このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 如己堂 / 永井隆記念館 
如己堂 / 永井隆記念館
如己堂(にょこどう)は、永井隆(医学博士)が最後を過ごした二畳一間の小さな建物です。 その横には永井隆博士の生涯を記録する永井隆記念館が建ち、記念館は児童図書館も併設しています。

永井隆博士(1908-1951)は、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書がある医学博士です。
島根県で医師の長男として生まれ、1928年(昭和3年)長崎医科大学に進学し、浦上天主堂近くの森山家へ下宿します。 森山家がカトリックであったことからカトリックに興味を持ち始めたと言われ、後に森山家の一人娘・緑と結婚します。 大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組みます。 しかし当時は医療機器も不十分だったことから、放射線を過料に受けていました。 1934年にはカトリックの洗礼を受け、同年に結婚もします。 また1933年の満州事変、1937年の日支事変(日中戦争)にも出征しています。 1945年(昭和20年)6月に長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けます。 同年8月の原爆により被爆し大怪我を負い妻を失うも、被災者の救護活動に尽力しますが、自身も幾度か昏睡状態に陥ります。 そして1948年(昭和23年)に浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成し、 「己の如く人を愛せよ」の言葉から、「如己堂(にょこどう)」と名付けます。 以降、亡くなるまでの3年を、2人の子供と共にこの如己堂で過ごしました。 病床にありながらも十数冊もの著書を残しています。 1951年(昭和26年)5月1日に永眠しました。

如己堂の建つ場所は帳方屋敷の跡地でもあります。 徳川家康が禁教令を発布した当時、長崎には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいましたが、250年間潜伏しました。 その間、潜伏キリシタンの信仰組織がつくられ、指導者の頭を「帳方」と呼びました。 この組織をつくり、初代帳方を務めたのが孫右衛門で、以降その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵 (浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続きました。 永井隆博士の妻・緑さんは吉蔵の子孫に当たります。

 ▲ 写真左側の小さな木造の建物が如己堂



 ▲ こんな狭い部屋で病床で著書を残した
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長崎の鐘
この子を残して
 
如己堂 / 永井隆記念館 DATA
住所長崎県長崎市上野町22-6
電話番号
駐車場
公式HP
備考

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last visited : 2011/02/06

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