第1章 国鉄分割民営化攻撃の全体像
★第2次臨時行政調査会
国鉄分割・民営化はどのようにして始まったのか。その背景と経過を以下簡単にまとめてみた。
加藤寛 |
動労千葉が81年3月に三里塚ジェット燃料阻止闘争をたたかいぬいた直後の81年3月16日、第2次臨時行政調査会(会長は土光光男。経団連前会長) が発足した。さらに同年9月には国鉄、電電、専売の三公社の改革をテーマとする第4部会(座長は加藤寛・現千葉商科大学長)が設置され、11月には「戦後政治の総決算」を標榜する中曽根政権が登場した。
日本経済は74〜5年頃に高度経済成長が完全に行き詰まり、日本帝国主義はその打開策として膨大な公的資金投入(新幹線建設など)と輸出ラッシュで乗り切った。その結果1980年代冒頭から、国鉄累積赤字問題と国家財政の破局危機が深刻な問題として全面化した。さらに、1979年イラン革命と第二次石油ショック、同年ソ連軍のアフガニスタン侵攻という事態の中で、「安保防衛政策の危機」に直面し、これを打開するために始まったのが行政改革であり「21世紀に日本が生き残るための国家大改造計画」(82年自民党運動方針)だった。「行革とは精神革命であり、国家改造計画だ。滅私奉公の精神、『私』は捨てて『公』のために尽くす人間への意識変革、これを軸に据えないコスト削減だけではダメ」「行政改革によってお座敷をきれいにして、立派な憲法を床の間に安置する」(中曽根)—これを臨調行革の目標とした。
この具体的実践として、国鉄分割・民営化攻撃であり、最大の障害となっている国鉄労働運動、とくに主力部隊である国労を解体し、総評労働運動を解体しようとしたのである。それは、同盟や民間大手御用労組などが進めていた右翼労線統一(今の連合結成につながる)の動きと一体となったものだ。
★敵の攻撃は周到な準備のもとに開始された。
1981年暮からすさまじい反国鉄キャンペーンがはじまった。 「国鉄労使悪慣行の実態」「『突発休』多く支障」(81年12月12日付読売)「赤字国鉄がヤミ手当、ブルートレイン検査係に手当支給、年に千数百万円カラ出張で山分け、過去十年間」(82年1月23日付朝日)とスコミは連日連夜、「ヤミ手当だ」「空出張だ」「働き度がわるい」「なまけている」「ストばっかりやっている」、「これらのことが原因で赤字が増えた」などと、膨大な国鉄累積債務(赤字)を全て国鉄労働者が作り出したかのように描き出すした「国鉄労働者=国賊」論が大展開された 。
さらに「国鉄運賃なぜ5年連続アップ?すべて官・民の生産性の差から」「国鉄踏切番、大あくび、37本3人がかり、私鉄なら2人で700本」とデマ記事が流され、分割・民営化やむなしとする世論形成がおこなわれた。
「カラスが鳴かない日はあっても、国鉄のことが新聞に載らない日はない」—まさに財界や政府、そしてマスコミの総力をあげた攻撃だった。その結果、国鉄分割・民営化賛成が世論の七〇%にまでなった。
★国鉄赤字の原因
国鉄の赤字とは何か。そもそも累積債務が問題になるのは1971年からだ。日本経済は、ドルショックやオイルショックなどを契機に高度経済成長が終わり、すさまじい経済危機に直面する。その打開を訴えて登場したのが田中角栄内閣だ。田中は「日本列島改造」と公共部門に対する膨大な設備投資を進め、内需拡大をつくりだした。その最大の担い手にされるのが国鉄であり、上越、東北、山陽新幹線の建設だった。その結果、七一年当時、国鉄の長期債務は一兆円程度だったのが、84年には23兆円になる。さらに2年後の分割民営化時には37兆円、たった2年間で14兆円も増えた。国鉄と関係なく作った青函トンネルとか、本州と四国を結ぶ本四架橋などの建設費を全部上のせしたのだ。「巨大な国鉄赤字は労働者がまじめに働かないからだ」というのは全くの許すまじきデマなのである。
こうした反国鉄キャンペーンを背景に、第2臨調は、82年7月の基本答申で、「職場規律確立」、私鉄並みの生産性向上、あらゆる手当の削減、新規採用の停止などの「緊急11項目」を発表し、87年4月の国鉄分割・民営化=JR発足までの5年間にわたって、政府と国鉄当局が一体となって実施した。それは、国鉄労働者が数十年間かけて勝ち取ってきたあらゆる権利を剥奪し、40万人の国鉄労働者を20万人に削る、つまり2人に1人というすさまじい要員削減・首切り攻撃としておこなわれたのだ。
★動労カクマルを手先に
動労革マルは、すでに82年1月には「職場と仕事を守るために、働き度を2〜3割高める」という悪名高い「働こう運動」を打ちだしていた。表向きには「分割民営化反対」を掲げていたが、たちまち馬脚をあらわす。82年のブルトレ問題でのぬけがけ的妥結を皮切りに、以降、入浴問題、現場協議制問題等でつぎつぎに当局と妥結。東北・上越新幹線開業に伴う83年2・11ダイ改では、国労が六年ぶりに順法闘争をたたかっている最中、鉄労とともに当局提案を全面的に受け入れた。こうして動労を使って国鉄労働運動をつぶすというこの攻撃の出発点が形づくられた。
動労革マルはその最初から、極めて自覚的に権力・当局との密通関係を結び、国鉄労働運動破壊の尖兵となることによって自己の延命をはかるという道を選択したのである。
★攻撃の全面化と「首切り三本柱」
83年6月、国鉄再建監理委員会(委員長は亀井正夫)が発足、直ちに緊急提案をだすが、これは「国鉄再建」の権限が運輸省・国鉄当局から内閣に移ったことを意味した。国鉄当局はこれにせきたてられるように合理化攻撃を強化する。とくに84・2ダイ改では、動乗勤改悪に手をつけ、地方ローカル線はどんどん切り捨てられ、貨物ヤード基地の廃止を進めた。これは、単なる要員削滅にとどまらず、積極的に「余剰人員」をつくりだす攻撃であり、分割・民営化強行に向けた最も重要な施策になっていくのである。
こうした攻撃の集約として84年7月に打ちだされたのが、いわゆる「首切り三本柱」(余剰人員対策3項目)であった。それは、①勧奨退職、②一時帰休、③出向、によって85年度までに3万人の余剰人員を吸収するというもので、しかもこの三本柱への協力を、各組合との雇用安定協約再締結の前提条件としたのである。
この理不尽な攻撃に、国労も当初は強く反発し、いわゆる「三ない運動」(辞めない、休まない、出向しない)を提起する。当時国労は、激しい集中放火を受けながらも、なお二十万八千人の組合員を擁する圧倒的な第一組合だった(84年9月時点)。
鹿児島地本で、懲戒免職8名を出す職場占拠闘争がたたかわれるなど激しい抵抗も起きていた。厳しい攻撃のなかで多くの労働者がたたかう方針と指導を求めていたのだ。だが国労指導部は組合員のこの思いを裏切った。 ★国労本部の動揺
84年9月には動労本部が鉄労などとともに三本柱を妥結、率先協力するなかで、当局は国労との交渉を打ち切り、11月には雇用安定協約の破棄を通告する。この脅しに屈し、国労本部は、攻防の焦点となった翌年85・3ダイ改でのストの中止を決定した。
だが肝心なことは、雇用安定協約の破棄という攻撃は、不安や動揺を煽りたてて団結にひびを入れ、労働組合の屈服を引きだす手段として持ちだされたものであって、労働組合や労働者が毅然としていれば、何ひとつ実際の効果があるわけではなかった。このとき労働組合の指導部がとるべき構えは、攻撃の本質をきちんと暴露し、その卑劣な手口にたち向かうたたかいの方針を提起することであった。
しかしここでも動労千葉と国労は全く違う道をとったのである。 ★再建管理委員会が最終答申
85年7月、国鉄再建監理委員会は最終答申を提出し、監理委員長の亀井は「組合対策には分割民営化しかない」(読売)、「国労と動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動の終焉を、国鉄分割によって目指す」(文藝春秋)とその目的をハッキリさせて、「87年分割・民営化」の最終的結論を打ちだした。 前月には国鉄総裁の更迭をもって、国鉄官僚内に根強く残っていた「民営化はしかたないが、分割には反対する」という異論も暴力的に粛正一掃されていた。
★「国鉄の民主的再生論」
分割・民営化攻撃との攻防はいよいよ重大な段階に突入した。だがこの決定的なときに、国労本部は「国鉄の民主的再生論」をかかげて、組合員のあふれる怒りと戦闘力を敵に向かって組織することをしなかった。総評は85年7月の大会で「三池以上の決意でたたかう」などと提起しながら、具体的方針は5000万署名運動だけであった。
また国労は五月の臨時大会で「三ない運動」の中止と三本柱の受け入れを決定したが、国鉄当局は、「まだ各地方に三ない運動の中止が徹底されていない」「実効があかつていない」と称して雇用安定協約の締結を拒んだ。
★青年部の駅助勤闘争
一方、動労千葉は職場規律攻撃をはじめとした当局の攻撃に対して激しい職場闘争を展開していた。その一つが駅助勤闘争である。
駅助勤とは、国鉄当局が「余剰人員活用策」と称して乗務員・検修員を駅の「通勤対策業務」に一定期間配置するものであった。当局の狙いは、「過員活用」を口実に国鉄労働者を屈服させ、労働組合の団結を破壊することにあった。動労千葉の場合、85年5月ごろから、若い人から順番に交代で浅草橋から千葉までの総武線の各駅で、特別改札(朝のラッシュ時の“尻押し”)旅行センター補助業務などの仕事に就くことになった。
動労千葉の青年部員にとっては、自分たちの運転職場から初めて離れて、当局・職制と自力でぶつかる全く新しい経験であった。しかも、意図的に動労千葉組合員を各駅にバラバラに配置し、孤立無援状態で屈服を迫まった。「ネクタイ、名札着用、組合ワッペン不着用」を強要する職場規律攻撃である。動労千葉の組合員は、国労千葉の仲間と共闘し、全員で名札着用を拒否し激しく当局と激突した。
ところが、大量処分に恐怖した国労指導部は、「名札着用は本人の自由な判断に任せる」という方針に転換。これは、当局の攻撃の前に組合員を“無防備”で放り出すことだ。
最後まで名札着用を拒否する国労組合員もいた。しかし当局の圧力の前に一人また一人と名札を着け始めた。攻撃の矛先は動労千葉青年部員に集中した。毎日毎朝の点呼時での恫喝、警告書、処分のおどし、職制の導入……。動労千葉青年部は一人の例外もなく頑として着用を拒否した。当局は「動労千葉の組合員は不良品だ」という暴言を吐き、動労千葉にのみ不当処分を強行した。
毎日毎日の神経のすり減るような当局・職制との一対一の攻防をたたかいき、職場に戻ってきた動労千葉青年部は、「腹をくくってたたかおう。ひとあばれしよう」を合言葉とするようになった。
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