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読経は読怯で読享である
愈々本番、ご出立である。しかし、だぁ〜れも助けてはくれない。88番まで例え徒党を組
もうとも、心はひとり旅である。初めての遍路の始めの頃は『三枝の礼』。よろしく控えめ
に身を処することである。そうする事で、御本堂御大師堂前の人の行動が良く見えてくる。
身を清め襟を正し、納経所を辞するまでの流れに乗ることである。
己と同じ新品の白装束、相身互いと擦り寄ることは禁物である。百戦錬磨30回も遍路みちを
駆け巡った猛者であることもあるからだ。猛者の毒気に当てられたらショックから立ち直る
のに、10日も費やすことになる。遍路にはお金よりも時間が大事である。
お線香は中央より立てよ。献灯は上より立てるべし。数珠を首に掛けてはならぬ。指導書
には、「せよ」「ならぬ」の文言が多く入り混じる。納め札を写経函に誤って入れようとも、
下段に献灯しようとも、拍手を打とうとも、シマッタの顔色を見せちゃいけない。
粛々と堂々と胸を張って流れに乗ることである。
ただ問題は読経である。「仏前勤行法則」見ての読経が正当である。とのカンニングもど
きを許されようとも、声を出さねばならぬ難関が控えている。
書には「早からず遅からず」「高からず低からず」と記されている。にも拘らず新幹線読経
もあれば、絶叫読狂もある。
これに鉦を打ち鳴らし木魚を叩く伴奏が加わったら、初心者の読経は読怯に変りゆくこと必
然である。
読経は周りに惑わされないこと。粛々と堂々と胸を張って1字1句を正確に読み上げること
新幹線読経の遍路は「早からず遅からず」と思っている。絶叫読経の遍路は「高からず低か
らず」と思っている。結局如何でもいい事になるのでしょうか。だから貴方の蚊の泣く読経
も指導書の範疇にはいっていると安心して宜しい。昔の蚊の泣く読経専門の初心者が言うん
だから、間違いはない。
読経が一番重要なことと思いがちですが、気にすることはありません。
日中のお寺さんには、ご本尊様もお大師様も御出でになりません。出張中です。お留守です。
疲れた、身体を横にして少し休みたい。そんな時のあなた、布団持参で阪神巨人戦で大騒
ぎの甲子園に出かけますか。静かな場所を求めて休息することでしょう。
だから、私共遍路の押しかける日中は、ご本尊様もお大師様もお留守だと申したのです。
『どちらに御出張ですか』
と訊かれますと
『多分、屋島寺さんから大窪寺さん辺りでしょうか』
と想像でお答えするしかなくなってくるのです。
もっと大事なこと、ウッカリ忘れていました。
御本堂、御大師堂。合掌し何を願い、何を祈りますか?
先祖冥福、病気平癒、高校大学合格祈願、再就職、結婚、自己再発見、心の癒し………
それは様々、それぞれのお好みのまま、が許されています。
ところで内緒の話、お賽銭はいかほど差し上げているのでしょうか。
結願までの88ヵ寺、100円なら全部で17600円、10円なら1760円が必要になります。
『御仏とのご縁を大事に、ご縁がありますようにと5円でお願いをしております』
お答えのあなた、体面を重んじ、聡明な頭脳お持ちの方とお見受けいたします。
仮に立場を変えて、あなたが御仏だったら如何なさいますか。私だったら100万円積まれ
ても逃げ出します。勉強しない学生さんに『東大合格お願い』とおねだりされても、私の
神通力では処理できないこと、重々心得ているからです。
ましてや5円10円でお願いを聞きとどけていたら、お遍路の皆様を駄目にしてしまうと思うか
らでもあります。御仏だって、同じこと考えるんじゃないでしょうか。
御仏の逃げ出す先は結願寺、88番大窪寺でしょう。此処でのお遍路は、無事結願出来た
ことへの感謝で一杯。誰もがお願いしたことなど、露ほどにも覚えてはおりません。
達成感に欲望の入る隙間すらなく、今のいまに生きた喜びをかみしめ、涙を流す遍路すらお
ります。
87ヶ寺を巡りたる遍路の読経はいつの間にか「早からず遅からず」「高からず低からず」
淀みなく滔々と流れ、それは心地よく耳に響きます。
御仏は清清しい読経の響きを酒の肴に、般若湯を聞し召し微笑んでいるに違いありません。
皆様方も美味しい御夕餉を戴き、お風呂で結願の汗をお流しになって……ご自宅にお帰りに
なることでしょう。
御仏のこと、かように想像いたしおります。
初めての遍路行、一人の先達さんに仏前の所作は御仏の為ではなく、己自身の為と教えら
れた。読経はあくまでも読経。読怯つまり周りに怖けてはいけない。
自分のためと思えば心のこもった読経に成り、耳にした他人にも美しく響くとも教えられた。
以来、御本堂、御大師堂。階段上にもう一人の自分を立たせ、今日までのお前の生き方に
間違いはなかったかどうかと、確認をすることにしている。
それでも人間、不都合なことは隠したがるもの。
自分には見えない影の部分に光を当てて戴きたいと、もう一人の背中を見せて読経を続けるこ
とにしている。
読経は読怯を越え、自分自身で受け止められる読享へと、そして己の読経を一言も漏らすこ
とのなく、凡てを受け止める独享まで。行動も含め自己を高めることが出来るように努力し
たい。その時に初めて功徳が観えてくるのかもしれない。
合掌
臨機応変は高僧の相と思い知るべし に続く
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