このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
目 次 | I 超簡単 会津の歴史 6.明治以降 ( epilogue & prologue ) トピックス: 鬼官兵衛の最後 、 白虎隊が有名になった訳や"剣舞" 松平勢津子姫、秩父宮と御成婚 、 早春譜 II. 磐梯山と猪苗代湖 (できた時期と、相互関係) III. 他 トピックス 1.猪苗代湖の埋蔵金 2.鶴ヶ城の城壁の石はどこから?(遊女石) 3.小原庄助は実在したか? 4.ヤーヤ−一揆 |
戊辰・会津戦争の焼け跡から、若松市を復活させたのは、
城下町時代から指導的立場にあった商業者でした。
家を建て、職人を呼び戻し、生産機能を整えました。
**鬼官兵衛の最後**
会津藩の佐川官兵衛は、長岡藩の河井継之助と伴に、東軍の猛将・名将 として有名です。 *私は、好きです、この男。それは、戦いにおいて勇猛だからではなく、* *諸事の判断が、正しく、男らしいと思うから。 * 王政復古の大号令の前夜、勅命が出て、唐門を土佐藩に引き渡しました。 官兵衛は、戦闘が起こり、会津が朝敵になりうる事を予感し、家老・上田 学大輔に、容保の即刻帰国を建言しました。(自分は残って戦うつもりだった?) しかし、慶喜に 「(戦乱を避けるため?)、二条城を引き上げ大阪城に移る。 肥後守(容保)も来たれり 」 と呼ばれた容保は、二条城に参代しました。 また、会津藩内も徹底抗戦派が大勢でした。 (あきらめた?)官兵衛は、慶喜らが大阪城に逃げるのを阻止するため、 城門をふさぎました。老中田中や主君容保の説得にも応じませんでした。 慶喜とも議論するも、慶喜の「余に深謀あり」に折れ、門を開きました。 (仕方ないでしょう!将軍と一将兵の身分差があっては。) 鳥羽・伏見の戦いでも、その阿修羅の如き戦いぶりから、 敵からも味方からも、”鬼官兵衛”と称されました。 会津戦争では、朱雀の一隊を率い、戦いました。 籠城戦になってからは、 (敵の攻撃を分散させるため)城外のゲリラ戦を担当しました。 田島において、マタギを集め西軍に一泡ふかせたのも、この男です。 この城外戦に出陣する前夜、藩公から賜った激励の酒を呑み過ぎて、 寝過ごし、夜明け前出発のつもりが、夜明け後になったそうです。 (憎めない人ですね〜!) その後、斗南へ行き、明治5〜6年頃、会津に戻りました。 明治7年、巡査募集時、当時の川路大警視が、官兵衛を熱心に誘いました。 当初、官兵衛は、断っていましたが、生活が苦しくなっていた (役場か学校の先生以外、藩士に向いた仕事が無かった) 旧会津藩士300人を引き連れ警視庁に就職しました。 明治10年西南戦争が勃発し、官兵衛も出動し(思いっきり意趣返しし?)、 阿蘇の麓・黒川の地において散りました。 |
明治初期から大正まで、会津は、朝敵・賊軍のレッテルを貼られ、
いわれなき差別を受けました(と、地元の歴史家は言っています)。
大藩の城下町なら、たいがい設置された
国立高校・高専校(いわゆる各県タコ足大学の基)も、設置されませんでした。
**白虎隊が有名になった訳や ”剣舞” **
明治日本最後の内戦「西南戦争」が、(官兵衛らの活躍もあって)終結すると、 いまだ少年であった白虎隊士中二番隊が、武士道に則った潔い最期を選んだ 事を哀れんで、飯盛山へ参詣する人が次第に増加しました。 明治16年には、小学国史にも登場、奥羽列藩同盟は「賊」扱いなのに、 その極一部である白虎隊は、「・・人皆之ヲ哀れむ」と特別扱いでした。
日清戦争(明治27年=1894〜1895)後、ロシアとの対決ムードが昂まるにつれ、 白虎隊は、忠君愛国の鑑とされ、全国にその名が広まりました。1905年には、 文部省唱歌としての白虎隊、 「霰のごとく乱れ来る、敵の弾丸引き受けて、命を塵と戦いし・・その名聞こえし 白虎隊」が、子供達に教えられました。国定教科書にも載るようになりました。 軍国主義・大日本帝国は、 第二世界大戦(太平洋戦争)まで、白虎隊を、お国 のために命を捨てたヒーローとして(イスラム原理主義か〜?)扱いました。 また、太平洋戦争後は、敗戦国だった日本人にとっての自分自身、あるいは、 死んだ戦友たちと二重写しに感じられてか?霧島昇の歌う白虎隊がヒットし、 飯盛山を訪れる人が、増えました ーー主として「白虎隊」中村彰彦 著 よりーー |
**松平勢津子姫 秩父宮と御成婚**
(明治41年、猪苗代湖の風景に魅せられた有栖川宮威仁(たけひと)親王が、 猪苗代湖畔に、別邸、「天鏡閣」を建てたニュースもありましたが、) 金融恐慌と不景気の 昭和初期、秩父宮と松平勢津子姫の御婚約のニュースは、 会津人を、大変、沸かせました。 政府内部には、「朝敵の娘を皇室に入れる事はあるまい」という、反対意見は 有ったようです。勢津子姫は、容保の四男で外交官だった恒雄氏の娘です。 全会津の民は、松平家が皇室と縁戚関係になり、 朝敵の汚名を一掃できる事を喜び、 慶祝行事は、3日3晩繰り広げられました。 |
![]() 再建されました。 会津若松市は、本格的な観光都市として、 歩み始めました。 昭和46年には、「会津復古会」が、旗揚げし、 時代に逆行する、 昔ながらの蔵造り・木造町屋の店舗が 現れました。 |
**会津大学**
![]() 福島県立会津大学が、開設されました。 出でよ、会津の ビル・ゲイツ! |
**早春譜** 戊辰の役から130年以上たった今、 おそらく、戊辰を経験した方の孫〜曾孫が わずかに生き残っているかどうか の時代になり、(現実的問題として)戊辰がどうとか、 長州がどうだとか言う人は、 ほとんど居なくなっていると思います。(人もかなり入れ替わっていますし。) 平成8年頃、会津若松市は、民間団体を中心に 長州と和解を模索する動きがありました。 この一環として、「会津若松文化振興財団」と市内の演劇団体が、 会津と萩の交流を テーマとした演劇「早春譜」を上演しました。 「早春譜」は、会津の旧家を舞台にした現代劇で、大の薩長嫌いの当主のところに、 孫娘が婚約者を連れてくる。その青年が長州・萩の出身と分り、祖父は猛反対する。 が、やがてその祖父と青年の祖母もかっては恋人同士で、 出身地にこだわって分かれた過去が明らかになり、 最後は結婚を許す、というストーリーでした。 この演劇の招待状を もらった萩市長は、 (若松市が、私人として来てくれと言うので、)私人として、観劇にやって来ました。 当時の若松市長は、観劇後20分程度の懇談を持ったが、握手はしませんでした。 ( 過去、長州との和解を訴えた市長候補が敗北した事もあり)、 懇談後、記者団に、「行政レベルの和解ではない」と言いました。 ? ?? 感想 その1 戊辰よりも、ず〜と最近、第二次大戦・太平洋戦争で、日本に原爆を2個落とし、 東京を焼け野原にしたアメリカ合衆国と、日本は一番の仲良しになっている。 もし、130年以上を経た今もって、戊辰の役の事で山口県を嫌っているならば、 それこそが会津人の頑迷さで、戊辰敗因の一つと、言われはしないだろうか? |
1.猪苗代湖の埋蔵金(軍用金)。 猪苗代湖の埋蔵金は、磨上原(摺上ケ原)の合戦で、 伊達軍に破れた葦名(芦名)軍が、実家の常陸に敗走する途中で、 軍用金を、中田浜の湖底に沈めたそうです。 現代に至って、実業家や芦名の末裔を名乗るものが、 財宝引き上げを図りましたが、いずれも失敗に終わったようです。 |
2.お城の石垣の石はどこから?、石切山、遊女石
![]() 鶴ヶ城・神指城の石は、東山慶山の石切山から切り 出しました。詳細な場所は私は不詳ですが・・・、 お城の北の道を東へ進むと、奴郎ヶ前交差点で、正面に 小さな禿山部が見えます。大龍寺の南の道を登ったガレ場の所です。 (このガレ場は慶山焼きの粘土を採る所らしいですが)この付近の地名は“石山”と なっており、この付近一帯の岩壁から切り出したのか?と推測されます。 道に丸太を敷いて、その転がりを利用して、切り出した石を乗せた 大ソリを引っ張ったようです。 ![]() 巨石は、横 2.8 m、縦 2.6 mの大きさがあり、遊女石 と呼ばれています。思うように動かず困った時、人夫の 疲労困憊を慰めるために、多くの遊女を、この石の上に 乗せ、手振り・足踏など面白い技をさせて運んだため、 ついた名だそうです ![]() 甲賀町(現 栄町)郭門にも、 大きな石があります。右の看板の高さが約2mですから、 石の縦径は3mを越えていそうです。 大手門(追手門、正面玄関)付近に大石があるのは、 客人を、暗に威嚇するためでしょうか? |
3.小原庄助さんは実在したか?
残念ながら、(観光関係以外の)心ある方のご意見は、「実在しなかった」です。
秀安寺に小原庄助さんの墓はあるそうです。しかし、この小原庄助さんは、
保科正之と共に、信州高遠より、会津に来た、身分の高い家臣の末裔の様です。
明治元年9月に他界しているそうです。
あの「会津磐梯山」の歌は、昭和8年頃、作家長田幹彦が、
会津盆踊り歌の幾つかを、取り入れて、小唄勝太郎に歌わせたもので、
小原庄助は、長田の創作とされています。
{ 俗説としては、1.やはり保科の家臣だったが、材木屋になった人の末裔。
(但し、この説は、秀安寺の住職さんが、否定しています。)
2.漆器屋で、白河市で没した。3.木更津の油屋で会津にも良く来た。
4.某造り酒屋さんだった。5.庄屋だった。・・・と多数あります。}
4. ヤーヤ−一揆
戊辰戦争で会津藩が崩壊した時、
その権力を支えていた(特に悪徳な)村役人の家等が、
それまで抑圧されていた農民に、襲われたそうです。
松平家は県民に人気無かったのでしょうか?でも、一族の松平勇雄さんが、
県知事になっているので、そうでも無いような。
色々な過去・都合の人がいたと言う事でしょうか?
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