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楽ちんかな? 浅草岳(ネズモチ平口) &河井継之助 (2)




登山口の稜線から、主稜線に移るあたりの一部には、
四つん這いにならなければならない様な岩場の急登がある。

そこを登り切ると、一瞬、視界が開け、新潟側の山並みが見える。
足元遠くには、出発地の大駐車場が見える。

登りの後半では、ベンツマーク入りの青紫の実が目立った。
ヘラ状で、細長く、葉柄っぽい所のない葉だった。(ツバメオモト?)

イブキゼリモドキは、登山口から山頂付近まで、
ず〜っと 有った。


 主稜線に出ると、T字路で、右は
 桜曽根口、左は浅草山頂だ。

 (←)新潟側の山並みが見えるが、
   曇りがちで、ハッキリはしない。

浅草山頂も霧に隠されがちだ。

 山頂までの稜線は湿原で、
 木道の周りは、湿原〜高山植物が
 華やかに咲いていた。


 キンコウカ(金光花、金黄花)
 
  黄色の細い花びらが6枚あり、その色と形が、
  金の光を放つ様だと言うのでついた名前。

  湿原の木道から少し離れた所に多い。


ミヤマアキノキリンソウ(深山秋の麒麟草)

 茎の先端に小さな黄色の花をつけ、半球〜
 極短い穂状の花序に咲く。
 総苞(キク科の花の直下にある膨らんだ部分)は
 8〜10mm、背丈は 20〜50cm。花期は 8〜9月。

 平地〜丘に咲くアキノキリンソウは、もっと背が
 高く、総苞は 5〜6mmと小さいが、花序は大きな
 穂状になる。

少し高い所に、咲いていた花・・何だろう?    
ノリウツギが円錐状の花序にならなかった  
だけみたいだ。 




木道の終点近くになると、イワショウブが多くなる。

 イワショウブ(岩菖蒲)

  あれっ!ここの岩菖蒲、紅色が入っているぞ!

 よく見ると、紅色のは種の様だ。  
 しかし、花にも薄紅が入っているのもあったような・・

オヤマリンドウ(御山竜胆)

 背丈 30cm、花の長さ 3cm程?
 タテヤマリンドウより大分大きいが、
 普通のリンドウよりは小さい。

 (天気が曇りもあるが)開いている花は、皆無。
 ほんの少し咲いている花を見つけ、
 上から撮影してみた。

木道の終点は、木道で作った休憩所になっている。
そこからも、(霧が無ければ)田子倉湖がよく見える。



休憩所にザックを置いて、浅草山頂へハイタッチ(数分)。


総 括

今回は、最も短時間で登れそうな、ネズモチ平登山口から登ってみた。
前日、左膝を痛打していた(訳は、話すと長いので、省略) が、
急な登りは短くて、
他人の地図のコースタイム 2時間10分以内で登れた。

主稜線では、ゆっくり、湿地〜高山植物を観察する余裕があった。
でも少し、物足りない。

マゾヒストになってしまったかしら〜ん?


と こ ろ で !

登山口の稜線を登り切ったあたりや主稜線から見える新潟の山々、
その一番低いあたりが、”八十里越”(福島県只見町〜新潟県下田村)だ。
実際は八里だが、辛くて10倍に感じるので付いた名前らしい。

只見町には、新潟県から、2本の街道が入っていた。
一本は、現在の252号線の元、小出に通じる六十里越であり、
もう一本が、三条に通じる、その八十里越である。

八十里越は、戊辰戦争(明治維新)時、負傷した長岡藩軍事総督・
河井継之助が、親藩・会津藩を頼り,、落ちのびた道だ。
(明治期に、大きくは2回、ルート変更されている)

河井継之助の人生最後の道! 何だか通って見たくなる。
しかし、(江戸期の道は)現在は獣道レベルの所も多く、
良く知っている人が同行しないと危険らしい。
(H14年、道に迷い、亡くなった人が いるらしい。)


河井継之助について:
 (詳しくは、 只見町HPHP”蒼龍窟が行く” 等を御覧下さい)

 只見町のHPを、要約すると、

河井継之助は名を秋義と云い、蒼竜窟と号した。
越後長岡藩に生れ幼児より聡明にして豪胆、神童と云われた。
慶応四年には家老上席となり政務を担当した。

卓越した広い見識を持ち、
西軍が「東北に人無し」と豪語する中で、唯一、西郷隆盛が その有能さを認めた人物だ。

戊辰時、継之助は事を平和に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂し、ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、更に奥羽越の諸藩同盟を結成、その総督として善戦した。しかし、5月長岡城が落とされた。7月25日長岡城奪還に成功するも、負傷し、同29日、城は再陥落した。

継之助は親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かった。そこで自嘲的な一句を詠んだ(詠んだ場所の詳細は諸説あり)

  「八十里、こし抜け武士の越す峠」

  最初、遠くでこの句を見た時、「何て失礼な句だろう」と思った。
  近くで、解説を読むと、継之助自身が詠ったものらしい。

  時代を必死に生きた英傑・名将、しかし、今は負傷し
  戸板で運ばれている河井継之助自身の自虐的な句。
  心中を察すると、涙してしまそうだ。

山越えは難渋を極め、山中に一泊して8月5日只見に着き、傷の手当てを受けた。
8月12日幕府医師、松本良順のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢の村医・矢沢宗益宅に投宿した。継之助はすでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。時に慶応4年(1868)8月16日であった


山行が、大分早く終わってしまったので、継之助関連の史跡を訪れた。

 只見町中心街から、一つ若松寄りの集落・
 叶津に、八十里越の只見側の番所・
 叶津番所跡がある。
  当然、継之助も訪れている。

 手前の道路右手が、八十里越・旧道だ。

更に若松寄りの塩沢集落には、
 河井継之助記念館がある。館内には、
 継之助が息を引き取った部屋を、移転
 保存してある。
 (館内撮影禁止なので撮影しなかった。)


記念館の右手の道を少し山手に進むと、継之助の墓がある。
高さ50cm程の小さな墓石(祠)だ。

継之助がダビに附された後、その遺骨は長岡に送られ、
長岡市栄涼寺に埋葬された。

この医王寺の墓所は、
ダビの後、村民が、拾い残された細骨を集めて、建てたものである。
西軍(官軍)に気付かれない様、文字は刻まず、祠の形にした。



墓所から駐車場への川沿の道では、もう秋の実が見られた。

 オニグルミ(鬼胡桃)

  縄文時代から、保存食として食された。
  店頭で売っている外来種の胡桃よりは、
  小さく殻が厚い。


ミズキ(水木)

 春先に枝を切ると、樹液がしたたり落ちるので
 付いた名前。

 花が実になる頃、その小枝は鮮やかな赤になる。




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