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SUNDAY TALK2012

第8回:栄光は必ずしも幸福をもたらさない(2012年〔平成24年〕2月19日公開)

 人は栄光と幸福を求めて毎日を生きている。しかし、それは両立できないことのほうが多いのではないか。今月12日の午前中、訃報がもたらされたアメリカの女性歌手ホイットニー・ヒューストン(1963〜2012)の生涯を考えた時、そのように感じたのである。
 ホイットニー・ヒューストンの業績は最早ここで記すまでもないほどよく知られている。思い出に残る曲を持つ人もいることであろう(特に「I Will Always Love You」は結婚式の時使ったという人が多数いるのではないのだろうか)。これだけ輝かしい業績を挙げながらここ十数年はトラブル続きだったという。大麻を所持していたとして拘束されたことや薬物使用を告白したこと、夫である歌手のボビー・ブラウンからの暴力に苦しみ、離婚を選択したこと、久しぶりのワールドツアーの最中に息が切れたり呼吸器の感染症が原因で入院したりするなどトラブルが相次いだこと、そして破産寸前であると報じられたこと…。その先にあったのが48歳の若さでの急逝というわけであるが、なぜ栄光を極めた歌手がこんな悲惨な目に遭わなければならないのかと思わずにはいられなかった。
 今私は「なぜ栄光を極めた歌手がこんな悲惨な目に遭わなければならないのかと思わずにはいられなかった」と書いたのだが、(このようなことを書くのもどうかとは思うのだが)私は栄光を極めたそのことこそ実は不幸の始まりだったのではないかと思えてならないのである。なぜ栄光を極めることが不幸に繋がるのか、記していくと次の通りになる。

1 生活が一変してしまうから。

 それまで無名の一市民でしかなかった人がいきなり栄光に浴することになると当然のことながら生活環境は大きく変わることになる。どのようなことが起きるかを挙げると次のようになる。
・マスコミへの対応に追われる。
・自分の時間がなくなる。
・金銭感覚が変わってしまう。
・自分の言行などに更に留意しなければならなくなる。
・自分の私生活が事実上丸裸にされる恐れが生じる。
・野次馬の好奇心の目にさらされるなどして精神的苦痛が生じる。
・自分の考え方が大きく変わってしまう。
・正常な状況判断ができなくなってしまう。
・自分の方針が乱されてしまう。
 まあ環境の激変にも平然としていれば別に問題は起きないのだが、平然としていられる人はあまりいないのではないのだろうか。そもそも栄光に浴すること自体ほとんどないことであるし多くの人間にとって想定外な出来事だからである。その場に身を置くことになった時どのような行動をとるか。それが明暗を分けるのではないのだろうか。

2 酷評や没落、失敗を極度に恐れるようになるから。

 特に文化的分野で活躍する人間にとって怖いことは大成功を収めた後で失敗したり酷評されたりすることである。それによって自分の株は大暴落を起こし、世間は自分に対して見向きもしなくなってしまうからである。だから「前の作品は通過点でしかない。もっと良いものを作りたい」と言う一方では「どのようにすれば前作を超えるものを作れるのだろうか」と思い悩んでいるのである。
 時々歌手が薬物を所持または使用したとして逮捕されるというニュースを聞くことがある。その報に接した方の多くは「人の模範たるべき人間が何をやっているのか」とか「なぜいけないと分かっていて薬物に手を染めるのか。社会的常識も欠けているのか」などと歌手を批判するが、そのような考え方は歌手自身の思いを無視しているのではないのだろうか。きちんと報じないほうも良くないのだが、薬物に手を染める一因は実は創作活動に行き詰まりを感じて苦しんでしまうことにあるのである。その苦しみたるや一般市民には理解できないであろう。一見無理だとは思わないようなことでも彼らには相当な圧力になっていることを我々はもう少し悟るべきではないのだろうか。
 一方で結局一曲しかヒットしなかった歌手や一つの芸しか受けなかったお笑い芸人を一発屋と揶揄することがよくあるが、そういう揶揄も彼らを苦しめていることを我々は考えるべきではないのだろうか。その一つの曲や芸はある年の流行として残るし、志半ばで引退していった方々が大多数を占める中で一つの曲や芸だけでもみんなが注目したことは宝くじを当てることよりも難しいことであり、もっと賞賛しても良いのではないかと思うからである。要するに一般市民が過度の期待をかけていることがタレントを苦しめているのではないか、私はそう思うのである。

3 背伸びし過ぎる場合があるから。

 たとえ栄光に浴しても身の丈に合ったことをするか慎ましやかにしていれば何も問題は起きない。しかし、中にはその栄光に味を占めて背伸びする人がいる。成功すれば良いのだがほとんどの場合失敗することが多い。そういう人に残された道は没落しかない。
 我々がよく知っている例としては1990年代中期に多くの歌手をプロデュースして時代の寵児となった小室哲哉であろう。小林武史とともに二大プロデューサーとしてもてはやされたものであったが、小林武史がプロデュースしている歌手グループ(My Little Lover、Mr.Children)は長続きしているのに対して小室哲哉の時代はわずか数年で終わってしまった。その主たる原因はあまりにも多くの歌手(それも女性がほとんど)をプロデュースしたために次第に飽きられたことや世界進出を目指したが失敗したことにあった。人気ヴァラエティ番組「ASAYAN」(テレビ東京系、1995〜2002年〔平成7〜14年〕放送)の初期に「コムロギャルソン」なるコーナーが設けられ、多くの女性歌手が巣立ったのは良いのだがことごとくすぐに歴史の砂に埋もれたこと(=忘れ去られたこと)はその象徴と言って良いであろう。
 もし小室哲哉が自身の成功にのぼせ上がらず、小林武史のように少数精鋭主義をとっていたら、更に男性歌手をプロデュースしていたら小室哲哉はもう数年時代の寵児の座に就けていたであろうし、詐欺罪で逮捕されることもなかったであろう。まあ小室哲哉をのぼせ上がらせたマスコミの報道もどうかとは思う(中には「小室の秘蔵っ子」という触れ込みでデビューし、デビュー曲が早速あるテレビドラマの主題歌に使われたまでは良いが自信を喪失したのか数曲で引退してしまった例も…)のだが、最も必要だったのは自重することではなかったのだろうか。

4 いつまでも自分の時代が続いていると勘違いしやすくなるから。

 一度栄光に浴した人間はその時期に味わったものからなかなか抜け出せなくなる傾向がある。まだ栄光が続くなら問題はないのだが、時間が経ち、人々の記憶から忘れ去られた時や何らかの事情で没落した時が要注意である。
 新田次郎(1912〜1980)の小説「八甲田山死の彷徨」の終盤に八甲田雪中行軍遭難事件(1902年〔明治35年〕)のある生還者の悲惨な最期が描かれている。この生還者は日露戦争(1904〜1905年〔明治37〜38年〕)の後はいくら厳冬の八甲田山から生還したと言っても誰からも見向きもされなくなり、酒に溺れたために妻からも見捨てられ、最後は居酒屋で「俺は八甲田山の生き残りだ」とそこにいた若い男性に言ったところ「何それ?」と言われたため若い男性を睨み付け、そのままテーブルに突っ伏して死んだと記されているのだが、もしこの人が時流を読めていたとしたら酒に溺れることもなく、妻に去られることもなく、居酒屋で自分をバカにした若者を睨み付けながら死ぬこともなかったのではないのだろうか。確かに厳冬の雪山から生還したことは自分の人生にとって大きな出来事でありいつまでも印象に残ることではあるのだが、世間はそうは思ってくれないものである。時流を読めない頑固者は少なくないが、自分の強烈な体験に固執すればいつか時代から取り残され、孤立することを悟って頂きたいものではあるのだが…。

5 ねたみを受けやすくなるから。

 人の成功は本来なら拍手をもって受け入れたいものであるが、中にはそれをねたむという残念な人がいる。思いでとどめるならまだ良いが、中には栄光に浴している人に危害を加える人もいる。気持ちは分からないわけではないのだが、もしそういうことをした場合自分がどうなってしまうのか、そして相手がどうなってしまうのかなぜ冷静に考えられないのだろうか。逆に自分が誰かからねたまれ、そういうことをされたらどういう気持ちがするかなぜ考えられないのだろうか。ねたみを持った人の行為でその後が大きく揺るがされたという人は少なくないが、相手の幸福を願うのならそういう感情は抑えるなり何かで昇華させるなりしたほうが良いのではないのだろうか。自分が良かれと思ったことがどれだけ甚大な影響を与えるかをよく考えるべきであろう。

 「ならば名声を得るようなことをしなければ、栄光に浴するようなことをしなければ良いのか」という声が挙がりそうなのだが、そういうわけではない。本人・周囲・世間の三者が下表に記すようなことを心がければ栄光に浴しても幸福になれるのではないかと思うのである。

立場心がけるべき事柄
本人・露骨に名声や栄光を求める態度をとらないこと。
・欲張りにならないこと。
・身の丈や適性に合った夢(将来)を考えること。
・何かをすればみんなが認めてくれるというような甘えは持たないこと。
・自己顕示欲を露骨に出さないこと。
・突然注目されるようになっても取り乱さないこと。
・批判や誹謗・中傷、ねたみなどに対して毅然とした態度をとること。
・自分の現状(栄光・幸福・名声)は一時的なものであり、永続するものではないと考えること。
・大金が入っても高級自動車や豪邸、宝石などを買うなど散財に走らないこと。
・現実を直視し、それに合わせた行動をとること。
・女性の場合、自分のことに対して理解のある人間と結婚することを考えること。
・一つの道を極めること。
・副業には手を出さないこと。
・自分の将来を極度に恐れないこと。
・自分の現状にのぼせ上がらないこと。
・言行に留意すること。
・他人との付き合いには十分注意すること。
・もし行き詰まりを感じた時はいつまでも固執せず、思い切って休業するとか引退するなどの選択ができるようにすること。
・たとえ短期間で人気が落ちたとしても自分の残したものは時代の記憶として残ることに誇りを持つこと。
・極力辛い過去やなかったことにしたい過去を否定しないこと。
・たとえ没落したり失敗したりしたとしても他人のせいにはしないこと。
・たとえ没落したり失敗したりしたとしてもそれも運命だと割り切ること。
・いつまでも過去の名声や成功、栄光に固執しないこと。
・自分の名声や成功、栄光を鼻にかけるような行動に出ないこと。
・競争相手となる他人を蹴り落とすような行動に出ないこと。
・「この人にだけは負けたくない」と思うような競争相手を持つこと。
・明確な目標や目的を持つこと。
・他人の意見に振り回されないこと。
周囲・助言をするのは良いのだが、相手の感情を考えること。
・活躍している異性(特に女性)と結婚する場合、家庭生活が疎かになることを覚悟すること。
・活躍している異性(特に女性)と結婚する場合、その成功などをねたまないこと。
・活躍している異性(特に女性)と結婚する場合、協力的な態度をとること。
世間・何にでも好不調の波はあるのだからたった一つの失敗を大げさに報じないこと。
・出所不明の良からぬ噂を事実だと考えて報じ、名誉を毀損しないように努めること。
・衰えが見えてくるとすぐに「限界か」「引退か」などというような追い詰めるような報道はしないように努めること。
・短期間でブームが終わるようなものを大げさに取り上げないこと。
・売り上げや視聴率、聴取率を重視しないこと。
・一挙手一投足や私生活を執拗に追いかけ回さないこと。
・大げさな宣伝文句を付けて将来がどうなるか分からない人を宣伝しないように努めること。
・もし何らかの不祥事を起こした場合はその人の犯したことを非難するのではなく、なぜそのようになったのか過程を重視して報じること。
・過大な期待をかけないように努めること。
・名声や成功、栄光を得ることは宝くじを当てるより難しいことであるしそれまでかなりの苦労をしているのだからそのことを重視するように努めること。
・たとえ一つの芸や一つの曲しかヒットしなかったとしても蔑まないこと。
・もし気に入らないとしても誹謗・中傷などの心身を深く傷付けるような行為には絶対に出ないこと。
・例えば「会見で不機嫌な態度をとった」というだけで執拗な批判を行い、その人の心身を深く傷付けるような行為は慎むこと。

 栄光に浴したのに幸福になれなかった人は有名人にも自分の身近な人にも多数存在する。やはり何かが欠けたから栄光をつかんでも幸福まではつかめなかったのだろう。更に見苦しいのは楽をして栄光をつかもうとする人が少なくないことである。栄光に浴することができればみんな認めてくれるだろうという甘えやおごりがそこには見えるのだが、そういう方はほとんどの場合すぐに栄光の座から転落しているか栄光に浴することができずに終わっている。そこで自分の考えがあまりにも甘かったことに気付けばやり直すことはできるのだが、そういう冷静な判断を下せる人はどのくらいいるのだろうか。そのようにしないことで起きる悲劇はここでは記さないが本当に多いと思う。
 これからも栄光に浴したのに幸福になれない人は出てくることであろう。しかし、そういう人が出ないように努めることが考えられても良いのではないか。不公平を解消することは困難なことではあろうが、私はそのように感じているところである。

(AFTER TALK)

 大学3年生になったばかりの頃、すなわち1992年(平成4年)4月上旬のある日の話であるが、私はサークルの仲間数人と同級生(女性)の父親が運転するタクシーに乗ったことがある(この同級生もそこにいたがさすがに父親の運転するタクシーには乗らなかった)。この同級生の父親は娘に関する愚痴を喋るのでは…と思ったのだが、そこに娘がいたことも話さなかったし娘に関する愚痴も喋らなかったし私達の素性を聞くこともしなかった。その代わり話したことは、車内でかけていたNHKラジオ第一の演芸番組「真打ち競演」(1992年〔平成4年〕4月当時日曜日の午後10時15分〜午後11時に放送されていた)にある芸人(どのような方かは私は分からない)が出演しているのを聞いて「この芸人は何十年も前からこの芸で売っている」ということであった。そんな話をされても…と私—恐らく同乗していた仲間もそうだろうが…—は思ったものであるが、それから数ヶ月後、この同級生の父親が1974年(昭和49年)には既にタクシー運転手だったということをあることで知ることになり、勤務中にラジオをかけることでそういうことに気付いていったのではないかと考えるようになった(その契機は何だったのかはここで明かすわけには行かない。この同級生及びその家族の私的領域を擁護したいし、この同級生の感情を害したくないからである。無論問い合わせにも一切応じないので悪しからず)。
 このような経験をしたこともあって私は一時期注目されたがその後が続かずに終わった芸能人をバカにするような目では見ない。芸能人として活躍したいと思う人が多数いる中で一時期ではあっても世間に注目されたことやすぐに注目されなくなったとしてもその芸や曲などは時代の記憶として残ることになったことの何が悪いのかと思うようになったからである。つまり、宝くじを当てるよりも難しいことを成し遂げた人をバカにする道理はどこにあるのかという考えなのである。一時期注目されたがその後が続かずに終わった芸能人をバカにするような風潮が生じた背景には視聴率や聴取率、部数を稼ぐため、言い換えれば利益を挙げるために面白いことがあるとすぐ飛び付くが、賞味期限が切れると「この人にはあの芸以外のものはない」とか「新たな展開を図ることが難しい」とか「視聴率や聴取率、部数を稼ぐ点、言い換えれば利益を挙げる点からして投資の対象にはもうなり得ない」などと言って無慈悲にも切り捨てる放送局や出版社、新聞社の姿勢があるのではないかと思うのだが、それであれば安定志向を求めたほうが良いようにすら感じる。恐らく冒頭で記した「真打ち競演」に出ていた芸人はそういう姿勢だったのだろう。
 そのように考えると栄光に浴する人間はずっと世間に注目され、その芸や曲などが人々の支持を受け続ける人間ということになるが、その座など実は脆(もろ)いものでしかない。失敗したり自分を蹴落とす存在が出てきたりしたらその座から突き落とされるしかないからである。その現実にどのように向き合うかが幸福になるか否かの分岐点になるのではないかと思うのである。どういう人間なら幸福になれて、どういう人間なら不幸になるのかは本文で触れたのでここでは繰り返さないでおくが、私としては「世の中はなるようにしかならない。何だかんだ騒いだところでどうにもなるものではない」というように泰然自若な態度をとることこそが栄光と幸福を両立できる唯一の道ではないかと考えている。つまり、成功にのぼせ上っても、失敗や失墜、醜聞(しゅうぶん)を恐れても、自分の時代は永遠に続くだろうと思っても幸福にはなれないのである。
 ところで、ホイットニー・ヒューストンの死因であるが、薬物の影響があったことが本作公開後明らかになった。ジャニス・ジョプリン(1943〜1970)やジミ・ヘンドリックス(1942〜1970)などとともに薬物使用で寿命を縮めた歌手の一人となったのだが、(いろいろ意見はあるところであろうが)栄光や名声の一方でやはり常に苦しい思いを抱き、毎日を生きていたのだろうかと思えてならなかった。人気や名声に追いまくられ、失敗や失墜、醜聞を恐れ、結婚して一児の母親になったが夫の暴力に悩まされ…という人生は誰が考えても辛く感じることであろうが、やはり泰然自若な態度をとることは難しかったのだろうか。ただ、ホイットニー・ヒューストンが残した曲の数々はこれからも親しまれていくであろうし、いかなる問題があったとしても偉大な歌手として人々の記憶に残ることであろう。それでも(ここで書くことは差し控えるが)何だかんだ言う人はいるのだろうが…。

(2015年〔平成27年〕9月5日追記)

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