このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

エジプトの寝台特急ナイルエキスプレス 


 カイロから古代エジプトで首都テーベと呼ばれたルクソールそしてアスワンに1日一往復づつの寝台特急ナイルエキスプレスが走っている。アスワンからクルーズ船で3泊をしながら古代遺跡の見物で感動した私は最後にルクソールからカイロ迄をこの寝台特急で楽しむことにした。
 朝食の後直ぐにクルーズ船をチェックアウトすると東岸沿いにある博物館を見学、その足で市内を見物しながら鉄道沿線を目指した。ラマダン明けを1週間後に迎えて大勢の買い物客でごった返すスークを通り抜けた所に踏切小屋が在った。覗き込むと数人がたむろしていて「アッサラームアレイクム」と挨拶すると笑顔で席を空けて座れと言う。そしてアラブ人特有の名前の交換である。
 ここで私の目的は列車の撮影だと言うとまだ一時間先にしか走ってこないと教えてくれた。その内の若者が近所を案内すると云って手招きで先に進むのに付いて行くと線路際に畑が広がっていて牛が働いていた。脇にある農家に入ると若者が主人に牛の井戸水汲みを日本人に見せる様に頼む。主人は休ませていた牛を連れて来て井戸に仕掛けられた木枠に繋ぐと歩ませた。すると回転を始めたサークルの壺で水が汲み上がって来たのである。彼はサッカラだと云って教えてくれた。

 列車の通過が気に為りながら戻ってくると踏切番の係員が遮断機を操作している。やがて駅構内の方からディーゼル機関車の牽引する客車がカイロ方面に向けて走ってきた。次にやって来たのはアスワン方面に向う旅客列車、荷物車+エヤコン付き1等車4両+普通2等車5両の10両編成で先頭はC+C型のディーゼル機関車でアラブを象徴する赤と白と黒のストライプが印象的だ。

 駅に出かけて構内を探訪することにした。古代神殿から東に進むと直ぐにルクソール駅の正面に出るが、神殿風に造られた駅舎の前の広場にはオベリスクを模倣した石柱が立っていた。いかにも古代エジプトを意識した建造物であるが、上部を飾るレリーフに古代のパピルス船から現在の電車や飛行機までもが描かれていた。駅舎内はホームへの出入口二ヶ所と切符売場以外には高い天井の閑散とした広間が有るのみだった。ホームへは駅職員に許可を得て簡単に入る事が出来た。

現在の交通近代の交通イスラム到来ローマ時代
寝台列車の時刻表切符売り場駅名表示板
ルクソール駅のホームホームの鐘二等普通車
 夜の出発までは神殿の見物です。街の北端にあるツタンカーメン王の戴冠式が行なわれたと言うエジプトで最大規模のカルナック・アモン大神殿、参道の両側に並ぶスフィンクスは圧巻である。その付属神殿がルクソール神殿で街の中ナイル東岸に有って、夕闇の中のライトアップは荘厳なものでした。太陽神ラーの象徴として立てられたオベリスクは現在1本しか残っていなく、もう1本の方はフランス皇帝に贈られてパリのコンコルド広場にあります。
テーベのカルナック・アモン大神殿ルクソール神殿のライトアップ

 午後9時の駅構内はナイルエキスプレスの乗客が大勢集まっていた。ホームには昼間に親しくなった売店のイブラヒムと子供達が見送りに来てくれていて再びチャイをご馳走になった。エジプトではコインを殆んど見かけない。最低25ピアストル紙幣(約4.5円)の上が50ピアストルそして1エジプトポンド等で用が足りるから大雑把なものだ。勿論子供達には某かの紙幣を振舞ったが。
 アスワンからのナイルエキスプレスは出発10分前の定刻に入ってきた。一等寝台車は簡素な造りだが内部は機能的に出来ていた。個室内は硬めの座席(肘掛付き)兼ベッドに簡単な洗面設備と取外し可能なテーブルそして大きなゴミ箱が設置されている。通常は2名仕様だが1人で使用するのにスーツケースを開けて丁度の広さである。その個室が1車両に10部屋が並んでいるのだ。
 21時40分、発車すると直ぐにアテンダントが夕食の注文に遣って来てビーフかチキンを選択出来た。これも一等寝台乗車賃に含まれたサービスであるが、運んで来た時には1米ドルのチップが必要であった。食事中にQUSと言う駅を徐行しながら通過し、1時間後のQUNE駅で初めて3分間停車した。此処は西のエルカルガに支線が延びている唯一の乗換駅である。22時50分、アテンダントがベッドメーキングを済ませた後に私はクラブカーの展望に出かける事にした。

ホームで出会った友人ナイルエキスプレス号一等寝台車
個室洗面設備一等寝台の夕食サービスベッド仕様
個室車の通路個室扉英語とアラビア語の表示トイレと連結扉

けっして広くない通路を5両進んで入ったクラブには7人掛けのスタンドバーと軟らかい肘掛け椅子と丸テーブルが沢山並んでいる空間だけで、客は無く列車スタッフ達の溜り場になっていた。バーテンが飛んで来て何か飲む?と瓶をしきりに勧めるが、余にも銘柄と量の少なさに唖然とした私は咄嗟に「ムスリムだから飲まない」と言い放した。食べ物もソフトドリンクもない。彼はそれ以上勧めなかったが床に座って両手を広げて並べろと言う、向かい合って座った彼は両耳を両手の先で抓んでいて急に私の手の甲を叩く。咄嗟に避ければ「勝」、叩かれれば「負け」、他愛も無い遊びだがスタッフ達も参加して勝者がどんどん変わっていく。次に立上がって右手で顔を遮断して腋の下に左腕を差し込んで掌を表にして待っていると、後方に並んでいた誰かが掌にタッチする。巧く当てると「勝」で選手交代だ。私は負ける度に「ヤーバーン、ロス」と囃し立てられた。このゲームは「サッラハー」と言ってアラブでは結構有名だそうだ。

クラブカーのバーテンクラブカーの内部サッラハー
 ベッドで眠っていた私はガタンと列車の揺れる音で眼が覚めて、腕時計を見ると日付が替わって1時25分だった。車外の遠くからアザーンが聞こえて来る。真夜中の礼拝への呼び掛けである。一時停車していた列車はゆっくりとABO−TEEG駅に入って停止した。駅前の広場に電飾で飾られたモスクのミナレットが有って、アザ−ンは此処から流れていたのだ。25分間礼拝のための停車が終わると再び列車は左側の疎水に沿って走り出した。20分程で大きな街ASSIUT駅に到着するとホームには大勢の学生や乗客たちが居て窓に寄って来た。乗客の乗降りも沢山あって、駅周辺には高架の道路も整備されており、午前2時半なのに街路灯で明るい小都市だった。
真夜中のミナレット深夜の停車駅夜のプラットホーム

 2時25分、8分間の停車で出発してゆく深夜の寂しいホームには見送りに来ていた老人が一人たたずんで、出て行く列車を何時までも眺めていた。
 次に目覚めたのは3時間後の5時20分だった。左側の疎水は河のように広くなっていて、両側の車道にはオレンジ色のナトリウム灯が整然と並んでいた。満天の星空は見損なったが右に上減の月と火星がくっきりと浮かんでいた。5時50分にはモーニングコールと簡単な朝食が来た。

 アメリカンスタイルの朝食弁当は何時もながらのパック牛乳とパン、それに挿むバターとジャムが付いている。そしてジュースにヨーグルトである。辺りは明るいが白濁の霧の中、その間に弁当を平らげ降車の準備をして置いた。6時40分東の方角に太陽が顔を見せた時はだいぶ昇っていてなつめ椰子の間から見え隠れしていた。その為に列車のカイロ到着は相当に遅れる事になった。

 霧の晴れ掛かった頃に客車が並ぶ操車場を通過すると、辺りの町は眩しい陽の光が照っていた。まだ朝露で濡れた道路を車が走っていて、再び郊外に出ると広々とした畑と線路脇にはなつめ椰子の木が並んで植わっていた。ナイルエキスプレスは延着を取り戻すためにスピードを上げていた。

 いよいよカイロに近付きギザ地区に入るとスピードを落としギザサブ駅を通過する。ここからは2000年10月7日に開通した地下鉄2号線が連絡していた。この電車は東芝が受注し近畿車輛が製造したもので、トンネル土木も日本のK社が建設したものである。その車両を左に眺めながら最後のエルギザ駅を過ぎてカイロ市内へと入り、ナイルを渡ってムバラク地区にあるカイロ駅に到着したのはダイヤより1時間20分遅れの8時05分だった。ホームには子供連れの旅行者が荷物を広げて座している姿に、さすがにアラブと言うよりアフリカを感じさせた。

2003年11月21日

ギザサブ駅を通過カイロ地下鉄2号線
到着したカイロ駅のホームカイロ駅の東口

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください