このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


京都守護職時代の会津藩の悩み

このページは、主に、星亮一著「幕末の会津藩」の要約です。


京都守護職拝命は、名誉な事であるが、
会津藩は、これを嬉々として受けていた訳ではない!
悩んで、悩んで、
逃げ出そうとしたけど、逃げ切れず、
薩長の宿命の仇敵になり、やがて意趣返しされる事を自覚しながら、
それに備える余力が無かった!

年表は、 HP「梅薫夜風」の"松平容保公伝" が、丁寧で詳しいです。
事の起こりは、1862(文久2年)島津久光が、勅命を得て幕府改革を迫った事に
 よる。これにより、家門の筆頭である松平春嶽の政治総裁職、一橋慶喜の将軍
 後見職が誕生した。京都守護職には松平容保が急浮上し、
 7月、その旨が、会津藩江戸屋敷に伝えられた。

 この時、容保は、(前年10月、妻の敏姫を亡くし)体調を崩し、臥せていた。
 その後も、心労で?、寝込む日が多かった


当初、容保・重臣達は、再三、「荷が重過ぎる」と辞退した
 しかし、松平春嶽が、藩祖保科・その家訓やその父の2代将軍秀忠の名を挙げ、
 容保に受諾させた。

 これを知った国家老の西郷頼母・田中土佐が、江戸に上り「最近の情勢は、幕府
 に不利で、会津がその任を負うのは、薪を負って火を救おうとするようなもので、
 労多く功がない」と
説得した。しかし容保は、「もう辞退できない」と答えた

先発隊として、秋月悌次郎、広沢安任が公用方(外渉・事務方)として京に向かっ
 た。
二人とも下級武士ながら俊英だ。詳しくは” 会津藩士のその後 ”に!、ブラウザで戻って
同年12月24日、容保が 1000 ( or 800)の兵を率いて、老中 横山主税(60歳)・
 田中土佐とともに、京都の黒谷金戒光明寺に入り、本陣と定めた。
 翌年早々に、同地に公用局が設置された。


1863(文久3年)
 京では、容保らは、公家とも親交を深め、その待遇(石高)の改善に尽力、
 次第に朝廷・公家の信任を得て行った。

 当時、幕府は(やむを得ず)開国、朝廷(及び長州・土佐等の志士)は攘夷であった。
 会津藩は、将軍・家茂が上洛し、孝明天皇と話し合うべきと考えた。

 3月4日、将軍家茂が上洛、二条城に入った。 しかし、
  攘夷側の攻勢が強く、3月11日に、攘夷成功祈願の賀茂神社行幸に同行したり、
  ”5月10日を攘夷実行の日”と、約束させられたりしてしまった。

 6月、幕府は、劣勢を挽回し、過激派を一掃せんと、老中・小笠原以下、洋銃装備した
  1600の軍隊を大阪に送った。(慶喜は、一緒に行くと言ったのに、前日、病気と偽り、
  乗船拒否。)会津藩は、この事を事前に知らされていなかった。京の治安を守る
  守護職容保は、公容人・小野を大阪に向かわせ、小笠原の京入りを阻止すべく
  折衝し、結局、(軟禁状態の)将軍が江戸に帰る事だけで終わった。

 会津藩・容保にとっては、蜂起を知らされてなかったのは、面白くないが・・・、
 会津藩の気分的主君は、既に、幕府・将軍ではなく、朝廷になっていたのか?

 せっかくの、負担を減らすチャンスを、自らの仲介で、失った。

 7月30日、天覧の馬揃えで、見事な訓練ぶりを披露した。
 8月18日には、薩摩と結び、
8.18の政変(九卿落ちの政変)を成功させた。
 10月9日、これらの事件の功績が評価され、孝明天皇から、御宸翰を賜った。
 12月30日、朝参与を命じられる。

 
年末、現在の京都府庁付近に、新しい京都守護職屋敷等の建設を始めた(1865年
 移転)。(あ〜やる気十分だね〜。田舎藩なれど名門なので、この際、全てを犠牲に
 して、中央政界にデビューしようって感じ?)。
この辺の観光に関して、 こちら こちら

 
 年末、(朝参与に任ぜられた)容保は、、参与会議の設立にも尽力した。
1864年(元治元年)、正月、将軍も上洛した。参与会議も開かれたが、慶喜の
 会議潰しで、3月9日完全に瓦解する。久光・容堂は、また帰国してしまう。

 2月15日邪魔者を追い出した慶喜は、将軍後見職を辞し、新たに朝廷から、
 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた。
容保も京都守護職を辞し
 
軍事総裁職(幕府の陸海軍の統括。突然朝廷が任命したって実行は・・?)に就いた。
 守護職には、松平春嶽が回った。


 その気があれば、一応、守護職から逃げるチャンスではあったが?

 この頃(2月)、秋月悌次郎(8.18の政変を成功させ薩長の事情に通じていた)が、
 
母の病気見舞いという事で、会津に返された。
 
(守護職時代当初から、下級武士出身と言う事で、藩内には、秋月批判があった。)

 しかし、容保を頼りにする孝明天皇は、容保に感謝の意の御宸翰(〆て115通に及ぶ
 らしい)
を遣わした。(ん〜逃げづらいかね〜。)

 幕府は、この人事に反発し、他にも揉め事が多かった。このため、新選組等から、
 守護職は、やっぱり会津だという声が出た。機敏な春嶽はさっさと辞表を提出した。
 4月、容保は守護職に復職を命じられた。


 正月頃より、容保の体調は、悪化していた。将軍も何度も見舞いを遣わした。
 容保は自ら軍事総裁職辞任を申し出、守護職に復帰するや、これも辞任の意を
 将軍に伝えたが、「
治癒回復を待って事をみるべし」だった。

 会津藩公用局内にはこんな事を続けたら国が滅びるという不安感があった。
 その後も何度か辞意を漏らしたが、幕府の回答は同じだった。


 6月5日池田屋事件、7月18日禁門の変とそれに続く第一次長征。
  長州の会津に対する恨みは、ますます大きくなる。

 幕府内では、禁門の変後、外国事情にも通じてた勘定奉行 小栗忠順
(ただまさ)が、
 勝海舟(薩長を含む海軍を構想)との論戦に勝ち、新フランス公使ロッシェの支援を
 受けながら幕軍の改革を行った。
  また、朝廷ではなく、将軍をトップとする「大君制絶対主義」を打ち出した。


 
1865年(慶応元年) *逆転の予感!?*
 この年、会津藩の新・京都守護職屋敷が完成し移転した。
 この年、京で、大きな事件は無かったが・・・・・・

 年初め、(一橋・会津・桑名は朝廷寄り と考えていた)幕府が、動いた。

 老中・松前から容保に密書が届いた。「老中 本庄宗秀・阿部正外が、兵4大隊を
 率いて上洛、慶喜・容保・定敬の三人を江戸へ帰し、京都は幕府が直接統治する、
 と決めた。」と言う内容であった。

 2月、上洛した本庄と阿部は、関白と容保に詰問され、引き下がってしまった。
 
→密書が来ていたなら、事前に本庄らと話し合い、上手く会津に帰れたじゃないか!
 本庄らは、家柄よく老中とはいえ、小藩である。一方、会津は大藩で、容保は天皇と
 直の関係である。発言力も強かったろう。何をぬかすか的気分だったのか?

 cf.本庄宗秀:丹後=京都府日本海側・宮津藩 7 万石・浜松松平(本庄)系。
   阿部正外:徳川家康時代の奉行衆の系列、武蔵忍藩より白河藩へ。
    白河藩 10 万石=福島県中央南部・奥州鎮撫の要、譜代が頻繁に入れ替わる。
    戊辰時は天領、桑名氏も一時いた。
   両藩の詳しくは こちらこちら (どちらも同じHPです。凄い情報量!)


 一方、長州は挙藩軍事体制を敷き、竜馬の亀山社中の斡旋で、7月、薩摩の小松
 帯刀と会見し、「開国勤皇」を確認、薩摩藩経由で、銃・軍艦等を購入していた。

 会津藩公用局は、こうした情報も刻々入手していた。会津藩本庁へは、”長州藩との
 軍事力の差はつくばかりで、幕府より御免の上、早々に帰国の決心をすべし”等の
 手紙が頻回に送られた。
特に京都在住の家老 田中土佐や神保内蔵助は、強く
 守護職辞任を主張した
。また、銃・大砲、兵書等の購入も、頻回に要請したが、
 (既に会津藩は、毎年10万両の赤字財政で、)要請には答えられなかった。

1866年(慶応2年) *完全逆転の年??*
 幕府の第二次長征は、老中小笠原率いる幕府軍が、小倉口で早々と破れ、失敗
 しつつあった。 7月、この戦いの督戦のため大阪に下った家茂が逝去した。

 この頃、時代が倒幕に傾きつつあるのを察知した 岩倉具視
  (1862年、和宮の降嫁に尽力する等、公武一和を推進したが、尊王攘夷派から、命を狙われた為、
   辞職し、岩倉村に蟄居した。蟄居中、竜馬や志士達とも話し、討幕派に傾いた。)
 は、薩摩の西郷や大久保に接触し、政治の舞台に姿を現して来た。
  
 容保は、さらに体調を崩し、気力が萎え、幕府に辞職を願い出るが、またも、老中板倉
 等より「容保は朝廷から厚い信頼を得ており、その進退は幕府のみでは決められない」
 等と、却下された。

 12月 5日、徳川慶喜、正式に第十五代将軍に就任。
 12月25日、孝明天皇、御崩御! 長州征伐は中止となる。
1867年(慶応3年)
 正月27日、孝明天皇の大葬が行われた。この日、過激派が慶喜や容保を襲うという
 噂があり、慶喜は得意の逃げの手で参列しなかった。容保は参列し、会津藩兵全員が
 警護にあたった。

 2月12日、大葬が終わると、容保は幕府に辞表を提出した。しかし、公用局員まで、
 老中板倉に呼び出され、思い留まるよう説得された。今回は、なおも「国元の心配」等
 を挙げ辞意を伝えた。

 この時は、幕府も、会津寄りの中川宮も、一応、辞意を認めたが、
 幕府からは「容保を、僻在の会津から、駿府に移すのでしばらく待て」と、朝廷からは、
 ”明治幼帝の意思”で?「今までの功を認め、参議に任じる」と引きとめ策がなされた。
 容保は感涙した。しかし、尚、藩内には、帰国すべきとの声が強かった。

 最後は、慶喜の(もう、慶喜のずるさは知り尽くしたろうに!)、「宗家と盛衰を共にして
 ほしい。」と言う頼み等で、またも、京都に留まる事になった。

 会津藩も、青年家老 梶原兵馬を中心に、本腰を入れて軍備の充実に乗り出した。
 しかし、時すでに遅く、

 12月9日、王政復古の大号令、
1868年(慶応4年、戊辰元年)、1月3日、鳥羽伏見の戦いが起き(これも、一旦退いたん
 だから、もう戦わなくて良いのに、容保も藩士も、やる気十分だったようだ。



 戊辰戦争が始まった。
 
  


”会津の歴史(幕末)”に戻る?

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください