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      58系 急行うわじま6号 予讃本線 海岸寺〜宅間 1979.8.18
国鉄時代、宇高連絡船の四国の起点、高松駅からは、各地へ向かう気動車急行が、
ひっきり無しに、発着していましたが、このうわじまも高松発の四国の主力急行列車の
ひとつとして活躍した列車です。
 急行うわじまは、予讃本線で、四国の南西部、愛媛県の南予地方の宇和島市まで結んでいた急行で、松山〜宇和島間の気動車準急うわじまとして、1961年10月1日に、新設され、1966年3月5日には、急行うわじまに格上げされました。1968年3月10日の改正では、
高松〜宇和島間の急行はうわじまに統一され、一挙に9往復となり、予讃本線の
主力列車となりました。
          
          キニ55形(551) 1982.12.12 常磐線 北小金〜南柏

キニ55 4キニ55形は、キハ51形を改造した荷物車で、多度津工場で1965年に4両が改造された。従来の客用扉はすべて埋め込まれ、幅2,000mmの両引戸が2か所設けられた。車体が長い分、荷物用扉間の窓がキニ17形より1個多い3個となっており、荷重も1t多い12tである。
改造後は水戸機関区に配置され、常磐線の荷物列車として使用された。前年に1エンジンのキニ16形が就役していたが、高密度ダイヤの常磐線での運用は出力不足による加速力不足が問題となった。このため代替車として2エンジンのキハ51形を種車にした本形式が充当されたものである。本形式は、キハ10系としては最も遅くまで使用され、廃車は1984年であった。
キハ51 2・4・10・13 → キニ55 1 - 4
 
  
         
         181系 やくも1号  伯備線 井倉〜方谷 1977.10.24
1972(昭和47)年、新幹線が新大阪から西進して、岡山まで開業した。ここで、岡山で
新幹線から接続して、伯備線を通って米子・出雲市方面へ向かう特急列車が設定され、
「やくも」となった。当時伯備線は非電化であったため、キハ181系による運転となり、
運転開始当初は3往復であったが、増発が実施され、6往復にまで増強され、
全列車気動車で運転される特急としては唯一L特急に指定されるなど、非常に好調な
成績を残した。
 伯備線は輸送も好調なことから、電化されることとなり、昭和57年に電化が完成、
「やくも」もキハ181系から381系に置き換えられ、さらに急行列車の格上げなども実施
され、本数は大幅に増え、381系の高加減速なども手伝い、大幅なスピードアップ
を果たした。
         
        DD135  東海道本線 品川駅構内 1977.10.10
ヤード構内での車両入換作業に用いることを主目的として開発された機関車である。本形式が製造される以前、車両の入換作業には明治・大正時代から戦前にかけて製造されたB6形や、9600形、8620形等の古豪蒸気機関車が使用されていたが、都市部では煤煙による周辺環境への悪影響が、国鉄部内でも機関車自体の老朽化、動力費と人件費の増加などが問題視され始めていた。しかし、その当時、国鉄が保有していた入換用ディーゼル機関車は、DD11形およびDD12形(アメリカ製)の10数両のみで、それらはいずれも出力は300ps級にとどまっており、ヤード構内での入換には力不足であった。
そこで、DD11形より出力を増強し、入換用として適切な出力を備えたディーゼル機関車が計画された。こうして1958年(昭和33年)から製造されたのが本形式である。入換のほか、支線などでの小運転に用いることも想定された。
外観はDD11形およびDD12形と同様に、2台のエンジンの間に運転室を設けた凸形のセンターキャブ形状である。ディーゼルエンジンは、1937年(昭和12年)に試作されたキハ43000形電気式気動車用 DMF31H(横型 = 水平シリンダー、直列6気筒、排気量31リットル、渦流室式。240ps/1,300rpm)をベースに、国鉄・新潟鐵工所・振興造機・ダイハツ工業で共同開発した縦形 = 直立シリンダー、直列6気筒のDMF31S形エンジンを2台搭載する。変速機は液体式で、振興造機が開発した直結クラッチ付きリスホルム・スミス式シンコー DS1.2/1.35 を搭載した。
  
 
         キハ20  238Dレ  土讃線 新改駅構内 1979.8.20
1957(昭和32)年、キハ17系の後継として製造された一般型気動車。エンジン
などの足回りはキハ17系に似ているが、車体を軽量化の上、大型化した。
1966(昭和41)年まで総計1072両が製造され、北海道から九州まで、
全国各地で活躍したが、キハ40系や、JR製造の気動車の誕生、非電化区間の減少
によって大幅に勢力を縮小。
 現在、JRで活躍を続けるのは、1958(昭和33)年にキハ20の出力アップ
版として登場したキハ52のみ。内燃機関は縦型のDMH17Cを2機搭載したの
が特徴で、今でも通用する勾配に強い両運転台車として,勢力を減らし
ながらも、東北・北陸地区で重宝されている。また、盛岡地区で引退したキハ52形
の一部はミャンマー国鉄へ譲渡された。
 その他、北海道向けに1958(昭和33)年に登場したキハ22形が、津軽鉄道で
予備車として残存するほか、岡山県倉敷市の水島臨海鉄道でキハ20形が
朝ラッシュ時に活躍。この他にも、
過去は島原鉄道など様々な私鉄や第三セクターで活躍していた。ちなみに現在、
JR西日本の大糸線のキハ52形が往時の3種類の塗装に復元されて運行されており、
鉄道ファンを楽しませている。 


       DD13346  鶴見線 大川駅構内 1977.11.23
DD13 300番台
1966年(昭和41年)から翌年にかけて83両製造されたもので、車軸に取り付けてある減速機の曲り歯傘歯車(ハイポイドギア)の強度向上と、歯数比(減速比)の変更により、台車形式がDT113形からDT113E形になった。従来の台車とは互換性がなくなったことから既存機と区分するため300番台とされている。

  
  DF50-52 226レ  土讃線 新改駅構内 1979.8.20
非電化亜幹線の無煙化のため1957年(昭和32年)に先行試作車が製造され、以後1963年(昭和38年)まで増備された。国鉄のディーゼル機関車の中では初めて本格的に量産ベースに乗った形式である。
当時は液体変速機の技術が未熟であり、メカニズムについては本形式の前に製作されたDD50形に引き続いて、発電用のディーゼルエンジンと駆動用のモーターを搭載した電気式が採用された。重連総括制御可能な点もDD50形と同様であるが、非力さから重連運転常用を前提に片運転台で製造されたDD50形と違い、本形式は亜幹線で単機運用ができることを主眼に設計され、両運転台となった。
外見的な特徴は、電気機関車同様の箱形車体と、線路規格の低い亜幹線での使用を考慮し軸重を抑えるためB-B-B型軸配置を採用した点である。B-B-B型軸配置は、中間台車の横方向へのずれを許容する設計としたことで曲線通過を容易とした効果的な設計でDF40形のようなC-C型軸配置と比較して台車の総重量は大きくなるが、その一方で曲線通過時に過大な横圧が発生する危険性が低く、EF60形以降の電気機関車でも採用されている。モーターは出力100kWの直流直巻電動機(MT48形)が6基搭載されており、駆動方式はつりかけ式である。
 
  
     
キハ58 急行あがの 6106Dレ 東北本線 藤田〜貝田 1982.05.04

新潟−仙台
磐越西線経由で2往復運転されていた。「いわき」との併結時は、最大10両編成と大所帯
であった。昭和60年3月14日に快速格下げされ、現在は新潟−会津若松間の区間と
なっている。愛称の由来は、「阿賀野川」より。磐越西線では、平成11年からSLばんえつ
物語号を運転している。
 
  
   
     DD514 伯備線 備中神代〜新見 1977.10.24

第2次試作型で2号機は日立製作所が、3号機は川崎車輛が、4号機は三菱重工業がそれぞれ担当し、いずれも1963年に製造された。前照灯はボンネット前端にやや奥まった形態で配置され、凹んだ四角形のライトベゼルが付けられた。運転室屋根前後端は水平に延長され、ヒサシ状となった。中間台車は、コイルバネにライナーを挿入することで14t - 15tの間で軸重切替が可能である。燃料タンクの容量は3,000Lだったが、のちに700Lタンクがランボード上2箇所に設置され、4,400Lに増量された。
1号機のテストで得られた結果を元に改良されており、所定の牽引性能を確保した。また、技術的な問題も解決され、以後の量産車に反映された。
3両とも盛岡機関区に配属され、秋田から転入した1号機とともに、当初は東北本線御堂駅 - 奥中山高原駅間の十三本木峠越えに投入されている。
末期には2号機と3号機が秋田機関区に、4号機が岡山機関区にそれぞれ転属されたのち、4号機が1983年に廃車され、2号機と3号機がそれぞれ1985年に廃車された。
 

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