このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

【真念へんろみち】
  ● 真念庵からレストラン水車の広場まで

 宥井真念は真念房と呼ばれ、大阪西浜町寺島に住む一修行者であったと言われる。
四国遍路道指南、四国遍礼功徳記を著わしたと人物でもある。
空性法親王御巡行記に【真念庵】というのが足摺への分かれ道の所にあったと記されている。
若年の真念がその二十余回の遍路の初期、遍路の難渋を救うための宿泊施設を作ったことが、
これで判るといわれている。
 この真念庵を出発起点として足摺金剛福寺に到るまでを【真念へんろみち】とよぶ。

                  【真念庵】 参照

 ○市野瀬村、さが浦より是まで八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路に宿をかす。これよ
りあしずりへ七里。但しさゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。
月さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハささやまへかえるといひつたふ。……
 四国遍路道指南に載る真念庵の件である。月さんとは足摺をぐるりと回っての月山を言って
いるのだろう。ささやまとは真念庵のある山を言うのか、或いは近くにある峠の名か、或いは
延光寺の寺山の別名かは不明。

 この文から、今も昔も打戻り遍路の多かったことが推測できる。月山回りは宿泊に難渋、歩
行日数もかかることが理由で有ったかも知れない。
村の古老の話によれば、昔は中村市土佐清水市に跨る現在の伊豆田トンネルの上をへんろ道が
走り真念庵に繋がっていたと話してくれた。現在は杉の大木やらが繁茂して道は消えていると
いう。七十年ほど前の話しである。
 明治以後へんろ道の上に新たに国道が開設され、便利になった道が生活道路となり多くのへ
んろ道は消えていったと考えられる。この【真念へんろみち】も新しい道へと同化した箇所も
多い。その時代その時代に分断を余儀なくされた道ではあるけれども、遠い時代のへんろの匂
いを自分の足で辿ってみたい。



 伊豆田トンネルを出るとドライブイン水車が見えてくる。手前を右、46号線へと折れる。
暫く進むと右手に商店が見えてくる。真念庵は無人、納経印はここで戴くことになる。
店の反対側、左側に案内石柱がある。短い坂を上りきると数軒の家、建物が犇めき合っている。
道は狭く人様の軒先を歩いているようで気が引けるが、ひと声掛けるとニコニコと誰もが挨拶
を返してくれる。気分のいい部落である。
この部落を抜けると、右側に取ってつけたような手摺を持つ緩やかな階段が見えてくる。
登り終わると小道の右手に真念庵、左手に尊像がずらりと並んでいる。四国八十八ヵ寺ご本尊
をかたどった石像である。
直線状に並んでいたものが南海地震で波打つようになったとは聞いたが、それでも見事な尊像
の ≪ミギ ナラエ!≫である。
南海地震で波打ちはじめたそれぞれの尊像、それぞれの空間を見詰めて何を想うのか。

 真念庵と尊像を離れると道は緩い下りで、墓地を通り抜けることになる。墓地は竹林の一画
を占めている。薄日が差し竹の葉がさやさやと、みちは歩き易く柔らかい。昔を連想できる小
道だが、人によっては雰囲気に好き嫌いもあるだろう。
墓地を抜けると畠のような空地に出る。一瞬みちが消えたように見えるが畠の外れにはレスト
ラン水車の広場の近くに下りる階段がある。
真念庵から、ほんの短いへんろ道。だが、昔のへんろ道を感得できる道でもある。

 昔はレストラン水車裏の山肌に、へんろ道がうねっていたかも知れない。或いは真念庵の裏
手を廻って市野々川の川べりに出て下の加江と下ったかも知れない。或いは新伊豆田トンネル
の上中村市土佐清水市の境界辺りから左に折れる。真念庵の森を右手に見て下の加江へと歩ん
だ【へんろ】もいたかも? へんろ道を歩きへんろ道を想像するだけでも興味は尽きない。


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