このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
[3] 越後街道 (新発田へ23里(92km) ) ・越後街道は、会津若松と新潟県・新発田市を結ぶ街道である。 会津藩の領地は、新発田近くの赤谷まであった(しかし、この辺は山間)。 ・街道は、国道49号線と一致してる部分もあるが、坂下の前後、津川 以西が異なっている。 ・新潟側からは海産物、会津からは米等の物資の輸送に重要な街道であった。 新発田藩・村上藩の参勤交代、佐渡金山関係の行き来にも使われた。 |
Route:[市街地] ![]() 近くに郷土料理の渋川問屋がある(→)。(明治初年以降) 新潟からの海産物等は、一旦ここで卸され、全会津に 配送された。 (あいにく、正面(左1/4)は工事中でシートで被われていた。 しかも、梅雨空だった。きれいな写真は、 こちら 等) |
![]() (1603)開寺だが、戦災で焼失。明治3年、鶴ヶ城の御三階 (極秘の軍議をした所らしい)を、移し、仮本堂とした。 長命寺と共に、戊辰戦争戦死者(1300柱)を埋葬している。 |
![]() ・さらに、西へ進み、湯川・柳橋(→)を渡る。橋を渡ると、 道は、北北西に進路をとる。柳橋を渡ったあたりは、 (江戸時代)処刑場があった。橋は、”涙橋”とも呼ばれる。 ![]() ![]() 昭和37年、その人骨が発見され、塚を作り供養した。 (涙橋のすぐ北の小橋の、すぐ西・北にある。) さらに、少し北に行くと、右手に、中野竹子殉節の碑 (昭和13年建立、辞世の句「武士(もののふ)の猛き心に くらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」が刻まれている) と、石像(→)(平成4年建立、碑文には「赤誠」と刻まれている。) がある。”阿修羅の如き・・きっと、こんな雰囲気だろう”と 思える石像だ。 (入り口に小看板あり。天宝味噌の直ぐ北) 中野竹子(1850〜1868) :戊辰時、娘子軍の隊長。 江戸詰勘定役中野平内の長女で江戸の生れ。 戊辰戦争時に郷里(板下)に帰り、母・妹と共に、 柳橋の戦場に出撃。敵弾に倒れ、妹の介錯で果てた。 |
・[市街を出て] 若松ー野沢間は、1611年の会津大地震で、大きく変わった。 (cf. 斜体の字は、資料には載っててない、地図だけからの私の推測。) (1611年会津地震以前) ・道なりに北上すると、高瀬で、国道49号線と合流する(49号線側からが T字路 風)。49号線(の近く)を北上し、佐野集落(49号線が阿賀川を渡る直前の 集落)に至る。 ・ここで大川(阿賀川)を渡り、青木集落(県道21号線、坂下町最北端の集落。)に 至る。青木集落から、西へ行き、西羽賀、塩坪に至る。 ・阿賀川沿いに西へ行き、尾登 集落等を経て、西会津町・野沢に至る。 (1611年会津地震後) 1611年会津地震で、山崎新湖ができ、勝負沢峠が山崩れで通行不能と なった。街道は、それまでより少し南、板下町を通るルートに変わった。 ・柳橋から北上する事は同じだが、少し南、磐越自動車道を過ぎた最初の 集落:高久集落の北縁で、阿賀川を渡る。 阿賀川を渡って、北西の会津坂下町に進むが、道は、集落内の一部を 除き、耕地整理等で、、既に不明。 ・板下ー塔寺(立木観音で有名?)−気多宮(けたのみや、塔寺と町続き、旧道が、 49号線と再合流する直前の集落)で、(49号線とは合流せず、)西北西の道に入る。 鐘撞堂峠を下り、右手 山都方面に行かず、左手に行くと、舟渡集落に至る。 ・舟渡で只見川対岸の片門に渡る。片門から、道なりに本名・天屋集落に 進む。集落の途中で、左に(西羽賀・山都方面)入る道があるが、真っ直ぐ 進む。やがて、束松峠(たばねまつ峠:49号線より2km北)を越え、軽沢(磐越 自動車道、束松トンネルと、鳥屋山トンネルの間の沢)を南に下り、別茶屋集落で、 49号線と合流する。 少し西へ行き、大畑集落で、再び49号線と分かれ、南の山に登る。 青坂峠(49号線より1km南)を経て、 縄(綱)沢集落を通り、西会津町・野沢に出る。 (野沢 以西) ・西会津町・野沢から新潟県東端・津川町までは、国道49号線沿いである。 ・野沢ー上野尻ー下野尻ー車峠(49線は、その直ぐ南の車トンネルを通る)ー宝坂 −鳥井峠(=県境)ー新潟県・津川 ・津川で阿賀野川を渡り、1km位西へ行った後、49号線と別れ、北上する。 諏訪峠を越え(現在の林道は、更に北を迂回している)、行地を経て新谷で、 三川から来た県道14号線と合流、そのまま北西に進む。 ・県道14号線を進み、赤谷を経て、新潟県北部・新発田市に至る。 |
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