雑草鉄路
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

〜 雑 草 鉄 路 〜

鉄道旅行について筆者がとうとうと語る自己満足のコーナー


私と鉄道旅行との出会い

 それは、中学3年生の秋でした。
 正確にいえば、1981年10月10日 のことです。私は友達二人と共に、「赤字ローカル線乗りつぶし」という、 中三にしては余りにもシブすぎる日帰りの旅に出ていました。

 当時は国鉄が膨大な赤字対策のため、全国の赤字ローカル線を次々と廃止 する方針を打ち出したばかりでした。そこで我々は、廃止対象線区であった 高砂線、北条線、鍛冶屋線の3線を一日でまとめて走破する計画を打ち出した のです。3線いずれも兵庫県の中央部にあって、神戸に住んでいた我々からは ちょうど日帰りで乗って帰るのに手ごろな距離でした。

 といっても、当時の私は、鉄道旅行にさほど興味があるわけではありませんでした。 友達のうちの一人がたまたま鉄ちゃんだったため、このような計画につきあう 事になったのですが、私にしてみれば単に高校受験の息抜きが欲しかっただけで、 例えばそれがポートピアランドでも、甲子園での阪神戦でも、一日遊べる計画 であれば、恐らくどこでもつきあっていたことと思います。

高砂線の車内にて。筆者。
 とにかくそのようにして出かけることになった赤字ローカル線めぐりの 旅は、それなりに楽しいものでした。中三の頃だから、列車に乗って友達と 他愛のない話をくっちゃべっているだけで、遠足のようなわくわくした雰囲気に なってくるものでした。

 だから、もしその日の旅がそれだけで終わったとしても、まずまず楽しい思い出 として記憶に残すことができたでしょう。ただ「楽しい思い出」として、 私を鉄道旅行の趣味に誘うこともなく、その日は終わっていたことでしょう。 しかし、その日の旅は、それだけでは なかったのです。正確に言えば、すべての赤字3線を乗り終えて、「さあ、家 に帰るか。」といったその次から、私と鉄道旅行との出会いは待っていたのです。

 高砂線、北条線、鍛冶屋線の3線を乗りつぶした我々は、兵庫県の 真ん中付近にある、谷川という山あいの駅で、帰りの列車を待っていました。 そこから三田という駅まで福知山線の列車に乗って、三田で私鉄に乗り換えれば、 もう我々の住んでいる町でした。
 そのときのことを、当時中学生だった 私は、ノートにこう書き残しています。

 17時12分、周りが薄暗くなってきたころ、大阪行き724レは谷川駅に 入線してきた。
 僕はとにかく、機関車が客車を引っ張って走る、つまり 客車列車に乗るのはこれが初めてだった。幸とベン(一緒に行った友達のこと です)は、その客車列車の編成を見ると、迷わず一番前の車両に走っていった。 僕にはそのわけがさっぱり分からなかったが、とにかく二人の後について いった。
724レの車内
 デッキを上り、ドアをガラガラ・・・とあけ、次の瞬間、僕は 思わず「あっ!」と心の中で叫んでいた。そう、その客車の中が、あまりにも 『銀河鉄道999』の車内に似ていたからである。 そのドアを開ける時の「ガラガラ・・・」という音、木でふちどったクロスシートの座席、木の床、 蛍光灯ではない、丸っこい白熱灯・・・どれをとってもうりふたつだった。
 日暮れ時に乗り込んだこの列車が三田駅に向かって走っていくうちに、 外はどんどん暗くなってゆく、それにつれて車内はますます趣を増してゆく。 古い客車はやがて、その暗い電燈をつけて、夕闇をついて走り出した。僕は その時すでに、客車列車の魅力にとりつかれていた。
 幸が、「ちょっと車内を散歩して来ようか」と言い出した。
 そこで我々は、ローカル線ならではの光景に出会った。赤い顔をしてお酒を 口に運ぶオジさんたち、カメラを片手に、古い客車を隅々まで調べる鉄道 マニア、3,4人集まって井戸端会議をしているバアさんたち・・・。みんな 黙り込んでしまい、新聞や本を読んだり、居眠ってしまうような都会の電車 とは、大違いだ・・・。
 この日、帰った夜、僕はさっそく時刻表を片手に、国鉄乗りまわしのプラン を練り始めていた。

 私と鉄道旅行との出会いは、すなわち客車列車との出会いに他なりません でした。 〔注・「客車」とは?いちおうご説明すると、普段皆さんが乗っている のは「電車」。運転部と客席が一体となっている車両です。対して「客車」とは、機関車(電気で はしるかディーゼルか、はたまた蒸気…いわゆるSLであるか、を問わない)が、客席専用の車両を 引っ張って走るものを指します。電車に比べて、鉄道旅行の旅情は倍増。乗り心地の贅沢さを味わう ことができるのです。〕 中学生だった当時の私は、その車内を「999のようだ」と表現 しています。一般的な、鉄道マニアでない方々にその情景を分かって貰おう と思えば、そう説明するのが一番わかりやすいことでしょう。

 でも、 今にして思えば、客車列車に揺られるときの独特の雰囲気、旅情、魅力は、 やはりあのSF的なアニメの世界とは、少し違うようにも思います。あえて 言えば、むしろ橘 宣行がつくった彫刻「銀河鉄道タチバナ」のほうが近い ような気がします。(詳しくは
彫刻家・橘のページ をご覧ください。)先頭に「大阪」と行先表示板をつけた、何ともいえない 泥臭さを漂わせる、あの「銀河鉄道タチバナ」が醸し出す空気の方が・・・。

 古びた客車列車と運命的な出会いをした私は、その日を起点として、 旧型客車列車の魅力に取りつかれ、以来、幾度 となく鉄道旅行に出かけていくことになります。当時の記述にもあるように、 当日の夜にはもう、寝るのも忘れて時刻表で「次には、どこに行こうかなあ」 と、プランを練っていたくらいですから、その日の体験が、いかに衝撃的で あったかお分かりいただけると思います。

 そして私は自分が周ってきた 鉄道旅行の殆ど全てに おいて、驚くほど熱心に旅行記を残しているのです。高校・大学時代に 書いたものですから、今から読み返してみれば赤面するような拙稚な文章ばか りです。でも、当時の「情熱」だけは、とても今の私にはマネすることの出来ない ものです。

 この「雑草鉄路」のコーナーでは、私が重ねてきた鉄道旅行 の数々を、当時の旅行記と一緒に振り返っていきたいと思います。当時の つたない文章をできるだけ尊重して記載し、どうしても我慢できないこっ恥ずかしい 部分だけは修正を加えて、私が見てきた鉄道旅行の魅力をお伝えしていこうと 思います。

 まずは、1981年10月10日の高砂線、北条線、鍛冶屋線 の3線を手始めとして・・・。
加古川線系赤字ローカル線めぐり(1981年10月10日)

 上にも書いたとおり、この日は「加古川線系・赤字廃止ローカル線めぐり」が旅の主目的 だったんです。しかし、その後の福知山線での「旧型客車」の印象があまりに 強かったため、当時中三の私は、肝心のローカル3線については、実に簡単な 記述しか残していません。
 それでも、当時の旅行記をみると…

高砂線の終着駅・高砂
 高砂線は終始、田畑と家が交互に車窓に見え、のどかなローカル色を楽しませて くれたが、山陽新幹線の高架と、にぎやかな山陽電鉄の高砂駅と、人影まばらな 国鉄高砂駅のホームを見比べても、国鉄ばなれ、いやローカル線ばなれが うかがえる。
 北条線は、平地を走るローカル線だ。恐らくここら辺が 姫路平野の端っこにあたるのだろう。一面刈り取り前の水田でいっぱいだ。 稲穂が重そうに垂れ下がっている。終点北条駅では1時間あまりの余裕を 利用して駅前を散歩した。我々の町よりも静かだ。加えて高い建物がないため、 広々かつのびのびとした趣がある。
 粟生から鍛冶屋にかけても、見渡す限り田園風景であることはもちろんだが、 奥へ入っていくにつれ、山が高くなり、川幅が狭くなる。こういった風景の 変化を追っていくのも、なかなか面白い。西脇をすぎ、客がまばらになって きたところで、車掌さんが(ラジオを聞いていた)僕らに近づいてきて、「プロ野球、どないなっとる ?」 と、にこにこしながら聞いた。少なくとも、都会では見られないような ことだ。
 鍛冶屋駅は、全く山の中で、これで果たして、利用者などいる のだろうかと余計な心配をしてしまう。

 こうして赤字3線めぐりを終え、冒頭の「福知山・旧型客車」へと続いていく わけでした。
 この日乗った3線は、その後、まず高砂線が1984年11月 限りで廃止。北条線は第3セクター方式の「北条鉄道」として生まれ変わり、 今でも田園風景のなかゴトゴトとレールバスが走っているはずです。鍛冶屋線 も、JRに移行後まもなく廃止されてしまいました。中3の私は、鍛冶屋駅が 全くの山の中、と書いていますが、今思えば、全国にもっと淋しい終着駅は いくらでもあったように思います。そのうちのいくつかに、私も訪れたわけですが 、それはまた、いずれ記述することになるでしょう。

東京旅行へ続く



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