このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

裸足 草鞋 靴

 遍路みちを歩くと、随所に行き倒れた遍路の墓がある。墓といってもつい見過ごしてし
う、小さな目印の墓標である。
墓標の主はお大師さんの懐に抱かれ、草の茂みに埋もれながらも満足げに見える。恐らく
死を求め、死に場所を求め、お大師さんの影を求めて遍路みちを彷徨ったに違いあるまい。
2月の雪に涙を一筋、流しているようにも見える。
嬉し涙か、それとも……

 昔は草鞋で遍路みちを歩いた。路銀持参の遍路は、である。大方の遍路は草鞋を食い、
四国の人たちの情に縋り、裸足で歩いたものと考えられる。馬のように、草鞋の藁まで胃
袋いれたと言っているのではない。つまり草鞋を買う金まで食いものに換え、この坂を越
えたと言っているのである。
何処其処の食いものが美味い不味いと身勝手な今の遍路とは異なり、命を賭けてこのみち
を歩いたのだ。

 命を支える食も、一夜の夢を結ぶ仮屋も、当時に比べれば全く不安は無い。と言って
もいい今日である。
遍路みちもトンネルが掘られ舗装され、バスが行き交い、平行して近くを電車が走る。
何の心配もない。しかし歩き遍路を志す時、昔人と同じように自分の足を頼り歩くことに
変わりはない。昔の着の身着のまま身体一つに比べ、現在は豊かさゆえに10キロ前後
の荷物を背負って歩かねばならない。

 昔は『食べれるか』が死に繋がる最大の関門であったが、現代は『歩けるか』が時間を
含め最大の関門になっている。自転車、バイク、自家用車。歩くことの少なくなった足は、
歩く機能を失いつつある。
凧の作り方、草鞋の作り方、独楽の廻し方。親から子、子から孫への継承は断ち切れた。
歩く事すら指導書に頼らねばならない。

 遍路用の靴を選ぶ時、適切なアドバイスが得られるから、登山用品専門店で購入せよと
ある。正にその通りである。
靴には防水型と、そうでないものとがある。
防水型は水に強いが、なかまで濡れると乾きが悪い。そうでないものは直に濡れる欠点が
あるが、乾くのは早い。どちらを選ぶかは貴方次第である。
靴下の上にもう一つ、防水の長い靴下を着用。雨の日には水の中をじゃぶじゃぶ、重宝し
ている。

 足を大事に。手入れを怠ると途中、脱落を覚悟せねばならない。
23番薬王寺、日和佐駅から『お帰り〜』が定番である。
指導書のテーピングテープで足.指のマメからの護り方を熟読、実行することである。
長時間歩く時の歩き方。登るとき、下るときの歩き方。これらをマスターすれば足の問題
は解決である。
  
 『一歩』とは両足の何れかを前に出すことである。次に別の足を前に出す。これを交互
に続けることが、歩くことである。魚は泳ぐことが一生であり、人間は歩くことが一生で
ある。泳げなくなる、歩けなくなる。それは終わりを意味する。

 四国を歩くことは、歩く人間の一生の一齣でもある。だから一生を大事にしたい。
飄々と林を吹き抜ける風に例えられるが、遍路は風には成れないものである。胸には痛み、
哀しみ、後悔、破壊とあらゆるものを抱え、煩悩の塊となって走り過ぎるからである。 
歩くとは其処に歩いた痕を残して行くことでもある。汗と涙に変化した煩悩の雫は、木の
葉の下にひっそりと蹲る。地面にばら撒かれた紅葉の葉、椿の花の彩りに目を見張っても、
裏に隠れた雫に想いを馳せる人はいない。

 旋風のように駆け抜ける遍路も、四方の自然を愛でながら亀のように山腹を登る遍路も、
心すべきは己の足跡である。無限の遍路の大きな流れに、小さくとも己の足跡を残すこと
になるからである。
キャラメルの包み紙を捨てても、タバコの吸殻を捨てても、コーヒーのアキカンを捨てて
も、弁当の空き箱を捨てても、それは遍路の足跡、あなたの足跡になる。   

 高価な靴を履いても、裸足の遍路に劣る足跡しか残せない遍路もいる。本堂に懸命な祈
りを捧げようとも、お接待を強要する遍路は乞食でしかあり得ない。宿泊料を踏み倒す遍
路に到っては犯罪者であり、仏の前に立つ資格すらない。

 足は心を運び、心を大地に伝えるもの。草鞋も靴もその道具でしかない。道具が有ろう
と無かろうと、心は1200㎞を歩き続ける。

   あなたは1200kmのカンバスに、どのような足跡を描きますか。

武蔵野の面影 に続く


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