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健章書評
■香山健一『歴史が転換する時〜二十世紀が語りかけるもの』 PHP研究所、1992年・・・1998年12月号
東西冷戦が終結してから既に約10年が経とうとしているが、この間我が国では、冷戦時代にはほとんどタブー視されてきた我が国の近現代史の評価や歴史観の再検討について、実に様々な議論が戦わされてきた。東京大学教授の藤岡信勝氏が旗揚げした「自由主義史観研究会」はその代表的な例であり、これ以後、「従軍慰安婦」論争、あるいは「南京『大虐殺』事件」論争など、歴史にまつわる議論は尽きる事が無く今日まで続けられている。最近では、諸外国との外交交渉の一部に「歴史認識」の問題が登場するなど、「歴史」は我が国の外交を考える上でも重要な論点の一つになっているということが出来るだろう。
学習院大学教授である著者の香山健一氏も又、上記のような流れの中で指摘されるようになったいわゆる「自虐史観」乃至「東京裁判史観」、更には冷戦時代一世を風靡していたマルキシズムに対しても批判的な立場をとるが、それでは香山氏はどのような立場に立っているのかといえば、それは(氏の言葉を引用すれば)「日本型経験論」乃至「プラグマティスム(現実思考)」ということになるだろう。著者によれば、我が国は「特定の主義主張にこだわりを持つべきではない」という伝統的な経験論的風土があり、これは人類史的普遍性さえ持つものである。そして、近代合理主義が生み出した様々な悲劇(戦前の超国家主義的思想や冷戦時代のマルキシズム、更には極東国際軍事裁判において見られた「聖戦」的な考え方、など)を経験したあとに、経験論こそが21世紀の我が国、いや世界における歴史・社会の根本的思想になるべきであって、我が国もそうした方向性の中で発展・貢献してゆくべきであると説く。
以上のような、伝統的経験論思考を持つ「日本は断じて無原則な国家でもなければ、理念なき国家でもない」という著者の主張は、戦後の我が国の奇跡的な経済発展を理解する上でも、また21世紀における我が国のあり方を検討する上でも、示唆に富む有益なものである。勿論、著者が主張するように、果たして我が国が戦後歩んだ道が(日米同盟、経済発展等大枠としては正しかったにせよ)全て正しかったのかどうか、「理念ある国家だった」のかどうかについては多少異論もあるが、一読の価値は大いにある。
■佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年・・・1998年11月号
南米ペルーの首都リマにある我が国の大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)と名乗る左翼武装ゲリラ集団が襲撃・占拠した1996年12月の「ペルー日本大使公邸人質」事件は、我々にとっても未だ記憶に新しい事件であるが、かつて東西冷戦華やかなりしころ、我が国においても、左翼過激派組織が武装して人質をとり、警察を相手に銃撃戦を繰り広げるという凶悪な事件が起きたことがあった。連合赤軍「あさま山荘」事件である。1972年2月19日、管理人牟田泰子さんを人質に、武装して「あさま山荘」に立てこもった赤軍派を名乗る5人は、1500人あまりの警察機動隊を相手に10日間にわたって抵抗し、結局全員生きたまま逮捕されたわけだが、その課程で警察官2名が射殺され、負傷者は24名に登った。この本の著者である佐々淳行氏は、当時警視庁から軽井沢に派遣され、「あさま山荘」事件警備の指揮にあたった警察官として、今日の若い世代にはなじみの薄いこの一大公安事件を、警察側の視点から生き生きと描き出している。
初代内閣安全保障室室長であり、警視庁の幹部警察官として全共闘等の極左学生運動の鎮圧にもあたっていた佐々氏は、我が国における数少ない「危機管理」の第一人者であり、その豊富な「危機経験」(ベトナム戦争下でのサイゴン赴任、香港暴動、学生運動その他)に裏打ちされた本書の内容には、読む者を唸らせる説得力がある。また、本書では単に「あさま山荘」事件の概要だけではなく、非常時における人間関係のあり方や極限状態における関係者の心理といったことに関しても示唆に富む記述があり、「危機管理の書」としても一読の価値がある。
■阿川弘之『国を思うて何が悪い』(1987年)、『国を思えば腹が立つ』(1992年) 光文社・・・1998年10月号
第2次世界大戦中学徒動員で海軍士官になったこともある著者は、「山本五十六」「米内光政」「井上成美」という、かつて「海軍左派」と言われた提督達を扱ったノンフィクション作品をはじめ、「暗い波涛」等の海軍予備士官(学徒兵)を題材とした小説などで有名であるが、この2冊は、それらの著作の中に散りばめられた、阿川氏のものの考えを凝縮したものといえるだろう。
最近、日本史教育を巡る論争の中で、作家の司馬遼太郎氏の歴史観がとりあげられ、「司馬史観」として広く紹介されているが、それと並んで、いやそれ以上に説得力を持って語り掛けてくるのが、阿川弘之氏の歴史観であり、端的にいえばそれは旧海軍の、特に親米英派の歴史観である。戦前の我が国においては、過激な右翼思想が巷にあふれ陸軍の専横は目に余るものがあったが、そんな時代にあって常に自由主義的な立場から日本の戦争突入や右傾化について厳しく批判していたのが、所謂「海軍左派」と呼ばれた提督達であった。もっとも、左派とはいってもそれは当時の社会状況からしてのことで、現在の基準に照らせば正しく中道・自由主義の考え方である。例えば、今日では開戦初頭に真珠湾攻撃を提案したことで有名な山本五十六海軍元帥が、実は最も対米英戦争に反対していた海軍提督の一人であったことは、余り知られていない。また、海軍における統帥権の強化と政府影響力の低下を狙った軍令部条例改正に対して最後まで激しく反対したのが、「海軍左派」の一人井上成美海軍大将であり、更に開戦の決定に際して近衛首相の諮問に「日本の海軍は英米を相手に戦えない」と言明したのが、首相も勤め昭和天皇陛下の親任も厚かった米内光政海軍大将であった。阿川氏は、そんな戦前の海軍軍人達の話や、自身が体験した事例をふまえて、戦後我が国に見られた左翼思想の興隆を、戦前の右翼思想の激化と同じく、日本人の悪しき国民性の一つであると見ている。
従って阿川氏は、無論戦後の社会主義や「進歩的文化人」ら共産主義に躍らされた人々を痛烈に批判してはいるが、同時に、戦前のファシズムや陸軍的・軍国主義的思想をも厳しく指弾しているのであって、私はその優れたバランス感覚を高く評価したい。とかく感情的、教条的になり勝ちな歴史認識の問題について、これほど説得力と平衡感覚を持ったものは珍しいくらいであり、私は真の自由主義的史観である阿川氏の歴史観—それを敢えて仰々しく「阿川史観」などとは呼ばないがーに、もろ手を上げて賛成したいと思う。
■二木雄策『交通死〜命はあがなえるか〜』岩波新書、1997年 本体630円・・・1998年9月号
この本は、著者が実際に遭遇したある交通事故を通して、現代の交通事故にまつわる法律的諸制度の欠陥や不合理な点を明らかにしている。そして、この本全体を通して紹介されている交通事故処理の事例には、著者の現代司法制度に対する根強い不信感が投影されているといえよう。
現代の我が国においては、年間1万人の規模で人が交通事故死しているが(但し1996年と97年は1万人を下回った)、果して我々はその重大性を認識しているだろうか。あるいは、交通事故死に対して、感覚が麻痺してやいないだろうか。確かに、我が国に於いては、戦後の経済発展とモータリゼーションによって、自動車交通はもはや国民の生活にとって欠くことの出来ないものとなっている。しかも、車はもはや特定階級のみ所有するものではなく、誰でも気軽に利用できる乗り物である。技術的にも、アクセルとブレーキ、それにハンドルを操ることによって、人は誰でもドライバーになれる。アクセルを踏めば、ボンネットの下に搭載した機関が、如何なる動物よりも強力なパワーで車体を動かし、時に時速100キロを越える速度を発揮する。だが、この恐るべき利便性、恐るべきパワーが、人間の認識能力の限界点を突破した時、多発する交通事故は非常に特殊な地位におかれる。即ち、ドライバーの責任が、車の一般性と認識超越性を理由に軽減され、交通事故を一般の殺人ほどには重大視しない風潮を生むのである。しかも、交通事故に対する対応は、マニュアル化された、無機質で事務的なものとなっており、それに対して著者はその非人間性を批判するのである。特に、交通事故はおろか社会関係の成文化手引き書ともいえる法律を扱う弁護士に対して、著者は不信感を隠さない。
最近、司法試験の受験者は、長引く不況が若者を資格志向に走らせていることもあり、増加する一方である。しかも司法試験は、一旦合格して修習を経ると、弁護士という高い社会的地位と安定を約束された職業につくことができるため、法学部の学生はおろか他学部の学生までもが、受験を志すようになっている。しかし、その受験勉強の内容はといえば、ひたすら論理的思考力と記憶力によって法律の文言を適用するというものであり、しかも最近の司法試験予備校の充実に伴って、司法試験とその受験勉強は一層のマニュアル化、無機質化の道を辿っている。このことの矛盾、つまり人間の有機的な結合としての社会を無機的な論理で処理することしか知らない人間が弁護士になっていることが、本書の著者をして「(弁護士は)法律を万能とする形式論者」と言わしめている原因ではないだろうか。この本は、(内容的に男女同権の話等で一部不満もあるが)全ての司法試験受験者に読んでもらいたいし、またこの本を敢えて夏季休業の宿題として課した法学部のある教授に、私は敬意を表したい。
■小林節『憲法守って国滅ぶ』KKベストセラーズ、1992年 1100円・・・1998年8月号
今日、憲法学会においてはドイツ流の法実証主義的立場から「自衛隊は違憲である」との解釈が主流を占め、国会における憲法論議も依然として低調である。そんな中で、慶應義塾大学法学部の教授であり憲法学者である本書の著者は、戦後の改憲論に対する批判が如何に不毛で非現実的なものであったのかを、憲法に専門的な知識が無い人でも判り易く解説し、主権者である国民が、この憲法をより一層よいものとするためにはどうすればいいか、について書いている。著者はアメリカ法的な立場に立ち、第9条について自衛戦争合憲説をとる「めずらしい」憲法学者だが、その改憲論議には、かつての改憲論議で批判された様な「明治憲法への郷愁」の傾向はみじんもなく、あくまで国民主権・人権尊重の原理が貫かれているところに、その特徴がある。
■紀藤正樹『21世紀の宗教法人法』ASAHI NEWS SHOP、680円・・・1998年7月号
オウム真理教の一連の凶悪犯罪を契機に、我が国でも宗教法人法の在り方が問われるようになったが、カルト宗教がらみの被害者救済活動を行ってきた弁護士である著者の、宗教法人に対する切り口は極めて冷静であり、現実論、法律論の側面から現行宗教法人制度の問題点を指摘している。たとえば、宗教法人を管轄する文化庁宗務課は、人員がわずか10数人であり、とても全国18万の宗教法人全てを監視することはできない。そのため、我が国は事実上「宗教法人天国」と化しており、えせ宗教やカルト宗教の発生する余地がおおいにある。また、我が国においては、信教の自由とその限界について、他の自由、例えば表現の自由程には議論されておらず、欧米のようにカルト宗教に対する基準のようなものは形成されていない。あるいは、宗教法人法は他の種類の法人では認めれられているような構成員の諸権利が認められておらず、法制度的にも問題がある。
このように、著者は現行制度が抱える様々な問題を簡潔に、しかし網羅的に指摘しており、初心者でも理解しやすく読みやすい。宗教法人とその法律問題の知識を得る上でも、また現在の宗教法人制度の問題点を探る上でも有用な書といえよう。
それにしても、最近オウム真理教がまた復活の兆しを見せているという。一体彼らのようなカルト宗教集団に対応する法律が、何故我が国にはこれまで作られなかったのだろうか不思議なくらいである。今後、彼らのような危険な集団を規制し、健全な宗教法人法制を構築してゆくことが、地下鉄サリン事件をはじめとするカルト教団の犯罪によって殺された人々への、最大の供養となるだろう。
製作著作:健章会・中島 健 無断転載禁止
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