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**薩長土肥の軍制改革**
薩摩藩は、既に、島津重豪(1745〜1833)の時代から、開明の思想があり、 欧米文化の輸入、琉球を介する貿易や密貿易、殖産興業を行っていた。 1863年イギリス艦隊の攻撃を受け、その軍事力の差に圧倒され、急速に 英国等に近づいた。英国商人グラバーを介し、ミニエー銃一万挺を一括購入 した。 洋式兵制、領民皆兵的制度に転換した。隊長は門閥家格には無関係とした。 薩摩の予備役を含めた兵力は、5万人もあった。 長州藩は、1863年四カ国連合艦隊の攻撃を受け、攘夷の自信を失った。 軍備に関しては、薩摩の様に急にはできなかった。しかし、第一次長征伐後、 大村益次郎が中心となり、挙藩軍事体制を敷いた。 (1863年に既に有志により 結成された奇兵隊をはじめ)農町民からも、兵を募集し給料を与えた。 西洋式陣法にて、銃隊を編成した。上海と密貿易し武器弾薬を購入した。 1865年には、竜馬の亀山社中の高松等の斡旋で、薩摩の小松帯刀と会見し、 「開国勤皇」を確認し、薩摩経由で、グラバーより、ミニエー銃4300挺、ゲーベル 銃3000挺、軍艦等を購入した。さらに米人ドレークと連携、軍備を充実させた。 土佐藩等でも緩やかながら、同様の改革が行われた。 これらの諸藩は急速にイギリス等に接近し、軍事改革・殖産興業に努めた。 1867年のパリ万博には、幕府の他に、薩摩、土佐が、 別個に出品している。 これは、これらの藩の目が、外にも向いていた、とも言えるし、幕府を無視し、 独立国家の意識があったとも言える。 →薩長両藩とも、領民皆兵的方針である。一方、会津藩は、領民皆兵の方針 はとっておらず、総兵力は、数千だった。また、後述する、鳥羽・伏見の戦いに 破れた後、 軍を洋式に編成変えした時も、身分毎の編成を行っている。 |
*徳川慶喜の知略・軍制改革**
1864年の禁門の変後、幕府内でも、体制の建て直しが論じられていた。外国事情 にも通じてた勘定奉行小栗忠順(ただまさ)が、勝海舟(薩長を含む海軍を構想) との論戦に勝ち、フランス公使ロッシェの支援を受けながら幕軍の改革を行った。 また、朝廷ではなく、将軍をトップとする「大君制絶対主義」を打ち出した。 1865年正月、フランスと、240万ドルの経費で横須賀に製鉄所や造・修船所を、 4年で 落成する約定書を交わした。 1866年末に、将軍に就任した慶喜は、フランス公使ロッシェの進言により、 「日本を統治するのは、天皇ではなく、慶喜を頂点とする官僚集団である。 (過去、慶喜の将軍就任に尽力した)薩摩や長州等の外様を排し、老中を首相とする 内閣制度を発する。外交は慶喜の判断で行い、勅許は不要。」と宣言した。 兵庫開港を決め、フランスから軍事顧問を招き、洋式軍隊の編成に着手した。 1867年3月、4月に各国公使を引見し、自分が日本の統治者と誇示した。 大政奉還を迫られた慶喜は、10月13日、在京50余藩の重臣を集め、「政権を帰し ても、朝廷に政権担当能力は無く、政権は再び幕府が担当する事になる。」と 演説し、14日大政奉還を上奏した。 案の定、朝廷では、国政は当分の間、慶喜に委任する決定がなされた。 しかし、ここから、慶喜の、転げ落ちる様な衰退が始まった。 |
**会津藩の軍制改革**
孝明天皇崩御(1866.12.25)後、新天皇は、薩長に取り込まれた。会津藩は、 朝敵として攻撃される可能性も生じ、新たな対応を求められる事になった。 1867年3月頃、梶原兵(24 or 25歳)が、青年家老として抜擢され、軍備の 近代化を進めた。プロシア商人カール・レイマンに、(田中土佐の命で) 山本覚馬、中沢帯刀(たてわき)らが、(兵庫にて)元込銃千挺を注文した。 この銃は、シュンドナールド・ゲベール銃という名で、紀州藩も、同時に 3000挺を注文していた。しかし、鳥羽・伏見(〜戊辰)には、 納入が間に合わず!、新政府軍に押収されてしまった。(”幕末の会津藩”) 戊辰戦争勃発後、慶喜に会津帰藩を命じられ、 1868年2月22日、帰藩した容保は、 軍制改革として、年齢別に、18〜35歳は朱雀隊と称し第一線での戦闘隊、 36〜49歳は青龍隊と称し第2陣、 50〜60歳は玄武隊と称し守備隊とし、 16〜17歳は白虎隊で若殿の警備、の4隊に分けた。 各隊はさらに、身分により、士中・寄合・足軽に分けられた。 (飯盛山で自刃したのは、白虎士中二番隊。) フランス軍事顧問について、散兵術も学んだ。 農商民で編成した敢死隊その他は、戦況が進む中で出来た物で、 戦闘訓練は、あまり受けていないと思われる。 暫く江戸に残った梶原兵馬は、横浜でプロシア商人エドワルド・スネルから、 小銃800(or 780)挺等を購入し、アメリカ国籍船をチャーターし、3月26日 新潟港から陸揚げした。旧幕府より、軍資金、大砲、小銃、弾薬を借りた。 幕府から借りたものの中には、銃と弾が合わず使えないものもあった。 いずれにしても、戦争が始まってからの付け焼刃の改革・訓練であり、 家格・身分制を緩めた徴兵制ではなかった。新式の武器調達に関しても、 江戸湾・北辺の警備・京都守護職等で、経費を 使い果たした後であり、 十分量には程遠かったようだ。 |
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