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創立 [ 徳道上人 ]
奈良時代の養老2年(718年)長谷寺の徳道上人によって創められました。 神亀4年(727年)聖武天皇の勅を奉じ、民衆のために長谷寺に十一面観音をおまつりしました。 伝説によれば、病のため仮死状態にあった徳道上人が、夢の中で閻魔大王に会い「悩める人を救うために三十三所の観音霊場を広めるように」と委嘱され、三十三の宝印を授けられて仮死状態から解放されたといわれています。
上人は近畿地方の寺々に霊場を設け三十三寺の巡拝を創められましたが、人々はなかなか信用せず、上人はやむなく宝印を中山寺に埋められたのです。三十三寺観音霊場巡りは忘れられていきました。
長谷寺横の発起院は徳道上人がおまつりされており、西国三十三寺巡礼の「番外」として巡拝されています。
中興 [ 花山法皇 ]
270年ちかく絶えていた巡礼は、平安時代後期になって花山法皇により再興された。 花山天皇は永観2年(984年)17歳で即位されましたが、藤原兼家の策略により寛和2年(986年)夜半に天皇は宮中から元慶寺につれ出されました。兼家は自分の孫で皇太子の懐仁親王(7歳)を天皇として即位させました。
このようにして退位させられた花山天皇はその後出家されましたが、「花山法皇の狂い・・・・」と噂されるほど奇行がみられ、言動にも異常なことが多かったと言われています。
やがて永延2年(988年)花山法皇は中山寺の宝印を掘り出し、大和石川寺の仏眼上人や書写山の性空上人の勧めで那智で修業されました。さらに三十三寺を巡拝して観音さまのあたたかい慈悲に触れて蘇生されたのです。
このようにして、西国三十三寺巡礼が復活し、盛んになっていきました。
播州三田の花山院御廟は花山法皇が余生を過ごされた所で、お墓もあります。
元慶寺とともに西国三十三寺巡礼の「番外」として巡拝されています。
順路
江戸時代になって東国(江戸)の人々の伊勢詣と霊場巡りが盛んになりました、その便利がはかられ、伊勢から熊野路を経て那智に至り、ここを起点とする順路も定まり、名称も「西国」と呼ばれるようになったのです。
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