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米沢街道( 旧 大峠ルートと桧原峠ルート)



 米沢街道! 新潟から米沢へ抜ける道も、福島から米沢に抜ける旧道も、会津から
米沢に抜ける道も、米沢街道と呼ばれている。
 ここで取り上げるのは、会津・米沢を結ぶ米沢街道である。米沢街道は、その時代・
時代で変遷し、多くの道があるが、大きく2つに分けられる。一つは、裏磐梯桧原湖
付近を経由する、桧原峠系であり、もう一つは、裏磐梯を経由しない大峠系である。

 桧原峠(1094m)を経由する米沢街道は、歴史上最も古い街道である。室町時代
初め頃、葦名氏の配下の 穴沢氏 が桧原の領主となっている。

この街道は、伊達政宗が会津葦名攻めの手始めに、穴沢氏を攻撃しに来た道であり、
江戸時代初期、上杉景勝(会津→米沢)、保科正之((高遠→)山形・最上→会津)が、
国替えの際通った道でもある。

 桧原峠は、江戸時代以前は、”大峠”とも呼ばれていた。秀吉の会津攻めの際、
鶴ヶ城に取り残された伊達軍の婦女子を、加藤清正が、国境の”大峠”まで送った。
この大峠は、桧原峠の事であろう。


 明治初期の福島県令・三島通庸は、地方都市を結ぶ幹線道路として、会津三方
道路の削開に着手した。若松ー米沢 間は、喜多方を通るルート(旧121号線)が、
選ばれた。
 1885年(明治18年、磐梯山噴火の3年前)、このルートが開通した。大峠の名前は、
こちらのルートに移され、大峠(1160m後半?)越えが主要な街道となった。

(新しい、幅のある道路を開くに当たり、なぜ桧原峠でなく、大峠が選ばれたのか?
 1/25000の地図を見ると、大峠近くに”ろうせき”鉱山があったようだ。少し下に八谷
 鉱山もあった。そのため整備したのだろう。磐梯山噴火の噂は数年前よりあり、
 調査も行われているが、当時そのような予測能力があったとは、考え難い。
 また、地図を見ると、桧原峠米沢側は、急峻で、小さな沢が多すぎる印象もある。
 事実、桧原峠は、那須大峠と同じく、馬では越せなかったようである。)

 こうして、桧原峠ルートは寂れて行った。
 しかし、桧原峠の1〜2km東側に、巣山百子沢林道(鷹の巣林道、金山林道)が、削開されている。
 米沢側では、この林道と大峠ルート、どちらも会津街道と呼んでいる。(後者は八谷街道とも言う)


 時が過ぎ、1973年(昭和48年)、桧原峠より3〜4km東側に、西吾妻スカイバレー
(1410m)が、風光明媚な有料道路として開通した。米沢会津間の移動には、地元の
人以外は、ここを利用するようになったと思う(私はそうだった)。
 
 さらに時が過ぎ、1992年、121号線:(大峠道路が開通し、米沢ー会津間の所要
時間は、飛躍的に縮まった。旧大峠ルートは、土砂崩れ等も有り、やがて閉鎖された。


米沢街道 (旧大峠ルート)H13.10.07取材
  三ツ谷レンガ蔵
  121号バイパスを北上し(喜多方市街を過ぎた所で)
  旧121号に入ると、2km弱で、右手に、レンガ蔵で
  有名な、三ツ谷集落が見える。
通行止め
 更に6〜7km行くと、通行止めの看板がある。
 ”H6.11.30〜H7.06.10 積雪のため、通行止め”と
 書いてある。全面通行止めになったのはH7年の様だ。
  道幅は、大部分は車一台分であるが、幅広の部分も
 あり、すれ違いは可能。会津側は
 一応舗装道路だが、所々壊れ、
 一部ダートあり。
  (→)車に乗りながらハイキング
 気分だ。少し紅葉が始まっている。
 つづら折れの登りは、3箇所に分れ、
 これを登りきると、峠のトンネルが目に入る。
 手堀でやや歪んでいるが、奥の方に、
 明るい米沢の空が見える。

 こちら(会津)側の紅葉は、ベストより数日、
 早かったようだ。
 トンネルを抜けると、視界は極めて良好であった。
 写真左上(写ってないあたり)には、米沢盆地も少し
 見える。道路はダートである。うねりながら急激に
 下る。紅葉はベストに近いが、今年は変化が早く、
 手前右の木は完全に落葉している。
 道路沿いに、左を見ると、路肩が大きく崩れている。
 ジムニ−なら山側一杯に通れなくなさそうだが、
 通り抜けたサイクリストの” かずりん ”さん
 (米沢側詳しいです)を初め、皆、車では無理とHPに
 書いているので、ここで、引き返した。



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