このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


明神ヶ岳 (1)


H16.11.14(雨後 時々晴)、
午前中は小雨で、山行は諦めていた。正午近くに晴れ間が出てきた。
近場の低い所にでも出かけるか〜・・。

会津高田町(と柳津町)にある明神ヶ岳みょうじんがたけ、1,074m)に出かけた。

--、1.3h
 11/14、曇&晴
会津盆地俯瞰 with 磐梯山。
参道ゆえ道は良い。家族向け。
道路地図(マピオン)
1/2.5万 地図:会津高田
ルート



 明神ヶ岳には、会津高田町宮林の伊佐須美神社の奥の院がある。
伊佐須美神社は、奥州一ノ宮の塩釜神社に次ぐ奥州二ノ宮であり、(西暦927年
頃の)
延喜式の神祇中に、奥州百座の一つとして記載がある。

(以下は会津高田町役場公式HPからコピペし、一部加筆した。)
*伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)の由来は、(西暦306年頃)崇神天皇の命で、
*それぞれの道をたどり東北道の各地を平定した四道将軍の大彦命父子
*が、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられて
*いる。このとき、国家鎮護のため、国土開拓の神様のイザナギノミコト、
*イザナミノミコトの二神を新潟県境の御神楽岳に奉斉した。
*これが伊佐須美神社の起源とされてる。
*その後、博士山、明神ヶ岳を経て、欽明天王13年(522年)に高田南原の
*地に遷御した。同21年(560年)、現在の宮地にご社殿を造営した。

(ところで、古事記にある四道将軍伝説の解釈に関して、小島一男氏は、
 「会津故事散歩」(歴史春秋出版社)で下記の様に述べている。)
*”会津西縁で四道将軍が再会し、相津(会津)の地名の由来となった。”
*は、本居宣長が新説として言い始めたものである。”相津”に関しては、
*近江の粟津 or 大津説、尾張の相津説もある。会津坂下付近で、揚川
*(阿賀川)等の大河が流する地形が正しい(地名の由来であろう)
→つまり、四道将軍が御神楽岳に神を祀ったというのは怪しいと言う事!


明神ヶ岳へは、国道401号線を博士峠・昭和村に向かって南下し、
冑集落(高田から 12km)で右手(西)集落に入る道を良く見ていると、
「明神ヶ岳登山入口」という案内坂が目に入る。

そこを西に進むと、斜めT字路になるので、右(登り)に曲がる。
程なくY字路になるので(工事中だったが、通行可能な所を)左に入る。

しばらく登ると、またT字路だ。
今度の道は、片側一車線ながら、この場所に不似合いなくらい良い道だ。
博士山で工事中だったトンネルと繋がるのだろうか?

登山口はT字路正面にある。



駐車スペースは2台分くらいだが、
ぶつかった道は、今の所、交通量が少ないので、
路肩目一杯に寄せて!路上駐車しても、迷惑にならないかも。


まずは、岩がちの道。もう、深山の雰囲気があるぞ。




登り始めて 2〜3分?で、

 左手に、会津三十三観音の二十七番札所
 大岩観音(仁王寺)が見える。

 チョット、寄り道して行こう。

 (←)参道正面、成る程!大岩だ。




 社の中は真っ暗で、何も見えない。
 フラッシュを焚いて撮影してみた(↓)
 観音様は扉の中か?
6分程ロスったろうか?登山道に戻った。

道は、やや細くなるが、しっかりした道だ。
菅沼への分岐後の道には、所々、狭い所もあった。

まだ(寄り道しなければ)登り始めて10分程だが、
左手に水場があった。


この登山道は、会津高田町と柳津町を結ぶ道として、大正時代まで
歩かれていた道でもあり、伊須美神社 奥の院の参拝路でもあるので、
手入れの良い部分が多く、(狭間峠までは)急登も無い。
(伊佐須美神社の氏子さん等が、整備しているのかも。)

(登山道は、所々でショートカットしている。)

九十九折れの道を暫く登ると、
会津盆地の全貌が見えてくる。その向こうには、磐梯山や安達太良連峰が
見える。大昔、会津盆地は湖底だったという話が納得できてしまう眺望だ。




帰り道(15:40頃)でも、
同じポイントで撮影して
みた。

雲には夕焼け色が入っ
てきた。

「もうすぐ、狭間峠かな?」 と思った・・・が、




登り切ると、少しなだらかに なるものの、
 まだ、峠ではない。

右手(写真左下が道)には、山頂が見えてきた(→)。

狭間峠。



登山道は、少し下ってから、緩く右へ曲がり始める。



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