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*尾張徳川家支藩・美濃高須松平家*
美濃高須松平家(3万石)の成立には、実は、会津藩が関係しています。 蒲生秀行時代及びその幼少な嫡男の時代、重臣だった(どちらかと言うと、思うまま にしていた。そして、秀行婦人の父である家康に斬罪にされた)岡 重正の孫娘、”お振”が、 その人です。 "お振"は、3代将軍家光の寵愛を受けて、一人の娘を産みました。その娘が、尾張 徳川家に嫁ぎ、2人の男子を産みました。そのうちの一人は、尾張徳川家を継ぎ、 もう一人は、分家し美濃高須松平家を興しました。(詳しくは、 こちら 等) 高須松平家は、9代を、水戸徳川家から迎え(詳しくは、 こちら1 等)、岡とは血縁 はありません。小藩ながら、家格は高く、尾張宗家の城主にも数人なってます。 容保は、10代義建の7男(6男との記載多いが、 こちら2 に依れば、夭折した人を入れて 7男、入れないと5男)として生まれました。実は、養父・容敬も高須の出で、義健の 異母兄弟でした。そんな訳で、容保は、会津藩の養子に招かれました。 すぐ下の、異母弟、定敬は、伊勢・桑名松平家の養子になり、鳥羽伏見、奥羽 戦争を、容保と伴に戦い、五稜郭でも戦っています。 |
**会津藩士のその後**
降伏後の会津藩士は、各地で謹慎していました。 明治2年(1869)、容保に実子 容大(かたはる)が生まれ、家名最興が許され、 明治3年(1870)4月、斗南藩(下北半島南部)が与えられました。 総勢1万7千人が、移住しました。 しかし、斗南は、不毛に近く、実質上の島流しで、藩士達は、寒さと飢えに 耐え、慣れない百姓仕事や、北海道へ漁業の出稼ぎをして、しのぎました。 しかし、何と、 翌明治4年7月、廃藩置県となり、その地に残る者もいましたが、 多くは会津に帰りました。官吏や教員に採用された者は良いのですが、 その他は、いわゆる武士の商法か?生活は苦しく、 安積の開墾地、北海道(会津町)、アメリカ合衆国(サクラメント)等の 新天地で、それぞれの生活を始めました。 | |
個別的、それぞれの その後 | |
1.松平容保一族の場合 容保は、斗南藩移住後、明治5年謹慎を解かれ、主に東京に住みました。 明治13年、長尾らが奔走し、(松平家庭園の)御薬園を政府より買い戻し、 容保に与えられました。容保は、数年間、家族と伴に、御薬園に住みましたが、 庭園管理が大変なため、これを市に寄付し、東京・大久保に戻りました。 明治政府より、子爵を与えられ、東照宮宮司(非常勤)に就き、無言のまま、 明治26年、59歳で病没しました。傍らには、(一時、一部?西郷頼母が預かっていた) 孝明天皇から賜った宸翰(しんかん)(親書)がありました。 長男広大は華族に任じられ、陸軍に、七男保男は海軍に、ある程度の 地位で迎えられたようです。次男健雄は分家し、会津高田町の伊佐須美 神社の宮司になりました。建雄の次男が、福島県知事松平勇雄です。 六男恒雄は、外交官となり、その娘が、秩父の宮に嫁いだ勢津子妃です。 | |
2.江戸詰家老西郷頼母の場合 塾で漢学を教えたり、各地の神社の宮司になったりしてた様です。 武家屋敷のHP が詳しいです。(ブラウザで戻って来て!) | |
3.青年家老山川大蔵(おおくら)(後の浩)の場合 祖父は勘定奉行、父が早く他界したため、家を継ぎ、青年家老として、 戊辰を指揮。斗南藩時代は、大参事(藩主・知事の容大を補佐、実質的な知事) として、藩の運営にあたる。 廃藩置県後、一時失職するも、明治10年、西南戦争の参謀となり、さらに 高師校長・貴族院議員・陸軍少将を歴任。「京都守護職始末」を著す。 苦しい家計の中、東京の屋敷に、多数の会津藩士の学僕を住まわせた。 こちら や こちら 等。 妹に山川捨松(津田梅子の友人、薩摩出身の陸軍中将 大山巌と結婚、鹿鳴館の華、 こちら )、弟に、山川健次郎(後述)がいる。 | |
4. 家老神保修理、国家老萱野権兵衛の場合 神保修理は、京都守護職時代、軍事奉行添役として従事した。 恭順派のため、徹底抗戦派の重臣の意見に推された容保に、鳥羽伏見の 敗戦の責任を負う名目で切 腹させられた。以後会津藩は徹底抗戦に傾いた。 「7年史」を記した北原雅長(後述)は、彼の弟。 萱野権兵衛は、京都守護職時代、国家老だった。戊辰の敗戦処理時は、 藩主父子の助命嘆願に尽力した。その結果、「家老 田中土佐、本陣家老 神保 内蔵助(修理の父)(伴に、容保京都守護職時代に京に赴任し諸藩の状況も認識していた。 戊辰会津戦争時、六日町口が破られた際に切腹)、家老 萱野権兵衛」が戦争責任者と なり、生き残った萱野が、首謀者として明治2年切腹した。 二人の墓は、興禅寺(米沢・上杉菩提寺):東京都港区白金に並んである。 萱野の墓は会津の天寧寺にもある。 | |
4’. 郡(こおり)長政(萱野権兵衛の子)の場合 十三歳で、鶴ヶ城篭城戦に加わり、十四歳時、父が斬刑に処された旨、通知 される。萱野家は家名を奪われ、母方の祖先の姓の郡に改めた。 豊前豊津・小笠原藩(旧小倉藩)(大昔、小笠原長時が、信州深志の城を追われた時、 会津の芦名家に(室町時代?!)世話になったから、会津藩に親切だった) の藩校育徳館から、「10名程度なら、会津藩の子弟を預かっても良い」という 申し出があった。 (長州藩・奥平謙輔が、これを伝えた)。 長正は、他6人と共に、これに参加した。長正は文武共に優れていた。2年目の 春、長政は、東京の松平邸に寄寓している母宛の手紙の追伸に、「こちらの食べ 物は粗食でまずい」と書いた。この手紙を落とし、藩校生に読まれてしまった。 長正は、藩校生に「食客の分際で食べ物の不満を言うとは何事か」 「会津藩の武士道とは食べ物の事か」となじられた。 藩校生の騒ぎは治まらなかった。長正は、会津藩の名誉を守るため、 明治4年5月1日夜、同じ会津藩からの留学生、神保岩之助の介錯で、 切腹。十六歳の生涯を閉じた。 | |
5. 猛将佐川官兵衛の場合 斗南から会津に帰った後、暫く閑職に甘んじていたが、明治7年、旧会津藩士 300人を引き連れ警視庁に就職、西南戦争で討ち死にした。 詳しくは、当HP・ 明治の頁 、 *鬼官兵衛の最後* 等 (ブラウザで戻って!) | |
6. 山川健次郎 、 山本覚馬 、 日下義雄 、 北原雅長 らの場合 落城の頃等に、薩長の世話になり、業績を残している(北原は日下に)。 詳しくは、当HP・” 会津の有名人 ”の各項参照!(ブラウザで戻って!) 山川健次郎 :長州人奥平を頼り会津脱出。東京大学総長。 兄は山川大蔵、姉は、”鹿鳴館の華”と呼ばれた山川(大山)捨松。 山本覚馬 :薩摩の牢中での書簡が薩摩や岩倉に認められ、京都府議会初代議長。 妹は、篭城戦(北出丸攻防、西軍砲台への砲撃)で活躍し、新島襄と結婚した八重。 日下義雄 :長州藩士日下家の養子となる。長崎県知事。 北原雅長 :(鳥羽伏見の責任を取って切腹した神保修理の弟) 端役の公務員だったが、日下に登用され長崎市長。市の上水道を完成さす。 | |
7. 藩公用人広沢安任(やすとう)、秋月悌次郎(ていじろう)の場合 二人とも、下級武士の出だが、幕府の昌平黌を優秀な成績で卒業した。 容保守護職就任時は、公用方(事務方)の先発隊とし、京に向かった。 広沢は、京に行く直前、糟谷筑後の守に同行し、箱館に行き、ロシアとの国境 交渉に臨んでいる。この帰りに下北を通って帰藩した。 実は!家名再興の地に、猪苗代か、南部藩から取り上げた陸奥(斗南)かを 選ぶ際、下北を通って帰藩した広沢が、 「猪苗代は狭く、旧領地であり、権威が落ちた現在治めきれない、陸奥の国 広大にして、開発の望みあり」と、陸奥を勧めた。 斗南藩では、山川大蔵を補佐し、皆が斗南藩を去った後も、外人技師を招き 牧場を経営、日本の洋式牧場の草分けとなった。 こちら 等 秋月悌次郎は、守護職時代、薩摩藩・高崎と結び、8.18の政変を成功させた。 しかし、下級武士の出だった為か、やがて、北海道に左遷される。 (もう少し詳しくは、「会津の歴史・幕末編」の” 守護職時代の会津藩の悩み ”を御参照ください。) 戊辰戦争では軍事奉行添役として越後方面に出陣、開城時には米沢へ手代木 勝任と共に降伏の使者にたち、禁固され明治5年赦免となった。その後、 各高等学校の教職に就き、明治28年熊本第五高等学校を最後に退職した。 五高時代の同僚にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいる。 | |
8. 上席藩士柴 一族の場合 その一人 柴五郎は、小学校高学年頃、斗南に移住、やがて上京し、新政府 要人や、会津藩出身の方の所で、下僕・学僕をしながら、(陸軍幼年学校の前身) 陸軍幼年生徒隊に入学。北清事変での沈着な行動は、諸外国の賞賛を受け、 後に陸軍大将となった。 柴五郎の、少年期を記した遺書的自伝「ある明治人の記録」は、少年の素直 な感性で時代を見つめた名著です。五郎に関し こちら 、一族にに関し こちら 。 | |
9. 白虎隊士飯沼貞吉、白虎隊士酒井峰治の場合 飯沼貞吉:貞夫と改名し、工部省技術教場に入所。逓信省に電気技師として 勤務。日清戦j時、ソウルー釜山間(通信)電線工事を担当した時、危険なの で、ピストルを携行するよう助言されたが、「私は白虎隊で死んでるはずの 人間です」と笑って答え、携行しなかった。札幌大火災後の復旧等に貢献す。 仙台逓信局工務部長で終わった。墓所は仙台・輪王時にあるが、 遺言により飯盛山にも墓碑が建てられた。 酒井峰治:若松市内で精米業。M38年に北海道紋別郡で牧畜業を手伝う。 後に旭川に移り、精米業をふたたび営む。 | |
10.そして、会津若松市民! 武士ばかりが、注目されますが、戊辰後、西軍に踏み荒らされ焦土と化した 若松市を復興させたのは、商人を中心とする若松市民です。お忘れなく! |
**会津の薩長(とくに長州)への恨み**
会津の長州に対する恨みは、明治天皇即位に始まります。 孝明天皇時、会津は、幕府の懐刀であると同時に、 天皇からも厚い信頼を得ていました。 ところが、孝明天皇の御崩御(毒殺?)後、薩長が擁する明治天皇が即位すると、 会津は、 ”朝敵”扱いとなりました。これが、恨みの始めです。 次ぎは、和平交渉には全く応じなかった事。 そして、戊辰・会津戦争です。 老若男女を問わず殺し、 ”分捕り”と名付けて、農工商を問わず土蔵の財産を全て奪い、 市井人の妻娘を捕らえて妾にしたり、強姦したり・・。 戦いの常とは言え、近代国家を謳う軍隊にしては、酷く、やりたい放題でした。 これを見ていた人々は、薩長を恨み、長くこの話を伝えたものと、 思われます。 (この”分捕り”は、福島県中通り地方の、人夫として使われた農民も、 賃金代わりに参加した、という話も伝わっていますが。) さらに、当時、殆ど不毛の地、斗南藩に流されて、辛酸をなめました。 廃藩置県後も、薩長の政敵会津は、 大正時代まで賊軍として、いわれなき差別を受けました。 後述しますが、国立の高校・高専校も、 設置されませんでした。 薩摩には、西南の役で、少し仕返ししたので、やや、許せるものがあったとして、 長州に対しては、長く恨み を持つ事になった訳です。 (実は、会津藩は、8.18の政変、池田屋騒動、蛤御門の変、第一次長州征伐等、 何度も、(頑迷な攘夷論を唱える)長州藩を叩いています。 黒船を見ただけの容保や、見た事もない容保の重臣達と、実際に四カ国連合の 攻撃を受けた長州では、反省・自己改革の深さが違った、とも思えますが?) (さらに、第二次世界大戦・太平洋戦争の時、仙台の師団長が山口県出身で、 会津や九州の兵は、激戦地に回された。そのため、犠牲が多かった。 と、新たな長州への恨みの種を見つける古老も、まだ、会津には居ます。) |
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