このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

トップページエッセイコーナーSUNDAY TALK SELECTION SUNDAY TALK2010第29回

SUNDAY TALK2010

第29回:地名と方位(2010年〔平成22年〕7月18日公開)

 「福山南中継局」この単語を見てあなたは何を想像するだろうか。福山市内にある放送局の中継局なのだが、多くの方は福山市南部、すなわち沼隈半島のどこかにあることを想像することであろう。ところが、この「福山南中継局」があるのは福山市中心部の東北にそびえる蔵王山(標高225.5m)の中腹なのである。所在地は福山市西深津町七丁目となるのだが、福山市中心部の東北にありながら福山南中継局と名乗る施設が登場することに恐らく多くの方は疑問や違和感を抱くことであろう。
 ではなぜこのようになったのか。話は今から半世紀前にさかのぼる。1953年(昭和28年)に東京で始まったテレビ放送(注1)は1950年代後半になると全国各地で行われるようになった。広島県では1956年(昭和31年)3月21日に日本放送協会広島放送局(NHK、広島市中区大手町二丁目)がNHK総合テレビの放送を開始したのがテレビ放送の始まりであり、以後1959年(昭和34年)4月1日に中国放送テレビ(RCC、広島市中区基町(注2))が、1961年(昭和36年)1月8日にNHK教育テレビが、1962年(昭和37年)9月1日に広島テレビ放送(HTV、広島市中区中町)がそれぞれテレビ放送を開始した。
 ここまでは良かったのだが、1956年(昭和31年)9月30日に周辺の2郡2町8村(沼隈郡鞆・水呑〔みのみ〕両町及び赤坂・熊野・瀬戸・津之郷各村、深安郡市・千田・引野・御幸各村)を一挙に編入し、広島県東南部初の10万都市(注3)になった福山市へのテレビ放送局の中継局設置はなかなか行われなかった。確かに広島県東南部最大の都市にはなったのだが、当時の広島県東南部の中心都市は尾道市であり(注4)、広島県東南部の放送拠点は尾道市中心部の南方にある向島の最高峰・高見山(標高283.2m)に置かれたのである(注5)。恐らく福山市中心部に住んでいる人の多くは20kmも離れた高見山にアンテナを向けてテレビ放送を楽しんでいたのだろうが、受信状況が芳しくないところも少なくなく、やがて福山市中心部でもきれいな画像でテレビ放送が楽しめるようにして欲しいという声が高まった。そこでどこに中継局を設置するかという問題が起きたのだが、どのように考えても福山市中心部の南方にそびえる彦山(標高430.1m)の山頂に置くのが妥当なはずであった。しかし、福山市は岡山県境に市域が接している(注6)し、岡山県方面には障害物はないので岡山県方面に電波が飛ぶという問題が生じてしまう(注7)。更に1960年代初頭にはまだ彦山に通じる道路は整備されていない(注8)。そこで白羽の矢が立ったのが蔵王山の中腹であった。岡山県方面に電波が飛ぶ可能性は低まるし、中継局への道路建設も短くて済むというのが決め手であった。そして1964年(昭和39年)7月1日にNHKと中国放送テレビ、広島テレビ放送の中継局が開局し、ようやく福山市中心部でもきれいな画像でテレビ放送が楽しめるようになったのである。なお、中国放送が開局20周年を記念して出版した「RCC20年のあゆみ」(1972年〔昭和47年〕中国放送編)には福山テレビ中継所設置には技術的に困難が伴ったという記述があり、早く鮮明な画像でテレビ番組を楽しみたいという福山市民の思いになかなか応えられなかった様子がうかがえる。
 その後開局した広島ホームテレビ(HOME、広島市中区白島〔はくしま〕北町)とテレビ新広島(TSS、広島市南区出汐二丁目)も蔵王山中腹に中継局を設置し、ラジオ放送のNHK-FMと広島エフエム放送(HFM、広島市南区皆実町一丁目)と合わせて蔵王山は福山市中心部に放送電波を供給する重要な山(注9)として君臨してきたのだが、1974年(昭和49年)に福山グリーンライン(広島県道251号後山公園・洗谷線)が開通すると彦山の近くまで自動車で行けるようになったことが運命の転換点になった。1978年(昭和53年)以降彦山山頂に各テレビ局の中継局(福山西中継局)が設置され、1996年(平成8年)には中国地方初のコミュニティ放送局となったエフエムふくやま(愛称:レディオBINGO、福山市西町二丁目)の本局も彦山に置かれたのである。そして2007年(平成19年)4月30日、彦山山頂に各テレビ局の福山デジタル中継局が設置され、遂に形勢は逆転したのである。これで蔵王山中腹の各テレビ局の中継局は2011年(平成23年)7月24日正午をもってお役ご免になる…と記したいところなのだが、彦山山頂に中継局を置いた場合、福山市南部の新涯町や水呑町などで受信不可能になるという問題が起きた。蔵王山中腹に中継局のある広島エフエム放送はその更に南の田尻町や鞆町でも十分受信できるのに対して彦山山頂に本局のあるエフエムふくやまは新涯町や水呑町に入ると受信状況が悪くなることを知っている方は多いと思うのだが、その解決策として浮上したのが蔵王山中腹の中継局を存続させることであった。そしてこの度今年8月末に蔵王山中腹のデジタルテレビ中継局(私が自宅〔どこかは記せないが実は蔵王山中継局の真南にある〕から見たところ、既存施設を改造して使用し続けるらしい。無論全局とも設置されている)が福山南中継局という名称で開局することになったのである。
 これで「福山南中継局」とは「福山市南部に放送電波を供給するために設置される中継局」という意味を持つことが明らかになったわけであるが、それでも解決しない問題はいくつもある。それは次の通りである。
・私の家など昔から蔵王山中腹の中継局にアンテナを向けていた家は彦山と蔵王山のどちらにアンテナを向ければ良いのか。
・将来「なぜ福山中継局の北に福山南中継局があるのか。改称すべきではないのか」という苦情が寄せられる可能性はないのか。
・中継局の名称は別に福山蔵王とか福山北、福山深津、福山第二でも良かったのではないか。
・恐らくNHK-FMと広島エフエム放送の福山中継局の移転は免れることだろうが、地上波デジタル放送完全移行後はどのように呼称するのか。例えば広島エフエム放送の放送開始時(現在は月曜日午前5時前)及び放送終了時(現在は月曜日午前2時過ぎ。余談だが中国地方の県域民間ラジオ放送局では最も遅い放送終了である)のアナウンスの中で「福山南局82.1MHz」というようになるのか。
 半世紀前に彦山に中継局を作っておけば良かったのか、それとも蔵王山にデジタル中継局を作れば良かったのか、更に別の山に作るべきだったのか結論は出ないのだが、将来この話はテレビ放送のデジタルへの移行の中で起きた知られざる逸話として語り継がれていくのだろうか。

 私が住んでいる福山市を考える時、方位にまつわるおかしな話はまだ他にもある。それを挙げてみると次のようになる。
・福山市立東中学校(福山市三吉町南二丁目)の北に福山市立中央中学校(福山市西深津町五丁目)がある。
・福山市立東中学校は存在するのに、福山市立北中学校や福山市立西中学校、福山市立南中学校は存在しない。一方で城東・城西・城南・城北という市立中学校は存在する(全て揃ったのは1980年〔昭和55年〕とそんなに昔の話ではない(注10))。
・平成の大合併で福山市は芦品郡新市町を編入したが、その芦品郡新市町にも中央中学校が存在した(現在は新市中央中学校と改称している)。
・福山市神村(かむら)町にある国道2号線赤坂バイパス・松永道路のランプの名称は東から神村東・神村西・神村(赤坂バイパスと松永道路の境界)・羽原となっている。松永道路と赤坂バイパスは別々に計画されたことがおかしなランプ名になった一因ではあるのだが…。
・福山市川口町の北に福山市東川口町が存在する。
・福山市神辺町には西中条・東中条という字があるが、その位置関係は西中条が南側、東中条が北側である。
・福山市駅家町を通る国道486号線には近田交差点があるが、そのすぐ西の交差点の名称は近田東交差点である。
 福山市に限らずこういう話は各地にある(注11)のだが、その背景には北という単語には印象の良くないものが多いこと(北枕、敗北など)や中央という単語にはその地域の中心という意味があることなど単語に込められている意味があるように思われる。だからといって修正しろなどと強硬に主張しても通ることはほぼあり得ないのだが、なぜそのようになったのか考えてみるのも面白いかもしれない。
 一方で混同回避などの理由で施設名や政令指定都市の行政区名に方位を付けるのは良いのだが、どうかと思うことも少なくない。例えば福山市では次のような事例がある。
・警察署の名称。倉敷市では児島・玉島・水島、呉市では音戸・広、下関市では小串・長府(注12)といった地域の名称が入った警察署があるのに福山市では福山北・福山西・福山東と都市名+方位になっている。但し1971年(昭和46年)3月31日までは福山東警察署(福山市三吉町南二丁目)は福山警察署、福山西警察署(福山市神村町)は松永警察署とそれぞれ呼称されており、最初から都市名+方位の名称を付けていたわけではない。
※福山警察署が福山東警察署に改称した当時の福山東警察署は現在地ではなく、福山市東桜町の県民文化センターふくやま(愛称:エストパルク)があるところにあった。現在地に移転したのは1986年(昭和61年)のことである。
・高速道路(注13)のインターチェンジの名称。倉敷市では児島・玉島・水島、呉市では阿賀・郷原・天応(てんのう)東・天応西(注14)、下関市では小月といった地域の名称が入ったインターチェンジがあるのに福山市では福山東・福山西と都市名+方位になっている。こちらは建設中だった時から福山東・福山西となっており、福山東インターチェンジ(福山市蔵王町五丁目)が福山インターチェンジ、福山西インターチェンジ(福山市東村町)が松永インターチェンジという名称でそれぞれ記されたことはない。
 別に警察署の名称は福山北警察署(福山市神辺町新道上三丁目)が神辺警察署、福山西警察署が松永警察署、福山東警察署が福山警察署でも良いように思うし、同じく高速道路のインターチェンジの名称は福山東インターチェンジが福山インターチェンジ、福山西インターチェンジが松永インターチェンジでも良いように思う(注15)のだが、なぜ倉敷・呉・下関各市で認められている地域の名称を付けた施設が福山市ではダメなのだろうか。私は福山市を中国地方第四かつ広島県第二の都市に成長させた一因である市町村合併に原因があるように感じている。中国地方初の市同士の合併となった松永市との統合の際にはいろいろもめたというし、深安郡神辺町との合併についても浮沈を繰り返し、平成の大合併の波の中で論議が始まった時も紆余曲折があった。この他沼隈郡内海・沼隈両町との合併でもご破算になりかけたり合併関連議案が僅差で可決したりしたという話がある。まあ市町村合併はどこでも歓迎されざる問題ではあるのだが、福山市が倉敷・呉・下関各市で認められている地域の名称を付けた施設を認めたがらないのは市としての一体化を醸成したいためではないのだろうか。地名や方位からは外れるが、平成の大合併で編入した自治体のうち、紆余曲折があった沼隈郡内海・沼隈両町と深安郡神辺町だった地域では広島県が管理する国道路線・県道路線の補助標識が全て平成ヴァージョン(注16)に差し替えられたのに対し、(語弊があるかもしれないが)論議が円滑に進んだ芦品郡新市町では差し替えがあまり進んでおらず、中には未だに「芦品郡新市町○○」と記された補助標識が残されているところ(注17)さえあることを思うとそのような考えがあるのは明らかなような気がする。
 便宜的には方位を付けるのは良いかもしれない。しかし、それが無味乾燥なものになったり地域の味わいをそぐものになったりするのなら賛成はできかねる。改称するのにはかなりの労力と費用がかかるが、もう少し議論があっても良いのではないのだろうか。私はそのように感じている。

(注釈コーナー)

注1:テレビ放送は日本放送協会(NHK、東京都渋谷区神南二丁目)については1953年(昭和28年)2月1日に、民間放送局は日本テレビ放送網(NTV、東京都港区東新橋一丁目)が1953年(昭和28年)8月28日にそれぞれ本放送を開始している。

注2:中国放送のテレビ本放送開始時、すなわちテレビ・ラジオ兼営局転換時の社名はラジオ中国である。ラジオ中国が現在の中国放送に改称したのは1967年(昭和42年)4月1日のことだからテレビ・ラジオ兼営局に転換してから8年間ラジオ中国を名乗り続けたわけであるが、これは日本にあるテレビ・ラジオ兼営の民間放送局で○○放送に改称しないでラジオ○○と名乗り続けた最長記録である(なぜ中国放送に改称しないままにしたのかはっきりしたことは分かっていない)。

注3:広島県東南部ではその後尾道市と三原市が10万都市の仲間入りを果たしている。ちなみに仲間入りを果たした要因は福山市と同じく周辺自治体との合併である。

注4:福山市の軽んじられっぷりが分かる一例として福山市を起終点とする二級国道路線が1963年(昭和38年)まで認定されなかったことがある。尾道市には二級国道184号松江・尾道線の終点が、三原市には二級国道185号呉・三原線の終点がそれぞれあったのだが、福山市にはなかったのである。その代わりかどうかは分からないが、1954年(昭和29年)に福山市に起終点を置く主要地方道路線が広島県内11市(当時)では最多の4路線(福山・井原線、福山・東城線、福山・庄原線、福山・鞆線。全部分または一部分が国道に昇格したため相次いで廃止され、現存するのは福山・鞆線のみ)も認定されたのは特筆すべき話と言える(逆に広島市を通る主要地方道路線は皆無だった)。なお、福山市が広島県東南部の中心としての地位を確立するのは松永市との統合が実施され、日本鋼管(現:JFEスチール)の大規模な製鉄所が稼動を開始した1960年代後半のことであるが、現在でも尾道市との確執は随所に見られる。

(参考資料:1956年〔昭和31年〕7月31日時点の広島県各市の通過国道路線・主要地方道路線一覧表)

市名通過路線備考
一級国道二級国道主要地方道
広島市2号182号広島・松江線
183号広島・米子線
186号広島・浜田線
二級国道183号広島・米子線と二級国道186号広島・浜田線は市内では全区間二級国道182号広島・松江線と重用(二級国道183号広島・米子線の事実上の起点は三次市、二級国道186号広島・浜田線の事実上の起点は安佐郡可部町)。
因島市尾道・因島線
大竹市2号大竹・加計線
尾道市2号184号松江・尾道線尾道・因島線
呉市31号185号呉・三原線呉・倉橋島線
呉・西条線
庄原市183号広島・米子線庄原・新見線
福山・庄原線
福山市2号福山・井原線
福山・庄原線
福山・東城線
福山・鞆線
主要地方道福山・東城線と主要地方道福山・庄原線は市内では全区間主要地方道福山・井原線と重用(主要地方道福山・東城線の事実上の起点は深安郡千田村、主要地方道福山・庄原線の事実上の起点は深安郡御幸村)。
府中市福山・庄原線
松永市2号
三原市2号185号呉・三原線三原・東城線
三次市183号広島・米子線
184号松江・尾道線
出雲・三次線
大田・三次線
二級国道183号広島・米子線と二級国道184号松江・尾道線はともに起点から三次市までずっと二級国道182号広島・松江線と重用していたため、どちらも三次市が事実上の起点となる。
主要地方道出雲・三次線は市内では全区間二級国道182号広島・松江線と重用(主要地方道出雲・三次線の事実上の終点は島根県飯石郡来島〔きじま〕村〔つまり三次市だけでなく広島県内に単独区間は全く存在しなかった〕。そのためか広島県での路線認定は1956年〔昭和31年〕までずれ込んだ)。

注5:広島県を放送区域とするテレビ局の広島本局と尾道中継局のコールサインは下表の通りである(尾道中継局のコールサインは日本放送協会については2003年〔平成15年〕11月1日に、民間放送局については2011年〔平成23年〕7月24日にそれぞれ廃止されており、現在は使用されていない)。

放送局名コールサイン備考
広島本局尾道中継局
NHK総合テレビJOFKJODP
NHK教育テレビJOFBJODD
中国放送テレビJOERJOEE放送開始時や放送終了時に表示されていた。
広島テレビ放送JONXJONY全く紹介されることがないため知名度は皆無に等しい。
広島ホームテレビJOGM開局当初からUHF電波だけを用いていたため尾道中継局についてはコールサインは設定されていない。
テレビ新広島JORM開局当初からUHF電波だけを用いていたため尾道中継局についてはコールサインは設定されていない。

なお、尾道中継局の所在地表記が尾道市向島町になったのは2005年(平成17年)3月28日からであり、それまでは御調(みつぎ)郡向島町だった。

注6:福山市が岡山県境と接するようになったのは1962年(昭和37年)1月1日に深安郡深安町を編入した時からである。

注7:一方でテレビの笠岡中継局は広島県側に電波が飛ぶような笠岡市街地の南方にある神島(こうのしま。今は干拓により本土と陸続きになっている)の最高峰・栂丸山(つがのまるやま。標高306m)に設置されている。1987年(昭和62年)10月にテレビせとうち(TSC、岡山市北区柳町二丁目)の中継局が開局してからは広島県には系列局のないテレビ東京(TX、東京都港区虎ノ門四丁目)の番組を楽しむために笠岡中継局にアンテナを向ける動きが見られるかと思われたが、岡山県側への視聴者流出は起きておらず、福山市内で岡山県を放送区域とするテレビ放送局の番組を視聴する人はマニア視される風潮が生じている。いわゆるポケモン騒動(1997年〔平成9年〕)で福山市内で気分を害したのは2人だけだったという話もあり、いかに福山市民は岡山県側のテレビ番組を見ていないかが(全く芳しくないことではあるが)この事件で浮き彫りにされた。
※それでも福山市内の書店やコンビニエンスストアなどではテレビ雑誌の岡山・四国版が売られている他、毎週金曜日の中国新聞朝刊に折り込まれている「中国新聞mesemaga」内の「週間TVガイド」にはテレビせとうちの番組表が掲載されている。テレビ放送がデジタルに完全に移行した後もアンテナを栂丸山に向ければテレビせとうちは受信できるしある程度需要があることがうかがえるのだが果たして…。

注8:福山グリーンライン(広島県道251号後山公園・洗谷線)が開通するまでは道路がなかったものと思われる。彦山山頂に中継局が置かれるようになったのは福山グリーンライン開通後であることを考えると道路の有無が彦山を選択肢から外した一因だったことがうかがえる。

注9:厳密には蔵王山の一部ではないのだが、蔵王山と峰続きの山には中波(AM)放送の中国放送ラジオ(福山市北美台。福山支社併設)とNHKラジオ第一・NHKラジオ第二の中継局(福山市久松台三丁目)もある。

注10:まず発足したのは福山市立城南中学校(福山市光南町三丁目)と福山市立城北中学校(福山市木之庄町四丁目)で、1949年(昭和24年)にそれぞれ福山市立第三中学校と福山市立第二中学校から改称して発足した。次いで1956年(昭和31年)に深安郡市・引野両村を学区とする市村・引野村組合立城東中学校が発足したが本文にある通り1956年(昭和31年)9月30日にこの深安郡市・引野両村は福山市に編入されたためにその時点で福山市立城東中学校(福山市東深津町三丁目)が発足した(深安郡市・引野両村は昭和の大合併では福山市への編入要望が強かったため福山市編入を念頭に置いた命名ではないかと考えられる)。残ったのは城西であるが、1980年(昭和55年)に福山市山手町に開校し、遂に城東・城西・城南・城北が揃うことになった。
※福山市立第一中学校は現在の福山市立東中学校。福山市立第四中学校は初代(1947〜1949)は福山市立城北中学校山郷分校になった後1953年(昭和28年)に廃校になり(跡地には現在広島県立福山高等技術専門校〔福山市山手町六丁目〕が建っており、正門脇に福山市立第四中学校があったことを示す小さな看板が取り付けられている)、二代目(1949)は福山市立鷹取中学校(福山市草戸町四丁目)の前身となった。1956年(昭和31年)9月29日までは福山市立第一・第二・第三・第四(二代目)各中学校を継承した福山市立東・城北・城南・鷹取各中学校しか当時の福山市域にはなかったことになる(福山市立城東中学校は1956年〔昭和31年〕9月29日当時は現在地にはなかったので含まない。現在地に移転したのは1960年〔昭和35年〕のことである)。

広島県立福山高等技術専門校のフェンスに取り付けられた福山市立第四中学校(初代)があったことを示す看板。向かって左側に校門がある。

注11:例えば下関市には正式な町名にはなっていないが「東駅」と呼称されているところがある。かつて山陽電気軌道(現:サンデン交通〔下関市羽山町〕)の東下関駅(下関市羽山町。1971年〔昭和46年〕2月7日廃止)があったことから名付けられたのだが、JR山陽本線下関駅(下関市竹崎町四丁目)から見ても下関市役所(下関市南部〔なべ〕町)から見ても東にはない。

注12:2005年(平成17年)2月13日に下関市と豊浦郡に属する全自治体(菊川・豊浦・豊田・豊北各町)が統合して改めて下関市が発足した時には豊田警察署(下関市豊田町殿敷)と彦島警察署(下関市彦島緑町)も存在したが、豊田警察署は2007年(平成19年)4月1日に長府警察署(下関市長府才川一丁目)に、彦島警察署は2008年(平成20年)4月1日に下関警察署(下関市細江町二丁目)にそれぞれ統合された。

注13:ここでは中国自動車道と山陽自動車道、瀬戸中央自動車道、東広島・呉自動車道、広島・呉道路を指す。

注14:阿賀・郷原両インターチェンジは東広島・呉自動車道にあるインターチェンジである。本作公開当時は建設中であり、仮称だったが、結局どちらも正式名称になった。

注15:もし福山東インターチェンジを福山インターチェンジに改称すると福山市内の山陽自動車道には福山サービスエリア(福山市津之郷町津之郷)もあるため混同される恐れがある。福山サービスエリアの建設当時の仮称は津之郷サービスエリアだったので津之郷サービスエリアのまま開業していれば良かったのかもしれないが、津之郷サービスエリア改め福山サービスエリアの開業よりも福山東インターチェンジの供用開始が早かったためそうはならなかった(福山東インターチェンジは1988年〔昭和63年〕3月1日供用開始。福山サービスエリアは1991年〔平成3年〕3月20日開業)。なお、福山サービスエリアには現在スマートインターチェンジを設置する計画がある(恐らく名称は福山スマートインターチェンジになるのではないかと思われる)。

注16:1993〜1994年(平成5〜6年)の国道・主要地方道再編の頃から登場した補助標識(但し全てとは限らない)で、広島県の県の木・県の花であるモミジ(赤色)が路線名称や地名の前にあしらわれていることや路線名称や地名のローマ字表記が付されていることが特徴である。なお、政令指定都市である広島市が管理する国道・県道でも見られることがある。

平成ヴァージョンの補助標識を取り付けた県道標識(福山市松永町六丁目にて撮影)

注17:実は現在もその標識は残っている(下の写真)。今年2月3日で芦品郡新市町が福山市に編入されてから10年が経過したのだが、なぜずっと残されているのかは定かではない。

(AFTER TALK)

 本作公開から3年近くが経過したが、その後の状況を記すと次の通りになる。
・私の家のアンテナについてであるが、結局蔵王山に向けることになった。彦山より蔵王山が近いのだから当然の結果だったわけであるが、結局福山市中心部にある事業所や民家のうちどのくらいの方がテレビ放送のデジタルへの完全移行後も蔵王山にアンテナを向けているのだろうか。ちなみにチャンネルは彦山も蔵王山も同じである(NHK総合…42ch、NHK教育…44ch、中国放送テレビ…16ch、広島テレビ放送…17ch、広島ホームテレビ…29ch、テレビ新広島…28ch)。
・福山南中継局は元々日本放送協会広島放送局福山蔵王テレビ・エフエム中継局だった建物に集約されることになり、民間テレビ放送局の中継局は2011年(平成23年)7月24日をもってお役御免となった。下の写真は福山南中継局の銘板を撮影したものであるが、一箇所に集約されていることがうかがえる。

・2011年(平成23年)7月24日をもってお役御免となった民間テレビ放送局各社の中継施設は2012年(平成24年)秋に全て解体された。建物の中ほどに展望台があった広島ホームテレビ福山中継局や広島ホームテレビが使っていた蔵王山山頂にあった反射板も全てなくなってしまった。

 

在りし日の蔵王山のテレビ塔群(2011年〔平成23年〕7月3日撮影)と現状(2013年〔平成25年〕5月5日撮影)

・福山南中継局の銘板には記されていないが、NHK-FM福山蔵王中継局と広島エフエム放送福山中継局も福山南中継局に集約された可能性が濃厚であること。受信状況や周波数が全く変わらなかったからであるが、広島エフエム放送については中継局名は変えなかったもののNHK-FMについてはテレビ放送の中継局の名称との整合を考えて福山南中継局に改称している。
 これにて一件落着…と言いたいところなのだが、気になることはいくつか残ったままである。それを記すと次の通りになる。
・NHK-FMについては福山市には福山南中継局と府中中継局(福山市新市町相方〔さがた〕)しかないのだが、蔵王山は南北に長く伸びている福山市域ではどちらかといえば南にあるものの福山市中心部で放送を楽しむための施設であることを考えると別に福山中継局でも良かったのではないかという意見があること。
・結局彦山と蔵王山のどちらが優勢なのか決着しなかったこと。
・もし万が一今後広島県を放送区域とするテレビ東京系列に属する民間テレビ放送局が開局した場合、福山中継局は蔵王山と彦山のどちらに設置するのかでもめる恐れがあること。(アナログ時代の話になるが)テレビせとうちは開局当時岡山・津山南・高松、TVQ九州放送(福岡市博多区住吉二丁目)は開局当時福岡・北九州・久留米にしかそれぞれ中継局を設置しなかったことを考えると広島県を放送区域とするテレビ東京系列に属する民間テレビ放送局は広島・呉・福山にしか中継局を設置しないで開局する可能性が高い。広島本局は絵下山(広島市安芸区。標高:593m)に、呉中継局は休山(標高:497m)にそれぞれ設置される可能性が高いが、福山中継局は果たして蔵王山と彦山のどちらに設置されることになるのだろうか。
※TVQ九州放送の開局当時の社名はTXN九州。開局10周年を目前に控えた2001年(平成13年)1月1日に改称したのだが、開局当時福岡県を放送区域とする民間テレビ放送局が十分受信できる下関市に住んでいた私は今でもテレビ福岡で良かったのではないかと考えている。なお、ここであり得ないようなことをあえて書いたのは2007年(平成19年)5月31日に当時のテレビ東京の社長が宮城県・静岡県・京都府・兵庫県・広島県への系列局開局または既存系列局の放送区域拡大構想を公にしたことがあったからである(ここで詳しく記す余裕はないのだが私としてはいろいろな理由からこの構想には一切賛成していない。その後何の話もないので自然消滅したと考えているのだが、別の機会にそのことは触れることにしたい)。
 今後も彦山・蔵王山の争いは続くのであろうが、果たしてどうなっていくのであろうか。

 ところで、本作を公開してから4ヶ月ほど経った2010年(平成22年)11月27日に広島県内の中国横断自動車道尾道・松江線が初めて供用を開始したのだが、施設の正式名称を決めるに当たってある問題が発生した。尾道ジャンクション(尾道市美ノ郷町三成。仮称も同じ)と世羅インターチェンジ(世羅郡世羅町川尻。仮称は甲山インターチェンジ)については異論はないものの、尾道ジャンクション〜世羅インターチェンジ間にある唯一のインターチェンジについてはかつては自治体の名称であり、尾道市編入後も尾道市の町丁名として使用されている御調を仮称としていたのに正式名称は尾道北インターチェンジ(尾道市御調町大町)になったことである。尾道北インターチェンジのボックスカルバートの脇には「御調○」(○には算用数字が入る)と記された板が取り付けられていることや尾道市中心部まではかなりの距離があることを考えればなぜ…と思いたくなるのだが、御調地区は尾道市の一部であることを強調したいがためにそのようにしたのではないかと考えている。
 そもそも「御調」という字を見て「みつぎ」と一発で読める人はそう多くないことを考えればみつぎインターチェンジという名称でも良かったはずである。現に香川県内の高松自動車道のインターチェンジにさぬき○○という名称のものがあるのだが、これは「讃岐」という字が読みにくいこと(但し讃岐うどんがあまりにも有名なので読めない人はむしろ少ないのかもしれないが)からそのようにしたものであり、その論理を御調インターチェンジに適用したものである。ところが、それも結局は不採用になった。なぜ御調もみつぎもダメなのか。やはりその背景には何らかの事情があったことがうかがえる。
 尾道市中心部と尾道市御調地区は繋がりが深いのは事実である。しかし、次に挙げるような事情もあった。
・尾道市中心部と尾道市御調地区の間にはいくつも山があり、地理的に一体ではないこと。
・尾道市御調地区は実は尾道市中心部よりも府中市中心部のほうが近いこと。
・尾道市御調地区〜府中市中心部間の道は御調川→芦田川に沿っており、そんなに急な坂もないこと(十数kmで標高差は40mほど)。
・尾道市御調地区と尾道市中心部を結ぶ道(国道184号線)よりも尾道市御調地区と府中市中心部を結ぶ道(国道486号線)のほうが3年半程度ではあるが早く改良が完成したこと(尾道市御調地区と府中市中心部を結ぶ道は1983年〔昭和58年〕、尾道市御調地区と尾道市中心部を結ぶ道は1986年〔昭和61年〕にそれぞれ完成。なお、尾道市御調地区と府中市中心部を結ぶ道の改良が完成した当時の路線名称は国道486号線〔1993〜〕ではなく広島県道49号府中・御調線〔1976〜1993〕だった)。

尾道市御調町市の国道184号線旧道。今も古びた国道標識が残っている。

・尾道市御調地区は市内通話区域は尾道・三原区域(市外局番は0848。尾道市のうちの因島・瀬戸田地区を除く地域、三原市のうちの久井・大和地区を除く地域が範囲)になっているが、他の尾道・三原区域との通話に市外局番が要らなくなったのは2005年(平成17年)1月29日とそんなに昔の話ではないこと。尾道・三原区域の市外局番統一は1985〜1986年(昭和60〜61年)に進められたのだが、なぜか尾道市御調地区だけは08487のまま残された。こういうところは他にもあるが、なぜ尾道市御調地区は市外局番統一を渋り続けたのだろうか。
・御調郡御調町は独自の高齢者福祉を推進していたこと。財政事情は決して良好というわけではないが、規模が小さな自治体だからこそできることと言え、御調郡御調町在りし頃は全国的に知られていた。
 そういう状況だから尾道市との合併には反対という人もいたであろうし、府中市と合併したほうが良いと主張した人もいたであろう。無論独立したままで良いという人もいたであろう。しかし、いろいろな意見のある中で結局は尾道市に編入される道を選んだ。無論尾道市編入後も「御調」という名称を用いた施設(例:広島県立御調高等学校〔尾道市御調町神〕)はいくつも残されているのだが、高速道路のインターチェンジの名称について尾道北にしたのはやはり尾道市御調地区も尾道市の一部であり、尾道市の北の玄関口であることを印象付けたかったからではないのだろうか。「それだったら『尾道御調インターチェンジ』または『尾道みつぎインターチェンジ』でも良かったのではないか」という意見もあるのだが、それも認めなかったのは公には出さないが今なお尾道市への編入は認められないとか尾道市に編入して何か良いことでもあったのか、ないだろうと思う人が少なくないことを感じさせる。
 方位と関係ないことであってもこういうことは多く見受けられるのだが、私はこういう行為を認めたいとは思わない。なぜなら、行政の上から目線な態度が強く感じられるからである。「同じ自治体になったんだぞ。自己主張はやめて○○市の一員として振る舞え」と言いたいのだろうが、平成の大合併でかなりの市町村が行政区域を拡大した結果、多様な顔を持つところが多くなったことを思えば私はある程度の自己主張は認めても良いと思うのである。画一化されるよりは多様な顔があったほうが面白いと感じるからであるが、そのことを行政はどのように感じているのだろうか。自己主張を認めても独立運動を起こすことはそんなにないのだからその点に対する配慮を望みたいところである。
 最後に、広島県内の中国横断自動車道尾道・松江線は現在世羅インターチェンジ〜三次東ジャンクション(三次市四拾貫〔しじっかん〕町)間の建設が進められている。2014年度(平成26年度)までに全線開通する予定になっているのだが、途中には甲奴(こうぬ)・吉舎(きさ)・三良坂(みらさか)の各インターチェンジが設置されることになっている。いずれも少々読みにくい地名ではあるが、尾道北インターチェンジと同じようなことにならないことを願うばかりである。

(2013年〔平成25年〕5月8日追記)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください