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JR三江線並行道路を行く・第1章(2017年〔平成29年〕10月28日公開)

 広島県北部の中心都市・三次(みよし)市。三次盆地の中に市街地のあるこの町は人口こそ5万人程度と少ないのだが、鉄道路線と高速道路、国道路線が集まる交通の要衝になっている。その三次市の代表駅がJR芸備線・三江線三次駅(三次市十日市南一丁目)である。

三次駅(みよしえき)

三次駅の駅舎。現在の駅舎は2015年(平成27年)に完成した。

三次駅3番線にある駅名標。芸備線と福塩線、三江線の列車がこのホームに発着していることがうかがえる。

三江線活性化協議会が設置した看板。三次駅の愛称は土蜘蛛(つちぐも)となっている。

三次駅のデータ

項目記事
所在地 三次市十日市南一丁目
駅名の由来駅がある市の名前。
開業年月日1930年(昭和5年)1月1日
※当時の駅名は備後十日市駅。1954年(昭和29年)12月10日に三次駅に改称している。
接続鉄道路線JR芸備線
JR福塩線(JR福塩線の終点は塩町駅〔三次市塩町〕だが全ての列車が三次駅まで乗り入れているため記載している)
駅構内にあるもの売店
自動券売機
みどりの窓口
駅スタンプ
プラットホームの形式単式ホームと島式ホームの併用。
駅舎のそばにある単式ホームが1番線、陸橋を渡って行くことになる島式ホームの北側が2番線、島式ホームの南側が3番線となっている。
三江線の列車は全て3番線から発着している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から108.1km
終点(三次)から0.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)尾関山駅から2.0km
(上り線)始発駅のためなし
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時35分(浜原始発。当駅止まり)
423D…午前9時21分(江津始発。当駅止まり)
427D…午後4時15分(口羽始発。当駅止まり)
429D…午後6時59分(江津始発。当駅止まり)
433D…午後8時40分(浜原始発。当駅止まり)
(上り列車)
422D…午前5時38分(当駅始発。浜田行)
424D…午前10時2分(当駅始発。石見川本行)
428D…午後2時11分(当駅始発。口羽行)
432D…午後5時2分(当駅始発。浜原行)
436D…午後7時34分(当駅始発。浜原行)
付近にある主要施設三次市交通観光センター
十日市コミュニティセンター
三次警察署
三次市役所
CCプラザ(大型商業施設)
サングリーン(大型商業施設)
三次郵便局
三次日出郵便局
広島県三次庁舎
備北地区消防組合本部
三次税務署
広島北部森林管理署
付近にある名所・旧跡・自然若宮公園
若宮古墳
三次人形窯元
花園遺跡
付近を通る国道路線
または県道路線
国道183号線
国道184号線(国道183号線と重用)
国道375号線( 三次市十日市南一丁目/三次駅前交差点
(注1)以東は国道183号線と重用)
県道39号三次・高野線(国道375号線と重用)
県道228号三次停車場線( 三次市十日市中二丁目/三次駅前交差点
(注1)以北は国道375号線と重用?)
備考・現在の三次駅は二代目になる。初代の三次駅は現在はJR芸備線西三次駅(三次市十日市西四丁目)になっている(1915年〔大正4年〕6月1日開業。備後十日市駅の三次駅への改称に先立って1954年〔昭和29年〕11月10日に現在の名称である西三次駅に改称)。
・三江線で最も東かつ最も南にある駅である。
・三江線で唯一西日本旅客鉄道広島支社(広島市東区二葉の里三丁目)の管轄下にある駅である(その他の駅は西日本旅客鉄道米子支社〔米子市弥生町〕の管轄下にある)。
・三次駅前には都市の代表駅のそばには必ずと言って良いほど見かける交番(名称は○○駅交番か××駅前交番、駅前交番となる)が設置されていない。三次駅周辺地域(青河町・十日市中・十日市西・十日市東・十日市町・十日市南・西酒屋町・東酒屋町)を管轄する交番は三次警察署(三次市十日市中二丁目)の中にある。このような方式の交番制度を署所在地と称しており、広島県では福山北警察署(福山市神辺町新道上三丁目)や府中警察署(府中市鵜飼町)などが導入している。
・三次駅の東方には蒸気機関車が向きを変えるのに使用していた転車台が残っていたが、東武鉄道(墨田区押上二丁目)が蒸気機関車を使った観光列車を設定することになったことから東武鉄道に譲渡された。現在は東武鉄道鬼怒川線鬼怒川温泉駅(日光市鬼怒川温泉大原)で使用されている。

 広島県北部の中心都市・三次市の代表駅である三次駅は三次市が推進する三次駅周辺整備事業により2015年(平成27年)に建て替えられた。だから駅舎はまだ真新しいのだが、昔の駅舎を知っている人が見ると小さくなってしまったなという感情を抱く。三次駅周辺整備事業を推進するに当たって駅舎の改築が不可避になったこともあるのだが、鉄道利用者が大幅に減ったこと(注2)も大きいように思われる。

在りし日の三次駅旧駅舎(2009年〔平成21年〕11月21日撮影)

 さて、この三次駅を終点とする三江線は全ての列車が陸橋を渡って行くことになる島式ホームの南側、すなわち3番線から発着している。かつては駅舎のそばにある1番線の西端に0番線という切り欠きホームが存在し、そこから発着していたのだが、三次駅周辺整備事業により2010年(平成22年)3月13日をもって使用は取りやめになった。三次駅の陸橋にはエレヴェーターやエスカレーターは設置されていないため高齢者や障害者にとっては利用しにくくなったことは否めないところであろう(注3)
 ところで、三江線を利用するために通らざるを得なくなった陸橋の途中の掲示板には大きな貼り紙が二つあった(下の写真)。左の貼り紙は三江線の列車に乗る方への案内とお願いを記したものであり、右の貼り紙は三江線が利用区間に入る定期乗車券の販売を段階的に取りやめることを通知したものであった。取材した日は廃止まであと半年を切った10月上旬のある日だったのだが、三江線の廃止が近いことを感じさせた。

 そして三江線の列車が発着する3番線に着いたのだが、その時は列車が4時間も来ない時間帯、すなわち午前10時2分に石見川本行が出てから午後2時11分に口羽行が出るまでの時間帯であり、停まっている列車はなかった。次の列車が発車するまでの間に3番線から三次発備後落合行の芸備線の上り列車が午後1時1分に発車するとホームにある電光掲示板(下の写真。光の関係で電光掲示板に見えにくい箇所があるのはご了承願いたい)には示されていたから三江線を走る列車は三次駅構内のどこかで車体を休めていたのだろう。

 この後駅名標や三江線活性化協議会が設置した看板を撮影して三次駅を離れたのだが、列車の来ない時間帯に訪れたために廃線ブームの一端を垣間見ることはできなかった(先程紹介した三江線の列車に乗る方への案内とお願いを記した大きな貼り紙はそれを受けてのものであろう)。取材当日はまだ廃止まで半年近くあったのだが、どのくらいの方が私が三次駅を離れた後に三次駅を出た列車に乗っていたのであろうか。それが気になった。

三次駅から尾関山駅へ

 三次駅から次の尾関山駅(三次市三次町)に行くには二通りの経路がある。一つは県道228号三次停車場線→国道375号線(県道39号三次・高野線重用)→三次市道を経由するもの(経路は こちら で示している)であり、もう一つは県道228号三次停車場線→国道183号線(国道184号線重用)→三次市道(国道54号線旧道)→国道375号線(県道39号三次・高野線重用)→三次市道を経由するもの(経路は こちら で示している)である。どちらも三次市の象徴的存在である巴(ともえ)橋(全長:170.6m)の東側からは同じ経路をたどることになる。最短経路になるのは前者、三江線に沿うのは後者になるのだが、三江線と触れ合う機会を持ちたいなら後者を選んだほうが良いであろう。道路を跨ぐ三江線の橋梁を二度も見ることができるし、頃合いさえ見計らえばそこを通過する三江線の列車を見ることもできるからである。

京蘭寺交差点 と三江線の橋梁

三次市三次町/祝橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし) から撮影した三江線の橋梁。
三次駅から尾関山駅への道はこの橋梁の向こう側を通っているため橋梁の下は通らない。

 ところで、私が自動車で三次市中心部を訪れる度に思うのは三次市中心部の道路の案内標識のいい加減さである。問題があると考えている路線を挙げると次の通りになる。

路線名称問題点
国道375号線三次市中心部における経路が分かりにくい。2014年(平成26年)11月4日広島県告示第692号に基づいて2014年(平成26年)11月5日に定まった現在の経路( 三次市十日市南一丁目/上原〔かんばら〕交差点 (注1)三次市三次町/太才町〔ださいちょう〕交差点 間の経路については こちら で示している)は三次市中心部で何度も右左折を繰り返しているのだが、案内標識や国道標識(正式名称は国道番号)が整備されておらず、道路地図を見ない限り間違わないで通り抜けるのは難しくなっている。
県道39号三次・高野線2010年(平成22年)4月8日広島県告示第335号により路線が延伸され、起点が 三次市三次町/太才町交差点 から 三次市十日市中二丁目/三次駅前交差点 (注1)に移ったのだが、 三次市十日市中二丁目/三次駅前交差点 (注1)三次市三次町/太才町交差点 間は国道375号線と重用している上に全く路線識別手段が設置されていないためにそのことを知っている人が皆無に近い。
県道228号三次停車場線起点は三次市十日市南一丁目/三次駅北口駅前広場のままであるが、終点がどこかが判然としない。広島県が毎年発行し、広島県公式サイトでも過去3年分について閲覧できる「国・県道路線一覧表」を見ると終点は国道183号線との交点になっており、 三次市十日市南一丁目/三次駅前交差点 (注1)が終点だろうと考えたくなる。ところが、2014年(平成26年)11月4日まで国道375号線だった三次市道(経路は こちら で示している)を通っていると 三次市十日市東一丁目/三次消防署(南)交差点 (注1)の手前にある案内標識には直進が県道228号三次停車場線であると記されている。確かに2014年(平成26年)11月4日まで国道375号線だった三次市道は国道183号線だった時代があり、かつては 三次市十日市中二丁目/三次消防署(南)交差点 (注1)を終点していたのだろうが、現在はどうなのだろうか。なお、県道228号三次停車場線を含めた三次市内で完結する一般県道路線の単独部分は2007年(平成19年)10月25日広島県告示第1,057号に基づいて2007年(平成19年)10月26日から三次市が管理するようになっており(注4)、三次市が管理する県道路線の異動は路線認定・路線廃止・路線名称変更でない限り「広島県報」には掲載されなくなっている(もっとも2007年〔平成19年〕10月26日以降三次市が管理する県道路線に関する路線認定・路線廃止・路線名称変更は全く起きていない(注5))。
県道433号穴笠・三次線2014年(平成26年)11月5日に 三次市三次町/願万地交差点三次市十日市東五丁目/上原交差点 (注1)間の経路が決定した(と考えられる(注6))のに未だに路線識別手段が全く設置されないままになっている。
県道434号和知・三次線県道433号穴笠・三次線との分岐点になる 三次市三次町/願万地交差点 にある案内標識に路線番号が記されていない(一方で県道標識〔正式名称は都道府県道番号〕はいくつも設置されている)。

 三次市は前にも記したが人口こそ5万人程度だが広島県北部の中心都市である。そして鉄道路線と高速道路、国道路線が集まる交通の要衝になっている。それは三江線が廃止された後も変わらないだろうが、このお寒い現状はどのように考えているのだろうか。三次市中心部の国道路線と県道路線を管理している広島県と三次市は真剣に考えて頂きたいものである。
 それはさておき、巴橋を渡り、 三次市三次町/三次町交差点 で右折して北に向きを変えた国道375号線を北上すると進行方向左側に産婦人科病院と高齢者介護施設の看板(下の写真参照)が見えてくる。 この看板の手前の丁字路、すなわち三次市三次町/尾関山駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) で左折し、広い道—尾関山通と称しているらしい—をまっすぐ進むと尾関山駅に到着する。

尾関山駅(おぜきやまえき)

尾関山駅の駅舎

尾関山駅の駅名標

国鉄時代からあると思われる名所案内板。辛うじて内容は判読できる状態である。

三江線活性化協議会が設置した看板。尾関山駅の愛称は紅葉狩(もみじがり)となっている。

尾関山駅のデータ

項目記事
所在地 三次市三次町
駅名の由来駅のすぐ近くにある小山の名前。
開業年月日1955年(昭和30年)3月31日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるもの駅舎(有人駅だった痕跡あり)
プラットホームの形式単式ホームで西側を使用している。
島式ホームとして使用可能ではあるが使用されたことはないと思われる。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から106.1km
終点(三次)から2.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)粟屋駅から3.0km
(上り線)三次駅から2.0km
JR三江線の列車の発車時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時32分(浜原発三次行)
423D…午前9時18分(江津発三次行)
427D…午後4時12分(口羽発三次行)
429D…午後6時56分(江津発三次行)
433D…午後8時37分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前5時41分(三次発浜田行)
424D…午前10時5分(三次発石見川本行)
428D…午後2時15分(三次発口羽行)
432D…午後5時5分(三次発浜原行)
436D…午後7時37分(三次発浜原行)
付近にある主要施設広島地方検察庁三次支部
広島地方裁判所三次支部
三次市立三次中学校
三次市立三次小学校
三次警察署三次町交番
三次西中町郵便局
三次商工会議所
付近にある名所・旧跡・自然尾関山公園・尾関山城跡
中村憲吉歌碑
キリシタン灯籠
江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
県道39号三次・高野線(国道375号線と重用)
※どちらも尾関山駅の東方約200mのところを通っている。
備考・三江線にある35の駅で唯一山の名前が付いた駅である。

 尾関山駅は三次市の原点的存在たる三次市三次町にある。三次市三次町は江戸時代初頭に尾関山城(三次市三次町)の城下町(注7)として形成されたことに端を発しており、そのことは古い町並みを残している箇所があることや裁判所などの中枢施設があること、そして1889年(明治22年)4月1日に広島県で市制町村制が施行された時に広島県北部で唯一町制を施行したこと(注8)に示されている。世が世なら尾関山駅が三次駅を名乗っていたことであろう。列車の交換が可能なように設計された長いプラットホームや駅舎の中に残る有人駅だったことを示す痕跡、上下2車線以上の幅を持つ駅前通りに双三郡三次町(1889〜1954(注9))の代表駅にしようとしていた気概が感じられる(注10)。もっとも、国鉄三江南線三次〜尾関山〜式敷間が開業した時には双三郡十日市町(1917〜1954)の中心部・十日市を中心部とする三次市が発足し、双三郡三次町は消滅した後だったのだが…(注11)

かなり広い幅を持つ尾関山駅の駅前通り

 傍目に見れば無念の思いの残る駅と言ったところではあるが、尾関山駅のそばには見所がいくつもあり、後ろ向きに考えることはないと思っている。それを挙げると次の通りになる。
・尾関山駅のプラットホームからは江の川に架かる第一可愛川(えのかわ)橋梁が見えること。尾関山駅のプラットホームから見えるということは三江線を通る列車からも見えるということであり、三次駅を発車した列車に乗って進行方向左側の車窓を見ていた場合、100km以上にわたって付き合うことになる江の川との出会いが近いことを感じさせる(一方で三江線はあんなに屈曲しているのか…と思う人もいることだろうが…)。

第一可愛川橋梁。その上を通るのは国道54号線(国道184号線及び県道112号三次・江津線重用)である。

・尾関山駅のすぐそばには桜と紅葉の名所として知られる尾関山公園(三次市三次町)があること。尾関山公園からは第一可愛川橋梁を見ることができるため頃合いさえ見計らえばそこを通過する三江線の列車を見ることもできる。但し三江線は来年4月1日に廃止されるため、下のような写真を撮ることは恐らくもうできない。

尾関山公園から撮影した第一可愛川橋梁を渡る三江線の列車

 一方で尾関山駅の駅舎の中にはこんな貼り紙があった(人名が書かれている部分は加工し、判読できないようにしている)。

 恐らく尾関山駅の駅舎の中には訪れた人に時間を知らせる壁掛け時計が置かれていたのであろうが、無人駅で人の目が届かないことを良いことに壊したり盗んだりする人がいたのであろう。それでもう時計を置くことはできないとして近隣の方が片付けたのであろう。誰の仕業なのかは分からないが、こんな状況があるというのは非常に残念なことである。

ちょっと寄り道

 尾関山駅を見た後、私は尾関山駅の駅前通りを東進し、 突き当たり、すなわち三次市三次町/尾関山駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) を左折して北上した。そして次の信号機のある交差点、すなわち 三次市三次町/三次中学校入口交差点 で右折し、国道375号線(県道39号三次・高野線重用)から県道434号和知・三次線に入った。このページをご覧になっている方は「粟屋駅(三次市粟屋町)とは逆の方向に進んでいるのでは…」と思ったことであろうが、実は三江線と同じく間もなく見納めになるのではないかと思われるあるものを見に行くためにあえて粟屋駅とは逆の方向に進んだのである。
 そのあるものがあるのは県道434号和知・三次線が左斜めに折れ、西城川に架かる旭橋(全長:141.2m)への上りにかかる辺りである。進行方向右側にそれはある。

 三次市出身で、広島東洋カープに在籍している梵英心(そよぎ・えいしん)内野手を応援する旗(?)である。どうやらこの近くの出身らしい(注12)のだが、残念なことに取材の数日前、梵内野手は他球団での現役続行を視野に広島東洋カープからの退団を表明したのである。2006年度(平成18年度)のセントラルリーグの新人王を獲得するなど、広島東洋カープの低迷期(1998〜2012年〔平成10〜24年〕)に活躍した選手だったのだが、ここ数年は膝の故障の影響や若手選手の台頭もあり、出番は少なくなっていた(注13)
 梵内野手のこの決断には賛否両論があるが、私はけなして頂きたくないと思っている。1980年(昭和55年)10月11日生まれの現在37歳(注14)と若くはないし、若手選手の台頭で出番は激減しているし、膝の故障を抱えてはいるがこのままで終わるのは自分のプライドが許さないという思いがあったのだろう。それ故の決断だったと私は考えている。今のところどの球団で来年以降現役を続行するのかは決まっていないが、新天地でも頑張って欲しいものだと思う。

尾関山駅から粟屋駅へ

 寄り道から戻り、再び三江線並行道路の旅を進める。尾関山駅から次の粟屋駅に行くには三次市道→国道375号線(県道39号三次・高野線重用)→県道112号三次・江津線→国道54号線(国道184号線及び県道112号三次・江津線重用)→県道112号三次・江津線→三次市道を経由するのが最短経路であり、同時に唯一の経路である。いよいよ広島県北部の中心都市・三次市の中心部を離れ、中国地方随一の大河・江の川とのお付き合いが始まることになる。
 尾関山駅の駅前通りを東進し、 突き当たり、すなわち三次市三次町/尾関山駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) を今度は右折して国道375号線(県道39号三次・高野線重用)を南下する。上下2車線化されてはいるが狭いと感じる道である。実はこの道はかつての二級国道182号広島・松江線(1953〜1963)→一級国道54号線(1963〜1965)→国道54号線(1965〜)だった道である。今では国道54号線は三次市中心部に入らず、三次市中心部の西方の丘陵地帯を通り抜けていくのだが、一次改築(全線の上下2車線化)が完成した1971年(昭和46年)当時、国道54号線は三次市中心部を通っていたのである( 三次市三次町/巴橋西詰交差点 より広島寄りの区間は こちら で、 三次市三次町/巴橋西詰交差点 より松江寄りの区間は こちら でそれぞれ経路を示している)。1971年(昭和46年)当時、島根県と広島県を結ぶ道路で整備が終わっていたのは国道54号線だけだったし、尾道自動車道や松江自動車道はおろか中国自動車道もなかった頃なのでかつてはこの道を多くの車が行き交っていたのだろうと思うと感慨深いものがある。
 さて、南下してきた国道375号線(県道39号三次・高野線重用)は間もなく 三次市三次町/三次町交差点 で突き当たりとなる。三江線並行道路の旅で次に通ることになる県道の三江線こと県道112号三次・江津線はこの 三次市三次町/三次町交差点 が起点となる。三次市と江津市を結ぶ長大一般県道路線の始まりというわけであるが、 三次市三次町/三次町交差点 の手前にある案内標識を見ると気になることが書いてあるのが見える。

 その内容とは県道112号三次・江津線に入ると300m先に重量制限(8トン)がかけられている箇所があるというものである。なぜこういう規制がかけられたのかは後で説明するが、県道112号三次・江津線の行き先が国道375号線(県道39号三次・高野線重用)の行き先より小さく書かれているところに通行を推奨したくない広島県の思惑が感じられる。
 この県道112号三次・江津線は起点の 三次市三次町/三次町交差点 のすぐ先で早速JR三江線の下をくぐることになる。鉄道の三江線と県道の三江線の初めての出会いと言ったところであるが、三江線の橋梁を見ると三江線の橋梁の新しさに驚く(下の写真参照)。この辺りの三江線は1955年(昭和30年)3月31日に開業しているから当然この橋梁は開業当時のものではないことになるのだが、なぜこうなったのか。実はこの三江線の橋梁は県道112号三次・江津線の整備により10年ほど前に架け替えられたのである。

 この辺りの県道112号三次・江津線は国道54号線(国道184号線重用)三次バイパスと三次市中心部を結ぶ役割を担う道である。しかし、三江線をくぐる箇所には高さ制限(南側の道…2.3m、北側の道…3.3m。但しどちらも一方通行規制はかけられていなかった)があった上に道幅は狭く、その役割を担うことができなかったのである。そこで道路整備と三江線の橋梁架け替えを行ったのである。完成したのは2008年(平成20年)のことであるが、当時はそれから10年も経たないうちに三江線が廃止されるとは思っていなかったことであろう。何とももったいない気がするのだが、何らかの利用策が考えられることを希望したい。
 さて、三江線の高架をくぐった県道112号三次・江津線は緩やかな坂で江の川右岸土手に上り、江の川を渡るわけであるが、江の川を渡るための橋、すなわち祝橋(全長:210m)は下の写真をご覧頂ければうかがえるように古い橋である。実は元々は1921年(大正10年)に現在の広島市安佐南区八木八丁目〜広島市安佐北区可部南一丁目間の太田川に架けられた太田川橋(現在の国道54号線〔国道183号線・国道191号線・国道261号線重用〕の上り線に相当する部分にあった)だったものである。祝橋に移築されたのは1960年(昭和35年)のことであるが、途中使われなかった時期があったものの、広島県が管理する道路にある鋼橋としては最古のものとのことである。無論近代土木遺産の一つでもある。

 だが、今年で96歳のこの橋も老朽化が進んでいる。橋のたもとにはこんな道路標識があった。

 私は前に「県道112号三次・江津線に入ると300m先に重量制限(8トン)がかけられている箇所がある」と記したが、その箇所こそがこの祝橋だったのである。標識自体はまだ新しいので数年前に設置されたように見えるのだが、せっかく起点からここまで整備されてもこの問題がある以上県道112号三次・江津線は国道54号線(国道184号線重用)三次バイパスと三次市中心部を結ぶ役割を担う道としては力量不足のままとなる。広島県としては 三次市三次町/三次町交差点三次市三次町/祝橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし) 間に引き続き 三次市三次町/祝橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)三次市粟屋町/落岩交差点 間の県道112号三次・江津線(都市計画道路巴橋・粟屋線でもある)の整備を計画しているようであるが、無論祝橋の架け替えも含まれていることだろうから近い将来広島県最古の鋼橋である祝橋はその姿を消すのであろうか。
 祝橋を渡った県道112号三次・江津線は急な坂を上下2車線の道で登り、突き当たったところにある 三次市粟屋町/落岩交差点 で右折して国道54号線(国道184号線重用)と重用する。この辺りの国道54号線(国道184号線重用)は1975年(昭和50年)5月12日に開通した三次バイパスである。この三次バイパスの開通により広島方面と松江方面を往来する場合三次市中心部を通らなくても良くなったのである。三次市中心部では右左折を何度も繰り返していたことや交通の要衝故に主な交差点での渋滞が頻発していたこと、沿線にある学校に通う児童・生徒の安全が脅かされていたこと、そして広島方面と松江方面を往来する場合遠回りになっていたことを考えればこのバイパスの開通はかなり大きな効果をもたらしたと言えるのではないのだろうか。
 丘陵地帯を貫く国道54号線(国道184号線及び県道112号三次・江津線重用)三次バイパスは 三次市粟屋町/落岩交差点 のすぐ北側にある切り通しの辺りから下りに転じるのだが、その下りの途中に小さな橋がある。その橋はJR三江線と三次市道(三次バイパス開通前の県道112号三次・江津線だった道)を跨いでいるのだが、早くも三江線と県道112号三次・江津線の二度目の交差箇所となる。なお、三次バイパス開通前の県道112号三次・江津線だった道( 三次市三次町/祝橋西詰交差点〔信号機・交差点名標なし〕 で右折し、江の川左岸に沿って進む道。経路は こちら で示している)はこの小さな橋のすぐ東側でJR三江線をくぐっていた。
 丘陵地帯を抜け、平坦な道になったところに 丁字路、すなわち三次市粟屋町/荒瀬交差点(信号機・交差点名標なし) がある。そこが県道112号三次・江津線と国道54号線(国道184号線重用)との重用区間が終わるところになるわけであるが、そこには信号機はないし、手前にある案内標識は下の写真の通り簡単なものである。

 そこから分岐する県道112号三次・江津線がよほど交通量の少ない道であることをうかがわせているのだが、左折して県道112号三次・江津線に入ると前途多難さを感じさせるものが目に飛び込んできた(下の写真)。

 一つは広島県が管理する国道路線・県道路線の異常気象時通行規制区間ではおなじみの電光掲示板であり、もう一つは「大型車はこの先4キロメートルより通行困難です 三次土木建築事務所(注15)」と記された看板である。大雨が降った時(注16)には通れなくなるし、狭いので大型車は4km先からは通れない。先程の案内標識が簡単なものにされているのは安芸高田市高宮地区に行くのに県道112号三次・江津線は通って頂きたくないという国土交通省の思惑があるからだと思うのだが、それなら国道54号線(国道184号線重用)にある案内標識に「異常気象時通行規制区間あり」とか「最小幅員○m。大型車は高宮方面には行けません。迂回をお願いします」というような情報を書いてはどうであろうか(注17)。そういえば国道54号線(国道184号線重用)との重用区間には一切県道112号三次・江津線が重用していることを示すものはなかったのだが、縦割り行政の弊害を感じたのは私だけだろうか。
 さて、国道54号線(国道184号線重用)と分かれた県道112号三次・江津線は江の川左岸と三江線の間を西進していく。国道54号線(国道184号線重用)と分かれたばかりのところは上下2車線化されており、まだ対向車とのすれ違いには難渋しない。進行方向の右側には丸大食品広島工場(三次市粟屋町)や中国バス三次営業所(三次市粟屋町)があるし、民家もいくつも建ち並んでいる。まだ運転に気を遣わないで済むところである。
 そんなところに実は珍しいものがある。それを撮ったものが下の写真である。

 この県道標識は県道112号三次・江津線を東に向かって走った場合に見られるものなのだが、何と補助標識の部分は黒文字ではなく、青系統(紺色)の文字で記されているのである。1994年(平成6年)の県道路線の大規模な再編を契機に登場した、広島県独自の補助標識(通称:平成ヴァージョン。広島県が管理する国道路線・県道路線での設置がほとんどだが広島市や三次市が管理する路線でも見られる)は普通は黒文字で路線名称や所在地を記しているのだが、青系統の文字で記しているのは三次市粟屋町の県道112号三次・江津線上り線と、福山市山野町矢川の県道104号坂瀬川・芳井線上り線(下の写真)の二つしか確認していない。探せばまだ他にもあるのかもしれないのだが、なぜ青系統の文字で所在地や路線名称などを記したのだろうか。全くの謎である。

 やがて民家と平地が尽き、すぐ右側に江の川、すぐ左側に三江線がそれぞれ沿う格好になった県道112号三次・江津線は中央線のない道になり、狭くなる。その狭隘区間はすぐに終わるのだが、「4km先どころかこの辺りで大型車の通行は無理なのでは?」と感じたくなる。結局何を基準に広島県三次土木建築事務所改め広島県北部建設事務所(三次市十日市東四丁目)は4km先まで大型車は進めるとしたのだろうか。素人にはよく分からない。
 狭隘箇所を過ぎた県道112号三次・江津線は民家がいくらか建ち並ぶ集落に差しかかる。その辺りの集落は下津河内と言うようである。粟屋駅はその下津河内集落の中にある。但し下の写真に見られるような小さな看板(写真は東方から進んできた場合に進行方向左側に見えるもの)しかないのでよく注意していないと入口を見逃すかもしれない。その看板の先の 丁字路、すなわち三次市粟屋町/粟屋駅入口交差点(信号機・交差点名標なし) を左折し、坂を上るとその先に駅前広場を有する粟屋駅がある。

粟屋駅(あわやえき)

粟屋駅のプラットホームにある待合所。駅舎はない。

粟屋駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。粟屋駅の愛称は曽我兄弟となっている。

粟屋駅のデータ

項目記事
所在地 三次市粟屋町
駅名の由来駅がある町の名前。
開業年月日1955年(昭和30年)3月31日
接続鉄道路線なし
駅構内にあるものなし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式単式ホームで南側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から103.1km
終点(三次)から5.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)長谷駅から2.5km
(上り線)尾関山駅から3.0km
JR三江線の列車の発車時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時26分(浜原発三次行)
423D…午前9時12分(江津発三次行)
427D…午後4時6分(口羽発三次行)
429D…午後6時50分(江津発三次行)
433D…午後8時31分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前5時47分(三次発浜田行)
424D…午前10時11分(三次発石見川本行)
428D…午後2時20分(三次発口羽行)
432D…午後5時11分(三次発浜原行)
436D…午後7時43分(三次発浜原行)
付近にある主要施設下津河内集会所
付近にある名所・旧跡・自然下津河内丸山鉄穴流し場跡
江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
備考・当駅は三次市粟屋町の中心部にはない(三次市粟屋町の中心部は三次市立粟屋小学校〔三次市粟屋町〕や三次警察署粟屋警察官駐在所〔三次市粟屋町〕がある辺り)。
・現在の粟屋駅は二代目になる。初代の粟屋駅は現在のJR芸備線西三次〜志和地間(おおよその位置は こちら )に1916年(大正5年)4月15日に設置されたが1922年(大正11年)6月7日に廃止された(廃止理由は不明)。初代粟屋駅も三次市粟屋町の中心部ではなく南東部の旭地区に設置されていた。

 粟屋駅はプラットホーム上に待合所が置かれているだけの駅、すなわち停留所に分類される駅である。プラットホームの北側に広場があることや国鉄三江南線三次〜粟屋〜式敷間開業時から存在する駅であることから昔は駅舎があったが合理化により撤去された可能性も考えられるところである。待合所は開放式であり、雨の日や雪の日、強い風の日、寒い日は利用しづらいことが想像される。
 ところで、「粟屋駅」と聞いて三次市粟屋町、すなわちかつての高田郡粟屋村(〜1950)→双三郡粟屋村(1950〜1954)の中心地にあるから命名されたのではないかと思う方がいると思うのだが、粟屋駅は三次市粟屋町の中心部(三次市立粟屋小学校〔三次市粟屋町〕や三次警察署粟屋警察官駐在所〔三次市粟屋町〕がある辺り)の北西約2.8kmのところにある。中心部にはない粟屋駅ということになるのだが、なぜ例えば北粟屋駅とか下津河内駅にならなかったのか。私は三次市粟屋町を通るもう一つの鉄道路線である芸備線にかつて粟屋駅が設置されていたことがあったもののわずか6年で廃止された過去があったからではないかと考えている。芸備線の粟屋駅も三次市粟屋町の中心部から離れたところ(南東部の旭地区)にあったのだが、中心部から離れたところにあったとしても町の名前の付いた駅が欲しいという執念を感じさせる。ちなみに三次市粟屋町の中心部の最寄駅は芸備線西三次駅(三次市十日市西四丁目)となる。
 二代目、すなわち三江線の粟屋駅も初代と同じく消滅する運命になったわけであるが、待合所とプラットホームしかない駅で目を引いたのは下の写真に見える、三江線への惜別と感謝の意を示した看板であった。

 その看板の下には粟屋駅や三江線に関する新聞の切り抜き記事が展示されており、人口の少ない集落の中の駅ではあるものの、利用する人のほとんどいない駅ではあるものの地域の方々に長年愛されていた駅であることを感じさせる。

粟屋駅から長谷駅へ

 粟屋駅から次の長谷駅(三次市粟屋町)に行くには県道112号三次・江津線以外に選択肢はない。しかし、下津河内の集落を過ぎると再び道は狭くなる(下の写真参照)。

 大型車の通行はどう見ても無理であるが、まだ問題の4km地点は来ていない。結局何を基準に広島県北部建設事務所は4km先まで大型車は進めるとしたのだろうか。再び問いたくなる。
 道が狭くなると同時に民家と平地が尽き、県道112号三次・江津線はすぐ右側に江の川、すぐ左側に三江線がそれぞれ沿う格好になるのだが、このような状況を見るとこの辺りの三江線は江の川と山の間にわずかばかりの平地のある集落ごとに駅を設けていることがうかがえる。この辺りの三江線—当時は三江南線と称していたのだが—が開業したのは1955年(昭和30年)3月31日のことだったのだが、当時は日本の道路事情は劣悪だったし、モータリゼーションもまだ進展していなかった。鉄道が陸上交通の主流だったわけであるが、集落ごとに駅を置くことで沿線住民の利便性を向上させる目的があったのだろうか。1955年(昭和30年)当時と言えば高度経済成長期の真っ只中にはあったがまだそれほど過疎化は進展していなかった時期。沿線住民は待望の鉄道開通を喜び、三次市中心部に出るのに、どこか遠くへ行くのに盛んに利用したのだろう。
 すぐ右側に江の川、すぐ左側に三江線がそれぞれ沿う狭い道をしばらく進んでいくと開けたところに出る。そこにこんな看板がある。

 「大型車はこれより先通行困難です 三次土木建築事務所(注15)」と書かれた看板である。ここまで大型車の通行や普通自動車同士のすれ違いが難しいような道はいくらかあったのになぜここで大型車はこの先通れないという看板を出すのだろうか。一般市民と役所の感覚のズレに戸惑ってしまう。
 こういう看板は全国各地にあるわけであるが、私としてはただ大型車は通るのは難しいよと示すだけでなく何km先でどこまで狭くなるのかを示してはどうかと思っている(重量制限ではあるが前に記した 三次市三次町/三次町交差点 の案内標識が好例であろう)。そうすれば誤って狭い道に入り込んでしまい、立ち往生するようなことはなくなると思うのだが…。
 大型車の通行がここから困難になることを通告した看板を過ぎると県道112号三次・江津線は江の川支流の長谷川を長谷橋(全長:26m)で渡る。そのすぐ先の進行方向左側の高台に長谷駅はある。

長谷駅(ながたにえき)

長谷駅の待合小屋

長谷駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。長谷駅の愛称は鍾馗(しょうき)となっている。

長谷駅のデータ

項目記事
所在地 三次市粟屋町
駅名の由来駅がある集落の名前。
※厳密には駅がある集落は下長谷集落という名称であるが、長谷駅南方の長谷川上流にある上長谷集落と合わせて長谷地区と称されることが多い。
開業年月日1969年(昭和44年)4月25日
※仮乗降場としての開業年月日。正式に駅になったのは1987年(昭和62年)4月1日。
接続鉄道路線なし
駅構内にあるもの待合小屋
プラットホームの形式単式ホームで南側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から100.6km
終点(三次)から7.5km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)船佐駅から2.2km
(上り線)粟屋駅から2.5km
JR三江線の列車の発車時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前7時20分(浜原発三次行)
423D…午前9時6分(江津発三次行)
427D…通過(口羽発三次行)
429D…通過(江津発三次行)
433D…通過(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…通過(三次発浜田行)
424D…通過(三次発石見川本行)
428D…午後2時26分(三次発口羽行)
432D…午後5時17分(三次発浜原行)
436D…午後7時49分(三次発浜原行)
付近にある主要施設なし
付近にある名所・旧跡・自然江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
備考・仮乗降場として開業。長らく市販の時刻表には発車時刻が掲載されなかったが、日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)の分割・民営化による西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)発足(1987年〔昭和62年〕4月1日)の際に正式な駅となった。
・仮乗降場は中国地方の国鉄路線では珍しく、他にJR山口線に二つ(仁保津駅〔山口市小郡上郷〕と本俣賀駅〔益田市本俣賀町〕)あった。記すまでもないがこれらの駅も日本国有鉄道の分割・民営化による西日本旅客鉄道発足(1987年〔昭和62年〕4月1日)の際に正式な駅となっている
(注18)
・「長谷駅」は他に神奈川県(江ノ島電鉄江ノ島電鉄線)と兵庫県(JR播但線)にあるが、どちらも「はせえき」と読む。
・発車時刻をご覧頂ければうかがえることであるが、下り列車は午前中しか、上り列車は午後しかそれぞれ停車しない。このため粟屋駅以遠からの列車だけを用いての日帰りはできない。
・下り線については中国地方で最も早く最終列車が来る駅であり、上り線については中国地方で最も遅く始発列車が来る駅でもある。
・旧三江南線(口羽〜三次間)では最後に開業した駅である。
・当駅付近は1954年(昭和29年)11月2日までは高田郡船佐村船木に属していた。地理的事情により1954年(昭和29年)11月3日から高田郡船佐村船木の一部区域を三次市に編入することになったものである。なお、船佐駅(安芸高田市高宮町船木)のそばにある、その辺りが空爆に遭ったことを示す看板の中には「旧船佐村字船木長谷(現三次市)…」と書かれている箇所があり
(注19)、この辺りがかつては高田郡船佐村(1889〜1956)だったことを伝えている。

 まだ日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)があった頃、午後に三次駅を発車する三江線の上り列車に乗っていると、ある駅に停車した。「その前は粟屋駅だったから船佐駅(安芸高田市高宮町船木)に着いたのか…?」と思って駅名標を見るとそこには「船佐」ではなく「長谷」と記されている。「こんな駅があったのか…?」と思って時刻表や道路地図を見てもそんな駅は記されていない。「なぜここに国鉄は駅を置いたのにそのことを公にしないのだろうか」と疑問を持った方は少なくないのではないのだろうか。
 実はこの長谷駅は日本国有鉄道在りし頃は仮乗降場であり、正式な駅ではなかったのである。なぜそこに仮乗降場を置いたのかというと三次市粟屋町長谷地区に住む児童の便を図るためであった。三次市粟屋町北部(荒瀬・落岩・下津河内・長谷・馬行谷)に住む児童は三次市立粟屋小学校北分校(三次市粟屋町。現在 下荒瀬集会所〔三次市粟屋町〕がある辺り にあった)に通っていたのだが、過疎化に伴う児童数減少により1969年(昭和44年)に廃校になり、三次市立三次小学校に通うことになったのである。その際三次市粟屋町長谷地区に住む児童は三次市立三次小学校まで長い距離を歩かざるを得なくなったため三次市粟屋町長谷地区に仮乗降場を設置したというわけである。そのため下り列車は午前中にしか、上り列車は午後にしかそれぞれ停車しないというダイヤが組まれており、それは日本国有鉄道から西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)に運営者が継承された後も変わらなかった。
 長谷駅は旧三江南線(口羽〜三次間)では最後に開業した駅なのだが、プラットホームに待合所が置かれるだけの駅が多い中で長谷駅だけは県道112号三次・江津線とプラットホームを結ぶ階段の途中に木造の待合小屋が設置されている。これは日本国有鉄道ではなく三次市教育委員会が設置したものとのことであるが、雨の日や雪の日、強い風の日、寒い日に子供達がプラットホームの上にある待合所で列車を待つのはどうかということで建てたのであろう(もっとも長谷駅にはプラットホームに待合所はないのだが…)。もう今は長谷駅を利用する児童はいなくなってしまったとのことであるが、かつては列車を待っている児童の賑やかな声がしていたのだろう。

階段の途中にある長谷駅の待合小屋。白色の軽自動車が停まっているところが県道112号三次・江津線。

 待合小屋から更に階段を登り、プラットホームに立つ。プラットホームからは木々に遮られるところはあるものの江の川が眺められる(下の写真)。その光景を見て美空ひばり(1937〜1989)の生前最後のシングル曲「川の流れのように」(1989年〔平成元年〕1月11日発売)で出てくる情景はこういうところのものなのだろうかと感じたのは私だけだろうか(注20)

 この後三江線は三次市から安芸高田市に入っていくのだが、それは次の章で紹介することにしたい。

第2章に続く

注釈コーナー

注1:同じ交差点なのに所在地表記が異なるのは本サイトの規定による(そのことは こちら で示している)。

注2:理由としては少子・高齢化や過疎化、モータリゼーションの進展、高速バスの路線網拡大が挙げられる。そのせいもあり、2007年(平成19年)7月1日以降は三次駅を通る列車は普通列車か快速列車(「みよしライナー」号)しかない。

注3:それなら三次駅を橋上駅化すれば良かったのではないかという話になるのだが、それができなかったのは次に挙げることがあったからだと思われる。
・橋上駅化した場合南側にも駅前広場を整備しなければならなくなるのだが、既に宅地化しており、用地買収は困難だったこと。
・三次駅は運転上の拠点駅であり、駅構内の整理(縮小化)は難しかったこと。
・列車の本数が少なく、また利用者も少ないために費用対効果が低かったこと。
・三次市が三次駅のすぐ東側に歩行者専用の陸橋(南北自由通路)を建設したこと。

注4:この時広島県から三次市に管理者が変更された県道路線は下表の通りである。

※各路線の起点と終点は三次市管理区間の起点と終点を記しており、その路線の正式な起点と終点を記しているものではない。

※起点欄と終点欄、備考欄の地名表記は「三次市」を略している。

※三次市内で完結する路線であっても県道424号甲奴インター線(甲奴町宇賀〜甲奴町西野間)は広島県が管理している(2007年〔平成19年〕10月26日時点では全く区域決定に至っていなかったことや甲奴インターチェンジ〔三次市甲奴町小童〈ひち〉〕がある尾道自動車道が新直轄方式で建設されたことから広島県が管理することになったものと思われる)。

路線
番号
路線名称読み方起点終点備考
222甲奴停車場線こうぬていしゃじょうせん甲奴町本郷甲奴町本郷
223吉舎停車場線きさていしゃじょうせん吉舎町三玉吉舎町三玉
224三良坂停車場線みらさかていしゃじょうせん三良坂町三良坂三良坂町三良坂
225塩町停車場線しおまちていしゃじょうせん塩町塩町
227志和地停車場線しわちていしゃじょうせん下志和地町下志和地町
228三次停車場線みよしていしゃじょうせん十日市南一丁目十日市南一丁目正式な終点は十日市中二丁目。
229神杉停車場線かみすぎていしゃじょうせん高杉町江田川之内町
425梶田・三良坂線かじたみらさかせん甲奴町梶田吉舎町知和灰塚ダム建設に伴う付け替えで終点は三良坂町灰塚から吉舎町知和に変更されたが路線名称は変更されていない。
426太郎丸・吉舎線たろうまるきさせん甲奴町抜湯吉舎町三玉
429若屋・秋町線わかやあきまちせん粟屋町秋町
430糸井・塩町線いといしおまちせん糸井町塩町
431和知・塩町線わちしおまちせん和知町塩町
432青河・江田川之内線あおがえたかわのうちせん青河町高杉町
433穴笠・三次線あながさみよしせん三次町十日市東五丁目西河内町(起点)〜三次町間は区域未決定かつ未開通(どこで県道186号新市・三次線から分岐し、どこで県道434号和知・三次線と合流するのかは未定)。
434和知・三次線わちみよしせん和知町三次町
435木呂田・本郷線きろたほんごうせん君田町東入君君田町東入君
436香淀・三次線こうよどみよしせん作木町香淀作木町大山作木町大山〜三原町(終点)間は区域未決定(区域になると思しき道路はある)。
437大津・横谷線おおつよこたにせん作木町大津布野町横谷
440羽出庭・三良坂線はでにわみらさかせん三和町羽出庭有原町正式な終点は三良坂町三良坂。
470三次インター線みよしいんたーせん西酒屋町西酒屋町

注5: こちら をご覧頂ければお分かり頂けるのだが、三次市内で完結する一般県道路線(県道424号甲奴インター線を除く)の管理者が広島県から三次市に変更された2007年(平成19年)10月26日以降、広島県で県道路線の異動があったのは福山市と山県郡安芸太田町だけである。その概要は下表の通りである。

年月日関係市区郡町村名異動内容備考
2009年
(平成21年)
2月5日
山県郡安芸太田町広島県告示第118号により県道303号上筒賀・津浪線認定。県道303号上筒賀・津浪線は2009年(平成21年)2月5日広島県告示第119号により廃止された県道241号筒賀停車場線と県道303号上筒賀・筒賀停車場線のそれぞれの一部区間を再編して発足した路線である。
広島県告示第119号により県道239号加計停車場線と県道241号筒賀停車場線、県道303号上筒賀・筒賀停車場線廃止。いずれもJR可部線可部〜三段峡間廃止(2003年〔平成15年〕12月1日)により存在意義が消滅したため廃止。県道239号加計停車場線は安芸太田町道に、県道241号筒賀停車場線と県道303号上筒賀・筒賀停車場線は県道303号上筒賀・津浪線と県道304号中筒賀・下線にそれぞれ再編された。
なお、ここでの「筒賀停車場」とは田之尻駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)のことである(筒賀駅から1969年〔昭和44年〕7月1日改称)。県道241号筒賀停車場線と県道303号上筒賀・筒賀停車場線の路線認定は筒賀駅から田之尻駅への改称の1ヶ月ほど前の1969年(昭和44年)5月30日になされているが、改称されないまま廃止された。
2010年
(平成22年)
2月8日
福山市広島県告示第88号により県道191号備後赤坂停車場線廃止。福山市がJR山陽本線備後赤坂駅(福山市赤坂町赤坂)の北口駅前広場と県道54号福山・尾道線(国道2号線旧道)を結ぶ通りの整備に乗り出したことから福山市に移管する必要が生じて廃止。これにより福山市内のJR山陽本線を起終点とする県道路線(過去には県道190号福山停車場線〔1960〜1974〕と県道192号松永停車場線〔1960〜2005〕が存在)は全て廃止され、福山市に移管された。
備後赤坂駅北口駅前広場と県道54号福山・尾道線を結ぶ駅前通りの整備は2015年(平成27年)春に完成したが、県道だった部分は大半が新しく建設された道の下敷きになった(そのことは こちら でも書いているので興味のある方は併せてご覧頂きたい)。

注6:私が県道433号穴笠・三次線のうちの 三次市三次町/願万地交差点三次市十日市東五丁目/上原交差点 の区域決定が2014年(平成26年)11月5日になされたと考えているのは次に挙げる理由による。
「国・県道路線一覧表」の県道433号穴笠・三次線の項を見ると2014年(平成26年)4月1日時点のデータは実延長0m、面積0平方メートルとなっていて、備考欄には「区域決定未了」と記されていたが、2015年(平成27年)4月1日時点のデータは実延長939m、面積21,094平方メートルとなっていて、備考欄には「一部区域決定未了」と記されていること。つまり、2014年(平成26年)4月1日〜2015年(平成27年)4月1日のどこかで管理者の三次市によって区域決定がなされたということになる。
・実は2014年(平成26年)11月5日は 三次市十日市東四丁目/上原交差点
三次市十日市東四丁目/上原北交差点 間の国道375号線の拡幅事業が完成した日だったこと。県道433号穴笠・三次線になると思しき道( 三次市三次町/願万地交差点三次市十日市東五丁目/上原交差点 )は2012年(平成24年)8月11日に完成していたのだが、 三次市十日市東四丁目/上原交差点 三次市十日市東四丁目/上原北交差点 間の国道375号線の拡幅事業が完成するまで区域決定を先送りしたのは 三次市十日市東四丁目/上原交差点 三次市十日市東四丁目/上原北交差点 間を国道375号線のままにしておくことによって国から補助金が得られることを念頭に置いた可能性が考えられる。

注7:尾関山城を本拠としたのは広島藩の支藩となる三次藩で、領主は浅野氏である。三次藩は5代続いたが、嗣子断絶により1720年(享保5年)に廃藩となっている。

注8: こちら をご覧頂ければお分かり頂けるのだが広島県で市制町村制が施行された時町制施行したところは下表の通りである。

令制国名郡名町名読み方存続期間備考
安芸安芸郡海田市町かいたいち1889〜1956現:安芸郡海田町。
佐伯郡厳島町いつくしま1889〜1950現:廿日市市。
廿日市町はつかいち1889〜1988現:廿日市市。
高宮郡可部町かべ1889〜1972現:広島市安佐北区。
所属郡は1898年(明治31年)10月1日に安佐郡(1898〜1973)に変わっている。
豊田郡瀬戸田町せとだ1889〜2006現:尾道市。
忠海町ただのうみ1889〜1958現:竹原市。
御手洗町みたらい1889〜1956現:呉市。
備後沼隈郡鞆町とも1889〜1956現:福山市。
深津郡福山町ふくやま1889〜1916現:福山市。
所属郡は1898年(明治31年)10月1日に深安郡(1898〜2006)に変わっている。
御調郡尾道町おのみち1889〜1898現:尾道市。
三原町みはら1889〜1936現:三原市。
三次郡三次町みよし1889〜1954現:三次市。
所属郡は1898年(明治31年)10月1日に双三郡(1898〜2004)に変わっている。

広島県で市制町村制が施行された時町制施行したところはそのほとんどが瀬戸内海沿岸にあるところであり、瀬戸内海に面していないのは高宮郡可部町(1889〜1972)と三次郡三次町だけである。高宮郡可部町は広島県南部に属しているので結局広島県北部で町制施行したのは三次郡三次町だけだったということになる。

注9:三次町と作木村の所属郡は広島県で市制町村制が施行された時はどちらも三次郡だったが、1898年(明治31年)10月1日に三谿(みたに)郡と三次郡が統合して双三(ふたみ)郡(1898〜2004)が発足した時に双三郡に変わっている。

注10:1947年(昭和22年)秋にアメリカ合衆国軍が撮影した空中写真( 国土交通省国土地理院〔つくば市北郷〕の公式サイト の「地図・空中写真閲覧サービス」で閲覧することができる)を見ると双三郡三次町、すなわち現在の三次市三次町付近の三江線はある程度建設が進んでいることや尾関山駅の駅前通りと思しき道ができつつあることがうかがえる。恐らくそこで見られるのは第二次世界大戦の影響で工事が中断したままの様子なのだろう(現にその空中写真からは馬洗川や江の川に架かる鉄橋がまだ橋脚だけだったのが確認できる)。

注11:三次市は1954年(昭和29年)3月31日に双三郡十日市・三次両町及び粟屋・神杉・河内・酒河・田幸・和田各村が統合して発足した市である。三次市の中心部が双三郡三次町の中心部・三次ではなく双三郡十日市町の中心部・十日市と定められたのは次に挙げる事情があったからだと思われる。
・十日市は各方面からの街道が集まる交通の要衝として発展していたこと(恐らく各地からの産物の集積地になったことで定期的に市が開かれるようになり、そこから十日市という地名が付いたのであろう)。
・大正時代以降十日市には各方面からの鉄道路線が通じるようになったこと。
・平地が広いこと。
・三次盆地の中央部にあること。
双三郡十日市町と双三郡三次町は何かと張り合う関係であり、調整は難航したことであろうが、三次市が広島県北部の中心都市として発展するためには利害を乗り越え、協調し合おうということでこういう結論になったのであろう。

なお、三江南線三次〜尾関山〜式敷間が開業したのは三次市が発足したちょうど1年後の1955年(昭和30年)3月31日のことである。

注12:知っている方も多いかとは思うのだが、詳細を記すことは私的領域擁護のため避けることにした。その点はご理解頂きたい。

注13:梵内野手の広島東洋カープにおける公式戦最終出場は2016年(平成28年)9月8日に行われた広島市民球場(愛称:MADZA Zoom-Zoom スタジアム広島。広島市南区南蟹屋二丁目)での中日ドラゴンズ第22回戦(結果は7対4で広島東洋カープの勝ち。この日優勝マジック対象チームの読売ジャイアンツも勝ったため優勝へのマジックは2から1へと一つしか減らず、本拠地での優勝決定はならなかった)である。ちなみに2016年度(平成28年度)は8月下旬から9月上旬にかけての7試合しか出場せず、安打は0本に終わっている。

注14:梵内野手はいわゆる松坂世代(福岡ソフトバンクホークスの松坂大輔投手〔1980年〈昭和55年〉9月13日生まれ〕と同級生になる世代。1980年〔昭和55年〕4月2日〜1981年〔昭和56年〕4月1日に生まれたプロ野球選手を指す)の一人である。

注15:本文でも記した通り広島県三次土木建築事務所は現在は広島県北部建設事務所(三次市十日市東四丁目)に改称されている。

注16:県道112号三次・江津線の場合、1時間当たりの雨量が30mm以上、一日の雨量が100mm以上になった場合通行止めになる。

注17:実際に国土交通省が管理する国道路線にある案内標識にその路線から分岐する国道路線または都道府県道路線に狭隘箇所がある場合、「大型車通行困難」または「大型車通行不能」という注意書きを入れたり、案内標識のそばに「○○方面大型車通行困難」または「××方面大型車通行不能」というような注意書きを記した標識を取り付けたりしているところがある。

注意書きを入れている例(撮影場所:笠岡市金浦)

案内標識のそばに注意書きを記した標識を取り付けている例(撮影場所:岡山市南区妹尾〔せのお〕)

注18:中国地方ではこの他日本国有鉄道の分割・民営化による西日本旅客鉄道発足(1987年〔昭和62年〕4月1日)の際に信号場から駅に昇格したところもある。JR伯備線布原駅(新見市西方)がそれである。1936年(昭和11年)10月10日に布原信号場として設置されたことに端を発するこの駅はある時期(1953年〔昭和28年〕頃)から仮乗降場としても活用されるようになった。確かに布原信号場から新見駅(新見市西方)までは3.9km、布原信号場から備中神代(びっちゅうこうじろ)駅(新見市西方)までは2.5kmそれぞれあることや新見市中心部に通じる道(一部は2010年〔平成22年〕10月1日岡山県告示第804号で区域変更が行われるまで県道8号新見・日南線だった)は未改良箇所が多いことから布原信号場周辺の住む方々の利便性向上のために客扱いをするようになったものと思われる。ただ、プラットホームが短いことや利用者が少ないことから芸備線に乗り入れる列車(下り5本/上り6本。下り列車と上り列車の数が合致しないのは下り列車に布原駅を通過するものが一つあるため)しか停車しない。

注19:その看板を撮ったものが下の写真である。なお、この看板には人名が書かれているところがあり、そこは加工を施している。

注20:「川の流れのように」の作詞者の秋元康によると「川の流れのように」に出てくる川はある海外の有名な川とのことである(某インターネット百科事典に記載されていた情報なので正確さは保証しかねるのだが…)。しかし、何度この曲を聴いても日本の山間部を流れる川の情景しか思い浮かばない。それは私だけなのだろうか…。

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