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JR三江線並行道路を行く・第2章(2017年〔平成29年〕11月6日公開)

第1章から

長谷駅から船佐駅へ

 長谷駅(三次市粟屋町)を過ぎて間もなくのところから県道112号三次・江津線は長谷駅の手前、言い換えれば江の川支流の長谷川に架かる長谷橋(全長:26m)の手前にあった「大型車はこれより先通行困難です 三次土木建築事務所(注1)」と書かれた看板(下の写真)で予告された通り、江の川と三江線または山に挟まれたところを通る狭い道になる。大型車の通行は記すまでもなく無理だが、待避所も交通量が少ないことや地形的に設置が難しいことなどからそんなに多いとは言えず、軽自動車同士のすれ違いですら難しい道となる。来年4月1日からはこの道を三次市中心部と江の川左岸に点在する集落を結ぶ路線バス(三江線廃止代替バス)が通ることになるのだろうが、どんな車両がこの道を通るのだろうかと考えたくなってくる。

 道が狭くなって間もなく、車窓右手に堰(せき)のようなものが見えてくる(下の写真)。

 この堰は鳴瀬堰堤(えんてい)、正式名称は江の川取水ダムといい、ここで取水された江の川の水は中国電力新熊見発電所(三次市作木町香淀)まで地下に建設された送水管で運ばれているという(発電に使用された後は江の川支流の熊見川を経て江の川に戻される)。この鳴瀬堰堤(江の川取水ダム)を境に江の川の水量は少なくなり、岩がゴロゴロしている川になる(下の写真)。

 鳴瀬堰堤を車窓右手に眺め、狭い道をしばらく進むと、三次市と安芸高田市の境に着く。

安芸高田市の境界標識

三次市の境界標識

 ここで注目したいのは安芸高田市と三次市の境界標識の違いである。県道112号三次・江津線を西方から走ってきた場合に見る境界標識は「三次市 Miyoshi City」であるが、県道112号三次・江津線を東方から走ってきた場合に見る境界標識は「安芸高田市高宮町 Akitakata City Takamiyacho」となる。県道112号三次・江津線を西方から走ってきた場合に見る境界標識は自治体名+ローマ字表記になっているのに対し、県道112号三次・江津線を東方から走ってきた場合に見る境界標識は自治体名+町丁名+ローマ字表記になっているわけであるが、このように異なる表示になった背景にはいわゆる平成の大合併があるように感じられる。高田郡に属していた自治体で唯一県道112号三次・江津線の通過自治体となっていた高宮町(1956〜2004)が高田郡に属する他の自治体、すなわち甲田・美土里・向原・八千代・吉田各町と統合して安芸高田市が発足したのは2004年(平成16年)3月1日のことだったのだが、他の都道府県から来た方が見慣れない自治体名に戸惑う恐れがあること(もっとも県道112号三次・江津線の交通量はそんなにないし、高田郡高宮町の知名度はそんなに高かったわけでもないのだが…)やかつてそこから西側は高田郡高宮町だったことを示す考えがあったのだろう。
 そしてもう一つ注目したいのは三次市の境界標識のすぐそばにそこから江の川と長谷川の合流地点(長谷駅のすぐ東側)までは禁漁区になっているという看板があることである。江の川と言えばアユなどの川魚を釣る人の姿が見られることがあるのだが、この辺りの江の川が禁漁区になっているのは鳴瀬堰堤(江の川取水ダム)があることもあるからであろう。
 三次市・安芸高田市境を過ぎた県道112号三次・江津線は間もなく三江線の下をくぐり、江の川支流の乙木(おとぎ)川を乙木橋(全長:38.1m)で渡る。乙木橋の先にあるのが県道322号北・船木線との 丁字路(安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点〔信号機・交差点名標なし〕) である。県道112号三次・江津線口羽方面と県道322号北・船木線甲田方面がまっすぐに接続しており、そこに県道112号三次・江津線三次方面が突き当たる格好になっている。
  安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) に立つと、そこに通じる道の環境の厳しさを感じ取ることができる。その概要は次の通りである。
・県道112号三次・江津線三次方面…異常気象時通行規制区間に指定されている上に大型車の通行が困難である。

県道112号三次・江津線三次方面について大型車の通行が困難であることを警告する標識

乙木橋の向こうに見える異常気象時通行規制を予告する標識と電光掲示板

・県道322号北・船木線…上下2車線化されているが異常気象時通行規制区間に指定されている。

県道322号北・船木線の異常気象時通行規制を予告する標識と電光掲示板

・県道112号三次・江津線口羽方面…異常気象時通行規制区間には指定されていないが4トン以上の自動車の通行が不可能である。

県道112号三次・江津線口羽方面について大型車の通行が困難であることを警告する標識
※川毛は三次市作木町香淀の小字、川根は安芸高田市高宮町の大字である。

4トン車以上の通行が不可能であることを警告する標識(左側の横長長方形の標識。古びて読みづらいが「4t車以上 通行不能 広島県」と記されている)

  安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) で接続する県道路線のいずれもが何らかの問題を抱えているということになるのだが、そういうこともあってかその辺りには民家は見当たらず、清流園という汚泥再生処理施設が交差点のすぐそばにあるくらいである。
 ところで、 安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) のそばには下の写真のような横断幕が設置されていた。

 三江線の存続のために三江線の利用を呼びかける横断幕であるが、廃止が決まった今となっては空しいものと化してしまった。まあ過疎化や道路整備の進展で利用者が減り、それに合わせて列車の本数が削減されたことや三江線を管轄している西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)が三江線の振興に消極的だったこと、更に沿線に著名な観光地がないことが廃止という結果に繋がったと言えるのだろうが、致し方ないと見るべきなのか。地域や国、鉄道会社の無策の果てだと考えるべきなのか。それは私には判断しかねることである。
 それはさておき、三江線に並行する道路である県道112号三次・江津線は 安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) で右折し、4トン車以上の通行が不可能であると警告された道に入っていく。そのすぐ先で三江線をくぐるのだが、この三江線の橋梁は県道112号三次・江津線三次方面と乙木川、県道112号三次・江津線口羽方面を一跨ぎする格好で架けられている。こういう橋梁は珍しいと言える。
 4度目の三江線との交差を過ぎて間もなく、私は初めて見るあるものに遭遇した(下の写真)。

 この標識は広島県が2017年度(平成29年度)から落石や土砂崩れが起きる恐れの高い箇所に設置を進めている注意喚起標識である。詳細は こちら をご覧頂きたいのだが、広島県はレベル4を落石や土砂崩れの危険性が最も高い箇所としており、この辺りの県道112号三次・江津線は異常気象時通行規制区間にこそ指定されていないが災害の危険性が高いところであるということを認識させられる。それにしても気になったのはこの標識の下部に記されている連絡先がご覧頂ければ分かるように広島県北部建設事務所(三次市十日市東四丁目)ではなくかなり離れたところにある広島県西部建設事務所(広島市南区比治山本町)であるということであるが、なぜ三次市にある出先機関ではなく広島市南区にある出先機関が管理することになったのだろうか。安芸高田市は広島県北部に属すると考えている方が少なくない(注2)だけにこの管轄の決め方は理解に苦しむ。
 落石・土砂崩れの危険が高い区間に入った県道112号三次・江津線は江の川と三江線または山に挟まれた中を狭い道で通り抜けていく。南側に山があるために昼間は日の光が当たらないところが多いのだが、やがて進行方向左側が開けてきて日の光が当たるようになってくる。しばらくすると進行方向左側に広場のようなところが見えてくるのだが、その中に船佐駅はある。

船佐駅(ふなさえき)

船佐駅の待合小屋

船佐駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。船佐駅の愛称は悪狐伝(あっこでん)となっている。

船佐駅のデータ

項目記事
所在地 安芸高田市高宮町船木
駅名の由来駅がある村の名前。
開業年月日1955年(昭和30年)3月31日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるもの待合小屋
プラットホームの形式単式ホームで南側を使用している。
島式ホームとして使用可能ではあるが使用されたことはないと思われる。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から98.4km
終点(三次)から9.7km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)所木駅から1.4km
(上り線)長谷駅から2.2km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時14分(浜原発三次行)
423D…午前9時0分(江津発三次行)
427D…午後3時55分(口羽発三次行)
429D…午後6時39分(江津発三次行)
433D…午後8時20分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前5時58分(三次発浜田行)
424D…午前10時22分(三次発石見川本行)
428D…午後2時32分(三次発口羽行)
432D…午後5時23分(三次発浜原行)
436D…午後7時55分(三次発浜原行)
付近にある主要施設なし
付近にある名所・旧跡・自然江の川
空爆被災地を示す看板
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
備考・駅名は国鉄三江南線三次〜船佐〜式敷間が開業した1955年(昭和30年)3月31日時点で当駅付近に存在した村(高田郡船佐村〔1889〜1956〕)の名前にちなんでいる。高田郡船佐村は広島県で市制町村制が施行された1889年(明治22年)4月1日に高田郡佐々部・羽佐竹・船木・房後各村が統合して発足した地方自治体で、三江南線三次〜船佐〜式敷間開業1年半後の1956年(昭和31年)9月30日に高田郡川根・来原両村と統合して高田郡高宮町(1956〜2004)に移行したため消滅している。
・確かに駅名は開業当時存在した村の名前にちなんでいるが、高田郡船佐村の中心地は船佐駅の南西約6kmのところ(そこはその後高田郡高宮町、そして安芸高田市高宮地区の中心地になっている)にあり、最寄駅とは言い難い存在であった。但し船佐駅と安芸高田市高宮地区中心部を結ぶ路線バスが高宮中央交通(安芸高田市高宮町佐々部)によって平日は6〜8本、土曜日は3本それぞれ設定されている(日曜日・祝日は運休。また、三江線の列車のダイヤと合わせて運行されているとは限らないので有用とは言い難い)。

 船佐駅は高田郡船佐村(1889〜1956)の中心部(現在の安芸高田市高宮地区中心部)からかなり離れたところにある駅であり、高田郡船佐村の中心部の最寄駅でもない(最寄駅は式敷駅〔安芸高田市高宮町佐々部〕。但し式敷駅も高田郡船佐村の中心部の北約5.5kmのところにあり、最寄駅というにはかなり離れたところにある)。しかし、それでも村の名前が付けられた。なぜなのか。私は鉄道で三次市や広島市、福山市などに出る場合、船佐駅が最寄駅となることが大きいのではないかと考えた。その根拠を挙げると次の通りになる。
・船佐駅の(北口)駅前広場には鉄道・バス利用者のための駐輪場と思しき大きな木造の建物があること(下の写真)。

・船佐駅の(北口)駅前広場まで路線バスの設定があること(その時刻表を撮ったものが下の写真。判読しにくいので写真の下に 備北交通(庄原市東本町三丁目)の公式サイト を元に作成した時刻表〔今年6月5日現在のもの〕を掲載している。なお、運行業者は高宮中央交通〔安芸高田市高宮町佐々部〕になっている)。但し下表をご覧頂ければうかがえることであるが、三江線の列車ダイヤとは必ずしも連携しておらず、有用であるとは言い難い。

(安芸高田市高宮地区中心部方面へのバス便)

運行曜日行き先船佐駅バス停留所
発車時刻
備考
月曜日
火曜日
水曜日
木曜日
金曜日
吉田出張所午前7時22分421Dと8分で接続。
吉田出張所午後5時22分
高宮支所午後7時40分
火曜日
金曜日
高宮支所午後2時40分428Dと8分で接続。
土曜日吉田出張所午前9時0分

(安芸高田市高宮地区中心部方面からのバス便)

運行曜日始発
バス停留所
船佐駅バス停留所
到着時刻
備考
月曜日
火曜日
水曜日
木曜日
金曜日
高宮支所午前7時10分421Dと4分で接続。
吉田出張所午後4時57分
吉田出張所午後7時32分436Dと23分で接続。
火曜日
金曜日
高宮支所午前8時40分
土曜日吉田出張所午後2時57分
吉田出張所午後6時55分

 高田郡船佐村の住民の期待を一身に背負って開業した船佐駅ではあったが、付近に民家があまりないことや高田郡船佐村の中心部から離れたところに設置されたこともあり、駅舎は建てられず、島式ホームの北側(下り列車が通る予定だったところ)には線路は敷かれず、単式ホームとして開業することになった。それでも駅のそばに待合小屋が建てられたのだがそこで列車やバスを待つのは辛いものがある(早朝や夜間、冬季などは尚更だろう。三江線廃止まで半年を切ってしまったが、そこで列車やバスを待つ場合は何らかの暇つぶしの手段〔書籍や携帯ゲーム機、携帯ラジオ、携帯音楽プレーヤー、スマートフォンなど〕を持参することをお勧めする)。
 寂しい森の中の駅といった趣の船佐駅であるが、プラットホームを歩いていると線路の向こうに立てられているある看板が目を引いた。それを撮ったものが下の写真である。

 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月5日の早朝にこの辺りでアメリカ合衆国軍による空爆があり、爆弾の一つがこの看板がある辺りにあった民家の前庭に落ちて母屋(おもや)や納屋(なや)が焼け、家族7人(当日この家に帰省していた娘とその子供を含む)が犠牲になったことが書かれている看板である(看板には個人名が書かれているためその部分は加工している)。広島県における第二次世界大戦の空襲被害と言えばどうしても広島市中心部への原子爆弾投下や軍需工場が立地していた呉市・福山市(注3)の中心部への空襲が取り上げられることが多いのだが、中国山地の中にある閑静な場所でも悲惨な戦争被害があったことは全くと言って良いほど知られていない。この看板が安芸高田市教育委員会によって設置されたのは2014年(平成26年)3月のことであり、廃止までの4年間で三江線の列車に乗っている方で目にした方はいくらかいたのではないかと思うのだが、第二次世界大戦末期の日本には戦災に遭わない保証などどこにもない状況があったことを今に伝えている(注4)。三江線廃止後のこの看板の去就は分からないが、中国山地の中にある閑静な場所で起きた悲劇をずっと伝え続けるためにも残して頂きたいものだと思う。

船佐駅から所木駅へ

 船佐駅の(北口)駅前広場を出て左折し、三江線に並行する県道112号三次・江津線を西進していく。状況は船佐駅の少し東のところまでと同じで、江の川と三江線または山に挟まれた中を狭い道で通り抜けていく。
 やがて県道112号三次・江津線より少し高いところを通っていた三江線と、県道112号三次・江津線が同じ高さに歩み寄っていく。そういうところにあるのが三江線と県道112号三次・江津線との初めての平面交差となる 船佐踏切(安芸高田市高宮町船木) である。

列車の運転士用の 船佐踏切 の看板

船佐踏切

  船佐踏切 を過ぎると今度は県道112号三次・江津線が高いところを通るようになる。道はやがて長谷駅付近以来の上下2車線に広がる。程なくして再び狭くなるのだが、しばらく進むと再び上下2車線の道になる。その道幅のまましばらく進むと進行方向右側に下の写真のような看板が見える。所木駅(安芸高田市高宮町船木)がどこにあるかを県道112号三次・江津線を通る車に示すために地元の小学生が作ったと思われる看板であるが、この看板のところ、すなわち 安芸高田市高宮町船木/所木駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) で右折して坂を下ると坂を下り切ったところにある 所木踏切(安芸高田市高宮町船木) の手前に所木駅のプラットホームの入口がある。

所木駅(ところぎえき)

所木駅のプラットホームにある待合所。駅舎はない。

所木駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。所木駅の愛称は玉藻の前となっている。

所木駅のデータ

項目記事
所在地 安芸高田市高宮町船木
駅名の由来駅がある集落の名前。
開業年月日1956年(昭和31年)7月10日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるものなし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式単式ホームで北側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から97.0km
終点(三次)から11.1km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)信木駅から1.9km
(上り線)船佐駅から1.4km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時10分(浜原発三次行)
423D…午前8時56分(江津発三次行)
427D…午後3時51分(口羽発三次行)
429D…午後6時35分(江津発三次行)
433D…午後8時16分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前6時2分(三次発浜田行)
424D…午前10時26分(三次発石見川本行)
428D…午後2時36分(三次発口羽行)
432D…午後5時27分(三次発浜原行)
436D…午後7時59分(三次発浜原行)
付近にある主要施設なし
付近にある名所・旧跡・自然江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
国道375号線
国道433号線(国道375号線と重用)
国道434号線(国道375号線と重用)
※国道375号線(国道433号線及び国道434号線重用)は江の川の対岸を通っており、所木駅のそばにある唐香橋(全長:120m)を渡っていくことになる。但し唐香橋には重量制限(2トン以上の車は通行禁止)があることや大型車通行禁止規制がかけられていること、道幅が狭いことといった問題があり、唐香橋を経由して江の川右岸と江の川左岸を往来することは普通自動車以上は避けたほうが無難である。
備考・隣の信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)とともに三江南線三次〜式敷間が開業した時点では設置されず、しばらく経ってから設置された駅である。

 1955年(昭和30年)3月31日、三次市と江津市を結ぶ鉄道路線のうち、三次側の三次〜式敷間14.8kmが三江南線という名称で開業した。その区間は1936年(昭和11年)に着工されたのだが、建設はかなり進んだところで第二次世界大戦の影響で中断した。第二次世界大戦が終結してから10年近く経ってようやくこの日を迎えたのであった。
 ところが、三次〜式敷間14.8kmにある途中駅は尾関山駅(三次市三次町)と粟屋駅(三次市粟屋町)、船佐駅の三つしかなかった。ある程度の住人がいるのに駅が設置されなかった集落では不便だとか近くにある駅まで何kmも歩いていくのは危ないというような声が上がった。その声を受けて開業翌年の夏に設置されたのが信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)とこの所木駅であった。三江南線は開業当時から気動車またはレールバスでの運行となっており、駅の新設には問題がなかったことが所木・信木両駅の設置を容易なものとしたのであろう。
 所木駅は上り方向、すなわち三次方面から三江線を進んできた場合、初めて江の川のすぐそばにある駅となる。ところが、木々に遮られて江の川の流れを眺めることはできない。一方で駅のすぐそばには赤い吊り橋がある。その橋は唐香橋(全長:120m)であり、江の川に架かる橋としては三次市粟屋町〜三次市三次町間に架かる尾関大橋(全長:297m。国道54号線〔国道184号線重用〕が通っている)以来となる。現在の所木駅の利用者がどのくらいいるかは分からないが、対岸の三次市作木町香淀からこの橋を渡って所木駅を利用していた方もいたことであろう。
 ところが、この唐香橋にはいくつも問題がある。まずは下の写真をご覧頂きたい。

 上の写真から読み取れる問題点は次の通りである。
所木踏切 に大型車通行禁止規制がかけられていること( 所木踏切 のすぐ先に唐香橋があるので唐香橋も大型車通行禁止規制がかけられていると解するべきであろう)。
・唐香橋に重量規制(2トン以上の車は通行禁止)がかけられていること。
・唐香橋は道幅が狭いこと。
・唐香橋南詰( 所木踏切 と唐香橋の間)に屈曲があるが、普通自動車以上は曲がり切れずに立ち往生する恐れがあること。
 更にこの唐香橋は1964年(昭和39年)に完成した橋であることから老朽化の可能性も否定し得ない状況がある。いずれは架け替えの話も出てくるのかもしれないが、 第1章 で触れた祝橋と同じく味わいのある橋であることや費用対効果が見込めないことなどから難しい話になることは確実であろう。

所木駅から信木駅へ

 所木駅の横の坂を上り、 突き当たり、すなわち安芸高田市高宮町船木/所木駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) で右折して県道112号三次・江津線に復帰する。江の川や三江線を進行方向右側に見下ろしながら西進することになる。しばらくは集落の中を上下2車線の道で通り抜けるが、集落を過ぎるとまた狭くなる。道幅が広がらないうちに次の集落に差しかかるのだが、進行方向右側に民家と江の川と三江線を見下ろしながら進むとやがて上下2車線の道になる。その辺りは安芸高田市高宮町佐々部字信木というのだが、そこにあるはずの信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)への入口を示す看板が見当たらない。地図でも持っていない限り恐らく多くの方が入口を見逃す可能性があるのだが、実は目印がある。県道112号三次・江津線を三次方面から進んできた場合、進行方向右側に下佐振興会なる組織が設置した看板(下の写真)が見えるのだが、その数十m先に進行方向右側に分岐する坂道がある(その坂道は下の写真の看板の右側に見える)。それが信木駅への道である。この道は一旦東進した後信木・所木コミュニティ広場の前で北に折れ、信木駅の前に至るのだが、十分な機回し場がないので自動車で入り込むのは避けたほうが良いであろう。

信木駅(のぶきえき)

信木駅のプラットホームにある待合所。駅舎はない。

信木駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。信木駅の愛称は子持山姥(こもちやまうば)となっている。

信木駅のデータ

項目記事
所在地 安芸高田市高宮町佐々部
駅名の由来駅がある集落の名前。
開業年月日1956年(昭和31年)7月10日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるものなし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式単式ホームで北側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から95.1km
終点(三次)から13.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)式敷駅から1.8km
(上り線)所木駅から1.9km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時6分(浜原発三次行)
423D…午前8時52分(江津発三次行)
427D…午後3時47分(口羽発三次行)
429D…午後6時31分(江津発三次行)
433D…午後8時12分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前6時6分(三次発浜田行)
424D…午前10時30分(三次発石見川本行)
428D…午後2時40分(三次発口羽行)
432D…午後5時30分(三次発浜原行)
436D…午後8時2分(三次発浜原行)
付近にある主要施設信木集会所
信木・所木コミュニティ広場
付近にある名所・旧跡・自然江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
備考・所木駅(安芸高田市高宮町船木)とともに三江南線三次〜式敷間が開業した時点では設置されず、しばらく経ってから設置された駅である。

 信木駅も所木駅と同じく三江南線三次〜式敷間が開業した時には設置されず、しばらく経ってから設置された駅である。駅の設置への経緯は所木駅の項で記したので繰り返さないが、所木駅とは同じ日(1956年〔昭和31年〕7月10日)に開業したことや江の川に面したところに駅があること、単式ホームの北側を使用していること、駅舎はなく、プラットホームの上に待合所が設置されていることといった共通点がある。
 ただ、所木駅と違うのはプラットホームから江の川や江の川の対岸を通り、国道375号線(国道433号線及び国道434号線重用)が見えることである(下の写真)。信木駅のプラットホームから見える国道375号線(国道433号線及び国道434号線重用)は最近整備がなされたようで、白い擁壁が眩(まぶ)しい。かつては江の川右岸に沿って延々と狭い道が続き、ある道路地図で「名ばかり国道の中国地方代表」などと揶揄(やゆ)されたこともある国道375号線(注5)だったが、この様子を見ると立派な道になったなという思いを抱く。この辺りでは三江線の並行道路とするには無理がある(注6)し、三江線廃止時点でも改良されないままの箇所は依然として残るのだが、三江線亡き後はこの地域の幹線道路として更に有用な存在になることであろう(注7)

 一方で残念に感じたのは信木駅の現状であった。どうかと思ったことを挙げると次の通りになる。
・信木駅のプラットホームに穴が開いていたこと(下の写真)。コンクリートの劣化・腐食が原因と思われるのだが、もうすぐ廃止になるということで西日本旅客鉄道は修繕もしないのだろう(もしそれが原因でけがをしたとかいう話が起きたらどうなるのだろうか…)。

・信木駅のプラットホームが断ち切られていること(下の写真)。三江線を走る列車は1両編成がほとんどなので三江線にある駅にはプラットホームの不要な部分の立ち入りを金網を設置することで規制するところが少なくないのだが、更にプラットホームを取り壊して断ち切ったのにはいかなる理由があったのだろうか(注8)

 過疎地を通るローカル線の悲哀を感じさせる状況が随所に見られるのだが、もう少しどうにかすることはできなかったのかという気にさせられる。今のところ西日本旅客鉄道は三江線以外に廃止を検討している鉄道路線を公にしてはいないが、今後各地でこういう惨状を見ることになるのだろうか(無論それは西日本旅客鉄道だけの話ではない)。何とも…という気分にさせられる。

信木駅から式敷駅へ

 信木駅のすぐ南側にある坂を上り、県道112号三次・江津線に復帰する。程なくして県道112号三次・江津線は再び狭くなる。初めは県道112号三次・江津線と三江線・江の川はいくらか離れており、間には田畑が見られるのだが、県道112号三次・江津線の進行方向左側の山が迫ってくると両者の距離は縮まってくる。そして右側に三江線と江の川、左側に山というところを狭い道で通り抜けていくことになる。

県道112号三次・江津線から撮影した国道375号線(奥)と江の川(中)と三江線(手前)

 鬱蒼(うっそう)とした森の中を狭い道で抜けた後、開けた場所に出てくるのだが、その先にあるのが 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) という変形四差路である。そこで振り返ると 安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) のそばにあったものと同じ4トン車以上の通行が不可能であることを警告した標識が立っている(下の写真)。これまでの県道112号三次・江津線は厳しい環境下にあった道であることを改めて感じさせられる。

 さて、式敷駅に行くには 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) を直進し、引き続き江の川左岸を進むことになるわけであるが、 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) からの道は県道112号三次・江津線ではなく、県道4号甲田・作木線となる。県道112号三次・江津線は 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) で右折し、国道433号線(国道434号線重用)と重用して式敷大橋(全長:151.3m)で江の川を渡り、 三次市三次町/祝橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし) 以来の江の川右岸に移るのである。
 実は県道112号三次・江津線の広島県内部分は発足した時(1960年〔昭和35年〕10月10日広島県告示第682号による(注9))は 三次市三次町/日山橋東詰交差点(位置は当時のものを示している(注10) を起点とし、ずっと江の川右岸を通っていたのである。それがなぜ江の川左岸を通るようになったのか。考えられる理由は次の通りである。
・1964年(昭和39年)12月28日建設省告示第3,620号で広島県側のわずかな単独区間、すなわち 三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし。なお位置は当時のものを示している) 〜島根県境間が主要地方道浜田・作木線になることになったこと(注11)
・何らかの理由によりそれまでは全くなかった高田郡高宮町と双三郡作木村(1889〜2004(注12))を結ぶ県道路線を設定する必要が出たこと。
 起点の 三次市三次町/日山橋東詰交差点(位置は当時のものを示している(注10) から広島・島根県境を越えて 邑智郡邑南町矢上/邑南町役場東交差点(信号機・交差点名標なし) まで二級国道261号広島・江津線(1963〜1965)改め国道261号線や県道7号浜田・作木線、県道8号大田・三次線(1954〜1976(注13)。路線名称は廃止当時のものを記載)の一部に移行することになれば島根・広島両県は県道112号三次・江津線を廃止せざるを得なくなるのだが何らかの事情によりそれは避けたいという思惑があったのだろう。更に江の川を挟んで向かい合っているのに農道橋としての吊り橋しかなかった高田郡高宮町と双三郡作木村を結ぶ県道路線の必要性はモータリゼーションの進展に伴って高まっていった。そこでどうしたのか。 三次市三次町/三次町交差点 を起点とし、祝橋(全長:210m)で江の川を渡ってからはずっと江の川左岸を通っていた県道11号三次・高宮線(一般県道。1960〜1965)を廃止して県道112号三次・江津線に編入したのである。こうして県道112号三次・江津線は今日に至るまで存続し得たのである。
 ところで、私は前に 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) は変形四差路だと記したが、交差点の形状をよく見ると国道433号線(国道434号線及び県道4号甲田・作木線重用)甲田方面と県道4号甲田・作木線口羽方面がまっすぐに接続しているのがうかがえる(下の写真)。

式敷駅前から撮影した 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) 。手前が口羽方面で奥にある上り坂が甲田方面。

 実は国道433号線(国道434号線及び県道4号甲田・作木線重用)甲田方面と県道4号甲田・作木線口羽方面は1972年(昭和47年)まで島根県道46号/広島県道41号都賀・甲田線(一般県道。島根県側の存続期間は1958〜1972、広島県側の存続期間は1960〜1972。路線名称は廃止当時のものを記載)という一続きの県道路線だったのである。恐らく1960年代初頭の 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) は島根県道46号/広島県道41号都賀・甲田線に県道11号三次・高宮線が鋭角に刺さる格好の三差路(Y字路)だったのが式敷大橋の取り付け道路の開通により現在見る変形四差路になったのであろう。その後の度重なる国道路線・県道路線再編(下表参照)により分かりにくくなってしまったのだが、まさに「道に歴史あり」という思いを新たにする。

(1960年〔昭和35年〕10月10日以降の 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点〔信号機・交差点名標なし〕 に絡む国道路線・県道路線の変遷一覧表)

※島根県と広島県に跨る県道路線は1972年(昭和47年)10月31日までは島根県側と広島県側で路線番号が異なっているが、路線名称は広島県側のものを記している。

年月日方面備考
香淀方面粟屋方面甲田方面口羽方面
1960年
(昭和35年)
10月10日
(農道)県道11号三次・高宮線県道41号都賀・甲田線県道41号都賀・甲田線いずれも一般県道路線。
1965年
(昭和40年)
3月31日
県道12号三次・江津線県道12号三次・江津線県道41号都賀・甲田線県道41号都賀・甲田線いずれも一般県道路線。
県道12号三次・江津線の経路変更により香淀方面・粟屋方面が県道12号三次・江津線となる。
1972年
(昭和47年)
3月21日
県道34号甲田・作木線県道12号三次・江津線県道34号甲田・作木線県道41号都賀・高宮線県道12号三次・江津線香淀方面と県道41号都賀・甲田線甲田方面が主要地方道甲田・作木線に移行。
県道34号甲田・作木線のみ主要地方道路線。
県道34号甲田・作木線香淀方面は県道12号三次・江津線と重用。
1972年
(昭和47年)
11月1日
県道45号甲田・作木線県道112号三次・江津線県道45号甲田・作木線県道111号都賀・高宮線県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編により主要地方道路線は1〜2桁の番号を、一般県道路線は3桁の番号をそれぞれ付けるように改正。また、1972年(昭和47年)8月1日に同様の改正を実施した島根県に跨る県道路線の路線番号統一も併せて実施。
県道45号甲田・作木線香淀方面は県道112号三次・江津線と重用。
1982年
(昭和57年)
4月1日
国道433号線県道112号三次・江津線国道433号線県道111号都賀・高宮線県道45号甲田・作木線香淀方面・甲田方面が国道433号線(国道434号線重用)に移行。
国道433号線香淀方面は国道434号線及び県道45号甲田・作木線、県道112号三次・江津線と重用。
国道433号線甲田方面は国道434号線及び県道45号甲田・作木線と重用。
1994年
(平成6年)
4月1日
国道433号線県道112号三次・江津線国道433号線県道4号甲田・作木線県道45号甲田・作木線が 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) 以北で経路を変更し、島根県を経由するようになったため路線番号変更。
国道433号線香淀方面は国道434号線及び県道112号三次・江津線と重用。
国道433号線甲田方面は国道434号線及び県道4号甲田・作木線と重用。

  安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) で県道4号甲田・作木線に入ると進行方向右側に給油所が見える。そのすぐ先にあるのが式敷駅とその(南口)駅前広場である。

式敷駅(しきじきえき)

式敷駅の待合小屋

式敷駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。式敷駅の愛称は滝夜叉姫(たきやしゃひめ)となっている。

式敷駅のデータ

項目記事
所在地 安芸高田市高宮町佐々部
駅名の由来駅がある集落の名前。
開業年月日1955年(昭和30年)3月31日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるもの待合小屋
プラットホームの形式島式ホームで両側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から93.3km
終点(三次)から14.8km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)香淀駅から3.6km
(上り線)信木駅から1.8km
JR三江線の発車時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時2分(浜原発三次行)
423D…午前8時48分(江津発三次行)
427D…午後3時43分(口羽発三次行)
429D…午後6時27分(江津発三次行)
433D…午後8時8分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前6時10分(三次発浜田行)
424D…午前10時34分(三次発石見川本行)
428D…午後2時44分(三次発口羽行)
432D…午後5時35分(三次発浜原行)
436D…午後8時8分(三次発浜原行)
付近にある主要施設なし
付近にある名所・旧跡・自然江の川
蓮照寺(後鳥羽上皇〔1180〜1239〕の座像や位牌が残されている)
式敷八幡神社
付近を通る国道路線
または県道路線
県道4号甲田・作木線
※県道4号甲田・作木線を150mほど南東に進むと国道433号線(国道434号線重用)や県道112号三次・江津線と接続する 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) に到達する。
備考・旧三江南線第一期開業区間(三次〜式敷間)の終点。1936年(昭和11年)にこの区間は着工されたが、第二次世界大戦の影響により建設は中断させられた。1947年(昭和22年)秋にアメリカ合衆国軍が撮影した空中写真( 国土交通省国土地理院〔つくば市北郷〕の公式サイト の「地図・空中写真閲覧サービス」で閲覧することができる)を見るとかなり完成していたことがうかがえる。そういう状況にもかかわらず開業が1950年代半ばになった理由は不明(注14)
・旧三江南線の中間駅では唯一の列車の行き違いができる駅ではあるが、現在列車の行き違いは一日に一度しか行われていない(433Dと436D)。

 式敷という地名は地方自治体の名称になったこともなければ高田郡船佐村→高田郡高宮町→安芸高田市高宮町の大字になったこともない。しかし、地名はよく知られている。三江線の駅があることやその駅の近くで国道2路線・主要地方道1路線・一般県道1路線が接続することから交通の要衝になっていることが大きいのだろうか。ちなみに式敷という地名は鎌倉時代前半の承久(じょうきゅう)の乱(1221年〔承久3年〕)で鎌倉幕府討伐のために挙兵して敗れ去り、隠岐(おき)国中ノ島(隠岐郡海士〔あま〕町)に流刑となった後鳥羽上皇(1180〜1239)がこの地で亡くなったとされることにちなむようである(注15)

式敷という地名が入った案内標識( 安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点〔信号機・交差点名標なし〕 で撮影)

 式敷駅の前を見ると、拠点駅ということもあるのか、食料品店や給油所などが見られる。取材した日は日曜日だったので普段の状況は分からないのだが、地域の住民や式敷駅の利用者が利用しているのであろう。

式敷駅前の食料品店

 また、式敷駅の脇にはこういう横断幕があった(下の写真)。

  安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし) のそばにあった横断幕と同じような趣旨のものであるが、記すまでもなくこれも空しいものとなってしまった。
 さて、式敷駅には木造の駅舎のようなものがある。しかし、建物の中を見たところ、駅舎ではなく待合小屋として建てられたもののようである。恐らく三江南線三次〜式敷間開業時には駅舎が建てられたのだろうがその後の合理化で解体・撤去されたのであろう。「JR・私鉄全線各駅停車第7巻 北陸・山陰820駅」(1993年〔平成5年〕小学館〔千代田区一ツ橋二丁目〕刊)では式敷駅には駅舎はないと記されているので元々の駅舎の解体時期は1993年(平成5年)以前、現在の待合小屋が建てられたのは1993年(平成5年)以降になるものと思われる。無論この待合小屋には切符売り場や改札などといった、有人駅の駅舎(現在は無人化されているところ(注16)を含む)にはあるようなものは一切なく、列車やバス(注17)を待つ人が座る長椅子や便所があるだけの、正真正銘の待合小屋となっている。
 ところで、式敷駅の待合小屋の中を見ると片隅に三江線に思いを寄せる方々によるものと思われる寄せ書きがあったのを見かけた(下の写真)。その思いも残念な結果に終わろうとしているが、西日本旅客鉄道にとってはお荷物路線の一つとされている三江線を愛する人が少なくないことを改めて感じたものであった。

 待合小屋を出て式敷駅のプラットホームに出てみる。旧三江南線にある中間駅では唯一の交換可能駅であり、島式ホームの両面を使用している(下の写真)。右側が下り線(三次方面)用、左側が上り線(江津方面)用になっているのだが、列車本数が少なくなった今は一日に一度しか列車の交換は行われなくなっている。

 プラットホームの中ほどには短い屋根があるのだが、その下には両側に長椅子があり、そこに座って列車を待つこともできる(下の写真)。

 そんな中で気になったのは上り線の南側に式敷駅の待合小屋の前で行き止まりになっている線路があることである(下の写真)。レールは撤去されているので記すまでもなくもう今は使われていないのだが、そのそばにはプラットホームと思しきものがある。一体何のためにそこに線路が敷かれたのだろうか。そしてもう一つのプラットホームと思しきものは何に使われていたのだろうか。レールが上り方向にしか繋がっていない点から保線基地があったのではないかと考えたのだが、真相はいかなるものであろうか。

 

 式敷駅の取材を終えて式敷駅の(南口)駅前広場に戻る。その入口のそばに次のようなものがあった(下の写真)。

 この先の県道4号甲田・作木線に異常気象時通行規制区間があることを知らせる標識であるが、縦長長方形の標識は初めて見た。広島県・広島市が管理する国道路線と広島県・広島市・三次市が管理する県道路線における異常気象時通行規制区間があることを知らせる標識は通常は横長長方形(下の写真参照)だからである。

広島県の異常気象時通行規制予告標識の通常版(三原市八幡町垣内〔かいち〕の県道25号三原・東城線で撮影)

 実は 安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし) と式敷駅の間に電光掲示板と横長長方形の異常気象時通行規制区間があることを予告する標識があるのだが、そこには式敷駅前が起点だと記されているにもかかわらず改めて式敷駅の駅前広場の入口のそばに予告標識を設置しているのである。設置者は広島県西部建設事務所であるが、見落とす人がいることを想定して改めて設置したのか。大切なことだから繰り返したほうが良いと考えて設置したのか。その意図は分からないが、この先には三江線、すなわち当時の三江南線と三江北線も甚大な被害を受けた1972年(昭和47年)7月中旬の豪雨により大規模な崩落が起きたところ(注18)があり、看過すべきものではない。
 改めて災害の多いところなんだなと感じたものであるが、次の章からはその災害の影響を何度も見ることになる。

第3章に続く

注釈コーナー

注1:現在は広島県北部建設事務所に改称されている。

注2:安芸高田市の西隣にある山県郡北広島町には2010年代になって硬式野球部が選抜高等学校野球大会に1回(第86回大会〔2014年〈平成26年〉〕)、全国高等学校野球選手権大会に2回(第97回大会〔2015年〈平成27年〉〕・第98回大会〔2016年〈平成28年〉〕)それぞれ出場している広島新庄高等学校(山県郡北広島町新庄)があるのだが、広島新庄高等学校硬式野球部がこれらの大会への初出場を決めた時広島県内の報道機関は「広島県北部地区にある高校としては初めての甲子園出場」と報じていた。よって、山県郡も庄原市や三次市と同じく北部に属することになり、この点から三次市と山県郡の間にある安芸高田市も北部に属することになるという理屈が成り立つ。

注3:呉市は戦艦を建造していた造船所があったから空襲の標的になったものと思われるが、福山市の場合は第二次世界大戦終結時点で広島県南東部の中心都市にもなっていない(当時広島県南東部の中心都市とされていたのは尾道市。記すまでもなく福山市より市制施行は早かった)し、人口も10万人に達していなかった(人口が10万人を超えたのは1956年〔昭和31年〕9月30日に周辺の2町8村〔沼隈郡水呑〈みのみ〉・鞆両町及び赤坂・熊野・瀬戸・津之郷各村、深安郡市・千田・引野・御幸各村〕を編入した時。この時から福山市は広島県南東部最大の都市になっており、その座は今なお譲っていない)にもかかわらず空襲の標的になっている。なぜ空襲の被害に遭ったのか、理由を示すと次の通りになる。
・福山市には歩兵41連隊の本部があったこと。現在の福山市緑町にその本部はあった。
・福山市及びその周辺には軍関連の施設がいくつもあったこと。現在福山暁の星学院(福山市西深津町三丁目)がある辺りには陸軍の射撃場が、福山市大門町津之下には海軍の水上機専用の航空基地がそれぞれあった(福山市大門町津之下にあった海軍施設は現在JFEスチール西日本製鉄所〔福山市鋼管町〕の敷地になっている)。
・福山市にはいくつか軍需工場があったこと。例えば現在も操業を続けている三菱製作所福山工場(福山市緑町)や日本化薬福山工場(福山市箕沖町。第二次世界大戦当時は現在の福山市入船町三丁目にあった)はその代表的存在であった。
なお、広島県ではこの他造船所が立地していた尾道市因島(いんのしま)地区でも多数の犠牲者を出した空襲が起きているが、広島市中心部への原子爆弾投下や呉市中心部・福山市中心部への空襲とは異なって詳細な被害状況は分かっておらず、あまり知られていない。

注4:例えば福山空襲(1945年〔昭和20年〕8月8日)では福山市中心部における被害がよく知られているが、福山市郊外でも同時に戦災に遭ったところがあることはあまり知られていない。福山市中心部から2km以上離れ、福山市中心部とは丘陵(深津高地と称する)で隔てられているところにある福山市立深津小学校(福山市東深津町二丁目)は現在の福山市東深津町六丁目にあった校舎が戦災で全て焼失しているし、山間部にある福山市春日町宇山、すなわち当時の深安郡春日村宇山でも空襲があり、何人かの方が犠牲になっている。これらの地域または施設がいかなる理由があって戦災に遭ったのかは分からないのだが、このような事実を知って感じるのは第二次世界大戦末期の日本には空襲から逃れられるところはないと言っても良かったということである。残念ながらその後も各地で戦争が起き、また戦争に至りそうな状況も起きているわけであるが、一般市民がこんな悲惨な目に遭わないようになる世界は実現できないものであろうか。まあ戦争の起きない世界を作ることは非常に難しいのだが…。
※福山市立深津小学校が福山市東深津町六丁目から現在地に移転したのは1971年(昭和46年)のことである。

注5:国道375号線と 三次市三次町/日山橋東詰交差点三次市作木町香淀/門田(もんで)トンネル南口交差点(信号機・交差点名標なし) 間で重用している国道433号線及び国道434号線には未改良箇所が現在も多数残されている。

注6:その理由は次の通りである。
・三江線の対岸を通っていること。
・集落が少ないために橋がほとんどないこと。

注7:あまり気付かれていないことであるが、実は三次市中心部〜三次市作木地区間の最短経路は国道375号線経由である(現在主流になっている国道54号線〔国道184号線重用〕→県道62号庄原・作木線経由は実は遠回りである)。よって、国道375号線の改良が完成すると三次市と島根県石見地区東部・中部(大田市・江津市・浜田市・邑智郡)との往来にも有用になる。

注8:下の写真は所木駅の立ち入り規制金網であるが、その先のプラットホームはきちんと残されている。

金網より先には入れないようにしているのだから別に取り壊さなくても良いように思われるのだが、信木駅のプラットホームについてあえて一部取り壊したのはやはりプラットホームの材質の問題があったのだろうか。

注9:県道112号三次・江津線の島根県側の発足時期は1958年(昭和33年)6月13日である(1958年〔昭和33年〕6月13日島根県告示第525号による)。

注10:現在の日山橋は1972年(昭和47年)に旧橋の少し南側に架けられたものである。

注11:発足当初の県道112号三次・江津線は 三次市三次町/日山橋東詰交差点(位置は当時のものを示している)三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし。位置は当時のものを示している) 間は県道8号大田・三次線と重用していた。なお、1964年(昭和39年)12月28日時点の 三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)現在地 ではなく現在の 三次市作木町大津字市ヶ原 付近にあった。
※1964年(昭和39年)12月28日時点の両国橋は1972年(昭和47年)7月中旬の集中豪雨により流失したため、現在地に1974年(昭和49年)9月に架け直された。同時に県道4号甲田・作木線(県道7号浜田・作木線及び県道112号三次・江津線重用)口羽方面との直線化も図られている。

注12:双三郡作木村は発足当時は三次郡に属していたが1898年(明治31年)10月1日に三次郡と三谿(みたに)郡が統合して双三郡が発足した時に双三郡に所属郡を変更している。なお、三次郡作木村改め双三郡作木村は発足から消滅まで115年間一度も村域に異動がない稀有な自治体であった。

注13:県道8号大田・三次線の島根県側の存続期間は1955〜1977年(昭和30〜52年)である。

注14:考えられる理由としては需要が見込めなかったことが挙げられる。
※中国地方では他に国鉄倉吉線関金〜山守間がある。倉吉線関金〜山守間は第二次世界大戦による中断前にはかなり建設が進んでいたことが1947年(昭和22年)秋にアメリカ合衆国軍が撮影した空中写真から読み取れるが、開業したのは三江南線三次〜式敷間開業から3年9ヶ月も後の1958年(昭和33年)12月20日のことであった。ちなみに関金〜山守間を含めた倉吉線の全線は1985年(昭和60年)4月1日に廃止されている。

注15:広島県北部は京(現在の京都市)と隠岐国を往来する場合回り道になるのだが、なぜか後鳥羽上皇が流刑の際立ち寄ったという伝承が残る場所が多い。また、史実では中ノ島で没したことになっているが、流刑地だった中ノ島を脱出して本土に戻り、現在の三次市作木町大山や安芸高田市高宮町佐々部で没したという伝承もある。なぜ広島県北部に後鳥羽上皇に関する伝承がいくつも残されているのか、謎と興味は尽きない。

注16:広島県内の三江線では尾関山駅が代表的な例となる。

注17:式敷駅前にも路線バスの停留所(式敷駅バス停〔安芸高田市高宮町佐々部〕)はある。 備北交通の公式サイト を元に作成した時刻表(今年6月5日現在のもの。なお、運行業者は高宮中央交通と芸北タクシー〔安芸高田市吉田町吉田〕になっている)は下表の通りである。

(安芸高田市高宮地区中心部方面へのバス便)

運行曜日運行業者行き先式敷駅バス停留所
発車時刻
備考
月曜日
火曜日
水曜日
木曜日
金曜日
土曜日
芸北タクシー吉田出張所午前7時15分421Dと13分で接続。
月曜日
水曜日
高宮中央交通高宮支所午後2時50分428Dと6分で接続。

(安芸高田市高宮地区中心部方面からのバス便)

運行曜日運行業者始発
バス停留所
船佐駅バス停留所
到着時刻
備考
月曜日
火曜日
水曜日
木曜日
金曜日
土曜日
芸北タクシー吉田出張所午後4時44分
月曜日
火曜日
水曜日
木曜日
金曜日
芸北タクシー吉田出張所午後6時54分
月曜日
水曜日
高宮中央交通高宮支所午前8時43分
土曜日芸北タクシー吉田出張所午後0時44分

注18:そこには現在七屋トンネルと称する洞門が建設されている。

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