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超簡単 会津の歴史 (ページ4、明治以降 / 磐梯山と猪苗代湖、他トピックス)

 目 


 次
 I 超簡単 会津の歴史
   6.明治以降 ( epilogue & prologue )
     トピックス: 鬼官兵衛の最後
             白虎隊が有名になった訳や"剣舞"
             松平勢津子姫、秩父宮と御成婚
             早春譜

  II. 磐梯山と猪苗代湖
    (できた時期と、相互関係)

  III. 他 トピックス
   1.猪苗代湖の埋蔵金      2.鶴ヶ城の城壁の石はどこから?(遊女石)
   3.小原庄助は実在したか?  4.ヤーヤ−一揆

  6.明治以降 ( epilogue & prologue )


    戊辰・会津戦争の焼け跡から、若松市を復活させたのは、
   城下町時代から指導的立場にあった商業者でした。
   家を建て、職人を呼び戻し、生産機能を整えました。

   **鬼官兵衛の最後**

 会津藩の佐川官兵衛は、長岡藩の河井継之助と伴に、東軍の猛将・名将
 として有名です。

 *私は、好きです、この男。それは、戦いにおいて勇猛だからではなく、*
 *諸事の判断が、正しく、男らしいと思うから。                *

 王政復古の大号令の前夜、勅命が出て、唐門を土佐藩に引き渡しました。
 官兵衛は、戦闘が起こり、会津が朝敵になりうる事を予感し、家老・上田
 学大輔に、容保の即刻帰国を建言しました。(自分は残って戦うつもりだった?)

 しかし、慶喜に 「(戦乱を避けるため?)、二条城を引き上げ大阪城に移る。
 肥後守(容保)も来たれり 」 と呼ばれた容保は、二条城に参代しました。
 また、会津藩内も徹底抗戦派が大勢でした。

 (あきらめた?)官兵衛は、慶喜らが大阪城に逃げるのを阻止するため、
 城門をふさぎました。老中田中や主君容保の説得にも応じませんでした。
 慶喜とも議論するも、慶喜の「余に深謀あり」に折れ、門を開きました。
 (仕方ないでしょう!将軍と一将兵の身分差があっては。)

 鳥羽・伏見の戦いでも、その阿修羅の如き戦いぶりから、
 敵からも味方からも、”鬼官兵衛”と称されました。

 会津戦争では、朱雀の一隊を率い、戦いました。
 籠城戦になってからは、
 (敵の攻撃を分散させるため)城外のゲリラ戦を担当しました。
 田島において、マタギを集め西軍に一泡ふかせたのも、この男です。

 この城外戦に出陣する前夜、藩公から賜った激励の酒を呑み過ぎて、
 寝過ごし、夜明け前出発のつもりが、夜明け後になったそうです。
 (憎めない人ですね〜!)
 その後、斗南へ行き、明治5〜6年頃、会津に戻りました。

 明治7年、巡査募集時、当時の川路大警視が、官兵衛を熱心に誘いました。
 当初、官兵衛は、断っていましたが、生活が苦しくなっていた
 (役場か学校の先生以外、藩士に向いた仕事が無かった)
 旧会津藩士300人を引き連れ警視庁に就職しました。

 明治10年西南戦争が勃発し、官兵衛も出動し(思いっきり意趣返しし?)、
 阿蘇の麓・黒川の地において散りました。

    明治初期から大正まで、会津は、朝敵・賊軍のレッテルを貼られ、
   いわれなき差別を受けました(と、地元の歴史家は言っています)。
   大藩の城下町なら、たいがい設置された
   国立高校・高専校(いわゆる各県タコ足大学の基)も、設置されませんでした。

   **白虎隊が有名になった訳や ”剣舞” **

 明治日本最後の内戦「西南戦争」が、(官兵衛らの活躍もあって)終結すると、

 いまだ少年であった白虎隊士中二番隊が、武士道に則った潔い最期を選んだ
 事を哀れんで、飯盛山へ参詣する人が次第に増加しました。
 明治16年には、小学国史にも登場、奥羽列藩同盟は「賊」扱いなのに、
 その極一部である白虎隊は、「・・人皆之ヲ哀れむ」と特別扱いでした。

 剣舞
 明治17年、飯盛山に自刃者の合葬墓が建立された際、旧会津藩士 
 佐原盛純(もりずみ)は、漢詩「白虎隊」を十九士の霊に捧げました。
 「少年団結す〜白虎隊・・南〜鶴城を望めば〜、いん煙(砲煙)あがる〜♪」

 この時、私立中学会津日新館の生徒19人が、この詩吟を受けて剣舞を奉納
 しました。(”白虎隊の剣舞”は、東山温泉の芸妓が作ったという風評もあるようですが、
 この剣舞に感動した芸妓さんが、己の芸として採用し、広めたかと思われます。)

 日清戦争(明治27年=1894〜1895)後、ロシアとの対決ムードが昂まるにつれ、
 白虎隊は、忠君愛国の鑑とされ、全国にその名が広まりました。1905年には、
 文部省唱歌としての白虎隊、
 「霰のごとく乱れ来る、敵の弾丸引き受けて、命を塵と戦いし・・その名聞こえし
 白虎隊」が、子供達に教えられました。国定教科書にも載るようになりました。

 軍国主義・大日本帝国は、 第二世界大戦(太平洋戦争)まで、白虎隊を、お国
 のために命を捨てたヒーローとして(イスラム原理主義か〜?)扱いました。

 また、太平洋戦争後は、敗戦国だった日本人にとっての自分自身、あるいは、
 死んだ戦友たちと二重写しに感じられてか?霧島昇の歌う白虎隊がヒットし、
 飯盛山を訪れる人が、増えました

                          ーー主として「白虎隊」中村彰彦 著 よりーー

   **松平勢津子姫 秩父宮と御成婚**

 (明治41年、猪苗代湖の風景に魅せられた有栖川宮威仁(たけひと)親王が、
  猪苗代湖畔に、別邸、「天鏡閣」を建てたニュースもありましたが、)

  金融恐慌と不景気の
 昭和初期、秩父宮と松平勢津子姫の御婚約のニュースは、
 会津人を、大変、沸かせました。
 政府内部には、「朝敵の娘を皇室に入れる事はあるまい」という、反対意見は
 有ったようです。勢津子姫は、容保の四男で外交官だった恒雄氏の娘です。

 全会津の民は、松平家が皇室と縁戚関係になり、
 朝敵の汚名を一掃できる事を喜び、
 慶祝行事は、3日3晩繰り広げられました。


    **鶴ヶ城**

昭和40年、(明治7年に解体された)鶴ヶ城が、
 再建されました。
 会津若松市は、本格的な観光都市として、
 歩み始めました。
昭和46年には、「会津復古会」が、旗揚げし、
 時代に逆行する、
 昔ながらの蔵造り・木造町屋の店舗が
 現れました。

   **会津大学*

 平成5年、コンピューター(ハード・ソフト)専門の、
  福島県立会津大学が、開設されました。
  出でよ、会津の ビル・ゲイツ!

   **早春譜**

 戊辰の役から130年以上たった今、
 おそらく、戊辰を経験した方の孫〜曾孫が わずかに生き残っているかどうか
 の時代になり、(現実的問題として)戊辰がどうとか、 長州がどうだとか言う人は、
 ほとんど居なくなっていると思います。(人もかなり入れ替わっていますし。)

 平成8年頃、会津若松市は、民間団体を中心に
 長州と和解を模索する動きがありました。
 この一環として、「会津若松文化振興財団」と市内の演劇団体が、
 会津と萩の交流を テーマとした演劇「早春譜」を上演しました。

 「早春譜」は、会津の旧家を舞台にした現代劇で、大の薩長嫌いの当主のところに、
 孫娘が婚約者を連れてくる。その青年が長州・萩の出身と分り、祖父は猛反対する。
 が、やがてその祖父と青年の祖母もかっては恋人同士で、
 出身地にこだわって分かれた過去が明らかになり、
 最後は結婚を許す、というストーリーでした。

 この演劇の招待状を もらった萩市長は、
 (若松市が、私人として来てくれと言うので、)私人として、観劇にやって来ました。
 当時の若松市長は、観劇後20分程度の懇談を持ったが、握手はしませんでした。
 ( 過去、長州との和解を訴えた市長候補が敗北した事もあり)、
 懇談後、記者団に、「行政レベルの和解ではない」と言いました。

  ? ??

 感想 その1

 戊辰よりも、ず〜と最近、第二次大戦・太平洋戦争で、日本に原爆を2個落とし、
 東京を焼け野原にしたアメリカ合衆国と、日本は一番の仲良しになっている。
 もし、130年以上を経た今もって、戊辰の役の事で山口県を嫌っているならば、
 それこそが会津人の頑迷さで、戊辰敗因の一つと、言われはしないだろうか?




[II] 猪苗代湖と磐梯山の関係

  20万年前の地殻変動で陥没した猪苗代盆地に、その後の磐梯山の噴火で、
  川が堰き止められ、徐々に湖が形成されました。

  4万年前には、水位が現在より16m高い湖が形成されています。

  その後水位は5〜6m以上下がりました。

  西暦806年(大同元年)、磐梯山は、大噴火を起こし、それまで3000m近くあった
  富士山形の山から、現在の最高約 1800mの3峰になりました。
  この時、猪苗代湖の水位が上がり、幾つかの部落が水没しました。

  その後、大きな噴火はなかったようですが、
  1888年(明治21年)に、小磐梯が大噴火し、火砕〜土石流が、北〜北東を襲い、
  川を堰き止めたため、裏磐梯の村々が水没し、
  現在の裏磐梯湖沼群ができました。


[III] トピックス

 1.猪苗代湖の埋蔵金(軍用金)。

   猪苗代湖の埋蔵金は、磨上原(摺上ケ原)の合戦で、
  伊達軍に破れた葦名(芦名)軍が、実家の常陸に敗走する途中で、
  軍用金を、中田浜の湖底に沈めたそうです。

   現代に至って、実業家や芦名の末裔を名乗るものが、
  財宝引き上げを図りましたが、いずれも失敗に終わったようです。

  2.お城の石垣の石はどこから?、石切山、遊女石

  鶴ヶ城・神指城の石は、東山慶山の石切山から切り
  出しました。詳細な場所は私は不詳ですが・・・、
  お城の北の道を東へ進むと、奴郎ヶ前交差点で、正面に
  小さな禿山部が見えます。大龍寺の南の道を登ったガレ場の所です。
  (このガレ場は慶山焼きの粘土を採る所らしいですが)
この付近の地名は“石山”と
  なっており、この付近一帯の岩壁から切り出したのか?と推測されます。

  道に丸太を敷いて、その転がりを利用して、切り出した石を乗せた
  大ソリを引っ張ったようです。

 鶴ヶ城 太鼓門 (北出丸からの本丸入口)西の石垣の
 巨石は、横 2.8 m、縦 2.6 mの大きさがあり、遊女石
 
と呼ばれています。思うように動かず困った時、人夫の
 疲労困憊を慰めるために、多くの遊女を、この石の上に
 乗せ、手振り・足踏など面白い技をさせて運んだため、
 ついた名だそうです

            甲賀町(現 栄町)郭門にも、
 大きな石があります。右の看板の高さが約2mですから、
 石の縦径は3mを越えていそうです。

 大手門(追手門、正面玄関)付近に大石があるのは、
 客人を、暗に威嚇するためでしょうか?


 3.小原庄助さんは実在したか?

   残念ながら、(観光関係以外の)心ある方のご意見は、「実在しなかった」です。

   秀安寺に小原庄助さんの墓はあるそうです。しかし、この小原庄助さんは、
  保科正之と共に、信州高遠より、会津に来た、身分の高い家臣の末裔の様です。
  明治元年9月に他界しているそうです。

   あの「会津磐梯山」の歌は、昭和8年頃、作家長田幹彦が、
  会津盆踊り歌の幾つかを、取り入れて、小唄勝太郎に歌わせたもので、
  小原庄助は、長田の創作とされています。

     { 俗説としては、1.やはり保科の家臣だったが、材木屋になった人の末裔。
      (但し、この説は、秀安寺の住職さんが、否定しています。)
     2.漆器屋で、白河市で没した。3.木更津の油屋で会津にも良く来た。

     4.某造り酒屋さんだった。5.庄屋だった。・・・と多数あります。}


 4. ヤーヤ−一揆
   戊辰戦争で会津藩が崩壊した時、
  その権力を支えていた(特に悪徳な)村役人の家等が、
  それまで抑圧されていた農民に、襲われたそうです。
   松平家は県民に人気無かったのでしょうか?でも、一族の松平勇雄さんが、
  県知事になっているので、そうでも無いような。
  色々な過去・都合の人がいたと言う事でしょうか?


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