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福山市移管から5年 広島県道191号備後赤坂停車場線だった道の今(2015年〔平成27年〕2月8日公開)

 2010年(平成22年)2月8日広島県告示第88号によりJR山陽本線備後赤坂駅(福山市赤坂町赤坂)と広島県道54号福山・尾道線(国道2号線旧道)を結んでいた広島県道191号備後赤坂停車場線が廃止され、福山市に移管された。1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号で現在の福山市(注1)にある山陽本線の駅を起終点とする県道路線は広島県道191号備後赤坂停車場線を含めて3路線認定されたのだが、既に広島県道190号福山停車場線が1974年(昭和49年)2月19日広島県告示第136号により、広島県道192号松永停車場線が2005年(平成17年)8月8日広島県告示第933号によりそれぞれ廃止されて福山市に移管されていたので広島県道191号備後赤坂停車場線の廃止(福山市への移管)により福山市にある山陽本線の駅を起終点とする県道路線は全て廃止され、福山市に移管されたのである。
 なぜ広島県道191号備後赤坂停車場線までも廃止され、福山市に移管されることになったのか。そして今広島県道191号備後赤坂停車場線だった道はどうなっているのか。それを今回は紹介することにしたい。

JR山陽本線備後赤坂駅とは…

 人口は40万人を超えているのに知名度はあまり高くない福山市のこと、備後赤坂駅と言われてもはて何のことやら…と思う方がいるかもしれない。そこで本題に入る前に備後赤坂駅について紹介することにしたい。
 備後赤坂駅は福山市赤坂町赤坂にある山陽本線の駅である。福山駅(福山市三之丸町)からは5.8km、松永駅(福山市松永町)からは4.9kmのところにある。福山市内の山陽本線の駅では他に大門駅(福山市大門町大門)しかない、昔ながらの木造駅舎が今も使用されている駅である。ホームは大門駅・松永駅と同じく単式・島式併用の2面3線ホームとなっている(注2)。駅周辺は都市化がそんなに進んでいないこともあって年間利用者数は2012年度(平成24年度)で約63万5千人と福山市内の山陽本線の駅では最も少ない(注3)。停車する列車は全て普通列車である(備後赤坂駅付近では優等列車や快速列車の設定はない(注4))。

JR山陽本線備後赤坂駅の駅舎

 備後赤坂駅は1916年(大正5年)6月5日に水越(みのこし)駅という名称で開業した。当時の山陽本線は単線で、10.7kmもある福山〜松永間に列車交換施設が必要だったこと(注5)や沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村の住民が鉄道を利用するのに福山駅か松永駅まで行くのは遠すぎるので中間地点に駅を設置して欲しいと要望したことが開業の動機である。
 水越駅は関係者の露骨な我田引水ぶりが感じられない駅であった。それは次に挙げる事実からもうかがえる。
・駅は沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村が一点で接するところのすぐ近くに設置されたこと。
・駅名は沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村が一点で接するところのすぐ近くにある沼隈郡津之郷村加屋の小字から採ったこと。
 恐らく「駅は○○に設置したほうが良い」とか「駅名は××にしたほうが良い」というような意見は出たことだろうが、結局は沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村が一点で接するところのすぐ近くに設置され、なおかつ沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村が一点で接するところのすぐ近くにある小字を駅名にした。利害を乗り越えた姿がそこにはある。
 しかし、開業から1年半ほど経った1918年(大正7年)1月1日、水越駅は備後赤坂駅に改称された。「赤坂村史」(1967年〔昭和42年〕赤坂村史編纂委員会刊)を見ると改称の理由は敷地の大部分が沼隈郡赤坂村赤坂にあったことだと記されている。確かに敷地の大部分が沼隈郡赤坂村にあるのに駅名は隣村の小字を付けているというのは沼隈郡赤坂村の住民にとってみれば面白くないことであるが、私はそれ以外にも理由があったのではないかと考えている。それを挙げると次の通りになる。
・山陽本線の駅で小字を付けているところはあまりないこと(注6)
・水越は「みずこし」ではなく「みのこし」と読むため難読駅名になっていたこと。
・水越の読み方が「みずこし」だったらまだ良かったのだろうが、「みのこし」では「見残し」に通じ、印象が悪くなること(注7)
・水越駅は沼隈郡赤坂・瀬戸・津之郷各村が一点で接するところのすぐ近くに設置されているが、沼隈郡瀬戸村(1889〜1956)や沼隈郡津之郷村(1889〜1956)の中心部からは遠く、反対に沼隈郡赤坂村(1889〜1956)の中心部に近いこと(注8)
 市販の道路地図や時刻表をご覧頂ければ分かることであるが備後赤坂駅は山陽本線では数少ない令制国を冠称した名称を持つ駅である(注9)。これは赤坂という地名が全国各地にあり、単に「赤坂駅」とした場合、混同されてしまう恐れがあったからである。
 来年6月に開業100周年を迎える水越駅改め備後赤坂駅であるが、前に記したように利用者は福山市内にある山陽本線の駅では最も少なく、周囲は都市化がさほど進んでいない。旧福山市(注10)の都市化が東高西低で進んでいることの表れと言えるが、それが反対に昔ながらの駅舎と他の福山市内の山陽本線の駅周辺では見られなくなったのどかな情景が残る要因になったと言えよう。

備後赤坂駅をめぐる県道路線の消長

 「国・県道路線一覧表」(広島県発行)や広島県の道路系サイトの草分け的存在である「 Nagao's Homepage—広島の道— 」によると旧道路法時代、水越駅改め備後赤坂駅に通じる県道路線は赤坂停車場・赤坂線(1923年〔大正12年〕4月1日広島県告示第221号により認定)と熊野・赤坂停車場線(1948年〔昭和23年〕12月3日広島県告示第530号により認定)があったという。前者は沼隈郡赤坂村で完結する路線、後者は沼隈郡熊野村(1889〜1956)と備後赤坂駅を結ぶ路線だったようであるが、旧道路法時代には現在の福山市(注1)にある山陽本線の駅、すなわち大門駅・福山駅・備後赤坂駅・松永駅(注11)のいずれにも駅前を起終点とする県道路線があった(注12)中で二つも県道路線を持つようになったのは異例のことであった。備後赤坂駅は優等列車が停車しないし、1956年(昭和31年)9月29日までは村にある駅だった(注13)のだが、駅と村の中心部が離れていることや沼隈半島中部・南部においては備後赤坂駅が最寄の鉄道駅であり、沼隈半島中部・南部と鉄道駅を結ぶ道路の整備が望まれていたことが理由だったのだろうか。
 現行道路法による一般県道路線認定(広島県では1960年〔昭和35年〕10月10日広島県告示第682号により実施)により赤坂停車場・赤坂線と熊野・赤坂停車場線は廃止され(注14)、改めて備後赤坂駅と国道2号線(現:広島県道54号福山・尾道線(注15))をまっすぐに結ぶ県道57号備後赤坂停車場線(路線番号は当時のもの(注16))が認定された。旧道路法時代、備後赤坂駅の駅前広場から北に延び、西国街道(山陽道)だった道に突き当たっていた駅前通りはその全てが県道(赤坂停車場・赤坂線と熊野・赤坂停車場線が重用していたものと思われるが不明(注17))になっていたのだが、駅前通りの途中を国道2号線が横切ることになったことから県道57号備後赤坂停車場線は下の写真(2007年〔平成19年〕7月17日撮影)の信号機(赤坂駅前交差点)のところで打ち切られることになったのである。駅前からまっすぐ延びる道があり、途中の国道2号線と交差するところで県道から市道に変わるという点は同じ1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号で認定された県道56号福山停車場線(路線番号は当時のもの(注16))や県道58号松永停車場線(路線番号は当時のもの(注16))にも共通することであるが、それが福山市の都市計画にとって不都合になり、結果いずれも福山市に移管されることになろうとはこの当時誰も思わなかったことであろう。

なぜ県道191号備後赤坂停車場線は廃止され、福山市に移管されたのか

 福山市は1956年(昭和31年)9月30日に沼隈郡鞆(とも)・水呑(みのみ)両町及び赤坂・熊野・瀬戸・津之郷各村と深安郡市・千田・引野・御幸各村を編入したことで広島県南東部初の10万都市になっていた。しかし、当時はまだ広島県南東部の中心都市としては十分とは言えない状況があった。江戸時代水野氏→松平氏→阿部氏10万石の城下町として栄えながら明治時代以降停滞が続き、広島県南東部随一の広大な平野を持ちながら、内陸部に通じる鉄道路線が分岐する交通の要衝でありながら広島県南東部の中心都市の座は尾道市に奪われたからである(注18)。1953年(昭和28年)に二級国道路線が制定された際も尾道市や三原市を終点とする路線(注19)は設定されたのに福山市を起終点とする路線は設定されなかったことはその象徴と言えよう(注20)
 だが、1961年(昭和36年)、福山市・深安郡深安町境付近の海岸部に日本鋼管(現:JFEスチール)の大規模な製鉄所が進出することが決まったことを契機に福山市は著しい発展を遂げることになった。財政規模が拡大した福山市は区画整理や道路建設、学校新設などの都市基盤整備を進めていくのだが、そういう中で福山駅から南に延びる駅前大通りに地下道と地下駐車場を整備することになった。無論運営者は福山市になるわけであるが、当時駅前大通りは県道56号福山停車場線改め県道190号福山停車場線という県道路線であり、県道の地下に市営のものがあるというのはどうかという問題が生じる。そこでまず1974年(昭和49年)2月19日広島県告示第136号により県道190号福山停車場線は廃止され、福山市に移管されたのである。なお、地下道と地下駐車場が完成したのはその6年後の1980年(昭和55年)3月のことである。

駅前大通りに建設された地下駐車場の入口

 残ったのは県道191号備後赤坂停車場線と県道192号松永停車場線であり、このまま存続するだろうと思っていたが、2005年(平成17年)8月8日広島県告示第933号で今度は県道192号松永停車場線が廃止され、福山市に移管された(注21)。理由は松永駅北口駅前広場と国道2号線松永道路今津ランプ(福山市今津町)を結ぶ都市計画道路駅前・府中線を福山市が整備するに当たって県道192号松永停車場線である部分を福山市に移管させる必要が生じたことであった。都市計画道路駅前・府中線については並行して県道48号府中・松永線(都市計画道路松永港・本郷線)が整備されていることから建設する必要はないとする声もあるのだが、もし整備されれば松永駅北口と福山市松永地区北部(東村町・本郷町)や尾道市原田地区、福山大学(福山市東村町)、国道2号線松永道路今津ランプを最短経路で結ぶ道路になることや今は閑散としている松永駅北口の活性化を図りたいことから整備しようという話になったのだろう。ただ、建設予定地には民家が多数建っていることから用地買収が難航しており、いつ開通するかははっきりしていない。
 ならば都市化が進展していないところを通る県道191号備後赤坂停車場線は安泰だろうと思っていたのだが、県道192号松永停車場線が廃止された頃既に県道191号備後赤坂停車場線についても廃止して福山市に移管する動きが起きようとしていたのである。つまり、福山市が備後赤坂駅周辺の整備に乗り出す理由がいくつも生じていたのである。それは次の通りである。
・備後赤坂駅の南西に1974年(昭和49年)に福山市地吹町(現在福山市老人大学があるところ)から移転してきた福山市立福山高等学校(1969〜2004)が中高一貫校に移行し、福山市立福山中学校・高等学校に改称したこと(注22)。福山市立福山高等学校時代でも鉄道を使って通学する生徒は多かったが、中高一貫校移行後は更に増えている。
・備後赤坂駅の南東に国道2号線福山道路及び赤坂バイパス、更に福山西環状線(県道463号津之郷・山守線)の結節点(ジャンクション)が計画されていること。現在のところ住民が強硬に反対しているため着工に至っていないが、もしこれらの道路が完成すれば福山市赤坂・瀬戸・津之郷地区は旧福山市(注10)西部の交通の要衝になる可能性が高くなる。
 県道である以上広島県が整備すれば良いのだろうが広島県—それは他の都道府県もだろうが—としては整備に積極的になる理由がない限り整備に乗り出さない。県道191号備後赤坂停車場線は福山市内にある県道路線(2005年〔平成17年〕8月8日時点で主要地方道10路線・一般県道40路線の合計50路線)で最短の路線である(総延長・実延長とも47m)し交通量は少ないから整備順位は著しく低い。加えて都道府県道路線をそのまま通過市町村に移管する政策(注23)もそんなに行われていないし、福山市がいくら隣接自治体との合併を行っても都道府県道路線を自ら管理できるようになる政令指定都市になることはまずあり得ない。そういう状況ならどうすれば良いのか。県道としての認定を解き、通過自治体に移管させるしかない。こうして広島県議会の2009年(平成21年)12月定例会で県道191号備後赤坂停車場線の廃止議案が提出されて可決され、2010年(平成22年)2月8日広島県告示第88号により県道191号備後赤坂停車場線は廃止されたのである。山陽本線が通る中国地方の自治体は現在29(注24)あるが、これにより福山市は山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線を持たない数少ない自治体の一つになったのである(注25)

廃止から5年 県道191号備後赤坂停車場線だった道の今は…

 現在県道191号備後赤坂停車場線だった道はどうなっているのか。今年1月下旬のある日現地を訪れてみた。すると下の写真の通り上下2車線の新しい駅前通りが完成に近付いていることに気付いた。

 

 県道191号備後赤坂停車場線だった道に変化が起き始めたのは昨年に入ってからだった(実は こちら で少しそのことに触れている)のだが、この上下2車線の新しい駅前通りが建設されたことにより大門駅以外の福山市内の山陽本線の駅の駅前通りの整備が完了することになった。
 それはそれで良いことなのだが、下の二つの写真を見比べて何かに気付かないだろうか。駅前通りの左側にある食堂と駅前広場にあるグレーチングに注目すればよく分かることなのだが、県道191号備後赤坂停車場線だった道は何と新しい駅前通りの歩道の下敷きになってしまったのである。

 

 なぜこのようになったのか。上の左の写真をご覧頂ければうかがえることであるが、県道191号備後赤坂停車場線だった道は終点に近付くほど勾配が急になっていたからである。だから停止線は終点の赤坂駅前交差点(福山市赤坂町赤坂)の直前に引けなかったわけであるが、恐らく元々はその先の西国街道(山陽道)だった道(県道378号御幸・松永線)まで同じような勾配の道だったのが1950年代後半の国道2号線(現:県道54号福山・尾道線(注15))の整備の際に急勾配が入るように改造されたのだろう。その改善も整備の目的の一つだったというわけである。ただ、県道191号備後赤坂停車場線だった道は全て新しい駅前通りの歩道の下敷きになったわけではなく、赤坂駅前交差点のそばには昔の路盤が露出している箇所がある(下の写真)。

 開業100周年を前にしてやっと立派な駅前通りが整備されたということになるのだろうが、私は複雑な思いを抱く。その理由は次の通りである。
・新しい駅前通りの整備に際して県道191号備後赤坂停車場線だった道の東側にあった民家は全て解体され、昔ながらの駅前通りの雰囲気が損なわれたこと。
・福山市の都市計画上の都合で県道191号備後赤坂停車場線は廃止され、福山市に移管されたのに5年経っても整備されたのは駅前通りだけであること。
・駅前に活気が見られないこと。
・整備理由の一つには福山市立福山高等学校の中高一貫校化があったが、福山市立福山中学校・高等学校の生徒は新しい駅前通りを歩くことはあまりないこと。
 見方は人それぞれであろうが、あまり良い気分を抱かないのは私だけであろうか。

今後の課題

 福山市によって備後赤坂駅の駅前通りは立派な道になった。しかし、課題はいくつもある。それを挙げると次の通りになる。
・福山市立福山中学校・高等学校の生徒が歩く、備後赤坂駅の駅前広場から西に延び、滑石(すべりいし)交差点(福山市赤坂町赤坂)で県道54号福山・尾道線に合流する福山市道の整備が十分ではないこと。狭いながら歩道はあるが滑石交差点まで延びていないし、かつては通勤・通学の時間帯の自動車の通行を禁止する規制が行われていたが今は解除されている。
・備後赤坂駅の駅前広場から東に延びる道の整備が遅れていること。イコーカ山古墳(福山市赤坂町赤坂。福山市指定史跡)のある丘陵と山陽本線の間の狭いところを通っているため整備は困難を極めているが、その道にはなるべくなら通って頂きたくないことを記した看板(下の写真)がいくつか立っている。果たしてこれで良いのであろうか。

 

・備後赤坂駅が身体障害者や高齢者にとって使いやすい駅になっていないこと。駅舎とホームの間に高低差があることもあるのだが、福山市内の山陽本線の駅では唯一車イスの乗れるエレベーターがない駅になっている。
・福山市の方針がはっきりしないこと。もし備後赤坂駅周辺で区画整理事業を行うとしたら恐らく福山市神辺町川南のJR福塩線・井原鉄道井原線神辺駅(福山市神辺町川南)西方の地域で計画されている川南区画整理事業の後になるのではないかと思われるのだが、川南区画整理事業自体住民の強硬な反対で進展しておらず、それ故に明らかにできないという事情もあるのだろうが…。
・更に福山市内の福塩線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線(県道213号横尾停車場線と県道214号神辺停車場線、県道215号道上停車場・中野線、県道216号戸手停車場線、県道217号新市停車場線)も福山市に移管させる可能性があること。しかし、福塩線の駅の利用者数は山陽本線のそれより少なくなることなどを考えれば現状では考えられない話ではある。
 一方で昨今の福山市の都市行政を見ると人口減少を見据えた政策に転換していることがうかがえる。1982年度(昭和57年度)から原則として毎年秋に実施されてきた住居表示は2009年度(平成21年度)を最後に休止している(注26)し、長期間着手しないままの都市計画道路の見直しも行われている。そして市立幼稚園の休園に続いて市立小学校・中学校の統廃合にも乗り出そうとしている。そういう中で備後赤坂駅周辺の整備はどうなるのか。松永駅北口駅前広場と国道2号線松永道路今津ランプを結ぶ都市計画道路駅前・府中線の整備はどうなるのか。福塩線の駅の周辺の整備は考えているのかどうか。今後も注目していきたいと思うところである。

(注釈コーナー)

注1:「現在の福山市」と書いたのは1956年(昭和31年)9月29日以前は福山駅以外は福山市外にあったからである。1956年(昭和31年)9月30日に福山市が沼隈郡赤坂村を編入したことで備後赤坂駅が、1962年(昭和37年)1月1日に福山市が深安郡深安町(1955〜1961)を編入したことで大門駅が、そして1966年(昭和41年)5月1日に福山・松永両市が統合して改めて福山市が発足したことで松永駅が福山市内にある駅となった。

注2:大門・備後赤坂・松永各駅の配線の共通点(3駅中2駅以上で共通する事柄を記載)と相違点は下表の通りである。

項目記事
共通点・北側から単式ホーム→島式ホームが配置されている。
・単式ホームは駅舎に接している。
・単式ホームは1番ホーム、島式ホームは2番ホーム(北側)と3番ホーム(南側)になっている。
・1番ホームは上り列車(岡山方面)、3番ホームは下り列車(広島方面)がそれぞれ停車する。
・2番ホームは待避線であり、普段は列車の停車はない。
相違点・大門駅は待避線を撤去し、3番ホームを2番ホームに改称した。
・備後赤坂駅は3番ホームの南側に待避線がある。
・松永駅の単式ホームは1969年(昭和44年)の橋上駅化により駅舎に接しなくなった。
・松永駅の待避線は広島方面からは入れないようになっている。

注3:2012年度(平成24年度)の福山市内のJRの駅の年間利用者数の順位は下表の通りである。

駅名所在地乗り入れ
鉄道路線名
年間利用者数備考
1福山三之丸町山陽新幹線
山陽本線
福塩線
約704万3千人
2松永松永町山陽本線約164万7千人
3東福山引野町五丁目山陽本線約139万3千人
4大門大門町大門山陽本線約89万人
5備後赤坂赤坂町赤坂山陽本線約63万5千人
6神辺神辺町川南福塩線約43万7千人井原鉄道井原線の利用者数は含まない。
7横尾横尾町一丁目福塩線約31万8千人
8駅家駅家町倉光福塩線約26万3千人
9湯田村神辺町徳田福塩線約25万1千人
10万能倉駅家町万能倉福塩線約24万3千人
11道上神辺町道上福塩線約23万6千人
12新市新市町新市福塩線約17万5千人
13上戸手新市町戸手福塩線約16万9千人
14備後本庄本庄町中三丁目福塩線約11万2千人
15戸手新市町戸手福塩線約10万7千人
16近田駅家町近田福塩線約6万9千人

注4:備後赤坂駅を通過する貨物列車は多数あるが、備後赤坂駅を通過する旅客列車は2009年(平成21年)3月14日実施のJRグループのダイヤ改正で寝台特急列車「富士・はやぶさ」号が廃止されたのを最後に消滅した。

注5:「赤坂村史」によると1913年(大正2年)に現在の備後赤坂駅と同じ場所に列車交換のための信号所が設置されたという。ところが、「JR・私鉄全線各駅停車第9巻 山陽・四国920駅」(1993年〔平成5年〕小学館〔東京都千代田区一ツ橋二丁目〕刊)やインターネット百科事典「 Wikipedia 」などを見ても現在の備後赤坂駅と同じ場所に列車交換のための信号所が設置されたという記述は見当たらない。

注6:水越駅があった頃他には存在しなかった。現在でも四辻駅(山口市鋳銭司〔すぜんじ〕)と本由良駅(山口市佐山)があるくらいである。
※四辻駅は1920年(大正9年)5月16日開業。本由良駅は1900年(明治33年)12月3日に開業した当時は阿知須駅という名称だったが1950年(昭和25年)6月1日に本由良駅に改称した(現在JR宇部線にある阿知須駅〔山口市阿知須〕は山陽本線の阿知須駅の本由良駅への改称と同じ日に本阿知須駅から改称して発足したものである)。

注7:それでも見残しという地名を用いているところはある。有名なのは高知県土佐清水市にある見残し海岸である。

注8:福山市の場合、昭和の大合併までに消滅した町村の中心地は小学校や福山市農業協同組合の支所、市役所の支所の位置から割り出せる。福山市赤坂・瀬戸・津之郷各地区には現在市役所の支所はないのでそれぞれの地区の小学校(赤坂地区…福山市立赤坂小学校〔福山市赤坂町赤坂〕、瀬戸地区…福山市立瀬戸小学校〔福山市瀬戸町地頭分〕、津之郷地区…福山市立津之郷小学校〔福山市津之郷町津之郷〕)を中心地と見なし、備後赤坂駅との距離を地図サイト「 MapionBB 」のキョリ測を用いて測ったところ次のような結果を得た。
・備後赤坂駅〜赤坂地区中心部間…約1.1km
・備後赤坂駅〜瀬戸地区中心部間…約1.9km
・備後赤坂駅〜津之郷地区中心部間…約2.1km
赤坂地区の中心部も備後赤坂駅からいくらか離れているが、赤坂地区の中心部が最も近いことがうかがえる。

注9:山陽本線には他にはりま勝原駅(姫路市勝原区熊見)と安芸中野駅(広島市安芸区中野二丁目)があるだけである。以前は周防富田(すおうとんだ)駅や長門一ノ宮駅もあったが周防富田駅は1980年(昭和55年)10月1日に新南陽駅(周南市清水二丁目)に、長門一ノ宮駅は1975年(昭和50年)3月10日に新下関駅(下関市秋根南町一丁目)にそれぞれ改称したために消滅した。
※中国地方のJR山陽本線にある令制国名を冠称した駅にはいずれも駅前を起点とする県道路線が存在した。東から広島県道191号備後赤坂停車場線、広島県道196号安芸中野停車場線、山口県道178号周防富田停車場線、山口県道255号長門一の宮停車場線となるが、1994年(平成6年)3月15日山口県告示第211号により山口県道178号周防富田停車場線が山口県道178号新南陽停車場線に、山口県道255号長門一の宮停車場線が山口県道255号新下関停車場線にそれぞれ改称され、2010年(平成22年)2月8日広島県告示第88号により広島県道191号備後赤坂停車場線が廃止されたため現在では広島県道196号安芸中野停車場線しか残っていない。

広島県道196号安芸中野停車場線の県道標識

注10:松永市との統合による再発足前の福山市を指す。現在の福山市から下表に掲げた地区を除いた部分が旧福山市となる。

地区名合併前の
自治体名
合併時期所属町名備考
松永松永市1966年(昭和41年)5月1日今津町、金江町、神村町、高西町、東村町、藤江町、本郷町、
松永町、南今津町、南松永町、宮前町、柳津町
芦田芦品郡芦田町1974年(昭和49年)4月1日芦田町
駅家芦品郡駅家町1975年(昭和50年)2月1日駅家町
加茂深安郡加茂町1975年(昭和50年)2月1日加茂町、山野町
内海沼隈郡内海町2003年(平成15年)2月3日内海町
新市芦品郡新市町2003年(平成15年)2月3日新市町
沼隈沼隈郡沼隈町2005年(平成17年)2月1日沼隈町
神辺深安郡神辺町2006年(平成18年)3月1日神辺町

注11:東福山駅(福山市引野町五丁目)は1979年(昭和54年)4月1日に旅客駅として開業している。

注12:旧道路法時代に存在した、現在の福山市にあるJR山陽本線の駅を起終点とする県道路線は下表の通りである。

駅名県道路線名備考
大門下御領・大門停車場線(1923〜1960)
福山福山停車場線(1920〜1960)
備後赤坂赤坂停車場・赤坂線(1923〜1960)
熊野・赤坂停車場線(1948〜1960)
松永松永停車場線(1920〜1960)

注13:本文でも記している通り、1956年(昭和31年)9月30日に福山市が沼隈郡鞆・水呑両町及び赤坂・熊野・瀬戸・津之郷各村と深安郡市・千田・引野・御幸各村を編入したことによる。

注14:1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号では一般県道306路線の認定だけでなくそれまでに認定された一般県道路線の廃止も兼ねている。なぜそれまでに認定された一般県道路線の廃止も兼ねることになったのかは分かっていない。

注15:県道191号備後赤坂停車場線が終点で接続する道路が国道2号線から県道54号福山・尾道線に変わったのは1999年(平成11年)3月31日広島県告示第386号による。国道2号線赤坂バイパスの全線開通(1998年〔平成10年〕3月14日)に伴う旧道処分が理由である。

注16:これらの県道番号は広島県では1972年(昭和47年)11月1日に実施された県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編まで使用された。

注17:「 地図・空中写真閲覧サービス 」というサイトで1947年(昭和22年)10月1日に撮影された備後赤坂駅周辺の航空写真を見ると備後赤坂駅の駅前から北と西に延びる道が見える。熊野・赤坂停車場線は北に延びる道だったことは明らかだが、赤坂停車場・赤坂線については西に延びる道だった可能性も考えられる。
※「国・県道路線一覧表」に掲載されている県道路線の履歴を見ると県道57号備後赤坂停車場線→県道191号備後赤坂停車場線の前身は町道だったと記されているが、備後赤坂駅の駅前通りの通過自治体は沼隈郡赤坂村→福山市であり町道になったことは一度もない。

注18:尾道市が市制施行したのは1898年(明治31年)4月1日だったが、福山市はそれから18年も後の1916年(大正5年)7月1日になってようやく市制施行した。その間の1902年(明治35年)10月1日には呉市も市制施行しているから福山市は呉市よりも市制施行が遅かったことになる。

注19:二級国道184号松江・尾道線(1953〜1965。現:国道184号線)と二級国道185号呉・三原線(1953〜1965。現:国道185号線)を指す。

注20: こちら でも書いているのだが、1954年(昭和29年)1月20日建設省告示第16号で主要地方道指定がなされた時、福山市を起点とする路線は広島県に当時あった市で最多の4路線が指定された(反対に広島市は皆無だった)。将来の国道昇格を念頭に置いた指定と言え、その後4路線中3路線が一部区間または全区間の国道路線移行を理由に廃止されている。

注21:県道192号松永停車場線廃止時点の道路区域は松永駅北口駅前広場(総延長わずか5m)だけになっていた。2005年(平成17年)3月24日広島県告示第408号で大幅に区域が削られ、起点からわずか5mだけになったのである。それから廃止までの4ヶ月半の間、暫定的ながら日本で最も短い都道府県道路線の座に就いていたわけであるが、なぜ二段階に分けて福山市に移管させる策をとったのか、はっきりしたことは分かっていない。

県道192号松永停車場線全景。廃止直前にはそのほとんどの部分が福山市に移管されており、県道だったのは手前側のわずかな部分だけだった。

注22:福山市立福山中学校・高等学校は実は前身校時代にも中高一貫校だった時期があった。福山市立福山中学校・高等学校の公式サイトによるとまだ私学で、門田(もんでん)女子高等学校という名称だった1948年(昭和23年)に中学校を併設したが4年後の1952年(昭和27年)に併設中学校の生徒募集を停止している(その後1969年〔昭和44年〕に福山市に移管された際に併設中学校は正式に廃止されている)。経営難に陥ったのか、思ったほど生徒が集まらなかったのか理由は定かではない。
※福山市の高等学校のうち国立・市立・私立の学校(国立1校・市立1校・私立5校。私立のうち通信制高校は除く)は全て中高一貫校になっていることに気付く。これは昭和時代末期から次々と中高一貫校に移行したからで、人口40万人以上の都市としては珍しいと言える。背景には公立高校の入試における総合選抜制度導入(1976〜1998。福山市立福山高等学校も参加していた)で福山市内の公立高校の学力が低下したことや他地域(主に岡山県)の高校へ進学する子供が少なくなかったこと、福山市内の公立中学校はいわゆる荒れた学校が少なくないこと、少子化の時代に生き残れる術(すべ)を模索していたことがある。

注23:中国地方では岡山県新見市(2006年〔平成18年〕3月31日岡山県告示第198号に基づいて2006年〔平成18年〕4月1日から実施)と広島県三次(みよし)市(2007年〔平成19年〕10月25日広島県告示第1,057号に基づいて2007年〔平成19年〕10月26日から実施)で実施されているだけである。

注24:中国地方で山陽本線が通る自治体は下表の通りである(現在は駅のない通過自治体はない)。

県名通過自治体名備考
岡山県備前市・和気郡和気町・赤磐市・岡山市・倉敷市・浅口市・浅口郡里庄町・笠岡市(6市2町)岡山市の行政区で通過しているのは東区・中区・北区。いずれの区にも駅がある。
広島県福山市・尾道市・三原市・東広島市・広島市・安芸郡海田町・安芸郡府中町・廿日市市・大竹市
(7市2町)
広島市の行政区で通過しているのは安芸区・南区・東区・中区・西区・佐伯区。東区と中区には現在駅がない。
山口県玖珂郡和木町・岩国市・柳井市・熊毛郡田布施町・光市・下松市・周南市・防府市・山口市・
宇部市・山陽小野田市・下関市(10市2町)

注25:他には浅口郡里庄町と尾道市、玖珂郡和木町、柳井市がある。このうち福山市と同じく山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線があったのは柳井市だけである。柳井市の場合、柳井駅(柳井市中央二丁目)を起点とし、県道7号柳井・周東線を終点とする県道154号柳井停車場線(1958〜1994)だけが存在したのだが、県道7号柳井・周東線の経路変更で終点で県道7号柳井・周東線と接続しなくなったことにより1994年(平成6年)3月29日山口県告示第259号により廃止されたため山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線がなくなっている。

注26:休止の理由は明記されていないが、住居表示を実施できるところがなくなったことや住居表示を実施しようとしたが住民の理解を得られず、中断しているところがあることが考えられる。

(参考文献)

・赤坂村史(1967年〔昭和42年〕赤坂村史編纂委員会刊)

・国・県道路線一覧表(広島県発行)

・市立移管20周年記念誌(1990年〔平成2年〕福山市立福山高等学校刊)

・JR・私鉄全線各駅停車第9巻 山陽・四国920駅(1993年〔平成5年〕小学館〔東京都千代田区一ツ橋二丁目〕刊)

・統計ふくやま(福山市企画総務局企画部情報管理課発行)

・広島県報(広島県総務局総務課発行)

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