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超簡単 会津の歴史

会津の歴史について、恐竜時代から幕末・戊辰・明治以降まで、
簡潔に、しかし、歴史の大きな流れが分るように、まとめてみました。
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  I 超簡単 会津の歴史

   0.恐竜達の時
   1.旧石器時代から奈良時代
   2.平安時代
    トピックス: 会津にもいた僧兵
   3.鎌倉・室町〜安土時代    城主:葦名(397年)伊達(1年)
    トピックス: 鶴ヶ城の命名者は誰?



   4.桃山〜江戸時代   
    桃山時代城主:蒲生氏郷+(8年)、上杉(2年)
    江戸時代城主:蒲生秀行+(27年)、加藤(16年)、
            保科
改め松平(226年)
    トピックス: 若松市街地道路の謎 、  神指城(高瀬の大けやき)
           白虎隊が歩いた道(滝沢街道) 、  会津藩樺太出兵
           白虎隊が通った洞窟(戸ノ口堰洞穴)



   5.幕末・戊辰 (会津藩が賊軍と呼ばれるまで)  城主:松平容保
    5-1.外圧による揺さぶり
    トピックス: 尾張徳川家支藩・美濃高須松平家
    5-2.京都守護職
    トピックス: 薩長土肥の軍制改革
           薩摩藩の豹変、長州藩の変化
    番 外 編 : 会津藩 in 京都(会津藩のなごりの写真集)
    5-3.大政奉還
    トピックス: 慶喜の知略・軍制改革
           守護職時代の会津藩の悩み
           孝明天皇毒殺説の根拠
    5-4. 戊辰戦争
    トピックス: 西軍の捨石?赤報隊会津藩の軍制改革
           奥羽列藩同盟その頃の若松城下
           幕府崩壊・賊軍会津に関する個人的妄想
           戦士達の銃
           会津藩士のその後会津藩の長州への恨み




   6.明治以降  ( epilogue & prologue )
    トピックス: 鬼官兵衛の最後
           白虎隊が有名になった訳や剣舞
           松平勢津子姫、秩父宮と御成婚
           早春譜
 
  II. 磐梯山と猪苗代湖
    (できた時期と、相互関係)

  III. 他 トピックス
  1.猪苗代湖の埋蔵金     2.鶴ヶ城壁の石はどこから?(遊女石)
  3.小原庄助は実在したか? 4.ヤーヤ−一揆





このページは、下記の書籍を参考にしました。著者の方に御礼申し上げます。

会津の歴史に関しては、
 「わかりやすい会津の歴史」会津武家屋敷文化財管理室 編、会津武家屋敷、
1998年9月30日発行.
「手作り会津史」宮崎十三八 著、歴史春秋社、1998年3月14日発行.
「会津の史的な風景」宮崎十三八 著、歴史春秋社、1993年8月10日発行.
「小田山麓を歩く」小田山麓の歴史を訪ねる会 編、歴史春秋社、1999年4月30日発行.
「よみなおし戊辰戦争」星 亮一 著、筑摩書房、2001年6月20日発行.
幕末の一部に関しては、1972年初版版、平凡社「世界大百科事典」も参照しました。
「蒲生氏郷」阿部隆一 編、歴史春秋社、1997年4月25日発行(第二刷).
「会津の城」小島一男 著、歴史春秋社、1998年10月20日発行.
「鶴ヶ城を歩く」佐藤恒雄 著、歴史春秋社、1998年9月19日発行.
「城下町の誕生」松本良子ら 編、会津若松市、1999年12月10日発行.
白虎隊中村彰彦著、文芸春秋社、2001.5.20発行
「戊辰戦争」佐々木克 著、中公新書、1977.1.25発行
幕末の会津藩」星亮一 著、中公新書、2001.12.20発行
「会津白虎隊のすべて」小桧山六郎 編、新人物往来社、2002.2.10発行

私の推薦書「ある明治人の記録」石光真人 著、中公新書、1971年5月 初版
後の陸軍大将・柴 五郎の、遺書的自伝。小学校高学年〜高校生位の頃、
戊辰敗戦・斗南移住・東京で下僕生活・陸軍幼年学校の前身に入学まで、
無理に怨念(状況上多少はしょうがない)や悲惨さを煽らず、まだ、あどけなさの
残る視点で、淡々と事実を記しています。会津人のバイブルにしたい本です。
\660.!

磐梯山に関しては、
 「新磐梯紀行」小桧山六郎 著、歴史春秋社、2000年12月25日発行.

その他のトピックス
 「こんな話知ってる」歴史春秋社 編、歴史春秋社、1998年3月25日発行.
 「会津若松史跡めぐり」歴史春秋社 編、歴史春秋社、1999年4月30日発行.


[I] 超簡単 会津の歴史


  0.恐竜達の時

   高郷村で、アイヅタカサトカイギュウ(会津高郷海牛)という恐竜の頭部の化石が、
   ほぼ完全な形で発見されています。800万年前、海に住んだ哺乳類だそうです。
   恐竜時代、会津は、海の底〜海の近くだった?

  海牛の頭部化石
    詳しくは、 こちら を参照してください。


  1.旧石器時代から奈良時代


   旧石器時代(一万年以上前):高郷村、高田町等から旧石器(打製石器)が
      発見されてます。
   縄文時代(7000〜2500年前):会津の各地で、土器、新石器(磨製石器)が
      発見されてます。
   弥生時代(2000年前後前):それまで、扇状地の段丘の上に住んでいましたが、
      稲作と共に、低地に住むようになりました。貧富の差・階級が出来始めました。
   古墳時代(4〜6世紀)


       大塚山古墳 (4世紀末):東北で最も古い古墳。大塚山の山頂を利用した、
        前方後円墳です。三角縁二神二獣鏡を始め、ここよりにの出土品は、
        大和朝廷との結びつきを示唆しています。
         この頃、「古事記」に、大和から地方平定に来た四道将軍の二人が、
        相津(会津)で出会った、と言う記載があります。

  (会津若松市、北東の角)
  左の木の無い所が円墳、右の林が方墳です。
  山腹〜裾野は、今も、市民の墓地として、使われています。


       亀ヶ森古墳 (5世紀初〜中頃):東北で2番目に大きい古墳
                             (1位は宮城の雷神山)
        
 (会津坂下町、喜多方寄り) 前長127M。
  杉林で解りづらいですが、右が方墳、左が円墳です。
  周囲の堀を示す田(左写真下半)、入り口(?)を示す
  石碑(中央)があります。航空写真は こちら



   大和・奈良時代
      この時代、会津を支配していたのは、大和朝廷の大氏族 阿部氏に繋がる、
      丈部(はせつかべ)氏一族であったらしい。陸奥(東北)の国、会津群として、
      すでに、中央政治の中(律令制)に組み込まれていました。


  2.平安時代

  平安時代も、はや9世紀になると、律令制も崩れ、地方の豪族は、自分の土地を
  守るため、中央の豪族や寺院等に、形式的に寄付し、保護を受けました。
  これを、荘園と呼びます。

  神社:897〜930年在位した律令政治の最後の天皇、醍醐天皇の命によって
   作られた延喜式に、伊佐須美神社(高田)、養蚕神社(若松・一箕町)、
   磐はし神社(猪苗代)が記載されています。)

   大同元年 の磐梯山の大噴火の、翌807年 僧 徳一
   (最澄と激しい議論をしていた高僧らしい) が、磐梯山の麓に、
   恵日寺(慧日寺)(会津最古の寺?)を開きました。
   恐ろしい天変地異の後なので、農民達は、あっさり入信したかもしれません。
   常勝寺等も含め、仏教文化が花開きました。

   **会津にもいた僧兵**  

 恵日寺は、徐々に力を蓄え、僧兵を持ち、
  (恵日寺が栄えたのは、磐梯山麓の豊富な金山も一因と言われています。)
  1100年頃には、会津4群(全部だ?)を支配する様になっていました。
  1182年、恵日寺の僧兵達は、越後の城長茂と組み、木曾義仲と戦い、破れ、
   平泉藤原(これも金ピカ)の影響下に入ります。

 恵日寺(慧日寺)山門
  寺が開かれた頃の詳しくは、 こちら 参照。

  H20年1月現在、金堂の再建中の様です。
  詳しくは、 磐梯町公式HP を参照して下さい。


  3.鎌倉・室町〜安土時代


  鎌倉時代、会津は、執権北条の領地となりました。三浦一党の佐原義連(さわらよしつら)
  氏が、地頭代として、会津に下りました。

  この時、長男盛連は猪苗代氏を名乗り猪苗代を、次郎広盛は北田(現湯川村、
  会津盆地の中央近く)を、三郎盛良は藤倉(河東村)、
  四郎光盛は葦名(芦名)を名乗り、会津盆地の南寄り(やがて黒川、現若松)を、
  五郎盛時は(熱塩)加納村を、六郎時連は新宮(喜多方市)を支配しました。
   葦名氏は、本拠地を三浦半島 葦名 郷に置いており、また、幕府の要職に
  あったため、あまり会津には住んでいなかったと考えられます。
  当初、門田飯寺(オリンパスの敷地)に佐原の館が築かれました。
  1222年、2代光盛は、小田山に城を築き(山城!)、城下を黒川と称しました。

門田・飯寺(仁井寺)、佐原の館 跡  
 佐原の館は、若松市南西部のオリンパスの敷地にあった。
 オリンパスが進出する前まで、土塁・堀があった。現在は、
 敷地外、直南に、古館稲荷だけ残されている。
 (とても行きずらい、。オリンパス南の車屋さんの敷地を越えると簡単
  だが・・・、121号線、CO-OP向かいの細道をジグザグに北上すると、何とか着ける。)


  小田山  お城の真東、手前の一周り小さい山です。
 右の頂上が平らな部分が城跡(その下の中腹の
 三角形に木の無い部分は、戊辰時の西軍砲台跡)。
左の
 斜めの稜線には、葦名2〜8代の墓があったらしい。


  室町時代に入って、(鎌倉幕府滅亡時、5代盛員が北条方についたため、)
  葦名氏は鎌倉で勢力を失い、1379年、7代直盛は会津に移り住みました。
  (当初、幕内(神指町)、次に小館(融通寺町)に住み、(この移住の真実性は「会津鑑」に反論あり)
  1384年、小田木(現在の鶴ヶ城の位置)に、東黒川館を築き、これを
   鶴ヶ城(居・平城の事か、山城の事かは、古文書により差あり)、または黒川城と称しました。


   **鶴ヶ城の命名者は誰?**   文中(小文字)は、HP管理者の注)

 (蒲生氏郷 派)
  一般に、鶴ヶ城の命名者は、蒲生氏郷と考えられています。お城の入り口
 の案内板(時の市役所が設置?)にも、そう書いてあります。
  歴史春秋社出版の「蒲生氏郷」で、”湖国と文化”編集長の瀬川欣一氏は、

 「朝鮮の役への出陣(肥前名護屋城の後詰め)のため会津を発って一年の後、
 下血を患うままに文禄2年(1593)の秋に会津に帰国した氏郷の目に映った
 のは、白亜に輝く七層の天主閣を中心とする新しい見事な城郭であった。
 そこで、氏郷は、我が意を得たこの真新しい城を鶴ヶ城と命名した。」
                                  (出典は記載無し)
 と記しています。同様の表現は、他の著作者・他の本でも見かけます。

  実際、氏郷の幼名は鶴千代で、子供にも同じ名前をつけています。
 また、当時の蒲生の家紋は、立鶴、舞鶴でした。氏郷が、日本の吉兆である
 鶴や松が大好きだったのは間違いない様です。

  しかし、氏郷命名説には、裏付ける文献の記載のないものが殆どです。
 氏郷命名説の論拠に関しては、若松市役所・市史編纂グループの野口氏より、
 下記の御解答をいただきました。

   (氏郷の)鶴ヶ城命名の文書はありません。「若松地名考」(花見朔巳・塩川出身、
   東大史料編纂所)(「会津会会報第11号」 大正6年)が、私が今までみた中で
   一番的を得ていると思いますので、論点のみ記します。

   「若松」の命名は蒲生氏郷に間違いないこと。
   城に佳名(鶴ヶ城など)をつけるのは、足利・戦国時代以後であること。
   若松の命名は蒲生家の家紋により若松に、それに配するのは鶴が最適であり、
   鶴の城と名づけたと思われる。(花見論)
   なお詳しくは、同会報(会津図書館蔵)をごらん下さい。

 (葦名直盛 派)
  一方会津若松市観光公社=鶴ヶ城天主閣郷土博物館のHP には、
 「「新編会津風土記」によれば「後小松院至徳元年葦名直盛の築く所にて
 安部某と云う者をしてこの地を祝祭せしめ鶴ヶ城と名く 或いは黒川城とも
 称す
とあります。と記されている。

  郷土史家の小島一男氏も、「会津の城」で、同じ文を引用していますが、
 ”鶴ヶ城”でなく”鶴城”と書いています。
 
 また、小島氏が編集した「若松関係略年表」には、
 「至徳元年(1384)、小田山城成就。葦名直盛、小田木館に移る。
 葦名直盛城を築き、鶴城あるいは小田山城(黒川城でない!)と称す。」とあります。
 (M氏のここの掲示板への投稿(ログNo46)では、「葦名道達覚書」に近い)
  (「会津鑑」「会津風土記」「葦名道達覚書」「葦名家譜」[富田家年譜」等に似た様な記載が
  あるが、城の名前等、少しずつ違っている。多数決?では、小田山に城を立て、小田山城(〜
  小田垣城)、別名を鶴ヶ城とも称した。小田木(現在の鶴ヶ城の位置)は、館(居住)であった。
  戦国時代の流れと伴に館が、城としての体をなし、黒川城と呼ばれる様になった、様です。)
  

 結局、昔の事は、良く分りません!鶴は日本の吉兆だし、2人とも命名者と考えて
  あげましょう!古文書ですら、作者の嗜好が入るでしょうから。


 (?白亜に輝く七層の天主閣??
  ところで、先程の、瀬川氏の文章ですが、最近、この表現は”あやしい”と
 いう考えがあります。

 一つには、「白亜に輝く」です。
 会津若松市発行の「城下町の誕生」の中で、野口氏は、
 「秀吉の配下の氏郷は、秀吉の大阪城に習い、金箔瓦、黒漆の下見板の城を
 立てたと想像される。・・・加藤(明成)氏の時代に・・(家康の江戸城をまね)・・・
 白い城に生まれ変わった。」と記しています。金箔瓦も出土しています。
  (現在の 大阪城 は、江戸時代初期、徳川幕府によって再建されたものを元に、1931年(S6年)
   再建された物です。その際、市民の寄付も集めた様で、色んな経過が鶴ヶ城に似てますね。)


 もう一つは、「七層の天主閣」です。
 古典(〜古文書)に、その記載は有るようですが、親分である秀吉より
 立派な天主閣を建てるでしょうか?そんな事したら、取り潰し〜左遷じゃ
 ないでしょうか?大阪城と同じく、外5層、内6〜7層とか、地下2階を入れて
 7層だったのでは?という説も出ています。


  
葦名氏が勢力を伸ばてくると、1402年、伊佐須神社の宮司の反乱に始まり、
  上記三浦一党が反乱しましたが、葦名氏が打ち勝ち、
  15世紀前半で会津盆地一円を支配し、戦国大名として成長していきました。
  16代盛氏(もりうじ)(中興の祖)(1553〜1580に城主)の頃、会津一円を支配下に治め、
  その近傍(新潟県津川、二本松、三春、須賀川、(白河、相馬))とも、緩い(多少独立性ある)
  主従関係を結びました。その影響力は、新潟県東部〜福島県中通りに至り、
  伊達氏と並んで、東北の2大戦国大名になりました。

  こうした経緯から、若松が大きく発展しました。
  葦名氏は、他の戦国大名同様、多くの社寺を保護しました。


  しかし、盛氏の子、・盛興は病弱で嫡子がなく、須賀川の二階堂盛隆を養子に
  迎ました。盛隆は、葦名の血を継いでいない事等より、家臣の反乱を招き、
  暗殺され、その子亀王丸も3歳で夭逝しました。葦名氏は次第に衰退しました。


  1589年、20代葦名義広(常陸佐竹より養子に入った)は、
   摺上原(磨上原)の戦いで、伊達軍に破れ、わずかの兵と共に、実家に逃れました。

  代わって、伊達政宗が、会津を支配しますが、その期間は1年で終わりました。

  (芦)名家 花見ヶ森廟所
   松平家御廟に比べると、とても狭く、観光ガイドには載って
  ないかもしれません。小田山のすぐ北の平地にあります。
  16代(盛氏)〜18代(盛隆)の墓があります。写真は、盛隆の墓。
   2〜8代の墓(寿山廟所)は、小田山の北側稜線にありました
  が、長年月の風化と、戊辰戦争時、西軍に踏み荒らされたり、
  自動車道路削開時(現在は歩行のみ可)〜後、心ない人に倒壊
  されて? 詳細不明の状況です。

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