な違いが存在する
 第一に、「軍事」が実体概念であり「経済」が抽象概念であるという点から、「軍事」には価値のような流通性が無いのに対して、「経済」にはそれがあるということが出来る。例えば、「経済」だったら、発達した通信技術によって、今日では地球の反対側にいても「経済」活動が可能となっている。しかし、「軍事」については、例えば地球の反対側で戦争が起きたからといって、インターネットを通して軍隊を送りこむというわけにはいかない。無論、「軍事」における「通信」あるいは「情報」の重要性は強調され過ぎることは無いが(例えば、領域的には小国であるイスラエルは、「モサド」等その優秀な情報機関を使って国防・外交目標を達成し、こうした諜報活動は自国の安全保障に大きく寄与しているが、しかしそれは、最小限度の軍事力を最大限有効に使用することに活用されているのであって、「モサド」だけで国境を警備しているのではない)、しかし逆に「通信」や「情報」だけでは、実体的・物理的な問題としての「軍事」や「戦争」に完全に対処することは出来ないのである。
 また、「経済」であれば、基本的に「商品を買ってくれる相手」であればお客は選ばないため代替性があるが、「軍事」にはそれが無い。例えば、「軍事」について言えば、「同じ安全を提供してくれるなら、アメリカとロシアと中国とを比べて最も安上がりの国と条約を結ぼう」というわけにはいかないだろう。また、例えある程度の選択肢があったとしても、「経済」の如くコロコロと「仕入れ先」を変えたりすることは出来ない。つまり、「経済」には効用以外何もつきまとわないのだが、「軍事」にはそれを提供した側の「政治」や「文化」が色濃く付きまとってくる訳である。
 第3に、「軍事」と「経済」とでは、それを担う主体、つまり一人一人の人間にとって、事態の重大性が根本的に異なる、ということが出来る。
 例えば、同じ「敗北」でも、「経済的敗北」は単に抽象的な、間接的な敗北であって、それによって自己の物理的存在を直接脅かされることはない。命ある限り、時が過てば再び立ちあがって、経済活動に復帰することも出来るだろう。しかしながら、「軍事的敗北」においては、それが具体的、直接的な敗北であるがために、勝者によって物理的な支配を受け、場合によっては生存を直接的に脅かされる危険性もある。強制力を以って行動を規制されるために、経済活動もあくまで勝者の許した範囲で可能となるに過ぎない。つまり、軍事的勝者は、その物理的強制力を使って、敗者の存在そのものを自由に(恣意的に)規制したり消滅させたりすることが出来てしまうのであって、それだけ人間の存在にとって重大なことなのである。
 更に第4に、以上のことからも理解されるように、そもそも「軍事」と「経済」とは、その存在する次元が全く異なるということがある。例えば、内戦が終結したばかりの国のことを想像して見るとする。そこでは、戦火が収まれば、人々は経済活動を再開し、町は賑わいを取り戻すだろう。しかし、一旦内戦が再開され、町中で銃撃戦が繰り広げられるようなことになると、賑わっていた市場はたちまち無人となり、経済活動は停止する。つまり、現実には、「軍事」の秩序が形成されて安全になることによってはじめて「経済」の秩序が生まれるのであって、「経済」はあくまでも「軍事」によって左右されるものなのである。そしてそのことからもわかるように、「軍事」に対しては「軍事」でなければこれに対抗することは出来ない。何故ならば、「軍事」は「経済」の前提条件であり、「軍事」が具体的な概念であるのに対して「経済」が抽象的な概念であって、この両者はそもそもその次元が異なるものだからである。これは丁度、例えば人間の宗教的信仰心がお金では計量し得ない、あるいは「親子の愛情」といったものが決して裁判の「損害賠償請求額」といったものでは満たされ得ないのと似ている。
 このように、「軍事」は「経済」を左右し得る実体的強制力であるが故に、現実の国際政治では、まずはその国家の物理的存在を確保するものとして「軍事」を優先し、次に、生存が確保された上ではじまる「経済」活動が関心の対象となる。また、そうした重要性を持つ「軍事」に対しては、「軍事」以外の手段では対抗出来ないがために、世界各国は独自の軍事力を持っているのである。

●3-3 戦後日本における状況
 しかしながら、残念ながら戦後の我が国においては、こうした考え方は国民世論の主流となることはなかった。それは、戦後半世紀に渡って、国民世論の中に一つの「小国意識」があったからである。
 そもそもこの「小国意識」は、1945年に我が国が戦争に負けたときに芽生えたものであった。当時の我が国は無条件降伏の結果連合国軍の占領下におかれ、主権国家としての軍事権・外交権を全て奪われたわけだが、その結果、期せずして国民世論は外交や軍事について考える必要が無くなった。また、実際に戦争の被害や軍部の横暴を目の当たりして、そもそも軍事について考えたくない、というような風潮もあった訳だが、この時我が国では、敗戦後の虚脱感も手伝って、「大国が決定した運命の中で生きればよい」という、一種の「小国意識」が生まれてしまったのであった。加えて、当時の日本人としては、外交について考えるよりも日々の生活をどう食い繋いでいくか、つまり「経済」について考えなければならなかったので、いきおい国際政治に対する関心は薄まるばかりであった。そして、そうした状況は、いつしか国際政治における「軍事」の重要性についての認識を、国民世論から奪って行ったのである。なお、こうした「小国意識」が生まれる機会は、「吉田ドクトリン」と呼ばれる吉田茂首相の軽武装日米安保条約 +自衛隊)・経済優先政策によって、独立後もしばらくは続くこととなった。
 さて、無論、国民世論がこうした状態では、我が国は、本来ならば到底現実の国際政治の中で活躍することは出来ないのだが、東西冷戦時代においては、そうした小国意識に伴う外交上の欠点は、実は在日米軍がこれを補完してくれていた。つまり、幸か不幸か、我が国が 日米安保条約 によってバックに在日米軍の存在を背負うことによってはじめて、日本外交から欠落していた「軍事」部門が補完され、どうにか現実の国際政治に対処し得たのであった。具体的には、独立回復以降、70年代の我が国の地位の相対的向上を経て、湾岸戦争の直前に至るまで、政府は国民世論の許す範囲、つまり自国の専守防衛の範囲内では最大限「力」を持つように努力をし、国民世論の理解が得られない国際政治における「力」の発揮には、米軍のグローバルな戦力を宛てていたことになろう。事実、国民世論は、個別的自衛権の分野については憲法上の問題をとやかく言うことはせず、自衛隊は戦後半世紀の間存在を許されていたが、防衛白書の世論調査では、我が国の安全保障として相応しいものとして、常に「自衛隊と日米安保体制の併用」が1位を占めており、集団的自衛権はついぞ正面切って認められたことは無かったのである。
 ところで、こうした政府による努力は、「日米安保の枠組みで」という制限つきながら、結局我が国を最後のところで国際社会の一員として存立させたのであるが、同時にそれは、国民世論をして、自分達の小国意識、つまり「国際社会において『軍事』はもはや重要ではない」といったことが、あたかも正しかったような錯覚をももたらしてしまった。換言すれば、現実には、 日米安保 体制が日本外交の「軍事」の部分を補っていたからこそ我が国が一人「経済」を追求することを許されていたというのに、在日米軍のそうした補完機能が見えなかったために、「援助外交や平和外交こそが我が国の戦後の成功体験を導いたのだ」、とする観念が根強く生じてしまったのである。例えば、俗耳に入り易い議論として、「憲法第9条があったからこそ日本は戦争に巻き込まれなかった」というものがあるが、真実は全くそうではなく、我が国が戦争に巻きこまれなかったのは、 日米安保条約 によって我が国が西側陣営の一員にカウントされ、自身を守る軍事力として自衛隊を持ち、更には核兵器をはじめとするアメリカの莫大な軍事力が抑止力として働いていたからに他ならない。こうした小国意識の助長は、現実に直面せざるを得ない政府当局が、与えられた憲法の中でなんとか国際政治に関与していく術として日米安保体制を使い、国民世論の改革という根本的な解決をしなかったために起こったものであった。
 しかも、こうした国民意識と現実とのギャップは、東西冷戦時代においては、更に2つの幸運によって露呈せずに済んでいた
 第1の幸運は、我が国も又厳重な「核の傘」の下にあったために、日本への攻撃が直ちに第3次世界大戦そして全面核戦争へとエスカレートするようリンクされていた、ということであった。つまり、東側陣営が我が国少しでも手だしをしただけで、それが自動的に世界全体の安全保障問題になり得たのであり、これによって我が国は、単に自国の領域を侵されないよう自衛力を整備するだけでも、十分世界秩序の維持に貢献出来てしまったのである。中曽根総理時代の自衛力整備(もっとも、シーレーン防衛などは限りなく集団的自衛権に近いと言えるが・・・)がアメリカに評価されたのも、これがあったからである。
 第2の幸運は、我が国の地理的位置にあった。つまり、日本列島の位置がアジアにおける共産主義の拡大を封ずるのに適していたがために、我が国は自動的にアメリカの好意的な支援を期待できたのである。これは、例えば同じ時期に韓国が「防衛ライン」の外側におかれ、為に朝鮮戦争を経験しなければならなかったのと比較すれば、格段に幸運な状況であったと言えよう。
 しかしながら、既にも述べたように、東西冷戦終結後、我が国国民の「小国意識」を支えるこうした環境は、ほとんど消えてしまった。つまり、湾岸戦争においては、冷戦時代にあった「地理的特質」と「超大国の抑止力へのリンケージ」という二つの好条件が期待できず、ここに、冷戦時代隠蔽されてきた現実の国際社会と国内の論理のギャップ、日本外交のアメリカ軍事力への依存傾向が露呈したわけである。そして、この時の我が国は、国民から政治家、更にはマスコミも含めて、「国内の論理」が依然として軍事的貢献の重要性や「軍事力」の意味を理解することが出来なかったために、不十分な国際貢献しか出来なかったのであった。
 結局、我が国が当時国際世論から厳しく非難されたのは、我が国の貢献策が「経済」を以って「軍事」に対抗しようという、国際政治の現実からすれば非常識かつ実現不可能なものであったからであり、また国際政治上一番重要な、そして大変な貢献を「金」によって逃れようとしたからだったのである。

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中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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