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幕府崩壊・賊軍会津に関する個人的妄想
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以下は
、史実を織り交ぜながらも、私(HP管理者)の、
全くの
妄想
です!
こうして、幕末の歴史を見ていると、幕府軍(東軍)は、まるで
西軍に、さしたるダメージを与えず、
あっさり負ける様に動いていると思えてくる!
だって
鳥羽・伏見の戦いでは、将軍・藩主が去って軍は、バラバラ!
江戸城無血開城で、また軍はバラバラ!
そうして、会津藩は、旧体制のシンボル(〜朝敵〜時代の仇役)として、
分散・弱体化した幕軍と伴に壊滅!
榎本武揚艦隊は、奥羽越列藩同盟に呼応せず、
大勢が決した頃、一人函館へ!
誰かが!仕組んだのでは ないだろうか?
幕軍を分散させ、戦意を失わせ、潰し易くした!
NHKで放映した”堂々日本史”に拠ると、戊辰時、
勝
海舟が、慶喜に
「必ず、政権に復帰させるから、この場は、江戸へ帰れ」と説得した様だ。
勝は、無血開城後、慶喜の政権復帰を図る行動をしているが、
ポーズのみで、本当は"空"約束だったのではないか?
勝は反乱軍鎮圧の名目で、土方に甲陽鎮撫隊を組織させ、甲州へ出陣させる。
この時、軍用金まで支給し、甲府100万石を与える約束をしたとか。
一方、古屋作左衛門の一隊を、信州中野に出発させ、江戸から送り出した。
江戸に残った者で、気骨のあるのは彰義隊しかいなかった。
無血開城をスムースにするための処置なんだろうけど、
江戸で、幕軍を中心とする東軍、薩長土肥を中心とする西軍が激突すれば、
双方の被害が大きく、江戸が焦土と化す。それは、止めといて〜、
会津を旧時代のシンボルに仕立て上げ、叩き潰し、クーデターの成功を喧伝しよう!
みたいな・・・
駿府での西郷・山岡鉄舟会談/薩摩藩江戸屋敷での西郷・勝会談もあった。
英国パークス公使の干渉もあった。
徳川慶喜、知略家だが、白刃をちらつかせると簡単にビビる性格もあった。
でも、誰かが(勝?)、意図的に、幕府を内部から崩したとしか思えない。
それは、正しい判断であったかもしれない!
余りに大きな内戦になると、西欧帝国主義に、付け入る隙を与えてしまうから!
しかし、会津藩が、仇役・魔女役を一身に引き受ける必要は、無かったろうに!
そして、
榎本武揚
(33歳)! 君は、一体??!
1.4月11日(無血開城の日)、海軍副総裁・榎本武揚に率いられた幕府軍艦7艦が
品川沖から館山
(千葉県)
に脱走。しかし新政府から軍艦取り扱いを委任された
勝
は、「新政府に渡すのは一部(4艦)である。脱走したままでは
宗家の処分に悪影響が出る」と説得。榎本はこれに応じる。
(軍艦に関しては、「
風色倶楽部
」の”
軍艦の部屋
”が詳しいです。)
2. 6月3日頃、榎本は、勝に「仙台・米沢藩と協力する意思あり」と報告・相談した。
(おそらく榎本の意思でなく、隊員の意思であろう!)
勝
は、
「東国には人材がいない。東北諸藩は、大国と人衆を頼みとしているだけで、
策略も甚だ疎である。しかも、会津藩は忠あるに似て実はそうではなく、
徳川氏が今日の状態になったのは、
会津藩のために誤った
ためである。」
等、朝敵会津と伴に戦うのは、徳川家や榎本に不利になると説得した。
ひど過ぎないか〜!
会津藩は、幕府・朝廷のため無理して京都の治安に当たってたのに!
3. 奥羽越同盟による新潟港制圧が危うくなる頃、同盟の再三の出動要請に対し、
協力を約束するが、「宗家の処遇を確かめるまでは江戸湾を離れられない」
等と言訳して、動かない。
(勝の説得も効いて、すでに、朝敵会津には組せず、北海道で、自分が、
それなりのポストで生きる枠を確保する事 しか考えてなかったのでは?)
4. 時既に遅い頃(8月19日
夜
)、徳川宗家が約束の駿府80万石に入ったのを見て、
幕府海軍を率いて逃走した。しかし、出発後間もなく、咸臨丸が座礁。
暗礁脱出に手間取り、翌21日、南房総を迂回する頃は、台風の真っ只中。
23日、美賀保(艦)は遭難。咸臨丸は静岡沖に流され新政府軍に襲われる。
この時、新政府宛に
「
現在の王制は、一部の藩の独見・私意に拠っている。
その役人は無頼・傲慢に政務を行い、退庁後は酒色やりたい放題である。
北海道への移住は、その開拓と伴に、現政府に反省を求め、平和裏に皇国を
発展させる目的である。
」
という要旨の大挙告文を残した。
(
最初から、独立国を作る気も、奥羽越同盟と共に戦う気も、なかった!
)
5. 榎本の乗った最新鋭・開陽丸は、8月26日石巻着。回天(艦)が仙台沖に着いた
のは9月18日だった。仙台藩は15日既に政府軍に降伏した。10月16日、
奥羽戦争生き残りの徹底抗戦派の兵を乗せ、函館に向かった。
(
2ヶ月弱も・・・。その兵で、会津篭城戦、西軍を外側から叩けよ!
)
(
って言うか、美濃高須松平家・容保君!君は!友軍で西軍を外から叩くとか〜、
自滅するつもりなら、家臣領民を犠牲にせず、自分の首を差し出すとか〜・・?
)
この時も榎本は、明治政府に建言書(告文ではない!)を、送っている。
「
徳川脱藩士の手で蝦夷地を開拓し、あわせて北門の警備に着き、皇国に忠勤を
遂げたい。蝦夷地を徳川家の御領に願いたい。
」
と、非難は止め、お願い調だ。
6. 10月20日、最初から
(上陸時?)
戦闘になるのを避け、鷲ノ木(
函館の真北
40km)に
上陸。一応「蝦夷地は、以前より徳川家が
(本当は榎本が)
、同家に預けるよう
朝廷に願い出してたけど、素直に、くれないなら戦うぞ」と布告した後、南下、
五稜郭の新政府軍
(と言っても、内容は、戦い慣れてない近隣の諸藩)
を撃破、
26日には、運上所・台場に日の丸を掲げた。
榎本は、イギリスの外交官と11月9日交渉、「われわれ(列強)は日本の内紛に
不干渉であるが、英人、仏人の生命、財産の保護問題に限って、徳川脱藩
家臣団を交渉相手として承認する。」と言う局外不干渉・部分的承認を得た。
しかし、11月15日、海から江差を攻撃した旗艦・開陽丸が
(天候等のせいもあり)
浅瀬に乗り上げやがて沈没。これを救いに行った神早丸も座礁し放棄。
何やってんだか〜?
そんな事もあって、12月28日には、局外不干渉撤廃を布告されてしまう。
7. 上陸後、一ケ月で、蝦夷地を制圧し行政機構を作った。榎本は、新政府に、
嘆願書を送った。「蝦夷地の開発・北辺警備のため上陸、お沙汰を待って
たが、賊と呼び夜襲をかけて来たので戦争になった。函館府の知事が引き
払ってしまって治安が乱れたため、我々が支配した。しかし、
目的は、皇国の
ため働く事であり、我々の主長として徳川の係累者を、遣わしていただければ
、
発奮して仕事ができる。我々を憐れんで下さるよう御願いします。」
(ふ〜む、色々言訳考えるね〜!しかも、土下座調になった。)
春を待って、新政府軍は行動開始、
(幕府が注文し、幕府が崩壊したため新政府軍が
受け取った
甲鉄船)ウォールストーンを含む新政府軍艦隊は宮古に寄港した。
榎本軍は、フランス軍事教官に接舷攻撃の指導を受け、甲鉄船奪回のため、
3月20宮古に向かう。しかし、22日夜より暴風雨となり2隻を失い、回天1隻のみで
甲鉄船に接舷するも、回天の甲板が甲鉄船より3M高く、乗り移れず敗走。
(
あ〜何だか?
)
8. 彼は捕虜を丁重に扱い、自分の能力を吹き込み、戦況が不利と判断すると
(
抗戦派が死に切った頃?
)、新政府軍の全捕虜を返した。その捕虜の中の
田島という男は、新政府軍の総指揮官・黒田の側近だった。
彼が、榎本の行いや海外の知識・能力を黒田に話した。
それで、新政府軍の黒田は、休戦を申し込み、榎本と黒田の親交が深まった。
・・って、既に、新政府に、自分の能力を宣伝し、また、おもねているんじゃ〜?
9. 榎本は、在獄3年の後、黒田清隆の救解運動で復活、ロシアでの特命全権公使・・
歴代内閣の大臣を勤務め、大きな功績を残している。
海外経験があり語学に堪能であり、彼の能力は認めざるを得ない。
しかし、榎本君!、戊辰時、君は、本当は何を目指していたんだ〜!
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