このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

会津藩のなごり in 京都 (2)



壬生寺(みぶでら)

・律宗本山。991年(正暦2)三井寺の僧快賢が創建。中興の祖・円覚上人が
 悪疫駆除のため壬生狂言を行ったことから地蔵信仰が盛んになった。
 愛称:みぶさん。

・新撰組の修練場でもあった。新撰組隊士の墓(壬生塚)がある。

・場所:二条城とJR京都駅の中間付近。
     私は、市バスを(壬生寺通バス停を知らず)四条大宮で降り、後院通を
     北東に少し戻り、四条通を西に進んだ。壬生川通の次の細い通
    (坊城通)を左に入った(正解!)。

今回は、新撰組関連は、(NHK大河ドラマの影響もあり、混むだろうから)
立ち寄らないつもりであったが・・・、

2日目の夕方、壬生にだけ行ってみた。時刻は17:40頃だったろうか?
日没(17:00少し前?)が過ぎ、 DAWN も終わり頃だった。

壬生寺



もう、拝観時間は終わっていた。


 そのすぐ北、八木邸
 新撰組発祥の地だ。

 17:50前頃だったろうか?
 デジカメの実力をもってしても、空は真っ暗、
 でも、(近くの店の灯りで?)門は写った。

 道路向かいには、旧前田邸もあった。

 二条城よりは駅に近いし、(丼勘定な私!30分はかからないだろうと思い)
 京都タワーを目指し、京都駅まで歩いた。(一旦、四条通に戻ったので、遠
 回りになったせいか) 歩行時間は、1時間を少し越えてしまった〜〜っ!

 駅前地下街で、( in 京都なのに!)中華の夕食と、幾許かのアルコールを
 摂取し、ホテルに戻った。

鳥羽

・大阪城に撤退はしたものの、治まらない(挑発された?)幕軍は、再び京を
 目指した。1868年1月3日夕刻、鳥羽伏見で、待ち構えていた西軍(薩長軍、
 新政府軍)
の砲撃を受けた。鳥羽伏見の戦いが始まった。


鳥羽の城南宮へも、市バスで行こうとしたが、本数が少ない。
タイミング悪く、1.5時間待ちだった。バスの案内の方は、
「地下鉄東西線〜近鉄の竹田駅まで行ってからバスに乗ると良い。」と言う。

 しかし、竹田駅からも、城南宮へのバスは、1時間に1本だった。
駅前に、数台のタクシーが乗車待ちしていたので、タクシーに乗った。
料金は、最低料金の640円だった。


城南宮(じょうなんぐう)

”794年の平安京遷都に際し、八千矛神、神功皇后、国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国を守護する城南宮と仰がれる。平安時代の末に白河上皇がこの地に壮大な離宮を造営して院政を開始した。熊野三山を初めとする社寺への物詣での際には、度々上皇方の方除の精進所にあてられ、旅の安全が祈願されており、当宮の方除信仰をみることができる。
                      (”京都市公式HP”よりコピペし要約。)

城南宮は、鳥羽伏見の戦いの際、薩摩軍の陣所となった。
薩摩軍は、小枝橋〜城南宮〜竹田と、列になって布陣していた。

城南宮、東の入口(タクシーを降りた所)



鳥居をくぐり、西へ歩いて行くと、
左手に本殿らしきものがあり、赤鳥居の
向こう左手すぐに、戊辰戦争戦跡の
碑文等があった。


そのまま、西に進むと。城南宮の西入口を出て、国道1号線になる。
歩道橋を渡り、そのまま西に行く。すぐに、(一本左の道に)鳥羽離宮公園の
林が見えてくる。

鳥羽離宮跡:平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮!、秋の山(築山)を残すのみ。      (”京都市公式HP”よりコピペし要約。)

 鳥羽離宮公園として残されている所は、運動公園になっている。
 その北部に秋の山(築山)がある(←)。

 京へ上るため小枝橋を渡らんとする幕軍、
 阻止せんとする薩長軍の押し問答の末、
 薩摩軍の第一砲(アームストロング砲)が
 ここから小枝橋方面に向け発砲された。

小枝橋 :鳥羽街道が、鴨川(桂川との合流直前)を渉る橋。

鳥羽離宮跡の北の道を 数十m西に歩くと、
小枝橋の鳥羽伏見戦跡碑がある(↓)。

*再び上洛せんと、桂川東岸の鳥羽街道を北上して来た幕軍は、
*そのまま小枝橋を渡ろうとした。これを阻止せんとする薩長軍は
*押し問答の末、(意図的に?)幕府軍に対し大砲を発砲した。

*ここへ、打ち込まれた一発の砲弾から、

*幕府&名門藩(=徳川一属)の現体制内改革派と、
*力を蓄え 日本の舵取りをしたい外様藩(関ヶ原敗軍)=クーデター軍の
戦いが始まった。



道は、鴨川にぶつかり、堤防上を、右に曲がり、
現在の小枝橋に続く。


現在の、小枝橋(↓)。



橋の端(→)

空き地・林を見ると、昔の小枝橋は、
”2つ上写真の戦跡碑のある道を真っ直ぐ、
上写真の両側の林の間”
に懸かっていたと思われた。

 帰りは、大体の方向・雰囲気が分かったので、竹田駅まで歩いた。
 城南宮東門から、時速4〜5km?で、(僅かに遠回りして)18分だった。

伏見

近鉄・桃山御陵前駅を降り、左手を見る。御香宮神社の赤鳥居が見える。
少し登りだが、標高差は、数mだ、歩きは3分?。



御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ):平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇がこの名を賜ったという。桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重文。神功皇后ほかを祀り、豊臣秀吉は伏見城の守り神とした。
                    (”京都市公式HP”よりコピペし要約。)

・鳥羽伏見の戦いでは薩軍の屯所になった。

 御香宮神社表門。
 
 中に入って説明等を見ると、ここは
 安産祈願の神様でもあるらしい。

 私が安産してどうするのか?
 (・・・できない。)

 拝殿、
 その奥には、御影堂。
 御影堂の左側には御香清水がある。
 環境省名水百選に認定されているらしい。


伏見奉行所跡
(桃稜団地)

・伏見奉行所跡には、現在は、市営桃稜団地が建てられている。

 (御香宮神社への行く手前)桃山御陵前駅から
 10数mで左へ入る、右クランクで道なりに、
 ほんの数分歩くとと、桃稜団地だ。

 伏見奉行所跡碑は、桃稜団地の入口左の
 塀の外(→写真の駐車禁止標識の右上)にある。

 駅からは、数m下る。
 御香宮神社との標高差は、
 合わせて、10m程か? しかし、その落差は大きかった。

 *慶喜が大阪に逃亡した後も、新選組と若干の幕歩兵は、
 *伏見奉行所に詰めていた。1868年正月、再上洛すべく
 *北上した会津藩は奉行所に並ぶ御堂に陣取った。

 *鳥羽・小枝橋から砲撃の音が聞こえると、御香宮神社に布陣
 *していた薩摩軍は、(かねての予定通り?)伏見奉行所に向けて、一斉に
 *砲撃を開始した。10m?の標高差は大きく、炎上した屋敷の明かりも
 *手伝い、薩摩藩側からは、幕軍・会津軍の奉行所が良く見えたらしい。

 *新撰組・猛将佐川官兵衛・幕兵等が、御香宮神社に突撃したが、待構え
 *ていた薩摩兵や(馬関戦争で市街戦に慣れた)長州兵の銃撃に合い、少しも
 *進撃できなかった・・・。

 *この時、薩摩軍の砲兵隊を指揮していたのは・・・・、
 *後に、会津藩青年家老山川大蔵(後の浩、斗南藩時代の大参事)の妹・捨松
 *(鹿鳴館の華とも呼ばれた)と結婚した大山弥助(大山巌)であった・・・。


俯瞰

 帰りの新幹線に乗る直前、京都タワーの展望台(地上高100m)から、北を
 見てみた。中央右の通りは烏丸通、下の大きい屋根は修理中の東本願寺。
 は京都御所(&御苑)、は二条城だ。金戒光明寺は橙楕円、京都府庁
 は黄四角付近だろう。壬生寺は写真左縁 上1/3付近だろう。




 南を見る。左1/4の通は烏丸通、右下角から中央に向かう道が国道1号線
 だろう。町並みの上縁やや下あたりに、名神高速道路がぼんやり見える。
 黄四角あたりが伏見橙四角あたりがが鳥羽だろう。




”会津藩のなごり in 京都(1)”に戻る?


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください