雑草鉄路
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

〜 雑 草 鉄 路 〜

鉄道旅行について筆者がとうとうと語る自己満足のコーナー


東京旅行(1982年3月24〜28日)

 前年の10月10日・加古川線系めぐりの日帰り旅行が盛り上がり、悪友の 幸とは当然、卒業後の春休みに鉄道旅行へ行くか!という話になりました。 しかしながら、今思えば、我々ふたりは最初から、鉄道に対する方向性が 違っていたんですね。旧型客車列車の旅に取りつかれた私が、古き良き時代の 色をふんだんに残している山陰への旅を 提案したのに対し、幸は東京への旅を主張。当時から、東京指向の強い奴だ ったからなあ…。で、結局、私が折れる形で、東京への旅行が決まったのですが、 お互い行く高校も違い、入学説明会などで日取りが合わず、往復の移動は 各自バラバラ、東京での現地集合・現地解散と相なったわけです。

鶴見線の超旧型電車。
 東京では、首都圏の国鉄線乗りつぶしをしたり、神田かいわいを徘徊したり、 原宿や代々木公園や皇居を散歩したりして過ごしました。この時に完乗した 国鉄線は、東金線、川越線、根岸線、久里浜線、青梅線、五日市線、横浜線、 鶴見線、そして山手線。都電にも乗車しました。…まあ、客車列車に思いが 残っていた私としては、「ただ、完乗しました。」ってだけで、特に 感慨めいたものはなかったですね。青梅線の渓谷美や、鶴見線の超旧型電車 のチョン行や、のどかな都電の旅くらいですか、印象に残っているのは。

 むしろ往路に乗車した、大垣発東京行きの鈍行夜行電車、340Mのほうが 深く思い出に残っています。私にとっては初の夜行列車への乗車、それもひとりで。しかも事前 に家族から、スリには気をつけろ、人を見たら泥棒と思え、盗られないように 荷物は抱えて眠れ、などとさんざん吹き込まれていたため、少なからず緊張 しての乗車だったんです、この時は。しかし、その時一緒になったのは、神戸 の高校生5人組でした。彼らは同乗した私に気さくに話しかけ、初夜の緊張を 少しずつほどいていってくれました。当時丸坊主だった私を見て、「みちのく カットやな。」と笑っていました。(みちのくカットとは?もちろん、当時 ヒットした“みちのくひとり旅”を歌った山本譲二の髪型をもじってのものです。)
 彼らとの一夜は、私にとっては忘れられない楽しい 思い出です。その時の様子を、16歳の私は旅行記にこう残しています。

 底抜けに明るいその兄ちゃんたちとは、同じ神戸から来たということもあって、 一層楽しく話が弾んだ。それは僕が時の経つのも忘れて話をした、生まれて 初めてのことと言ってもよかった。静岡あたりだったかなあ、本当に何もかも 忘れて話ができたのは…。沼津駅で、高校生のうちの一人が、財布を便所で 拾った。「小さな親切、大きな下心」などと笑いながら落とし主を探しに車内を 歩き回った優しさが、二度と忘れられない。横浜でみんなが降りてしまった 後、車内は灯が消えたようだった。あんまり寂しくなってしまったので、眼を つぶっていたが、眠れなかった。

 夜行列車って、いいものだな…。当時の私は、つくづくそう感じたものです。 4泊5日の旅で最も印象に残ったのが、皮肉にも出だしの往路の夜行列車 だったのです。以来、数えきれないほど沢山の夜行列車に乗ってきましたが、 この日の思い出を超えるような夜は、いままで現れていません。…いや、もう 二度と味わうことはできないでしょう。それは、15歳の多感な時代であるが ゆえの、貴重な体験だったのですから。
 こうして東京旅行は無事終わり、私が山陰地方への旅を果たすのは、この 年の夏休みのことになります。
鳥取旅行(1982年7月30〜31日)

 この時の旅行は、いささか急な旅でした。急に思いつき、急に旅だっていった 、そんな感じでした。旅を思いついたのは1週間くらい前のこと。突然、 幸が家にやってきて、その場で思い立って時刻表を繰り、旅程を立てました。 それから2、3日たって、幸のやつが「金が無いから行かれない」などと 言ってきたのです。まことに慌ただしい旅の前。しかし、それでも一人で 予定どおり旅立って行ったのは、この頃の私の鉄道旅行に対する思い入れが いかに深かったか、ということでありましょう。7月30日、なんとか 予定どおりに旅だったわけです。

鳥取旅行へ続く



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