このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

へんろみち



 へんろを遍路とも書く。ひらかなの「へんろ」は柔らかく感じる。「花へんろ」が、それである。
遍路は硬い感じ。広辞苑を紐解くと「空海の修行の遺跡である四国八十八箇所の霊場などを
巡拝すること。また、その人」とある。遍路の文字は、弘法大師修行の遺跡巡りが始まって
から、今日までの永い歴史を感じさせる。
ひとり旅の、修行と無を彷徨う厳しさが滲みでる。
一方、信心も薄く四国の美しさと人々の温かさに惹かれて白装束に身を包む者には、おこが
ましくも眩しい『遍路』のふた文字である。

 『遍路』のふた文字を目にして、路は現在の道路を意味するものと解釈していた。
しかし「へんろみち」の言葉を耳にしたとき、遍路の文字にある不思議さを感じた。
『遍路とは、八十八箇所の霊場を巡拝する行為。それを行う人間。これが一体となって形成
されるもの』
魅かれいく心の歴史を知ったのである。とすれば『遍路』を自認するには、それに見合った
努力と節制、加えて修行が要求されるのではあるまいか。
ケセラセラの人間には、桑原桑原である。

『遍路』も 『へんろ』も発音に変わりはないが、目で見る限り『へんろ』の文字は優しい。
花に道草をしても、流れる雲に時を費やしても、寄せ来る波に戯れても、そしてウッカリお
大師さんのこと忘れてしまっても、咎められることもない。多少食み出しても他人様に迷惑
を掛けなければ、どうぞと仲間に入れてくれそうな気のするのが『へんろ』かな。
『遍路』に成れない者には、『へんろ』が微笑んで待っている。

 へんろみちには『路』がある。ハワイ航路、高速道路などから幅員の広がりをイメージす
るのだが、山路(やまみち)も含まれる。
万葉集5723   あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
山路とは言え739年頃の越前に到る『みち』であれば、当時の幹線であったかも知れない。
現在の『遍路』『へんろ』にとって四国の『路』は、国道県道を指すのではあるまいか。

 へんろみちには『道』もある。これは「みち」ではなく敢て「どう」と読みたい。
剣道、柔道、弓道、華道、茶道に列なる道。即ち遍路道(へんろどう)、へんろ道と解釈
したいのである。真摯な実行は、やがて求道に到達するだろう。
ケセラには困難で、無縁のもではあるのだが……

『遍路』であれ、『へんろ』であれ、霊場から霊場へ物理的な『みち』を歩かねばならな
ことだと思う。『心の道』を外れたとき、『遍路』『へんろ』の傀儡として唾棄されるの
ではあるまいか。四国の人々の心に溶け込んでこそ『遍路』『へんろ』に成り得るのであ
ると思う。

 山道を上り詰めたら眼下に海が開けたり、達成感に感激したり、椿の花にほろりとした
り、霧に流れる山門に墨絵を視たり、『遍路』『へんろ』だけの『みち』を紹介したい。
同じく先達の皆様、先輩の皆様からご教授いただいた『遍路道』の受け売りをしてみたい
ものである。


トイレあってのへんろ道へ続く

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