このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ー 戦士達の銃 −


銃の詳細については、
  幕末期の銃  (写真あり)
  歴史資料館  (詳細な記述、大砲もあり、歴史的検討も細かい)
等を、御参照ください。

1. ゲベール銃、ヤーゲル銃

 ゲベール銃は、(幕末初期は)火縄銃を、火打石に変えた位の銃の様だ。
  戊辰の頃は、雷管式になってたようだが、銃の内腔は平滑で、弾丸の
  直進性能が悪く、命中精度が極めて悪かった様だ。弾は先ごめ。

 ヤーゲル銃は、ゲベール銃の内腔にライフル(ラセン状の溝)を切ったもので、
  弾の直進性が良くなり、弾の形も、初期の丸から椎実形に進歩した。
  しかし、これらの工夫で、弾ごめ(先ごめ)は、返って、しずらくなった。
  また、照門・照星が無く、やはりまだ、命中精度はかなり悪かった。

 どちらの銃も、既に、20年以上前、欧米では使われなくなったもので、欧米の
 武器商人に、だまし売りされた様だ。しかも!この武器商人達は、小判を、
 単なる通貨として扱い、向こうで金として売り、儲けていた。

 また、両銃は、国内でも、制造され、規格・品質は、まちまちだった。

 会津軍の銃は、(既に予算が無く、新式は、あまり購入できず) ヤーゲル銃が
 主体だった。この銃、数発撃つと加熱しすぎて使えなくなった様た。

 白虎士中1番隊士 永岡清治は「旧夢」の中で、
  ”100m先の90cm角の的に、小便形に下りて、星下に当たる”
  ”実践するにあたり、打金は緩み、火問(火口)飛び、銃身と台と相分離
   するものありて、その用に耐えざるもの過半なり」と、記している。

2. ミニエー銃

 仏軍、ミニエー大佐が、椎実弾の底部に木栓をはめ、発射時にガス圧で木栓が
 弾丸中に押し込まれ、スカート部が拡張してライフルに食い込ませるという弾丸
 「ミニエー弾」を発明した。ミニエー弾であれば、口径より少し小さい弾丸でも、
 回転を与えられるため、従来の弾丸よりも格段に弾込め作業が簡単になった。
 ミニエー銃は、ミニエー弾を使う銃の総称( HP 歴史資料館より)。

 薩摩藩は、英軍に攻められた後の軍制改革で、これを一万挺購入した。
 (薩長に武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。1859年、長崎開港直後、
 21歳で来日し、グラバー商会を設立。お茶や鉱山設備も扱ったが、武器や船が主となった。)


 容保が、「慶喜に会津に帰国せよ」と命令され、帰会した時、家老梶原平馬らが
 プロシア人武器商スネルから購入した800挺も、主に、これかと思われるが、
 薩摩に比し少ない!北辺や江戸湾の警備・京都守護職で予算使い尽したか?
 
3. スナイドル銃、スペンサー銃

 1866年英国政府は、エンフィールド銃(英国風改良ミニエー)前装銃を、後装
 銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。戊辰戦争でも、西軍は
 江戸城占拠後、英国製ミニエー銃を、スナイドル銃に改造した(情報早い!)。
 この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃として使われている。

 スペンサー銃は、1860年に発明された銃尾弾倉式の7連発銃で、アメリカの
 南北戦争で活躍した。戊辰戦争では、佐賀藩と黒羽藩のみ標準装備していた
 ( HP 歴史資料館より)。

 甲賀町郭門を守っていた会津軍は、屋敷の畳等で胸壁を作っていた。これら
 西軍の銃は、これ(胸壁)を貫通し、かえって死傷者が出た。 会津藩砲術指南
 山元の娘八重は、スペンサー銃を所有し、北出丸の攻防で西軍を悩ませた。

4. マンソー騎銃

 全長1.03m、重さ3.71kg、元込め銃。
 白虎士中二番隊が、戸の口原に出撃するにあたり、武器役人と談判し、手に
 入れた御備銃(万一の為に城の備えておいた銃)の馬上銃は、これであり、弾ごめが
 早く軽量なので、隊士は喜んだと、中村彰彦氏は推定しています。


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