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超簡単 会津の歴史(ページ 2 桃山・江戸時代)

  4.桃山〜江戸時代

 目 


 次
 I 超簡単 会津の歴史
   4.桃山〜江戸時代
     トピックス: 若松市街地道路の謎 、  神指城(高瀬の大けやき)
             白虎隊が歩いた道(滝沢街道) 、  会津藩樺太出兵
             白虎隊が通った洞窟(戸ノ口堰洞穴)


  1590年、織田信長、秀吉に仕えた蒲生氏郷(がもううじさと)(1595没)は、伊達から取り
   上げた会津(92万石)を与えられました。氏郷は、伊達からの攻撃を考え、
   (盆地の南側である)黒川城に、そのまま入り、地名を若松と改めました。
   七層の天守閣を建て、城下町の町造りを行いました。
   (これらの事に関しては、「会津旧事雑考」や「会津四家合考」に記載あるようですが、鶴ヶ城と命名
     したと言う記載はありません。大正時代の学者が、日本史全体の傾向で考えて氏郷が命名者と
    考えたようです。詳しくは、会津の歴史トップページの”鶴ヶ城の命名者は誰?”をご覧下さい。)


  **若松市街地道路の謎 **

 会津若松市街を走っていると、城下町の常ながら、鉤型十字路〜クランクに、
 イラだってきます。この、鉤型十字路〜クランクは、
 見通しを悪くし、敵が侵入しずらい様にするためのものです。

 しかし、若松市のクランクは、お城に平行な東西方向にあり、
 お城に向かう南北の通りは、真っ直ぐです。しかも、ほとんどのクランクは、
 郭外の町人街にあります。クランクの目的からは外れている事ばかりです。

 なぜでしょうか?

 この事に関して、参考書籍に上げた宮崎さんは、以下のように考えました。
 昔、道路の中央に水路があり、洗い物や、庭や池への水やり、
 道路に撒く水に使われていた。ところが、会津盆地は、東西に傾斜が強いため、
 十字路の水路では、水は全て西へ流れてしまい、南北の水路に流れない。

 このため、T字路にして、一旦水の流れを南北方向に変えてから、西へ流すと、
 東西南北の水路にまんべくなく水を流す事ができる。
 このため(町民の生活の為)東西のT字路が作られた、と推測しました。

 会津若松市一之町の、カギ型十字路(クランク)  

   氏郷は、京都近郊で育ち、特に茶道に優れ、会津に広めました。
   また、漆器や酒造に着眼し、これを振興しました。
   屋根瓦製造の為、本郷焼き等の会津陶磁器の基を作りました。
   また、領民の意見を聞き、猪苗代湖の水を、農業用水として
   利用し始めたのも、氏郷です。(戸ノ口堰等の基になりました。)

   氏郷の作った街づくり(道路)は今も残り、
   氏郷の施政は、わずか4年、実際に会津に居たのは数ヶ月でしたが、
   氏郷が会津に残したものは、とても大きいと言えます。

  興徳寺 (会津若松市・神明通りの東側、市民会館の近く) 
  興徳寺は、氏郷の町造り(整理)の際、その格式の故、
  郭内に留め置かれた、唯一の寺です。
  氏郷は、京都にて、40歳の若さで病死しています。
  興徳寺では、氏郷の髪を埋葬し、氏郷の墓として、
  供養しています。
  氏郷の人生については、故郷 滋賀県日野町のHP に、
  詳しく述べられています。


  1598年、家臣の失態で、蒲生秀行は宇都宮(18万石)に転封され、代わって、
   越後春日山の上杉景勝(かげかつ)が、封じられました。

ギャラリー(トップ)に写真あり
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   **神 指城と高瀬の大けやき**    


  徳川家康と争っていた上杉景勝が、家康からの攻めや、城の大型化のため、
  会津盆地の中央(会津若松市神指町高瀬)に、築城を始めました。
   高瀬の大けやきは、その時すでに大木で、そこにあり、
  幹に土を寄せて土塁を築いたと言われています。

   しかし、家康が、これに気付き、攻めて来たため、
  やむなく、途中で建設を中止しました。
  関が原で、家康が勝ち、景勝は、米沢に転封されました。

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  1600年、代わって、蒲生秀行(家康の娘を妻とし、関が原の時、徳川に加勢)が、
   再び、会津を与えられました。その子忠郷は後継ぎがなく、改易されました。

  1627年、代わって、松山城主加藤嘉明が、入封しましした。
   儒学を会津に広めました。

ギャラリ−(白虎隊)に写真あり
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  *白虎隊の歩いた道*(旧・滝沢街道)


 江戸への交通要所、白河に抜ける白河街道は、加藤嘉明が会津に入るまでは、
 背炙山〜勢至堂峠でした。摺上原で敗北した芦名義弘が、常陸の実家佐竹に
 敗走したり、秀吉が天下統一を果たした時、会津に下向したルートは、
 このルートでした。従って、このルートの登り口にあった”奴郎ヶ前茶屋”は、
 この頃,大繁盛だったでしょうね。

 加藤嘉明が会津に入ると、嘉明は、標高が高く急な坂の背炙ルートを嫌い、
 (それまで金の採取等で使われていた)滝沢街道を改修し、白河街道・本道とし、
 参勤交代等に利用しました。(現在使われている滝沢街道の、少し南側にあり、
 それでも、やはり急な坂道はあります。)

   そして、出陣時の白虎隊も、ここ(旧・滝沢街道)を、通りました。

   その子加藤明成は、天守閣を、白亜の五層に改築する等しましたが、飢饉等にも
   みまわれ、財政・内政の失敗から、会津を幕府に返却しました。

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 保科正之の会津入り

   保科正之は徳川二代将軍秀忠の3男ですが、高遠城主・保科正光の養子となり、
   1636年最上城主になりました。
   1643年会津若松に転封され、26年間在位しました。
   正之は幕政に参加しつつ、藩内では、家訓(かきん)15ヶ条を初め、
   儒教にるよる文治主義で藩を治めました。神道にも深い関心を寄せ、寺院よりは、
   神社を保護しました。最後も(二代正経以外全て)神道で埋葬されました。
   (という訳で会津は神道葬儀も比較的多い)

   ピリッと辛く美味しい高遠蕎麦は、保科正之が伝えたと言われています。

ギャラリ−(白虎隊)に写真あり
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  *白虎隊が通った洞窟*(戸の口堰洞穴)


 太閤検地の前後、農業技術の進歩と共に、新田の開発が盛んになりました。

 保科氏が会津に封されて後も、
    ・ 小国新田1660年 
    ・ 日橋堰 [堰:小さなダムで、そこより農業用水を引く]  1622〜1680年
     (戸ノ口堰より、少し下流。
   ★戸ノ口堰 1665〜1693年 
     八田野堰を東山慶山に導入し(分岐点は、磐梯C.C.の、北側に有った様です。)
     1693年、戸ノ口堰と改名しました。
  等の、農業用水の開発が進められました。

 1835年 それまで、堰は飯盛山の北西裾を回っていましたが、
  土砂崩れ等で、埋まってしまう事が多く、堰巾・深さを広げると共に、
  弁天洞門(=戸ノ口堰洞穴=★白虎隊が通った洞窟)を掘りました。
  この工事には、延べ5万5千人を要しました。

  何と!白虎隊自刃前、たった33年!
  この戸の口堰の水は、少しずつ分岐放流しながら、飯盛山の中腹を南下し、
  御薬園や、鶴ヶ城のお堀(今は無い外堀?)に至っていました。
  
  1696年、三代正容は、幕府より、(保科正之は辞退していた)松平の姓をいただき、
   御三家に継ぐ家格となりました。


  寛政の改革

   天明の飢饉の後、疲弊した領内・藩政を立て直すため、
   1787(天明7年)、五代容頌(かたのぶ)の命を受け、老中田中玄宰(はるなか)は、
    会津藩における「寛政の改革」を行いました。

    第一は、農村対策で、稲作のみでなく、養蚕・木綿・漆・薬用人参を奨励しました。
    第二は、殖産興業で、漆器・清酒・陶磁器等も奨励し、藩直営工場も作りました。
     漆器は、芦名の頃よりあり、蒲生氏郷等も改良を図ましたが、
      この頃には、中国・オランダに輸出するまでになりました。
    第三は、人材育成で、藩校日新館を作りました(1801年)。
    第四は、軍事改革で、兵法を、河陽流から長沼流に変え、山野で調練しました。

   **会津藩の樺太(東太)出兵**
    
  上記の様に、会津藩における寛政の改革の一つに、軍事改革がありました。

  この頃、ロシア帝国は、わが国に貿易を求め長崎に来ていましたが、
 幕府は、これを拒否しました。
 ロシアは、この仕返しのためか、樺太や北海道の漁村に、略奪に来ました。

 1808年、(田中が錬兵のため幕府に内願したという説もありますが)幕命により、
 秋田・弘前・仙台藩と共に、樺太(当時、東太と書いた)及び北海道北辺に出兵し、
 警備にあたりました。会津よりの総勢、1558名、樺太駐留106日でした。
 ロシア兵は、ナポレオン戦争のため引き上げて、戦いにはなりませんでした
 (錬兵の意味はあったか?)。

 しかし帰途海上で嵐に会い、51名の犠牲者を出しました。
 宗谷岬等に墓があり、後に訪れた、松平勇雄福島県知事が
 「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」という句を捧げています。

 松平家御廟
   保科正之を除く二代から十代までの墓があります。
   二代以外は、神道により神葬されました。
   墓道には、左写真のような、故人の功徳を記した表石
   (亀趺碑≒顕彰碑)があります。

   この写真は、五代容頌(かたのぶ)の亀趺碑です。
  
  この写真は大きくなります。



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