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西国三十三寺 観音霊場巡り
◆西国巡りの解説◆ 私の西国巡り御詠歌一覧御詠歌(かな)

★ 観世音菩薩について
世の音を観てそれ相応に救いに手を差しのべられるのが「観世音菩薩」、観音さまです。
観音さまは十一の面、千の手、千の眼などその他さまざまなお姿で、時には優しく、時には厳しく私たちに接してくださいます。
観音さまの御名を呼べば、観音さまは三十三に化身して衆生を救ってくださるという観音経の説に基づいて三十三の霊場が設けられたのです。
「同行二人」とは観音さまが巡礼の道連れだからです。

★ 札所巡り
昔は木製の納札の穴にひもを通して、これを首からかけて巡拝しました。
霊場ごとに木製の納札を打ち付けて巡拝の記録としました。
霊場のことを「札所」と言うのも、巡拝することを「打つ」と言うのもここからきているのです。
今では納札も紙の札になってしまいました。
各霊場へは、経本を納めるか自身で般若心経や観音経を写経して納めます。納経料を納め、その証として納経帖に寺印(宝印)を受けるのです。

★ 観音霊場巡りの歴史

創立 [ 徳道上人 ]

奈良時代の養老2年(718年)長谷寺の徳道上人によって創められました。 神亀4年(727年)聖武天皇の勅を奉じ、民衆のために長谷寺に十一面観音をおまつりしました。 伝説によれば、病のため仮死状態にあった徳道上人が、夢の中で閻魔大王に会い「悩める人を救うために三十三所の観音霊場を広めるように」と委嘱され、三十三の宝印を授けられて仮死状態から解放されたといわれています。
上人は近畿地方の寺々に霊場を設け三十三寺の巡拝を創められましたが、人々はなかなか信用せず、上人はやむなく宝印を中山寺に埋められたのです。三十三寺観音霊場巡りは忘れられていきました。
長谷寺横の発起院は徳道上人がおまつりされており、西国三十三寺巡礼の「番外」として巡拝されています。

中興 [ 花山法皇 ]

270年ちかく絶えていた巡礼は、平安時代後期になって花山法皇により再興された。 花山天皇は永観2年(984年)17歳で即位されましたが、藤原兼家の策略により寛和2年(986年)夜半に天皇は宮中から元慶寺につれ出されました。兼家は自分の孫で皇太子の懐仁親王(7歳)を天皇として即位させました。
このようにして退位させられた花山天皇はその後出家されましたが、「花山法皇の狂い・・・・」と噂されるほど奇行がみられ、言動にも異常なことが多かったと言われています。
やがて永延2年(988年)花山法皇は中山寺の宝印を掘り出し、大和石川寺の仏眼上人や書写山の性空上人の勧めで那智で修業されました。さらに三十三寺を巡拝して観音さまのあたたかい慈悲に触れて蘇生されたのです。
このようにして、西国三十三寺巡礼が復活し、盛んになっていきました。
播州三田の花山院御廟は花山法皇が余生を過ごされた所で、お墓もあります。
元慶寺とともに西国三十三寺巡礼の「番外」として巡拝されています。

順路
江戸時代になって東国(江戸)の人々の伊勢詣と霊場巡りが盛んになりました、その便利がはかられ、伊勢から熊野路を経て那智に至り、ここを起点とする順路も定まり、名称も「西国」と呼ばれるようになったのです。


★ 御詠歌と般若心経について

御詠歌
花山法皇が粉河寺を巡拝されたとき、
   「父母の恵みも深き粉河寺、仏の誓いたのもしの身や」
納札に歌一首を記されたのが始まりとなりました。


般若心経
御詠歌とともに各霊場で唱えられるお経が「般若心経」です。大般若経(だいはんにゃきょう)、華厳経(けごんきょう)、阿含経(あごんきょう)等いろいろなお経の神髄を集めた最も短いお経です。宗派に関係なく、各所で唱えられます。
その神髄は「色即是空」であり「」の心です。

薬師寺の高田好胤館長(故人)はこれをわかり易い言葉で以下のように表わして、布教に努めておられました。

かたよらない心
こだわらない心
とらわれない心
ひろく、ひろく、もっとひろく
これが般若心経「空」のこころなり



雑記帖 ◆   ◆ 私の西国巡り







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