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1. 孝明天皇毒殺説の根拠
2. 薩摩藩の豹変と、斉彬・久光/家茂・慶喜の跡目争い 3.長州藩の変化 4. 西軍の捨石・”赤報隊” 5. その頃(戊辰開戦時)の若松城下 |
1. 孝明天皇毒殺説の根拠
毒殺説は、 当時イギリスの公使館員(通訳、日本の血縁は無さそう)だったアーネスト・サトウが、 「風評では(帝の)崩御の原因は天然痘だといわれいた。しかし数年後、裏面の 消息に精通する日本人から、帝は確かに毒殺された、教えられた。 帝は断固として、外国人に対するいかなる譲歩にも、絶対反対を唱えられた。 そのために、やがて幕府が没落すれば、やむなく、朝廷が、西洋諸国と直接に 関係交渉しなければならなくなるのを予見した人々の手にかかったのだ。」 と、記している事をはじめ・・ (『遠い崖ーアーネスト・サトウの日記抄』朝日新聞社/”幕末の会津藩”より孫引き) アーネスト・サトウに関しては、 こちら :この時代の人物一般も詳しいです。 十津川役場が、昭和36年に刊行した「十津川の民俗」の中に、「母の名残の 言葉」という口述筆記があり、1847年生まれの記憶力の強靭な「千葉とく」と いう老女が、そのころ御所の番に出ていた4人の縁者から聞いた話として、 孝明天皇の朝食に毒が入っていたことを語り伝えている。 − 司馬遼太郎著「十津川街道」 また、天皇の主治医・伊良子光順の日記が、子孫の伊良子光孝氏により公表 された。これに拠ると、後崩御の直前に、急性毒物中毒の症状(出血疹等)が 出現していた。 (”戊辰戦争”、”幕末の会津藩”より孫引き) 等を論拠としています。 一方、それ(出血疹等)は、出血性痘瘡と言う状態だったとの反論もあります。 門外漢には解りかねますが、そうなるなら一気に行きそうで、一旦持ち直して からと言うのは・・・・? 実行犯は、岩倉具視の女官だろう、と言う説が有力です。 |
2. 薩摩藩の豹変と、
斉彬・久光/家茂・慶喜の跡目争い
公武合体派だった薩摩藩が、突然、討幕派に豹変!どういう訳? どうして外様の薩摩が、将軍の跡目に口を出したり、禁裏警備にあたったの? これを語ると、長くなり、本HPのサブ・テーマから離れるが、要約してみよう。 これを、語るには、88歳まで長生きし、薩摩を実質支配し続けた、怪物、 島津重豪(しげひで)(1745〜1833)から始めなければならない。 彼は、前老中田沼意次の政治方針をとり、シーボルトを江戸に迎え、ヨーロッパ 文明の輸入に努め、殖産興業、航海貿易開発に努めた。 また、三女篤姫を、近衛家の養子にした後、将軍家斉(いえなり)の室とし、朝廷 や幕府への発言権を強めた。しかし、藩の改革や公家・幕府との付き合い、 ”西洋かぶれ”や奢侈な生活で、大商人に、多額の借金を作った。 (薩摩の士風は、この頃、崩れたと言われている。) 1787年、重豪は、藩主の座を、借金と伴に、その子家宣に譲りった。しかし、 重豪は、相変わらずの生活で、藩の実権も握り続けた。家宣は、秩父太郎 を重用し、倹約に努めた。 家宣は、重豪にも倹約を勧め、琉球貿易の利益を一般会計に回そうとしたが、 重豪は激怒、秩父を切腹させ、家宣を隠居させ、孫の家興を藩主にし、勘定方 には調所(ずしょ)笑左右ェ門広郷(ひろさと)を登用した(1824)。この時、薩摩 の借金は500万両に達していたが、調所は、中国との密貿易等で、借金を返済 し、さらに、250万両の貯金を蓄えた。この辺の詳しくは、 こちら や こちら 。 島津斉彬(なりあきら)(1809〜1858)は、25歳まで、曽祖父重豪に開明教育を 受けて育った。世子時代より、英明の誉高く、水戸藩主となった徳川斉昭 (なりあき)や、福井藩主となった松平慶永(よしなが)(春嶽)、幕府老中となった 阿部正弘らとも交わりが深かった。 父、斉興は、重豪に教育された長子 斉彬を嫌っていた。しかし重豪は、斉興 が斉彬を跡継ぎにしないことを見越し、斉彬が跡を継ぐ手続きを全て済ませて 幕府の承認まで取っていた。調所は、斉彬が跡を継げば重豪の様に数年で 貯金を使い切るだろうと考え、国元の側室の子 久光擁立を働き掛けた (お由良騒動)。 後継ぎは、久光に落ち着きそうだった。しかし、斉彬は、調所が密貿易して いる事を、友人で幕府老中の阿部正弘に密告した。 幕府は調所を取り調べ、調所は自殺、斉興は隠居し、 1851年、斉彬は藩主の座に着いた。 藩主になると、開国貿易を唱え、集成館を設け、反射炉やガラス工芸産業・大砲 ・蒸気船など富国強兵を進めた。人材では西郷隆盛・黒田清隆・大山巌・大久保一 蔵を抜擢。色々の改革で、財政は苦しく、”幕府には貿易の都合上、琉球通宝を 造る”と偽り、偽金・天保通宝を造っていたのだった。その額年間100万両( こちら ) 公武合体を実現するため、松平春嶽らと図り、友人の水戸徳川斉昭の七男で、 一橋家を相続した慶喜を将軍に推した。が、将軍は、井伊直弼らの推薦する、 和歌山藩主徳川慶福(家茂)になった。これに対して、斉彬は挙兵し上洛しようと するも(既に、幕府に勝てる自信有り?)、途中でコレラを患い( こちら )他界した。 cf.和宮が降嫁したのは家茂 島津久光(1817-1887) 斉彬の死後、その遺命により、久光の子 忠義が継いだ。久光は藩主の父として 藩の実権を握った.。久光は、幕政改革に関しては、斉彬の方針を踏襲したが、 基本的考え方は古く、斉彬の懐刀・西郷隆盛には逆らわれていた。 1862年、斉彬の幕政改革を引き継ぐべく、最新式鉄砲軍備の薩摩兵1000名を 率いて上洛し、4月寺田屋で(薩摩藩士を含む)攘夷の志士を弾圧した。 これらにより、朝廷の信任を得、幕政改革に関する勅書を獲得した。 大原勅使と伴に、6月江戸入りし、幕府に改革を迫った。 一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永(春嶽)の政治総裁職就任を認めさせた。 (この時、容保は京都守護職に推薦され、任じられた。) 8月、帰洛時、生麦村で外国人を無礼討ちにした(生麦事件)。これが薩英戦争 の原因になった。詳しくは こちら (詳し過ぎ?)。京では、長州が影響力を強めていた が、薩英戦争の可能性が高くなり、京に長く滞在せず、薩摩に帰った。 1863年4月、薩英戦争で、形式上(実際は軍事力の差を見せつけられた)攘夷を 実践した形となった。近衛卿等の誘いで、10月(8.18の政変の2ヶ月弱後)、兵 (1万5千と言う説もあるが、それは噂で、実際は、その1/10と言う説もあり)を 率い再び上洛、叙位任官を果たす。 しかし、8.18の政変で、佐幕派・会津藩と提携した事により、薩摩藩への改革派 志士達の信頼は落ちていた。その為、一度は島流しにした西郷を、京に呼び、 軍の最高司令官に任命せざるを得なかった。 朝廷から参与に任じられ、翌年1月から開催された参与会議に参加するも (本当は久光が画策)、慶喜に会議を潰され、3月9日辞任し、京の守りを西郷に 任せ、薩摩に帰った。 この頃より、藩の実質的リーダーは、西郷隆盛・大久保一蔵(利通)達に 移って行った。 大政奉還後の小御所会議(こごしょかいぎ)にも参加した。 明治6年征韓論で分裂した明治政府の補強のため、右大臣に任ぜられ、政界 入りするも、依然、鎖国封建の思想を持ち、受け入れられず、明治9年帰国。 西郷隆盛(1827〜1877) 薩摩藩小姓組(武士の最下級)の子として生まれるも、斉彬に見出され、斉彬の 懐刀として、斉彬の幕府政策等に奔走した。安政の大獄で、大老井伊直弼の 弾圧を受け、奄美大島に潜居していた。 久光の初回上洛時、大久保の進言もあり、呼び戻される。久光の上洛に反対 した上、久光の命の”状況を視察し、下関で待て”を聞かず、大阪まで行った為、 再び、徳之島→沖永良部島への遠島になる。 久光の2回目の上洛後、京での薩摩藩の人気を回復するには西郷が必要との 進言もあり、罪を許され京に呼ばれ、薩摩軍の最高司令官的役に任じられる。 蛤御門の変では、会津軍が長州軍に押されてから、会津に加勢し、その実力を 見せ付けた。 その後、幕府要人・勝海舟とも会見し、「幕府を倒し新しい政治体制を築くべき」 等の話を聞き、討幕の考えが強まったようである。 また、薩摩は、第一次長州討伐軍の総督には一橋慶喜を推薦したが、幕府は、 紀州派の前尾張藩主徳川慶勝を総督に任命した。西郷の討幕の考えが、更に 強まった? 征長幕藩連合軍の首脳として活動した。 竜馬の斡旋による薩長連合後、討幕運動を積極的に進めた。戊辰戦争時 は、征討大総督参謀として、江戸城無血開城をとりつけた。明治維新後、帰藩 し、藩政改革に努めたが、1971年大久保らの誘いで、参議として政界に入る。 しかし、1973年征韓論で大久保と対立、敗れて下野した。 1977年、薩摩藩私学校の生徒の擁され挙兵、士族暴動を起こした(西南の役)。 西郷軍3万(会津戦争時、会津に集結した、会津・幕府軍1万数千より多い!) は、政府軍軍5万(会津藩士も数多く参加した)に破れ、隆盛は城山で自刃。 西南の役、明らかに賊軍ですね。なのに明治政府に、会津のみが賊軍と呼ば れたのは、まだ、明治政府内に大久保や西郷従道(隆盛の弟)等が居たから? 詳しくは西郷隆盛のファンサイトの こちら (詳しい解説だが、ベタ書きで少し読みづらい)。 大久保利通(一蔵)(1830〜1878): わしゃ、苦手なタイプだな〜! 西郷と同じ町内。下級武士の生まれ。斉彬に登用されたが、(西郷と違って) 久光にも重用された。戊辰〜明治政府初期、三条実美、岩倉、西郷、木戸らを 表に立てつつ、その実質的な指導権を次第に手中に収めた。明治初期の改革 を行うと伴に、佐賀の乱〜西南の役に至る反動士族の旗揚げをそそのかし、 各個に、これを撃破し、天皇制支配の基礎を固めた。 しかし、1978年5月、その独裁に対する反感から、不平士族に暗殺された。 冷静な理性と現実的な見通しを備えた政治家とも言える。 (悪く言うと、幕末の極悪・非道・人非人な諸事のシナリオを書いたのは、この方 です。単細胞な私の、最も嫌いなタイプです。詳しくは彼のファン・サイトを!) |
3.**長州藩の変化**
1861年、長州藩世子・毛利定弘は、高杉らを連れ上京、朝議を攘夷に決定させた。 その後も、公家を取り込み、京で主導権を握りつつあった。 (1863年3月、京都では、天皇と将軍家茂の、攘夷成功祈願の賀茂行幸の後、慶喜と容保は、 三条実美らにより、5月10日を攘夷実行の日認めさせられた。) 長州藩では、まだ攘夷が藩論の主流であった。この5月10日、 久坂玄瑞(げんずい)に率いられ下関に集結した兵が、海峡を通ったアメリカ船を 砲撃した(攘夷を実行した)。 6月、長州は、欧州連合艦隊の報復攻撃を受けた。(cf.薩英戦争は7月だった。 その直後、薩摩は英国と結びついたが、長州は、すぐではなかった!) 8.18の政変の後、藩論は3つに分かれていた。すぐに京都に戻り、幕府・会津と 一戦に及ばんとする進発論の久坂玄瑞を中心とするグループ、高杉を中心とする 慎重派、木戸を中心とする反対派である。 翌1864年、6月7日、容保を殺害し、孝明天皇を奪還する為、池田屋に集結した 長土肥の志士達が、新撰組に、一網打尽にされた。 これに悲憤慷慨した長州藩士が、藩主毛利敬親の命の下、続々上京し、 7月18日、蛤御門の変になったが、長州は会津・薩摩軍に撃退された。 7月23日には、幕府は長州征伐の勅命を得、第一次長征が行われた。 西郷の提案で、蛤御門の変の首謀者三老中と四参議を処罰し、恭順の意を 示す事により、さしたる戦闘もなく終決した。 長州藩上層部の不甲斐なさに怒った高杉は、 奇兵隊等を率いて藩庁軍に勝利し、藩論を討幕に一決させた。 |
個々人についても、少し解説します。↓ |
久坂玄瑞(げんずい)(1840−1864) 高杉と並び評される、松下村塾の俊英。攘夷急進派。蛤御門の変で割腹。 松下村塾は、吉田光陰の叔父の小さな私塾で、近隣の農民や下級武士を 教育していた。吉田松蔭は、晩年、そこで、約2年(数ヶ月という説もあり) 教鞭をとった。儒学や、討幕の思想を教えた。開明思想ではない! たまたま、長州の俊英達が集まったようだ。 |
木戸孝允(たかよし、こういん)(はじめ桂小五郎)(1833〜1877)幼少時に桂家の養子となる。 吉田松陰にも学んだが、神田孝平らより蘭学を学ぶ等、早くから開明的方向を 目指した。1862年、藩主や世子を説得、藩主の命により、藩の指導的地位に つき、やがて、藩論を尊攘論から討幕論に導いた。 1866年薩長連合密約を締結し、討幕を推進した。王政復古後は、”五箇条の 御誓文”の修正や、版籍奉還に努力し、天皇絶対主義官僚に成長した。 1974年征韓征台論に強力に反対し、下野した。脳病で45歳で他界した。 |
☆高杉晋作(1839〜1867)★ 尊攘討幕(までで病没した)の志士 長州藩150石の家(中級?)に生まれる。吉田松陰門下、久坂と並ぶ俊才。 1861年、長州藩世子・毛利定弘の小姓として出府、同藩を代表し、朝議を攘夷 に決定させた。 1862年、藩命で幕府の船に便乗し上海を視察、欧米列強の侵略ぶりを目のあた りにし、帰国後、品川のイギリス公使館を焼き打ちにする等、攘夷運動を展開す。 しかし、思想としては、攘夷より討幕の考えが強くなった。 以下の「」は、 こちら より。 「文久3年(1863) 江戸で学習院御用掛の任命を受けた晋作は、3月9日京都に 入った。将軍家茂が上賀茂・下鴨神社へ攘夷祈願のため上洛していた時期だ。 将軍暗殺を思い付き、決死隊を組織したが、失敗に終わった。 学習院御用掛は気にいらず、将軍暗殺も失敗し、頭を丸めて"東行と号した。 1863年、長州藩が下関海峡の外国船を砲撃し、挙藩体外戦を準備するや、 身分家格にかかわらぬ奇兵隊を組織した。 1864年、四国連合艦隊来襲では、狼狽する藩庁に変わり、和議を進めた。 同年、第一回長征で、上層保守派が幕府に屈するの見て、奇兵隊を率い、 藩庁軍を破り、藩の権力を握った。1865〜66年の第二回長征では(薩摩は 既に味方!)総指揮官として、幕府軍に勝利し、藩論を討幕に一決させた。 しかし維新を目前に肺結核を発病、下関で息をひきとった。 |
4. 西軍の捨石・”赤報隊”
・・以下の文は
こちら
からの要約です。・・ 1868/01/03 鳥羽伏見で勝利した直後、西軍は、非公式に、赤報隊を組織した。 赤報隊は、正規軍の東征の前に、情報収集・勤皇誘引する為に作られた、いわば 先鋒ゲリラ隊である。岩倉や西郷より資金援助を受けた。 その内訳は、山科の公家に集まったグループ、新撰組と袂を分ったグループ、 岩倉具視の下に集まったグループ、 薩摩藩が抱えていた浪士で、西郷隆盛の命 により結成された相楽総三 以下のグループ等である。〆て200〜300名だった。 01/11 朝廷より正規の挙兵許可が出た。01/12 農民を取り込む為には、(旧幕府 領の)年貢を半分にする事が必要との建白書を提出した。これが認められ、公布 され、01/15 京都松尾村より出陣した。 美濃まで進んだ頃、京では「赤報隊は、盗賊をしている」等の噂が流れ、帰京する 様命令が出た。相楽の隊は、弁明と伴に独自の関東政策を展開、信州に進んだ。 01/25 他の隊は、四日市で、主だった人が処刑された。 東山道(=中仙道)を、信州に進んだ相楽隊は、「官軍嚮導隊」の旗を掲げ、各地 に分散、”年貢半分”等の話で、職務に励んでいた。 しかし、この”年貢半分”は、米の取り扱いを独占し、薩長へ資金援助していた 大商人の反対で撤回せざるを得なかった。また、戊辰の戦況を見た諸藩は、親藩 尾張藩を始めとして、(西軍の予想以上に)寝返る藩が多く、嚮導隊(赤報隊)の 存在価値は無くなっていた。 東山道総督府執事は、信州諸藩に「嚮導隊はニセ官軍であるあるから取り抑え るように」との、おふれを回した。03/03 嚮導隊の主だった者が処刑・追放された。 赤報隊は、利用できるだけ利用され、不都合になると、賊として切捨てられた 西軍の捨石であった。 詳しくは、 こちら 。 |
5. その頃(戊辰開戦時)の若松城下
その頃(戊辰開戦の頃)、会津軍8千に加えるに、江戸城無血開城を不満とする 幕府軍(大鳥軍2500、衝鋒隊800、旗本御家人数百)や諸藩からの援軍(水戸藩 ・諸生党700、美濃郡上藩凌霜隊45、上総飯野藩森要蔵隊28・・)も会津に結集、 総勢、1万数千の兵力が結集した。 この時の若松の様子を、白虎士中一番隊士 永岡は、「旧夢」のなかで、 ”金や絹や食料を運ぶ荷車・人馬の往来絶える事なく、舶来品も町にあふれ、 役者・相撲・芸人も入れ替り立ち替りやって来た。提灯で明るい街中には、 楽器を弾きながら歌う人、踊る人があふれ、その賑わいは、さながら江戸の 様であった。”と思い起こしています。 若松城下では、”都見たけりゃ此処までござれ、今に会津が江戸になる”等と いう、強気〜状況が解ってない歌も歌われました(流しの歌い手の様な人?)。 これじゃ〜、仇役を押し付けられた容保、 (引く気も無かったろうけど) 引けませんね〜! |
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