このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

超簡単 会津の歴史 (ページ 3 幕末・戊辰)

  5.幕末・戊辰

 目 


 次
 I 超簡単 会津の歴史
   5.幕末・戊辰(会津藩が賊軍と呼ばれるまで)
     5-1. 外圧による揺さぶり
      トピックス: 尾張徳川家支藩・美濃高須松平家
     5-2. 京都守護職
      トピックス: 薩長土肥の軍制改革
             薩摩藩の豹変、長州藩の変化
      番 外 編 : 会津藩 in 京都(会津藩のなごりの写真集)
     5-3. 大政奉還
      トピックス: 慶喜の知略・軍制改革
             守護職時代の会津藩の悩み
             孝明天皇毒殺説の根拠
     5-4. 戊辰戦争
      トピックス: 西軍の捨石?赤報隊会津藩の軍制改革
             奥羽列藩同盟その頃の若松城下
             幕府崩壊・賊軍会津に関する個人的妄想
             戦士達の銃
             会津藩士のその後会津藩の長州への恨み


  幕末・戊辰! それぞれの国を思う気持ち、それぞれの理想、思惑、しがらみ、
  怨念が交錯し、到底、私如きが、数行に、まとめれるテーマでは、ありません。
  が、私が思ったのは、戊辰戦争・明治維新は、革命・クーデターであって、
  それが、時代の要請に合致し、成功したのだと、いう事でした。
  私如きではありますが、
  あえて、まとめれば、下記のような対立の図式になると思います。

 1.西海岸までフロンティアの終わったアメリカ、帝国主義的世界進出の欧州の外圧
        ⇔鎖国、攘夷
 2.佐幕(現状内改革派)⇔討幕(革命・クーデター)
 3.(江戸時代の)名門⇔(薩長等の)下級武士
 4.幕府・譜代(〜関が原東軍)⇔外様(〜関が原西軍)
 5.(復権を目指す)朝廷・公家⇔(権力を維持したい)幕府・幕閣
 6.西日本⇔東日本


   5−1**外圧による揺さぶり**

 休憩室 1
  黒船来航の瓦版
    ”了仙寺・宝物館” より、お借りしました。
   このHPは、貴重な資料満載で、
   一見の〜、価値がある〜!です。

   18世紀の末、ロシア・イギリスが日本に通商を求めて来ました。
  それに対し幕府は、外国船打ち払い令を出していました。
  1844年、オランダ国王が、世界情勢を説明し開国を勧めましたが、
   幕府はこれを聞かず、しかし外国の侵攻に備えました。
  1847年、それに伴い、会津は、江戸湾警備を命じられました。
  1853、1854年のペリー来航に、既に威圧された幕府大老井伊直弼は、
  1858年、ハリスと日米通商条約を結びました。

  (1846年、美濃高須松平家より、会津藩主の養子に入った松平容保(かたもり)は、
   1852年、第9代会津藩藩主となりました(17歳)。)

*尾張徳川家支藩・美濃高須松平家*  興味のある方ここクリック!

   それまで、幕藩体制を支える思想でもあった尊皇攘夷は、
  このころ、反幕府・改革の思想に、その姿を変えました。
  会津藩主松平容保は、江戸湾警備で、すでに外国の実力をまのあたりにし、
  攘夷は不可能と考えていたようでした。

   この開国に対し、水戸藩は強く反発し、その尊皇攘夷の志士達が、井伊直弼を
  桜田門外にて刺殺しました。 尾張・紀伊藩に、水戸藩を討伐させようという
  動きもありましたが、容保らが将軍を説得し、中止されました。

   このように、諸外国からの外圧は、御三家内にさえ、ヒビを入れ、
  幕府は、 その弱腰で、ビジョンの無い対応の故に、求心力を失って行きます。
  幕府は、国外対策の一つとして、
  1859年、(日露和親条約の国境を守るため、)
   会津藩等に、網走近辺に所領を与える等し、 北辺警備にあたらせました。
   (その分、江戸湾警備は、免除されました)


   5−2.**京都守護職**

   長州藩を中心とする尊攘派は、京において、朝廷・公家に色々な働きかけをして
   いました。また、京では、尊皇攘夷を自称する過激で無頼の浪人が横行し、
   治安が乱れていました。
  この混乱を打開するべく、有力諸藩により、公武合体・幕政改革が試みられました。
 
   島津久光は、中央政界への進出を試み、
  1862年、京へ上りました。尊攘派を伏見寺田屋に襲い弾圧しました。
   また、勅命を得、江戸に赴き、幕政改革を行わせました。これにより、一橋慶喜
   (よしのぶ)が将軍後見職、松平慶永(春嶽)が政治総裁職に就任しました。

   また、所司代のみでは京都の治安を維持できなくなり、京都守護職が設けられ、
   容保は、春嶽らの推薦・受任説得により、閏8月京都守護職に任じられました。

番外編:会津藩 in 京都
 現在の京都で、会津藩のなごりを若干撮影してきました。こちら
  (別ウィンドウに表示します。見終わったら、そのウィンドウは消して下さい。)


  1863年将軍家茂(いえもち)が上京し、尊攘運動を弾圧し、公武合体の強化を図り
   ましたが、むしろ逆に、尊攘運動に押される形となってしまいました。

  休憩室 2
   この絵は ”幕末維新新選組” から、お借りしました。
   ”新選組について、真面目に、しかし、楽しく、
   お話しましょう” 的サイトの様です。

   幕府内部でも結束が乱れ、将軍をはじめ有力者達が京を離れました。
   このとき、将軍護衛でお供した浪士組のうち、 京都残留組24名が、
   容保の預かり浪士となり、 後述する8.18の政変で、「新撰組」の名をもらい、
   市中警備にあたる様になりました。 会津からは、 千余名の兵が上京しており、
   戦力的に、それ程大きいプラスではありませんが、
   新撰組は、最後まで会津藩・幕軍と共に戦いました。 

   その後、尊攘派はさらに強く朝廷に働きかけ、
  8月13日、 攘夷親征の詔を出させる事に成功しました。

  8月18日こうした情勢を心配した薩摩藩と容保は、協力し合い、
   公武合体派の代表中川宮と共に、一挙に尊攘派を朝廷から追放しました。
   これが8.18の政変七卿落ち政変、七卿は長州に逃れました)です。

    この事件で、容保は、孝明天皇の信頼を得、
   「お前の忠誠を喜ぶ」という、宸翰(しんかん)(親書)を与えられ、
   一橋慶喜と共に、 朝議に参加する事を命じられました。
   しかし、これにより、容保への、尊攘派の憎しみは、ますます強くなりました。

  10月上洛した島津久光は、叙位任官されました。さらに(久光の画策で)朝廷より
   参与に指名された雄藩藩主が上洛し、参与会議の準備が進められました。
 1864年1月には、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、
   伊予の伊達宗城(むねなり)、松平容保、そして、幕府代表として、議長役の
   将軍後見職一橋慶喜による参与会議が開かれました。が、外様の台頭を
   不快に思う慶喜が、この会議を混乱させ、3月9日会議は崩壊しました。

 同年6月7日、尊攘の志士達は、なおも、ゲリラ的手法による勢力回復を
  狙っていました。長土肥の志士達は、中川宮邸を焼き討ちし、容保を殺害し、
  孝明天皇を奪還する相談の為、池田屋に集結しました。しかし、会津藩・
  新撰組はこれを察知し、新撰組がこれらの志士達を斬殺しました。

  これに悲憤慷慨した長州藩士が、藩主毛利敬親の命の下、続々上京し、
  7月18、蛤御門付近で会津・薩摩・桑名軍と衝突し、撃退されました。
  (蛤御門の戦い(禁門の変))

  7月23日には、幕府は長州征伐の勅命を得、第一次長征が行われました。
  (しかし、幕軍の士気は弱く) 長征の総督の徳川慶勝に相談された参謀・西郷は、
  「蛤御門の変の首謀者三老中と四参議を処罰し、恭順の意を示せば、陣を解く」
  という策を進言しました。この申し出どうり事は進みました。
  (西郷は、討幕を考えており、その仲間の損失を避けたとも、考えられます)

**薩摩藩の豹変**
薩摩は公武合体派だったのに、突然、討幕派
に豹変! もう少し詳しくは、こちらクリック!
**長州藩の変化**
 藩論は、攘夷から討幕に
 変遷。こちら
**薩長土肥の軍制改革** :着々進む討幕準備(軍備・軍制)、こちら。


   5−3.**大政奉還**

  1866年(慶応2年1月)(1866/3/7) 土佐(脱)藩志士 坂本竜馬・中岡慎太郎の仲介で
    薩長連合ができました。
   同年7月、将軍家茂(いえもち)が病没し、
*慶喜の知略・軍制改革*
代わって将軍となった慶喜は知略を働かせ改革を断行したが・・・、こちら。

   同年12月には、孝明天皇が御崩御 なされました。
     (孝明天皇は、岩倉具視らによって毒殺されたという説は有力です。 こちら や、 こちら
毒殺説の根拠;こちらに記載
守護職時代の会津藩の悩み・・・(別頁です)こちら

   若干14歳の明治天皇が即位すると、
    薩長は倒幕派の公卿を助け、情勢を一変させました。

   土佐では、板垣退助ら急進派が、薩摩藩の討幕運動に、自藩を引き入れ様として
    いました。一方、公武合体派の前藩主山内容堂を擁する主流派は、
    幕府の政権を、朝廷に返させ、公議政体を実現しようとしていました。

  1867年(慶応3年6月)、後藤象二郎は、坂本龍馬の立案した<船中八策>の
   公議政体論を持って上京、薩摩の小松・西郷・大久保らと会い、大政奉還の為の
   盟約を結びました。(薩土盟約

  年 10月3日、後藤は、老中板倉勝静に会い、山内豊信(容堂)の名による
   大政奉還の建白書を提出しました。
  年 10月14日、慶喜は、幕府有司・諸藩重臣と合議の上、奉還の上表文を提出。
  年 10月15日(陽暦11月10日)朝廷は、これを勅許しました(大政奉還の成立)。

   しかし、土佐および幕府は、列藩会議とも言うべき議事院を設け、その議長に
   慶喜を据え、将軍権力の維持をはかっていました。討幕=幕府勢力の一掃
   (西南諸国による政権の独占)を考えていた薩長は、新たな行動を、起こします。

  同年 12月8日、薩摩兵は、会津が守っていた唐御門前に大砲を構え集結、朝廷より
   会津藩には「唐御門を土佐藩に引き渡す様」命令書が渡されました。その後、岩倉
   具視が、天皇に謁見し、王政復古を奏上しました。天皇がこれを裁可しました。

   (朝廷では、前日より、公家と在京諸侯が集まり、長州藩主及び五卿の赦免等が話合われていた。
    慶喜・容保・定敬にも出席要請があったが、病気と称し参加しなかった。薩摩主導が見えてた?)

   夜には、初の御前会議(小御所会議(こごしょ会議))が開かれ、慶喜の辞官納地、
   守護職、所司代の免職が決められました。

   また西郷は、秘密裏に岩倉らに偽勅「慶喜・容保・定敬を討て」を作成させ、薩摩・長州に届けました。

  同年 12月9日 “王政復古”の大号令と共に、慶喜に辞官納地を強要し、
   江戸でも、(薩摩藩を中心とし)騒乱を、起こしました。
    将軍慶喜は、激昂した幕府側の兵を静めるため、二条城より引き揚げさせ、
   自らも大阪城に移りました。


   5−4.****戊辰戦争(戊辰の役)****

  **鳥羽・伏見の戦い* *

   明けて、
  1868年(慶応4年、明治元年、暦で戊辰の年)正月3日、
   おさまらない(挑発された)幕府・会津・桑名軍は、(一連の事は薩長の陰謀とし)
   大阪城を出発、入京しようとして、薩長軍と激突しました。

    幕府軍はあくまで白兵戦で戦い、薩長軍の砲火を浴び敗退しました。
   (まるで、大昔の“長篠の戦い”みたいですね。残念ながら、少し甘かったかも。)

   この戦いの結果をみて、多くの藩が新政府側につきました。
   正月6日大阪城での対策会議において、慶喜は、全軍出撃命令を出しながら、
   自分は容保らを連れて、軍艦にて江戸へ逃亡しました。
   翌朝、これに気付いた諸将は、愕然として、散り散りに大阪城を去りました。
   !!これでは、戦いは決したも同然です!!

   会津藩は、紀州藩を頼り、落ちて行きましたが、(御三家の紀州藩にして)
   新政府の干渉を気にされ出したため、 子船にて、江戸に退却しました。


  **会津藩、和戦両様の構え**

 休憩室 3  
  ま〜、ムキにならんと、ホッと一息!
  会津は、薩長の(敵の首謀者として)激しい攻撃を受けたせいか、
  ”朝敵”扱いを不満とする、明治以降の地元歴史家が、
  丹念に史実を書き記したせいか、観光地としては有名な様です。

**西軍の捨石?赤報隊**
西軍は自分の所の浪士等を、先発
ゲリラ隊として利用し、不都合になると
賊として切捨てました。 こちらクリック!
  同年1868年)正月10日、新政府は、
   慶喜・容保の官位を奪い、正月17日
   仙台藩に会津討伐を命じました。


   容保は、慶喜に江戸で戦うべきと説きました。
    しかし、2月10日慶喜は容保を呼び、
   「登場禁止・府外立ち退き」を命じ、自らは上野寛永寺に謹慎しました。

   2月16日、容保らは、しかたなく江戸を去り、22日会津に戻りました。
   容保は、別荘御薬園で謹慎しました(数日)。しかし、恭順の意が新政府軍に
   通じないのを知り、東北諸藩と同盟を進め、軍制改革も行いました。

 **会津藩の軍制改革** :急遽 軍制改革しましたが・・、こちら。

   臨戦体制の一方で、和平工作も行われました。
   しかし、新政府側は、前体制の懐刀であり、 薩長の政敵でもあった会津を
   許す気はありませんでした。
   会津藩が、幕府にならって出した恭順の嘆願書に対する返事は、
   「主君容保の首を出せ」でした。

   **奥羽列藩同盟**

 同年(1868年)4月9日奥羽列藩同盟が結成されました。
  当初、奥羽列藩同盟は、「会津・庄内藩が征討される理由がない」と、2藩の助命
 嘆願する為、(海路仙台に入った奥羽鎮撫総督軍の傲慢さに憤慨した)仙台藩・(過去、御家
 断絶の危機を会津藩に救ってもらった)
米沢藩主導で、奥羽25藩の連名で、できました。

 当然、彼らが、総督府に出した嘆願書の25藩の連名には、会津・庄内の名はありません。
 助けられる人と、助ける人ですから。そして、
この助命嘆願書は却下されました

 そして、西軍の「政治は俺たちがするから、君らは末端下部組織でいなさい」的?、
 傲慢な態度に立腹し、奥羽同盟は、西軍と戦う同盟に変化します。しかし、西軍の
 進路上にない藩は、一応協力しつつ、様子見的状況もあったようです。会津・庄内藩
 は、同盟の一員として戦います。自分を敵から助けてくれる同盟ですから、協調して戦いますよね。


 5月6日、西軍との会談に失望した越後6藩もこれに加わりました。
 7月13日、輪王寺宮を33(25+6+会津・庄内)藩の盟主として白石城に迎えました。
  宮を東武皇帝とし、元号を大政元年とし、奥羽越だけの(大名の?)共和制に
  よる独立国家構想が、仙台藩中心に進められました。  


   **戊辰・会津戦争**

**その頃の会津若松**
”そのころ若松には、続々と・・・”
長くなるので、別頁にしました。こちら。
  同年1868年)4月11日、江戸城開け渡しの後、
幕府崩壊・賊軍会津に関する、
HP管理者の個人的妄想。こちら!
   5月15日、西軍は、彰義隊
    (旗本や諸藩浪士で構成され、慶喜護衛を
     唱え、江戸警備していた)を殲滅しました。
   (慶喜は、和の宮の取り成しもあり、恭順したので?)
   これより先、朝廷は、会津藩を、鳥羽・伏見の首謀者、朝敵と見なし、
   仙台、米沢、盛岡、久保田等の諸藩に、再度、会津討伐を命じました。

**戦士達の銃**
勝敗を分けたか?幕軍・会津軍、
新政府軍の。こちらクリック!
   しかし、東北諸藩は、前述の様に、既に、
   奥羽列藩同盟を形成しており、
   これに応じませんでした。

   同じ頃、北上した西軍は、白河城、長岡城にて、東軍と激突、
   一進一退の攻防を繰り広げていました。

   ところが、6月16日、西軍は、茨城県平潟湊に、1500の大軍を上陸させると、
   一気に、平、三春、二本松を制圧しました。
   日本海側でも、一部の藩の寝返りや、西軍の(新潟近くの)大夫浜上陸により、
   7月29日、長岡城は再陥落し、
   (それまで列藩同盟が抑えていた)新潟港は、西軍が占領しました。

   この後、西軍は、一気に、会津になだれ込みました。

  休憩室 4
   街中から、お城を見ても、杉の木などが邪魔で、
  最上階の屋根ぐらいしか見えません。

  小田山、西軍砲台跡地から、鶴ヶ城を見ると、
  (←)とても良く見えます。
  こりゃ〜、西軍の砲撃、良く当たる訳だ!
  
 
(お城に重なって見えるT病院は森の写真で塗りつぶしました)

   8月22日(新暦:太陽暦では、10月7日前後らしい)、
   西軍は、十六橋を、突破しました。(この日、白虎隊も出陣しました)
   8月23日朝には、戸ノ口原で、西軍は会津軍と激突し、火力の差にて会津軍を撃破、
   若松城下に達しました。
   この日、(中村氏の推定では)午後2〜4時頃、白虎士中二番隊は飯盛山で自決しました。
   同日より、籠城戦になりました。
   鶴ヶ城へは、小田山から、雨あられの如く、大砲が打ち込まれました。
   9月22日、会津藩は降伏し、降伏式が行われました。

   翌明治2年(1869年)5月、五稜郭に陣取った榎本武揚が降伏し、
   戊辰戦争は終わりました。

   こうして、外圧によって刺激され変遷した尊王攘夷運動と、これら国内の混乱は、
   中央政界進出を目指す西国外様諸藩のクーデター成功によって終結しました。
   
   (特に初期の)明治政府は、薩長土肥の藩閥政治で、鎖国時代の遅れを取り戻すため、
   富国
(殖産興業)と伴に、天皇の神格化により、強兵((当時の先進諸国全てそうでしたが)
   軍国主義・帝国主義に邁進して行きます。

休憩室 5
 明治天皇:この肖像画は、 さしま郷土館ミューズ
         よりお借りしました。

 他、 、歴史上の人物の写真多数あり。
  には 、明治天皇すり替え説が載ってます。
           嘘か?誠か?、読み応えは十分!!


   **会津藩士のその後**
   *会津の薩長(とくに長州)への恨み*

ページが長くなったので、別ページにしました。どちらかの行をクリックしてね!


 ”桃山・江戸時代”に戻る?


”明治以降・その他”に進む?



          

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください