このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
目 次 |
I 超簡単 会津の歴史
0.恐竜達の時 1.旧石器時代から奈良時代 2.平安時代 トピックス: 会津にもいた僧兵 3.鎌倉・室町〜安土時代 城主:葦名(397年)等→伊達(1年) トピックス: 鶴ヶ城の命名者は誰? | ペ | ジ 1 |
4.桃山〜江戸時代
桃山時代城主:蒲生氏郷+(8年)、上杉(2年) 江戸時代城主:蒲生秀行+(27年)、加藤(16年)、 保科改め松平(226年) トピックス: 若松市街地道路の謎 、 神指城(高瀬の大けやき) 、 白虎隊が歩いた道(滝沢街道) 、 会津藩樺太出兵 、 白虎隊が通った洞窟(戸ノ口堰洞穴) |
ペ | ジ 2 | |
5.幕末・戊辰
(会津藩が賊軍と呼ばれるまで) 城主:松平容保 5-1.外圧による揺さぶり トピックス: 尾張徳川家支藩・美濃高須松平家 5-2.京都守護職 トピックス: 薩長土肥の軍制改革 薩摩藩の豹変、長州藩の変化 番 外 編 : 会津藩 in 京都(会津藩のなごりの写真集) 5-3.大政奉還 トピックス: 慶喜の知略・軍制改革 守護職時代の会津藩の悩み 孝明天皇毒殺説の根拠 5-4. 戊辰戦争 トピックス: 西軍の捨石?赤報隊 、 会津藩の軍制改革 、 奥羽列藩同盟 、 その頃の若松城下 、 幕府崩壊・賊軍会津に関する個人的妄想 戦士達の銃 会津藩士のその後 、 会津藩の長州への恨み |
ペ | ジ 3 | |
6.明治以降
( epilogue & prologue ) トピックス: 鬼官兵衛の最後 、 白虎隊が有名になった訳や剣舞 松平勢津子姫、秩父宮と御成婚 、 早春譜 II. 磐梯山と猪苗代湖 (できた時期と、相互関係) III. 他 トピックス 1.猪苗代湖の埋蔵金 2.鶴ヶ城壁の石はどこから?(遊女石) 3.小原庄助は実在したか? 4.ヤーヤ−一揆 |
ペ | ジ 4 | |
このページは、下記の書籍を参考にしました。著者の方に御礼申し上げます。
会津の歴史に関しては、
「わかりやすい会津の歴史」会津武家屋敷文化財管理室 編、会津武家屋敷、
1998年9月30日発行.
「手作り会津史」宮崎十三八 著、歴史春秋社、1998年3月14日発行.
「会津の史的な風景」宮崎十三八 著、歴史春秋社、1993年8月10日発行.
「小田山麓を歩く」小田山麓の歴史を訪ねる会 編、歴史春秋社、1999年4月30日発行.
「よみなおし戊辰戦争」星 亮一 著、筑摩書房、2001年6月20日発行.
幕末の一部に関しては、1972年初版版、平凡社「世界大百科事典」も参照しました。
「蒲生氏郷」阿部隆一 編、歴史春秋社、1997年4月25日発行(第二刷).
「会津の城」小島一男 著、歴史春秋社、1998年10月20日発行.
「鶴ヶ城を歩く」佐藤恒雄 著、歴史春秋社、1998年9月19日発行.
「城下町の誕生」松本良子ら 編、会津若松市、1999年12月10日発行.
「白虎隊」中村彰彦著、文芸春秋社、2001.5.20発行
「戊辰戦争」佐々木克 著、中公新書、1977.1.25発行
「幕末の会津藩」星亮一 著、中公新書、2001.12.20発行
「会津白虎隊のすべて」小桧山六郎 編、新人物往来社、2002.2.10発行
私の推薦書:「ある明治人の記録」石光真人 著、中公新書、1971年5月 初版
後の陸軍大将・柴 五郎の、遺書的自伝。小学校高学年〜高校生位の頃、
戊辰敗戦・斗南移住・東京で下僕生活・陸軍幼年学校の前身に入学まで、
無理に怨念(状況上多少はしょうがない)や悲惨さを煽らず、まだ、あどけなさの
残る視点で、淡々と事実を記しています。会津人のバイブルにしたい本です。
\660.!
磐梯山に関しては、
「新磐梯紀行」小桧山六郎 著、歴史春秋社、2000年12月25日発行.
その他のトピックス
「こんな話知ってる」歴史春秋社 編、歴史春秋社、1998年3月25日発行.
「会津若松史跡めぐり」歴史春秋社 編、歴史春秋社、1999年4月30日発行.
![]() 詳しくは、 こちら を参照してください。 |
大塚山古墳
(4世紀末):東北で最も古い古墳。大塚山の山頂を利用した、
前方後円墳です。三角縁二神二獣鏡を始め、ここよりにの出土品は、
大和朝廷との結びつきを示唆しています。
この頃、「古事記」に、大和から地方平定に来た四道将軍の二人が、
相津(会津)で出会った、と言う記載があります。
![]() 左の木の無い所が円墳、右の林が方墳です。 山腹〜裾野は、今も、市民の墓地として、使われています。 |
![]() ![]() 杉林で解りづらいですが、右が方墳、左が円墳です。 周囲の堀を示す田(左写真下半)、入り口(?)を示す 石碑(中央)があります。航空写真は こちら 。 |
**会津にもいた僧兵**
恵日寺は、徐々に力を蓄え、僧兵を持ち、 (恵日寺が栄えたのは、磐梯山麓の豊富な金山も一因と言われています。) 1100年頃には、会津4群(全部だ?)を支配する様になっていました。 1182年、恵日寺の僧兵達は、越後の城長茂と組み、木曾義仲と戦い、破れ、 平泉藤原(これも金ピカ)の影響下に入ります。
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![]() 佐原の館は、若松市南西部のオリンパスの敷地にあった。 オリンパスが進出する前まで、土塁・堀があった。現在は、 敷地外、直南に、古館稲荷だけ残されている。 (とても行きずらい、。オリンパス南の車屋さんの敷地を越えると簡単 だが・・・、121号線、CO-OP向かいの細道をジグザグに北上すると、何とか着ける。) |
![]() 右の頂上が平らな部分が城跡(その下の中腹の 三角形に木の無い部分は、戊辰時の西軍砲台跡)。左の 斜めの稜線には、葦名2〜8代の墓があったらしい。 |
**鶴ヶ城の命名者は誰?** 文中(小文字)は、HP管理者の注) (蒲生氏郷 派) 一般に、鶴ヶ城の命名者は、蒲生氏郷と考えられています。お城の入り口 の案内板(時の市役所が設置?)にも、そう書いてあります。 歴史春秋社出版の「蒲生氏郷」で、”湖国と文化”編集長の瀬川欣一氏は、 「朝鮮の役への出陣(肥前名護屋城の後詰め)のため会津を発って一年の後、 下血を患うままに文禄2年(1593)の秋に会津に帰国した氏郷の目に映った のは、白亜に輝く七層の天主閣を中心とする新しい見事な城郭であった。 そこで、氏郷は、我が意を得たこの真新しい城を鶴ヶ城と命名した。」 (出典は記載無し) と記しています。同様の表現は、他の著作者・他の本でも見かけます。 実際、氏郷の幼名は鶴千代で、子供にも同じ名前をつけています。 また、当時の蒲生の家紋は、立鶴、舞鶴でした。氏郷が、日本の吉兆である 鶴や松が大好きだったのは間違いない様です。 しかし、氏郷命名説には、裏付ける文献の記載のないものが殆どです。 氏郷命名説の論拠に関しては、若松市役所・市史編纂グループの野口氏より、 下記の御解答をいただきました。 「(氏郷の)鶴ヶ城命名の文書はありません。「若松地名考」(花見朔巳・塩川出身、 東大史料編纂所)(「会津会会報第11号」 大正6年)が、私が今までみた中で 一番的を得ていると思いますので、論点のみ記します。 「若松」の命名は蒲生氏郷に間違いないこと。 城に佳名(鶴ヶ城など)をつけるのは、足利・戦国時代以後であること。 若松の命名は蒲生家の家紋により若松に、それに配するのは鶴が最適であり、 鶴の城と名づけたと思われる。(花見論) なお詳しくは、同会報(会津図書館蔵)をごらん下さい。」 (葦名直盛 派) 一方、 会津若松市観光公社=鶴ヶ城天主閣郷土博物館のHP には、 「「新編会津風土記」によれば「後小松院至徳元年葦名直盛の築く所にて 安部某と云う者をしてこの地を祝祭せしめ鶴ヶ城と名く 或いは黒川城とも 称す」とあります。」と記されている。 郷土史家の小島一男氏も、「会津の城」で、同じ文を引用していますが、 ”鶴ヶ城”でなく”鶴城”と書いています。 また、小島氏が編集した「若松関係略年表」には、 「至徳元年(1384)、小田山城成就。葦名直盛、小田木館に移る。 葦名直盛城を築き、鶴城あるいは小田山城(黒川城でない!)と称す。」とあります。 (M氏のここの掲示板への投稿(ログNo46)では、「葦名道達覚書」に近い) (「会津鑑」「会津風土記」「葦名道達覚書」「葦名家譜」[富田家年譜」等に似た様な記載が あるが、城の名前等、少しずつ違っている。多数決?では、小田山に城を立て、小田山城(〜 小田垣城)、別名を鶴ヶ城とも称した。小田木(現在の鶴ヶ城の位置)は、館(居住)であった。 戦国時代の流れと伴に館が、城としての体をなし、黒川城と呼ばれる様になった、様です。) 結局、昔の事は、良く分りません!鶴は日本の吉兆だし、2人とも命名者と考えて あげましょう!古文書ですら、作者の嗜好が入るでしょうから。 (?白亜に輝く七層の天主閣??) ところで、先程の、瀬川氏の文章ですが、最近、この表現は”あやしい”と いう考えがあります。 一つには、「白亜に輝く」です。 会津若松市発行の「城下町の誕生」の中で、野口氏は、 「秀吉の配下の氏郷は、秀吉の大阪城に習い、金箔瓦、黒漆の下見板の城を 立てたと想像される。・・・加藤(明成)氏の時代に・・(家康の江戸城をまね)・・・ 白い城に生まれ変わった。」と記しています。金箔瓦も出土しています。 (現在の 大阪城 は、江戸時代初期、徳川幕府によって再建されたものを元に、1931年(S6年) 再建された物です。その際、市民の寄付も集めた様で、色んな経過が鶴ヶ城に似てますね。) もう一つは、「七層の天主閣」です。 古典(〜古文書)に、その記載は有るようですが、親分である秀吉より 立派な天主閣を建てるでしょうか?そんな事したら、取り潰し〜左遷じゃ ないでしょうか?大阪城と同じく、外5層、内6〜7層とか、地下2階を入れて 7層だったのでは?という説も出ています。 |
しかし、盛氏の子、・盛興は病弱で嫡子がなく、須賀川の二階堂盛隆を養子に
迎ました。盛隆は、葦名の血を継いでいない事等より、家臣の反乱を招き、
暗殺され、その子亀王丸も3歳で夭逝しました。葦名氏は次第に衰退しました。
葦(芦)名家 花見ヶ森廟所
![]() 松平家御廟に比べると、とても狭く、観光ガイドには載って ないかもしれません。小田山のすぐ北の平地にあります。 16代(盛氏)〜18代(盛隆)の墓があります。写真は、盛隆の墓。 2〜8代の墓(寿山廟所)は、小田山の北側稜線にありました が、長年月の風化と、戊辰戦争時、西軍に踏み荒らされたり、 自動車道路削開時(現在は歩行のみ可)〜後、心ない人に倒壊 されて? 詳細不明の状況です。 |
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