このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
米沢街道! 新潟から米沢へ抜ける道も、福島から米沢に抜ける旧道も、会津から 米沢に抜ける道も、米沢街道と呼ばれている。 ここで取り上げるのは、会津・米沢を結ぶ米沢街道である。米沢街道は、その時代・ 時代で変遷し、多くの道があるが、大きく2つに分けられる。一つは、裏磐梯桧原湖 付近を経由する、桧原峠系であり、もう一つは、裏磐梯を経由しない大峠系である。 桧原峠(1094m)を経由する米沢街道は、歴史上最も古い街道である。室町時代 初め頃、葦名氏の配下の 穴沢氏 が桧原の領主となっている。 この街道は、伊達政宗が会津葦名攻めの手始めに、穴沢氏を攻撃しに来た道であり、 江戸時代初期、上杉景勝(会津→米沢)、保科正之((高遠→)山形・最上→会津)が、 国替えの際通った道でもある。 桧原峠は、江戸時代以前は、”大峠”とも呼ばれていた。秀吉の会津攻めの際、 鶴ヶ城に取り残された伊達軍の婦女子を、加藤清正が、国境の”大峠”まで送った。 この大峠は、桧原峠の事であろう。 明治初期の福島県令・三島通庸は、地方都市を結ぶ幹線道路として、会津三方 道路の削開に着手した。若松ー米沢 間は、喜多方を通るルート(旧121号線)が、 選ばれた。 1885年(明治18年、磐梯山噴火の3年前)、このルートが開通した。大峠の名前は、 こちらのルートに移され、大峠(1160m後半?)越えが主要な街道となった。 (新しい、幅のある道路を開くに当たり、なぜ桧原峠でなく、大峠が選ばれたのか? 1/25000の地図を見ると、大峠近くに”ろうせき”鉱山があったようだ。少し下に八谷 鉱山もあった。そのため整備したのだろう。磐梯山噴火の噂は数年前よりあり、 調査も行われているが、当時そのような予測能力があったとは、考え難い。 また、地図を見ると、桧原峠米沢側は、急峻で、小さな沢が多すぎる印象もある。 事実、桧原峠は、那須大峠と同じく、馬では越せなかったようである。) こうして、桧原峠ルートは寂れて行った。 しかし、桧原峠の1〜2km東側に、巣山百子沢林道(鷹の巣林道、金山林道)が、削開されている。 米沢側では、この林道と大峠ルート、どちらも会津街道と呼んでいる。(後者は八谷街道とも言う) 時が過ぎ、1973年(昭和48年)、桧原峠より3〜4km東側に、西吾妻スカイバレー (1410m)が、風光明媚な有料道路として開通した。米沢会津間の移動には、地元の 人以外は、ここを利用するようになったと思う(私はそうだった)。 さらに時が過ぎ、1992年、121号線:(新)大峠道路が開通し、米沢ー会津間の所要 時間は、飛躍的に縮まった。旧大峠ルートは、土砂崩れ等も有り、やがて閉鎖された。 |
米沢街道 (旧大峠ルート)H13.10.07取材 |
![]() 121号バイパスを北上し(喜多方市街を過ぎた所で) 旧121号に入ると、2km弱で、右手に、レンガ蔵で 有名な、三ツ谷集落が見える。 |
![]() 更に6〜7km行くと、通行止めの看板がある。 ”H6.11.30〜H7.06.10 積雪のため、通行止め”と 書いてある。全面通行止めになったのはH7年の様だ。 |
![]() ![]() あり、すれ違いは可能。会津側は 一応舗装道路だが、所々壊れ、 一部ダートあり。 (→)車に乗りながらハイキング 気分だ。少し紅葉が始まっている。 |
![]() これを登りきると、峠のトンネルが目に入る。 手堀でやや歪んでいるが、奥の方に、 明るい米沢の空が見える。 こちら(会津)側の紅葉は、ベストより数日、 早かったようだ。 |
![]() 写真左上(写ってないあたり)には、米沢盆地も少し 見える。道路はダートである。うねりながら急激に 下る。紅葉はベストに近いが、今年は変化が早く、 手前右の木は完全に落葉している。 |
![]() ジムニ−なら山側一杯に通れなくなさそうだが、 通り抜けたサイクリストの” かずりん ”さん (米沢側詳しいです)を初め、皆、車では無理とHPに 書いているので、ここで、引き返した。 |
米沢街道(桧原峠ルート)は、こちらから! |
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