このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
目 次 | I 超簡単 会津の歴史 4.桃山〜江戸時代 トピックス: 若松市街地道路の謎 、 神指城(高瀬の大けやき) 、 白虎隊が歩いた道(滝沢街道) 、 会津藩樺太出兵 、 白虎隊が通った洞窟(戸ノ口堰洞穴) 、 |
![]() 興徳寺は、氏郷の町造り(整理)の際、その格式の故、 郭内に留め置かれた、唯一の寺です。 氏郷は、京都にて、40歳の若さで病死しています。 興徳寺では、氏郷の髪を埋葬し、氏郷の墓として、 供養しています。 氏郷の人生については、故郷 滋賀県日野町のHP に、 詳しく述べられています。 |
徳川家康と争っていた上杉景勝が、家康からの攻めや、城の大型化のため、 会津盆地の中央(会津若松市神指町高瀬)に、築城を始めました。 高瀬の大けやきは、その時すでに大木で、そこにあり、 幹に土を寄せて土塁を築いたと言われています。 しかし、家康が、これに気付き、攻めて来たため、 やむなく、途中で建設を中止しました。 関が原で、家康が勝ち、景勝は、米沢に転封されました。 |
江戸への交通要所、白河に抜ける白河街道は、加藤嘉明が会津に入るまでは、 背炙山〜勢至堂峠でした。摺上原で敗北した芦名義弘が、常陸の実家佐竹に 敗走したり、秀吉が天下統一を果たした時、会津に下向したルートは、 このルートでした。従って、このルートの登り口にあった”奴郎ヶ前茶屋”は、 この頃,大繁盛だったでしょうね。 加藤嘉明が会津に入ると、嘉明は、標高が高く急な坂の背炙ルートを嫌い、 (それまで金の採取等で使われていた)滝沢街道を改修し、白河街道・本道とし、 参勤交代等に利用しました。(現在使われている滝沢街道の、少し南側にあり、 それでも、やはり急な坂道はあります。) そして、出陣時の白虎隊も、ここ(旧・滝沢街道)を、通りました。 |
太閤検地の前後、農業技術の進歩と共に、新田の開発が盛んになりました。 保科氏が会津に封されて後も、 ・ 小国新田1660年 ・ 日橋堰 [堰:小さなダムで、そこより農業用水を引く] 1622〜1680年 (戸ノ口堰より、少し下流。) ★戸ノ口堰 1665〜1693年 八田野堰を東山慶山に導入し(分岐点は、磐梯C.C.の、北側に有った様です。) 1693年、戸ノ口堰と改名しました。 等の、農業用水の開発が進められました。 1835年 それまで、堰は飯盛山の北西裾を回っていましたが、 土砂崩れ等で、埋まってしまう事が多く、堰巾・深さを広げると共に、 弁天洞門(=戸ノ口堰洞穴=★白虎隊が通った洞窟)を掘りました。 この工事には、延べ5万5千人を要しました。 何と!白虎隊自刃前、たった33年! この戸の口堰の水は、少しずつ分岐放流しながら、飯盛山の中腹を南下し、 御薬園や、鶴ヶ城のお堀(今は無い外堀?)に至っていました。 |
**会津藩の樺太(東太)出兵**
上記の様に、会津藩における寛政の改革の一つに、軍事改革がありました。 この頃、ロシア帝国は、わが国に貿易を求め長崎に来ていましたが、 幕府は、これを拒否しました。 ロシアは、この仕返しのためか、樺太や北海道の漁村に、略奪に来ました。 1808年、(田中が錬兵のため幕府に内願したという説もありますが)幕命により、 秋田・弘前・仙台藩と共に、樺太(当時、東太と書いた)及び北海道北辺に出兵し、 警備にあたりました。会津よりの総勢、1558名、樺太駐留106日でした。 ロシア兵は、ナポレオン戦争のため引き上げて、戦いにはなりませんでした (錬兵の意味はあったか?)。 しかし帰途海上で嵐に会い、51名の犠牲者を出しました。 宗谷岬等に墓があり、後に訪れた、松平勇雄福島県知事が 「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」という句を捧げています。 |
![]() 保科正之を除く二代から十代までの墓があります。 二代以外は、神道により神葬されました。 墓道には、左写真のような、故人の功徳を記した表石 (亀趺碑≒顕彰碑)があります。 この写真は、五代容頌(かたのぶ)の亀趺碑です。 この写真は大きくなります。 |
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