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2.最大の路線網
2−1 美濃電気軌道の開設
明治末年の「電気軌道」ブームの中、岐阜にもこのムーブメントがやってきます。商業地である岐阜の町と東海道線の岐阜駅は約 2km離れていました。旧岐阜駅が旧城下町である加納宿と岐阜町の中間の水田、桑畑に建設されたためです。武豊、名古屋から北上した東海道線は岐阜駅手前で直角にカーブし大垣、関ヶ原を越え、琵琶湖畔の長浜へ向かいました。
もっとも、現在の新幹線が、名古屋と関ヶ原の峠を直線的に結んだために、羽島に駅を置かなければならなかったのも、徒歩水運の時代は何でもなかった中山道と飛騨街道、名古屋道、長良川の交わる交通の要所に岐阜が建設されたという歴史に対して、新たな交通機関である明治の蒸気鉄道や昭和の新幹線鉄道がコース取りに苦労した結果でしょう。
岐阜駅と市街地(現在の市役所付近)を結ぶ市内線と神田町(柳ヶ瀬)から芥見を通り、関を経て上有知へ向かう市外線が同時に開業しました。1911(明治44)年のことです。それ以前、いわゆる第2次私鉄ブーム(明治30年代)にも岐阜と関、上有知を結ぶ鉄道計画があったが、これは開業できず、地域の資金に、当時全国各地で電気鉄道を建設していた、有名な才賀籐吉の資金を加え、彼の輸入した電気軌道システムを導入して開業に至ったわけです。
当時のダイヤは、市内線が10分間隔、市外線は60分間隔だったと言われています。市外線では、まだ越美線がなかった上有知や関からの貨物輸送も行い、沿線の市街地や村むらには電灯用の電力を供給しました。
2−2 北、西、南への延長
美濃電気軌道が開業した頃、軌道条例により建設された美濃電軌に対して、軽便鉄道法による郊外鉄道の建設が行われていました。長良橋北詰の長良(福良)から高富への長良軽便鉄道や忠節橋北側の忠節から北方への岐北軽便鉄道です。これらの路線は、岐阜近郊の農村地帯に引かれた専用軌道を運行する企業で、貨物は長良川水運へ連絡し、旅客は美濃電軌に連絡する形態を数年続けました。
美濃電軌自身も軽便鉄道法による専用軌道線を南へ延ばしました。大正はじめに移転した現岐阜駅前から東海道線を越え、加納、笠松へ向かう笠松線です。また、神田町(徹明町)から西へ向かい旧中山道が長良川を渡る鏡島へ向かう路線を延長しました。この結果、岐阜に対して近郊の中心地である高富、北方、笠松が電気軌道で結ばれた形となり、また、旧中山道に沿った路線も鏡島までできました。
長良橋に美濃電軌の線路が引かれたのは1915(大正 4)年で、このとき長良軽便線と美濃電軌が接続しました。ちなみに忠節橋に電車が走るのは第2次世界大戦後のことになります。
笠松は、名古屋道が木曽川を渡る地点であり、木曽川水運の拠点の一つでもありました。東海道線に駅が作られなかったこともあって、新交通システムができたことで新たな交通拠点となりました。木曽川の対岸には一宮から尾西鉄道が路線を延ばしており、木曽川橋を渡って連絡することもできました。
笠松から更に輪中地域の南部への路線も伸びていきます。竹鼻、江吉良を通って長良川沿岸の大須までを竹鼻鉄道という別会社で延長したのです。輪中地域を岐阜と結び、沿線で生産される米などを輸送する路線となりました。
美濃電軌は、更に別会社で東へ路線を建設しました。各務原鉄道です。美濃町線の野一色の南に軍駐屯地ができ、これらの施設への輸送を意識するようになって、広大な各務ヶ原に、航空関係の軍施設が建設されると、岐阜市街と軍施設を結び、鵜沼宿や犬山へ至る路線が建設されました。国鉄高山本線と全く並行する路線でしたが、旅客主体の路線として複線電化の新路線を建設したのです。
岐北軽便鉄道線を合併した後、美濃電軌は更に路線を根尾川右岸へ延ばします。現在の揖斐線終点の黒野、そして大野郡役所がある三輪に本揖斐駅を建設し揖斐線が完成します。ただ、三輪の揖斐川南岸には、揖斐川電気の鉄道部が大垣から路線を延ばしており、三輪の町は大垣、岐阜それぞれに別の鉄道路線で結ばれるということになりました。
本揖斐へ路線が伸びる前、北方からの美濃電軌の延伸は黒野から別会社によって谷汲へ進んでいました。谷汲鉄道の建設です。谷汲は西国札所の大寺の谷汲寺の門前町で美濃電軌も参拝客を当て込んだようでした。また、樽見線がなかった時代、根尾川上流からの貨客を長瀬などの駅で受け、岐阜へ運ぼうとしたのでした。
2−3 名古屋との直結
大正時代前半、笠松で木曽川橋を介して連絡する美濃電軌と尾西鉄道で、一宮から岐阜への第2のルートが確立したわけでしたが、大正時代後半のダイヤは1925(大正14)年のJTB第1号時刻表によると、美濃電軌笠松線が新岐阜−笠松(現・西笠松)間15分間隔、尾西鉄道一宮−木曽川橋間が30分間隔といった様子で、この区間の国鉄の中長距離普通列車17往復とは違った交通システムだったことがわかります。関東大震災とは関わりなかった繊維工業地帯の一宮から岐阜にかけての発展を、これらの軽鉄道が支えていたということが言えます。
一方、名古屋市街の電気軌道(こちらは電気で動く軌道車両と言う意味)と、名古屋−犬山・津島・清洲・東一宮間の市外線を経営していた名古屋電気鉄道は、1921(大正10)年、市街線を名古屋市へ譲渡し、市外線のみの企業として名古屋鉄道(第1次)の名で再出発した。ただし市外線電車は市営線へ乗り入れ、栄と名駅の中間のターミナルである柳橋駅へ発着しました。
名古屋近郊で国有化されなかった(明治31年=1898年開業)鉄道会社の一つである尾西鉄道は、大正時代、一宮を中心に電化、路線延長をすすめました。木曽川橋駅から更に河岸場(木曽川港駅)まで貨物線を延ばし、一宮から国府宮へ南下する路線を開業した。すでに犬山線岩倉から東一宮へ乗り入れていた名古屋鉄道・は津島線須ヶ口から清洲までの支線を持っており(大正 3年=1914年開業)、この支線と、1925(大正14)年名古屋鉄道・に合併した尾西線の国府宮とを結ぶことで名古屋と一宮が直結されることとなった。1928(昭和 3)年のことです。これで、名古屋柳橋−一宮−木曽川橋の路線ができあがり、名古屋と岐阜の第2ルートとなったのです。
この時のダイヤは1930(昭和 5)年の時刻表によると、柳橋−木曽川橋間は48〜58分を要し、20〜30分間隔で運行されていました。一方岐阜側は笠松−新岐阜間17分を要し、15分間隔で運行されていたわけです。木曽川橋徒歩連絡を10分としても柳橋−新岐阜間は最速75分程度で移動できたと言えます。一方国鉄はこの時代、名古屋岐阜間普通列車で48〜63分かかっており日に二十数往復、特別急行(1日2往復)は27分、急行(もちろん長距離で10往復)は33分、サービス快速(日に数往復)は30分で名岐間を走破していました。国鉄を全部ならせば1時間に1〜2本で結構早かったかもしれず、深夜でもサービスがあると言う意味では使えたかもしれませんが、急行や特別急行は料金がいりますし、名古屋−岐阜間で急行に乗ることが当時一般的だったかどうかはわかりません。
1930(昭和 5)年、美濃電気軌道と名古屋鉄道・は合併します。さすがに昭和恐慌のさなか、岐阜の景気が厳しくなったことを表しているのかもしれません。もちろん名古屋も。美濃電軌が持っていた電力供給部門は名古屋の大電力会社の東邦電力へ譲渡されます。ただ、竹鼻鉄道と各務原鉄道、谷汲鉄道はまだ別会社のままです。
合併した新会社は名岐鉄道と名乗り、名古屋と岐阜の会社であることを宣言します。この象徴的な建設が木曽川架橋です。一宮と笠松の間に直線の新路線を建設し、橋の徒歩連絡を廃止して、名岐間電車を直通させることで名実共に名古屋岐阜の鉄道会社の基幹商品とすることを目論んだものでした。1935(昭和10)年、架橋新線と笠松線の改築が完成し、名岐間は直結されたのでした。ただし、名古屋市内は市電乗り入れ、新岐阜駅は笠松線時代のままの施設での直結でした。後の時代のダイヤになりますが、1940(昭和15)年の時刻表では、柳橋−新岐阜間は各駅停車で64分、急行で51分。市外線ターミナルの押切町−新岐阜間に設定されている特急は34分で走破しています。これで国鉄並みの所要時間です。その後、名古屋ターミナルの変遷もありますが、話を岐阜に戻しましょう。
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