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第2章
 国鉄分割・民営化反対闘争の決断
 動労千葉は当初から、この国鉄分割民営化攻撃がただならぬものであることを直観的に理解し、そのことを真正面から組合員に提起していた。。
 82年から85年にかけて全国の職場に襲いかかった攻撃は、ただ千葉(とくに運転職場)と他との違いがあるとすれば、動労千葉が存在していたことである。裏返していえば、分割・民営化攻撃の突撃隊となった動労カクマルは、千葉では極少数派として点在していたにすぎず、動労千葉や国労を正面から攻めたてるような力も気迫もなかったことである。
動労千葉は、第二次臨調や国鉄再建監理委、中曽根政権の動向、動労本部の転落ぶりを直視しつつ、嵐のような攻撃に対していかなる有効な反撃を組織し得るのかを真剣に考え、ねばり強くたたかいを展開していった。「85・3ダイ改」に反対する全国唯一の非協力・安全確認行動にたちあがった。 しかし攻撃は、このようなたたかいをも完全にのみ込み押し流す大きさと激しさで進んでいった。
 動労千葉は、85年9月当時1100名の組合員を擁し、千葉管内(7400人)では、運転・検修部門でみれば945人で、運転士の70%を組織していた。千葉県内を走る内房線、外房線、総武本線、成田線などの重要路線はもとより首都圏を貫く総武線の緩行、快速を握っていた

★職場に暗雲が
 国鉄再建監理委員会が最終答申をだした85年7月時点では、国鉄職員はすでに二七万六千人にまで削減されていたが、最終答申では、「適正要員規模」からすれば新事業体移行までにさらに九万三千人を余剰人員化するというのである。新たに3人に1人の首を切る攻撃だ。
 しかもたたかいの方針を求める現場からの怒りの声の高まりとは裏腹に、国労本部の動揺と後退で、職場には暗雲がたちこめ、ていた。
当時の状況を理解するために、国労組合員の叫びを紹介する

「このままの状況で国鉄の分割・民営化が押し切られてしまうのだろうか。これからの生活はどうなるのだろうか。そんな不安が全ての国鉄労働者の心中をよぎり、自己保身の思いが大半を占めていた。『闘えば処分がくる。凶暴になっている当局は何をするか分からない。選別の時に振り落されるのだ。できるだけ当局にマイナスに評価されないようにすることだ』という思考が、抵抗する力を労働者から奪い、長い間に多くの犠牲をはらって闘い確立してきた労働慣行・条件を当局の一方的な、たった一言で明渡さなければならない状況にまで追いつめられていた。心ある人々は何とかしなければと思いながらもズルズルと引ずられてきた。『こんなことがまかり通ってたまるか』という心の片隅にある思いに火をつけなければならないと思ってきたが、組合幹部の加速度的な当局に対する屈服的姿勢を見せつけられてきた。
 動労は『五五歳以上の退職』を組合の名で強制し、『出向・派遣』を組合みずから積極的に指示し取り組んでいた。これはもはや労働組合ではない。
 そういう動労・当局の策動に引ずられて国労のたたかいは大変な困難に直面している。『三項目』の妥結、『三ない運動(出向 ・休職・退職に応じない)』の中止と、現場の労働者の気持ちと全く反対の方向へと向っている。『本当に闘う気はあるのか』『やっぱりダメか』という思いが組合員の中に発生しつつあった…「去るも地獄.残るも地獄」となりつつある。それにもかかわらず国労中央は、『二一世紀の国鉄』『国鉄再建』『民営的手法の大胆な導入』『雇用の確保』と当局の言い分と見間違うような内容を主張している。およそ職場の労働者の感情、不安
を逆なでするものでしかない。」(86年2月発行『破防法研究』国労新潟地本組合員より)
 ★ 何が求められていのか
 何よりも第1に、この状況を放置すれば、長いたたかいのなかで培われてきた組合員の階級的団結が破壊されることは確実であった。職場に疑心暗鬼が生まれ、仲間同士がいがみあい、足をひっぱりあうような状況になることは目にみえていた。これは家族ぐるみのつきあいも含めた人間関係が全部ズタズタにされるということだ。
 第2に、この攻撃の渦中でも、組合員は明日は我が身がどうなるともしれない不安を抱えながら連日連夜何千何万という乗客を乗せながら列車を動かしているわけで、運転職場を組織する労働組合としては、もし明確な方針が提起されなければ、精神的な不安・葛藤から事故の多発という事態を招きかねない。そういう切実な問題意識が、つねに動労千葉の執行部の念頭にあったのである。 
 第3に、より根本的な問題は、分割・民営化攻撃が、かつて例をみないほど大がかりな労働運動解体攻撃であったこと、そしてもしも戦後労働運動の中心部隊である国鉄労働運動がこれと一戦も交えずに敗北した場合には、今後日本の労働運動がどれほどの困難を強いられることになるのかは自ずと明らかだったことである。
しかも、国鉄労働者の闘いへの決意は決して打ち砕かれてはいなかった。重大な攻撃の意図を打ち砕く反撃へのチャンスは決して閉じられていたわけではなかった。
 なによりも求められていたのは、確固としたたたかいの路線であり、方針であり、たとえ火の粉をあびても、組合員に勇気を与え激励してそれを貫く労働組合の指導部の構えであった。

★ストライキ方針を決定
動労千葉が85年11月のストライキ方針を決定したのは、同年9月9日〜10日に行われた第10回定期大会においてであった。大会スローガンは、①国鉄分割・民営化阻止②10万人首切り合理化攻撃粉砕—ひとりの首切りも許すな! ③運転保安確立—国鉄を第二の日航にするな!④未曾有の国鉄労働運動解体攻撃粉砕!—であった。
 大会冒頭、あいさつに立った中野洋・当時委員長(45)は、
 「 国鉄の赤字は『国鉄労働者は働きが悪いから』なのか!『ストライキばかりやっているからか!』。こんなデマを大宣伝され、『国民世論』に仕立て上げられ、悪者にされたたまま首を切られるて、だまっていられるのか」「三人に一人の首切りに対して闘わなかったら、組合の団結は必ず破壊される。残りたい組合員が仲間を裏切って当局にすり寄りはじめたら、組合員同士が疑心暗鬼になり、職場の連帯感も破壊されてしまう。闘うことでしか団結は守れないんだ」「われわれはもはやこれ以上引くことのできないドタン場に立っている。いまや国鉄労働者は自らの全人格、全人生が暴力的に破壊されようとしている」「ここで本気になって腹を固めて起ち上がる以外にない。国鉄内部から強烈な怒りのNO!をたたきつける以外にない」とストライキ方針を力強く訴えた。
 大会は凄い緊張と、そして感動的なものになった。大会で明らかになったことは、「今までは我慢してきかが、もうこれ以上我慢できない」という怒りが充満していることだった。ストライキを打ち抜けば必ず大量処分による報復が予想される。しかし、ここで逡巡していれば労働者としての誇りも尊厳もズタズタにされたうえでクビを切られるだけだ」と次々とスト方針を支持する発言が続き、満場一致で決定された。「動労千葉が矢面にたって起ちあがれば、必ず国労も後につづくであろう」—こうした思いは全ての組合員に共通していた。
 もちろんここには、動労千葉の労働者が、船橋事故闘争、動労本部からの分離・独立、三里塚ジェット闘争などでつちかってきた戦闘的伝統、不屈の労働者魂が脈々と波うっていたのである。
 しかし、動労千葉は、決してあらかじめ活動的な労働者を集めてつくられた組合ではない。全国のどこの国鉄職場にでもいるごくあたりまえの国鉄労働者を組織した組合である。だから、全国の国鉄労働者と同じように、この過程にはさまざまな悩みがあり、ためらいがあった。自分だけは「3人に1人」になりたくないという組合員も当然いた。「うちの父ちゃんだけはストから外してくれ」と訴えてくる家族もいた。しかし動労千葉の下した決断は、何度となく討論し悩み、そして不安や疑問を洗いざらい出し合いながら到達した結論であった。
 9月定期大会にもとづき、動労千葉の各支部は次々と支部大会を開催し、全支部でスト方針は確認された。また「支部長解雇は間違いない」というなかで、全支部の支部長は留任した。
 また動労千葉は、支部が所在する各地域で集会開催し、組合員の家族にも真正面から訴えた。職場では連日の個別オルグで腹をわった話し合いが重ねられ、さらに家庭でも多くの組合員宅で家族会議がもたれた。
  ★『死中に活を求める』
 11月17日、動労千葉は、東京・日比谷野音で三四〇〇名を結集して全国鉄労働者総決起集会を開催した。中野委員長は基調報告の最後で、「第一波ストは11月29日。総武線緩行線快速線を中心に24時間ストに突入する」と初めてスト決行日を発表した。こうして、動労千葉はみずからの決意をきっぱりと宣言し、退路を断った闘いに突入した。

 「 動労千葉は当時一一〇〇人、国鉄労働者全体の中では本当に小さな勢力です。国家権力を相手に戦争して勝てるのか、それどころか残れるのか、本当に悩みました。しかも闘った結果、加わるであろう激しい弾圧を受けて、組織的にも財政的にも維持できるのか、組合員がもつのか、あらゆることを考えました。労働組合側にとって、いい条件は何もない。…悩みに悩んだと言っても、八二年に分割・民営化攻撃が始まってから約三年間、同じことがぐるぐる頭の中で回っている状態だったと言っても過言ではありません。悩んで悩んで、結局、『迷ったら原則に帰れ』という言葉どおり、『ここで組合員を信頼し、闘うことをとおして団結を固めていく以外に動労千葉の進む道はない』という結論に達したのが八五年前半ぐらいです。『やる以上はとことんまでやろう』と腹を決めたわけです。本当に『死中に活を求める』決意でした。」(「俺たちは鉄路に生きる2」中野洋書)

★ストライキ戦術を決定
 11月21日、動労千葉は支部代表者会議が開催し、スト戦術の意志統一がはかられた。
 戦術のポイントは、①11月29日始発時より総武線緩行、総武快速線を対象とした二四時間スト、②当局・権力のスト破壊が行われたら、スト時間の繰り上げ、スト対象の拡大を行う、③国労に、当局のスト破り行為の要求には応じないよう求める、というところにあった。とくに重要なのは国労との関係であった。
 今回スト対象となった総武線快速と緩行は、すべて動労千葉組合員が運転しているわけではない。快速の方はすべて千葉運転区の乗務員が動かしているが、その内訳は動労千葉が約五割で、残りは国労。緩行の方は動労千葉が三割で、残りは国労千葉が三割、さらに中野電車区の国労が三割、動労が一割となっている。したがって、動労千葉が単独ストを行なった場合、快速が五割、緩行が三割ストップすることになる。しかし、当時総武線では1日86万人の乗客、ラッシュアワーには2分39秒間隔、快速は4分間隔という超過密ダイヤでさばいている。8、9割以上の運行が確保されない限り、駅のホームに大量の乗客があふれ、安全に輸送することは至難の業になりので全面運休にしていた。
 ところが、今回は、国労、動労の組合員をスト破りに動員することであくまでも運行を強行する体制で臨んできた。「ストをやっても電車は動く」「ストは無力」という重圧を加え、動労千葉ストの影響をゼロにしょうとしたのである。

★国労がスト破り方針
 ストライキ決定以降、 動労千葉は国労に「スト協力」を何度か申し入れていた。 国労本部は、「国労としては5000万署名を実現し、86年7月の総選挙後に一大闘争を構える」というのが公式な対応であったが、陰にまわっては「動労千葉のストは五千万署名に敵対するもの」と主張しはじめ、「ストに際しては業務命令に従う」という国労結成以来初めてという「スト破り方針」を決定したのである。しかも、11月28日(スト前日)に予定されていた動労千葉青年部と国労千葉青年部の共闘集会は中止の指示をおろし、動労千葉との共闘破棄を通告してきた。
 要するに、国労本部は、スト破りで国鉄当局に協力することで、すこしでも心証を良くしてもらい、一一月三〇日に期限が切れる雇用安定協定の再締結を懇願したのである。しかし、国労絶滅を至上命題としていた国鉄当局は、当然にも雇用安定協定の再締結を拒否した。
 国労のスト破り方針は、たとえ動労千葉の組合員が24時間ストに入っても、その穴が、業務命令に従う国労、動労の組合員によってうめられ、総武線は通常通り動くということを意味した。これは「全員解雇」の恫喝よりもさらに重く動労千葉の労働者の上にのしかかった。
 国労、動労を使ったスト破り計画は、29日のスト破りダイヤを作成し、これに国労組合員で「過員」として「業務開発センター」に押し込んでいた要員をひきあげたり、ふだんは運転乗務しない指導員や予備乗務員をひっぱり出して業務命令を出しといった内容で着々と進められていた。

★密集した反動の嵐
 スト決行日が迫るにつれて、動労千葉を重包囲し絞殺せんとする密集した反動の嵐は常軌を逸した。スト戦術を最終決定した11月21日の夜、国鉄当局は、組合員全員の家庭に、「ご家族の生活基盤の確立において、極めて不幸な事態を招くことは明らか」などと傲慢不遜な言葉を連ねて「ストに参加すれば全員解雇」という前代未聞のスト禁止令を送りつけた。
 また、国家権力はこのストライキに対し、全国から実に一万人の機動隊を動員した。津田沼電車区の周囲は機動隊の装甲車で埋めつくされたのである。

 

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