このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

会津藩のなごり in 京都 (1)


H16.10.22〜10.24、所要で京都に行く機会があったので、
夕刻及び最終日に、少しだけ、会津藩(&容保公)のなごりを、訪れてみた。

金戒光明寺

 ・法然上人が、比叡山を下り最初に庵を結んだ地だ。愛称:黒谷さん。
  京都の浄土宗四ヵ山の一つ。
 ・会津藩が、京都で最初に本陣を置いた所だ。
 ・場所は、洛東。”丸太町通”を挟んで、平安神宮の北東向かい・少し奥。


丸太町通りを西から歩いて来ると(市バスで、岡崎道や岡崎神社前で降りた場合、
少し戻る。)
平安神宮の東の通り(岡崎通)との交差点に、道標がある。




上写真・中央やや
右の道標をUP
さらに、お店の壁にも、「黒谷本山(金戒光明寺)への参拝道」
と、赤で書かれた看板がある(上写真左)。


案内に従い左に曲がり、岡崎通を北に進むと、直ぐにT字路で、
右を見ると、もう、
金戒光明寺の高麗門が見えている。




 やや長い参道を進むと、左手、
 石段の上に、三門(山門)が、
 現れる。

 NHK”新撰組”のタイトルバックの
 石段を駆け登る絵のイメージって、
 ここだろうか?


 三門をくぐると、正面に、
 御影堂が見えてくる。
 すぐ右にも大方丈という
 大きな建物がある。

 容保公ら会津藩士は、
 この辺で、仕事をして
 いたのだろう。


御影堂の前の広場を右に行くと、「会津藩墓地」なる案内坂がある。
案内板に従って、右そして左に曲がると、
長い石段の向こうに、三重の塔が見える。



石段を半分程登った所で、案内坂に従って左へ曲がる。
おそらく一般の方の多数の墓地がある。

案内板に従い、道なりに進んだ。 墓地の一番はずれに、

”会津藩殉難者墓地” はあった。

 (真面目に数えていないが)墓石の数は、
 ざっと 200以上?実質的に薩長の支配下
 となった京都で、端っこの場所とは言え、
 手厚く葬られている事に、感動した。

 ”殉難者”か〜、言い得て妙!
 彼らを、冷静に、且つ、やさしく見つめて
 いる単語ではないだろうか?

京都府庁

 ・金戒光明寺の仮本陣で一段落した容保・会津藩は、現在の府庁の所に、
  京都守護職上屋敷を造営した。敷地は現在の府庁のほぼ全てであった
  という。門・玄関等は豪華なものだったらしい。

  他にも、市中の数箇所に広大な屋敷を構えたという。
  (何て無駄な金を・・・その金を軍備に廻せば・・・・・。)

 ・場所は、京都御所(&御苑)の西、歩いてもすぐにある


折しも、旧府庁(府庁の南東角)では、
(完成?)100周年記念○×なる式典が行われていた。
(と言う事は、明治20年代に建てられた事になる。)




 旧府庁の正門(南)を入ってすぐ右手に、
 「京都守護職屋敷」なる碑があった。
 
 その右下には、上述したような内容の
 説明板がった。


京都御所(&京都御苑)

 京都御所:言わずと知れた、(明治2年に、御所が東京に移されるまでの)皇室の
        お住まい執政の場。春秋、各5日間しか、一般公開されない
        らしい。詳しくは、宮内庁のHP参照。

        容保も、1863年の8.18の政変(七卿落ち政変)以来、朝議参加を
        命じられ、幾度となく参内したでありましょう。

 京都御苑:御所は築地塀で囲まれている。その外回りは、今は広い公園
        の、御苑だ。’その時’には、公家や宮家の屋敷があった所だ。


京都御所の外回りの京都御苑も、また、築地塀で囲まれている。

 /御所内には年に数回しか入れない。御苑は公園として、24h入れる。私は、「御苑は、
 /夜も、そこそこ明るく、目ぼしい所はライトアップされ撮影可能だろう。」と思い、今回の
 /京都の初日・夜に出かけてみた。しかし、そこは、真っ暗!で、普及版のデジカメでは
 /写せなかった。しかたがないので、翌朝に、もう一度出かけた。

蛤御門(禁門)
 京都御苑内の、京都御所の直南に東西に
 走る道がある。その道の、御苑東の門が
 清和院御門で、西の門は蛤御門(禁門)だ。

 蛤御門の変: 池田屋事件の後、憤慨した
 長州藩士が、ここに集結した。会津藩は、
 (その時は まだ仲間の)薩摩藩等の協力を
 得て、これを撃退した。

蛤御門を入ってすぐに、御所の南西角が見える。右写真の門が建礼門、
左写真の門が(手前から)宜秋門(唐門、会津藩が警護していたが、大政奉還後、
土佐藩に明渡した門)
、清所門、皇后御門(写真では、分りずらい)だ。


建春門は東側なので、ここからは見えない。

二条城

・徳川家康が1602年に京都での住居として築城し、3代家光が伏見城の
 遺構等を移築し完成した。
・幕末には、慶喜の京都での居住地となり、容保や会津藩士も参代警護
 した所だ。


 (←)現在の観光用入口の東大手門。

 佐川官兵衛らが、慶喜の大阪城への撤退
 (逃亡?)を阻止しようとしたのは、どの門
 だったのだろうか?


二の丸御殿。
国宝でもあり、世界遺産(主として狩野派の襖絵?)にも選定された。
慶喜は、ここの大広間に諸大名を集め、大政奉還の意を伝えた。




本丸御殿は、京都御所にあった
旧桂宮邸を移築したものだ。

(天守閣跡(本丸南西角)で撮影。)



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