このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

当時の遺構
正門
 当時は海軍工廠の正門でした。門柱はそのまま日本車両の門として使われています。

 表面は傷一つない綺麗な門ですが、当時の門は爆撃や機銃掃射で出来た傷がたくさんあり、その表面にコンクリートで化粧してあるだけです。  それを剥がせば当時の姿を見る事ができるようです。


南大通
 海軍工廠のために建設された道路です。ほぼ片側2車線の道路で、道なりに進めば、豊橋駅の前に出る道路です。 当時豊川は鉄道はそこまで発達していなかったので、海軍工廠で出来たものを運ぶのに使われた道路です。街中に何故このような太い道路があるのかと思ったら、戦争遺構のわけですね。

 現在は日本車両が製造した車両を豊橋駅に運ぶために使われます。夜中に新幹線がトラックに積まれ走る姿はなかなか珍しいです。  新幹線は線路の規格が違うため、ここからトラックまで運ぶことになっています。

 豊川市の色々な資料で掲載される、終戦後の豊川海軍工廠周囲の地図では南大通が描かれていません。終戦後でなく建設途中の地図ではないかと思われるのですが詳細は不明です。  豊川市史についている地図だと思うのですが、年代などは不明だということです。詳細を検索中です。


旧太陽地球環境研究所(夏)
 海軍工廠跡地の北西に位置します。ここの一角のみ当時の遺構が良い状態で残っています。研究所の性格から特に取り除く必要が無くそのままにしてあったようです。 そのため、戦後の状態が手付かずで残っています。戦争遺構の宝庫といえます。現在は研究所は移転し、ここがどのように使われるかはまだ未定だそうです。 普段は関係者以外立ち入り禁止ですが、豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会が主催する見学会などに参加すれば比較的容易に見る事ができます。

 こちらは8月7日に開催された見学会の様子です。夏は草木が生い茂っており冬の見学会の3分の1程度しか見る事ができません。

 目の前に見えている森は土塁です。この辺りは火薬関係の施設が多く、爆発の被害が広がらないために施設ごとに土塁で囲まれています。 土塁の高さも電柱なみと結構高いです。右下にあるトンネルが入り口です。
 配電盤です。今でも現役で使用されています。文字は名古屋大学が書きましたが他は当時の姿そのものだそうです。

 この海軍工廠は当時最先端技術が使われています。電線は上に作ると輸送の際引っかかったりして不便なので、全て地面を通しています。  現在の都心部でようやく行われるようになったことを戦争時代に行っているなんてすごいですね。
 トンネルを抜けると旧火工部薬筒乾燥場が見えてきます。当時はここに弾薬などがおかれていたようです。 この施設は草に覆われてはいるがとても綺麗な状態を保っていました。外壁は厚さ30センチのコンクリートで作られており頑丈です。 逆に天井は比較的壊れやすい構造をとっています。なかの弾薬が爆発したときに横に広がらないようにする工夫がされています。回りは土塁に囲まれていてさらに広がらないようにしています。 こちらには爆弾は落ちなかったようです。
 この何気ない道も当時の遺構です。アスファルト以外はほとんど当時のものです。サイズの変更もされておらずそのまま使われています。

道の脇にあるドブは現在はほとんど土に埋まっていますが、当時は人が入れるくらいの深さがあったようです。豪雨などが起こった場合、水が内部にたまらないようにしていたということです。 こんなところまで考えられているのは驚きですね。たびたび予測不可の洪水がおこる都市部が見習って欲しいところですね。
 外灯も当時の姿を保っています。他にも保存状態の良いものもあるようです。この根元を見ると地面から電線が入ってくる様子を見る事ができます。
 森の中で少し凹んでいるところが当時の防空壕です。豊川海軍工廠では空襲後にすぐ作業再開できるように、安全無視の防空壕がたくさん作られていました。 通称「たこつぼ」。比較的大きい穴は木の蓋がしてあるだけで、爆風を防ぐのみの効果しかなかったようです。人命無視の構造であったことが伺えます。 空襲を体験した方の話では防空壕を移りながら工廠の外へ逃げたようです。タイミングが悪ければ爆風でやられていたようです。

 初めて見ると何かはわかりません。言われて気づく程度です。
 これは夏の見学会の特典の一つで研究所の屋上から跡地を見ることができます。比較的全体を見ることができるので全体像を把握しやすいです。 ここから南側をみれば草むらのなかにプールがあります。テニスコートの横にあるので比較的発見しやすいです。資料では「水槽」としか書かれていなく、以前は将校などのプールと言われていました。 最近では当時の人の話から、黄燐を保存しておくための水槽だったということがわかっています。黄燐は空気と触れると発火してしまうので、こういうところに保存していたわけですね。
 テニスコートの反対にある施設です。なにも言わなければ森と勘違いするくらいです。原料粉砕場と思われます。
海軍用地標柱01
 街中に溶け込んでいるので探さなければ気づかないものです。これは姫街道沿いにあります。海軍工廠の敷地に建てられた標柱です。 とても古臭いコンクリートに海軍とかかれています。なんで残っているのかは不明です。

 ここは「中央通り5」の交差点にあります。デイリーヤマザキがあるところです。この交差点にある中日新聞の看板の下をみると見つけることができます。比較的綺麗な状態です。 


海軍用地標柱02
 こちらは市役所と図書館の間くらいにある標柱です。若干かけていますが字は綺麗な状態です。電柱の下にあるので全く目立ちません。

「味せん」という料理屋の駐車場脇にあり、探すのは比較的容易です。


陸上自衛隊豊川駐屯地
 自衛隊の駐屯地内にはかなり遺構が残っていると考えられます。旅記録のページにも掲載してますが、周りを歩いているだけでいかにも古そうなものがあり、銃弾の跡が残されています。 そのなかでとても大きな建物もあり現在も使用されています。写真は旧光学部調整工場です。「免許センター北」の交差点にあり遠くからでも見ることができます。
 その東隣にある施設も現役使用されています。こちらは旧光学部研磨工場です。実際に自衛隊になれば内部の状態を知ることができるでしょう。

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東堀
 本当に真っ直ぐな堀です。コンクリートで出来ていますが所々に古い石垣みたいなものが出ています。結構な深さがあります。 これも当時の姿を残しています。歩道なんか作らず埋めなかったのはなにか理由があったのでしょうか?


型鍛造工場引込み線?
 海軍工廠の外にあった型鍛造工場から工廠内へ引込み線があったようです。航空写真でも見ることができます。 しかし現在は倉庫があり、鍛造工場までの間も道らしきものは残されていませんでした。なにか発見できれば掲載したいと思います。


佐奈川
 佐奈川は昔からある川でしたが、結構蛇行していたようです。そのため海軍工廠建設時に真っ直ぐに流れるように作られてしまいました。 それが現代に残っている状態です。両岸は堤防が歩けるようになっていて不自然に真っ直ぐな状態です。海軍工廠より北側では今でも蛇行しています。

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門柱?
 姫街道沿いの豊橋信用金庫横にあります。当時のものかは不明です。古そうなのと、明らかに使用されていない様子です。


市役所の松
 市役所周囲には松がたくさんあります。これは当時のものだそうです。というよりも、海軍工廠ができる前の本野ヶ原にもともとあったものです。 まさに戦争の生き証人なんですね。比較的綺麗な状態です。


諏訪慰霊碑前の門柱
 諏訪慰霊碑に入る途中にある明らかに不自然な木の門柱です。かなり古いものと考えられます。 戦時中に使っていたら、第2工員養成所の関係のあるものと考えられます。何かはまだ不明です。


道路跡
 ここだけ不自然に道路が壁に向かっていきます。対面も同じ様に壁に消えていきます。 当時のものの一つだと思います。工場が立ち並んだときに、アスファルトの上に無理やり仕切りを置いたのでしょう。


電柱
 海軍工廠跡地の外から見ることができます。外を回ると意外と色々なものがあるように思えます。 工場や自衛隊の敷地を良く見ると不自然な建物跡が残っていたりします。建物がそのまま残っているところは少ないですけどね。


ドブ
 上の方でも書いてありますが、海軍工廠ではドブをとても深くし、水害対策にも力を入れていました。 海軍工廠跡地意外にも工場周囲のドブを見ると当時のものが残っています。これらのドブはほとんど埋まっていないところもあり、かなり深いことがわかります。 人間を飲み込む位深いものもあります。なかなか驚きです。
旧太陽地球環境研究所(冬)
 冬の見学会に行きました。かなりの人数が参加しています。旧火工部薬筒乾燥場は周囲の草が枯れているということ以外は変化がありません。 ただしなぜか計測のためのメジャーが立てかけられていました。なにか行うのでしょうか。まぁ虫が少ないためゆっくり見ることができます。

 建物の周りはの地面はコンクリートのように硬いが、これは三和土(たたき)。いわゆる土間の固い土です。 説明のあとはみんな一斉に地面を掘っていました。
 爆薬置場。道からみえるところに普通にありました。屋根がすでに崩壊中です。 もともとは土塁で囲まれた施設だったようです。
 中には入りませんでしたが、第三信管置場です。内部の建物はおそらく残っています。写真をみるとかなり綺麗な状態で残っているように思えます。 研究施設があるためか、見学会ではスルーです。
 第1火薬庫。火薬庫の中では一番大きいものです。野原の中に完全に埋まっています。
 これは当時の街路樹のようです。プラタナスのようです。手入れをしなければ子のような状態に成長してしまいます。 はじめ見たときは何の木か全くわかりませんでした。
 外灯。これが一番原型を保っているようです。映画「早咲きの花」にも出てきたものです。
 第三火薬庫です。トビラや木の足場も当時のままだそうです。この西側に爆弾が落ちて、その破片がコンクリートに傷跡を残しています。 火薬庫自体はとても綺麗な状態を保っていて、内部もかなり保存状態が良いようです。檜の香がまだ残る部屋で、気温や湿度がとても良い状態が維持されるようです。 こんな部屋があれば快適ですね。

 3つある火薬庫の入り口は直線上に並んでなく、少しずらしてあります。爆風で隣の火薬庫に引火しないように配慮されているようです。  どれも綺麗な状態で残っているのを見ると、かなり頑丈だったのかも知れません。
 火薬庫の外からはこのように見えます。かなり変わった形をしています。よく爆撃で壊されなかったと驚きます。 また近くに来なければ全くわかりません。
 原料置場です。中身は研究所の物置ですが、周りはこのようにモルタルが風化してきています。壁にも無数の跡が残されています。 斜めに銃痕があるのはムスタングの機銃掃射の跡です。これだけの間隔で発射されるのでたまりません。当時は民間人も積極的に狙っていたといわれ、明らかに悪意があり非人道的といえます。 これを行った生き物はもはや人間ではありません。
 爆弾で出来たクレーター。かなり埋もれて浅くなってしまったようです。それでも180センチくらいは深さがあります。 こんなのがいまだに残っていることが驚きといえます。
 クレーターの横にはこのように施設の跡が残されています。おそらく第15配電所と思われます。 金属の支柱もグニャっと曲がっています。
 防空壕。夏にも見ましたが、今回は実際に入っている人を発見しました。 いわゆる蛸壺。こんなので爆撃をやり過ごそうなんて虫が良すぎます。
 プール。冬に来るとはっきり見ることができます。かなり広いです。
 そして深い。上の人と比べれば深さがわかります。一応梯子があるので登ることはできるが、危険です。
海軍工廠跡地の見学は夏と冬の両方行きました。とても有意義な時間を過ごすことができました。保存の会の方々と同様、なるべく後世の残して欲しいところの一つですね。

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