このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ガクテツに寄せて

昭和24年、戦争の影は薄れたものの人々が日々生きることに必死だったころガクテツが誕生した。物のない時代である。あらゆる物資が不足していた。日本復興のためには、とにかく生産を回復すること。ガクテツはこうした時代の要請で動きはじめた。
この年、私も生まれた。日本の発展を担うべく多くの仲間とともに産声をあげた。戦後ベビーブーム世代である。
ガクテツの短い路線は、すでにあった工場の引込線を延長したものである。東海道本線と工場と、吉原の繁華街と住宅とを結び、多くの労働者や住民の足となり、また工業製品搬出の役目を果たした。
昭和30年代は迷いのない時代である。日本人の健全な精神が生きていた時代であった。勤勉さが評価され、そのまま生活向上につながった。真面目に働けば必ず報われる時代であった。
私たちは寿司詰め教室の中で逞しく育った。成績の良い者は讃えられ、相撲の強い者は一目置かれた。ガキ大将はヒーローだ。取り柄のない人間はいない。お互いを大切な仲間として迎え入れた。
昭和40年代はじめ。よく学び、よく働き、そしてよく行動する。豊富な時間と旺盛な正義感は学生の特権だ。私たちは、蟷螂の斧をもって見果てぬ夢を見た。
高度成長期を迎え、ガクテツはますます忙しい。多くの人々を運び、多くの製品を運ぶ。しかし、経済発展は一方で車社会の成長を促すことになる。通勤の主流が自家用車になり、製品輸送の中心がトラックに移るのに多くの時間は要しなかった。昭和から平成になり、ガクテツの輸送量はさらに大きく落ち込んだ。
時代は変わった。
団塊の世代などといわれ、その時、その時代で社会の中心的役割を担ってきた私たちにも、そろそろ黄昏時が迫っている。
比奈の広い構内に佇むと、かつて多くの貨車が行き交い、駅前酒場が賑わった頃の風景が甦ってくる。
いま目の前にあるガクテツの姿は、私たちの世代そのものだ。
それでも・・・、と思う。
あの時代へもどることはできなくても、私たちが培ってきた精神だけは持ち続けたい。

さようなら・ありがとう 「貨物列車」

岳南鉄道の貨物営業が、2012年3月16日をもって終了する。
製紙工場の製品輸送に40年以上貢献してきたが、輸送スタイルの変化はいかんともしがたい。
このため、岳南鉄道沿線や貨物拠点の比奈駅には鉄道ファンが押しかけ、列車との別れを惜しんでいる。
3月15日、小生もたまたま休みがとれたので、撮り鉄に出かけた。
平日にもかかわらず、左富士踏切、比奈駅などで多くの同業に出会った。
本務機ED402はヘッドマークを掲出して運転されていた。
何枚かの写真で当日の模様の一端を紹介しよう。

2012.3.15

惜別レポート

富士岡駅のED291とED403

電車工場は7001が入庫中

ジヤトコ前駅近くでウォーミングアップ撮影

寒さのせいか山茶花の花が残っている

左富士踏切、11時20分、目的の貨物列車

      【この写真はクリックで拡大】

ヘッドマークを掲出

比奈駅では多くのファンに迎えられた

待機していた入替用のED501

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