雑草鉄路
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〜 雑 草 鉄 路 〜


鳥取旅行(1982年7月30〜31日) 文章は1982年作品



●夜行鈍行「山陰」

 旅の始まりは、和田岬駅。和田岬線(正確には山陽本線の一部)の最終、 20時23分発の客車に乗り込んだ。1泊2日の小さな旅だが、胸は ときめく。僕の乗った車両、オハフ641が最後部だ。ここから展望車のように、 後ろが丸見えだ。客車だけの特権。車内を見ると、座席は実に少ない。ちらりと、 お情け程度についているだけ。しかし、乗客は多い。三菱の通勤者だろう。
 快速電車で京都まで。京都着は21時50分だった。ここから、22時6分発の 夜行鈍行「山陰」に乗り込むのだ。ようやく、旅情めいたものがわいてくる。 家に電話をかけ、さあいよいよ乗るぞ…と思った、その瞬間だった。
 何と、「山陰」号は満員になっていたのだ。これは痛い失策だった。夏休みで あることを、すっかり忘れていた。というよりは、普段ガラガラだ何だと 伝えられている夜行鈍行列車が、まさか座れなくなるほどいっぱいになるとは、 正直思ってもみなかった。
 仕方ない、と思って、僕は客車のデッキに立った。こんなに混んでいるのは、 京都からの通勤客のためかもしれない。亀岡や園部、その辺でたくさん降りてくれれば、 ひょっとしたら座れるかもしれない、それにかけよう。

 22時6分、定刻通り京都を出発。闇の中を列車は走る。デッキに立つ僕に、 夏の夜風が吹きつける。鳴り響くレールの音、薄暗い客車のシルエット。
 客車のダイゴ味を味わううちに、汽車は保津川 沿いに。冷たい風が気持ちいい。幾つも続くトンネル。そうする内に、列車が 山中に入ったのを感じた。
 予定より少し遅れて、「山陰」は亀岡に着いた。通勤帰りらしき人がいっぱい降りた。 しめた、チャンスだ!僕はドアを開けて座席を探した。すぐ前に、少し老けたおじさん の横が空いていた。すいません、と言って隣に座った。これで何とか眠れそうだ。 車両はスハ42−57。
 横にいたおじさんは、気のいい人だった。僕も気軽に話ができた。これから鳥取県を 一人で回るのだ、と言ったら驚いていた。前に座っている中年女性2人も同行者らしく、 しきりに感心していた。3人は三重県から出雲へ行くところだった。三重県特産らしき お菓子をもらった。豆をきな粉とメリケン粉でおおったもので、割合うまかった。
 しばらくして、(酒も入ったので)眠気を覚え、ヒジ掛けに前のめりになって仮眠する ことにした。しかし、おじさんがすっかり酔っ払ってしまい、僕にしがみついてくるの には閉口した。朝になった時には、地べたに寝転がってしまっていた。
 倉吉に、予定通り5時47分到着。おじさん達に別れを告げて「山陰」とお別れ。
 降りてから、今回も旅で出会う人に恵まれたな、と僕は思った。春の東京旅行での 往路の夜行でも、愉快な高校生5人組と楽しく過ごせたし、今回もいいおじさんに 出会えた。こうして考えてみると、案外、汽車旅というのは夜のほうが楽しいのかも 知れない。


●超ローカル線・倉吉線に乗車

 倉吉から、山守への倉吉線のDC(ディーゼルカー)に乗り込む。廃止になるの、 ならないのと騒がれている線区にしては立派な車両で、冷房車だった。急行車両の 格下げなのだろう、車両はキハ65 501。
 6時16分、倉吉を発車。窓を目いっぱい開けて、山陰の早朝の風にあたる。外には これでも倉吉市の中心部かと思うほどの、のどかな田園風景。薄い朝日の光。まさに ローカル線の風景そのものであった。しばらくの間、街並みを走る線区ばかり乗っていた ので、こういう風景を見ると本当に「ああ、旅だなあー」と思う。

倉吉線の終着駅、山守。
 6時55分、汽車は山守駅に到着。この山守駅、僕の想像以上に寂しい駅だった。 ローカル線の風情といったものを通り越していた、としか言いようのない程、「ボロボロ」 というか「田舎」というか、表現に実に困るのだが、何もないという形容がぴったりで、 神戸電鉄の菊水山駅のほうがまだ立派だ。待合室はほったて小屋かあるいは物置きのような 感じで、ホームも草ボウボウで、土手とでも言った方がぴったりである。ホームが短いので、3両編成の 3両目ははみ出してしまっている。そういえば、一つ手前の泰久寺という駅も負けず劣らずで、 「さすが山陰の過疎地域」と思ってしまった。駅の辺りを見回しても民家はまばらで、これで 乗る人はいるのだろうか、と思っていたが、折り返しの倉吉行きには、意外にたくさんの 人が乗っていた。といっても、座席は2割程度しか埋まってないけど。
 発車前に車内補充券を入場券代わりに買う。車補券には、倉吉を中心として、山陰地方の 様々な駅が書かれており、考えようによっては入場券よりも面白いかもしれない。

 7時4分、山守を発車。キハ28 2466の車内は、駅を過ぎるごとに1人、また1人と 乗客が増えていく。大きな荷物を持った行商のばあさん、セーラー服の女の子、通勤客らしき おじさん、団体のおばさんたち…。
 7時40分、倉吉着。時間が時間なので、そろそろ腹がへってきた。そこでキヨスクへ行って 弁当を買おうと思ったが、なんと、駅弁はまだ届いていない、とのこと。キヨスクのとなりに 駅そば屋があったが、こんな所で食っていたのでは次に乗車予定の鳥取行きに間に合わない。 駅の辺りには、食い物を売っていそうな店はなかった(筆者注・昭和57年当時、コンビニ などという便利な店はあろう筈もなかった)。駅構内では、キヨスクはこの店だけ。
 八方ふさがりだ。僕はあきらめて、すでに入線している鳥取行きの客車鈍行に乗った。鳥取に 着くには9時前だ。こりゃあ、腹減るなあ。
 7時53分、520列車は発車。ここでも、窓をめいっぱい開けて風を入れる。冷房車よりも、 この方が涼しい感じがして、僕は好きだ。車両はオハ47 2028。
 のどかな山村と、いくつものトンネル、田舎の駅、すれ違う列車、それらを繰り返すうちに、 列車は鳥取へ着いた。「山陰」に乗っている時は寝かかっていたので気づかなかったが、 この鳥取駅は高架駅だ。
 とにかく、腹が減ったのを通り越して腹痛がしてきたぐらいなので、駅弁を食べることにした。 鳥取名物「かにずし」は昼のお楽しみとして、500円也の幕の内を食べた。味・内容は、 中の下といったところ。


●ローカル線・若桜線に乗車

 数十分の余裕があったので、駅前付近を散歩したあと、若桜行きの待つ4番ホームへ。赤い DC(ディーゼルカー)が2両、中には乗客はわりと多く(といっても楽に座れるけど)、 活気があふれている。車両はキハ47 1040。
 9時58分、鳥取を発車。汽車は鳥取市街を貫いた後、すぐに田んぼの中に出た。例によって 平地に田んぼ、そしてワラぶきの家、その向こうに山が連なる、といった風景だ。でも、倉吉 線よりも心持ち広々とした感じだろうか。 郡家(こおげ)を過ぎると、その平地がせばまり、風景は山の中に移っていく。隼(はやぶさ) などといった駅を次々と過ぎ、若桜に入るころには、周囲の山はかなり高くなっていた。この 若桜のすぐ向こうは、兵庫県で一番高い山、氷ノ山だ。
若桜線の車内にて。
 また余談になるが、この若桜行きの前の車両の前部には、「荷物室」と書いた布を張って、 その向こうには数個の荷物が置いてあった。駅に着くたびに荷物を出したり入れたり、どんな 荷物なのか分からなかったが、全くローカル線らしい光景だ。記念に写真をパチリ。

 終着若桜駅ではわずか5分の滞在で、すぐに鳥取へ折り返し。大急ぎで写真を撮り、入場券を 買い、スタンプを押した。そして考えたが、この若桜から鳥取までは50分ちょっとで行ける のだ。こんな所で住めたら、のんびりできるだろうなあ…。2時間もかけて大都市の会社へ行く よりも、鳥取のローカル会社でのんびり勤めるような暮らしのほうが、僕みたいな人間には 合っているのではないだろうか、と。
 5分が経ち、すぐに列車は発車。上りは、下りよりも乗客が多く、僕もやっと座れた感じ だった。本当に、こんな所が廃止されるんだろうか?レールのすぐ横に、路線バスが並行して、 まるで競争でもしているかのように走っていた。
 11時46分に、鳥取に着いた。


●鳥取砂丘に寄り道

 予定では、次の12時44分発の特急「まつかぜ2号」に乗る予定。つまり、1時間近くの 時間があるのだ。ここは鳥取、鳥取といえば砂丘。ここまで来て砂丘を見ずに帰るのでは、 鳥取に来た意味がない。よし、ここは砂丘を見に行こう。
 というわけで、砂丘行きのバスに乗り込む。時刻を見ると、砂丘にいる時間はほんのわずか。 しかしまあ、見ないよりはマシというものだ。
 しかしここでハプニング。バスの行く道は信号、また信号で渋滞だ。僕もだんだんイライラ してくる。「まつかぜ2号」に乗らないとこの先、播但線の支線、飾磨港行きに乗れなくなって しまうからだ。しかしなかなか前へ進まない。結局、砂丘に着いた時には、予定より10分も 遅れてしまった。これでは砂丘を見てたら「まつかぜ」には間に合わない。
 そこで時刻表を見る。14時58分発の特急「あさしお6号」がある。2時間半もの時間が ある。どうせなら、2時間半もの間、思いきりここで楽しもうではないか、と半分ヤケに なる。それにしても、俺の旅はまったく、予定通りにいったことがない。

 バスセンターから砂丘までに、リフトがあったので、それを使って降りることにする。リフト などというやつに乗るのは初めてだ。なかなか気分がいい。
 砂丘に降りた時は感激した。とにかく、広かった、というのが第1印象。砂はさらさらで、 台風でも来たら流されてしまうのではないか、などと感じた。前に、大きな山(これも全部 砂の山だ)があった。高さ50〜80メートルはあるだろうか。上へ登ったら周りが見渡せる のではないかと思い、登ってみることにした。しかしこの山を登るのは、かなりしんどかった。 なにせ砂地なので、いくら足の回転を速くしても、空回りでさっぱり前へ進まない。へとへとになって 、ようやく頂上へ。疲れさせた分、眺めは絶景だ。東西南北、どこを向いても、文字にも書けない 美しさ。特に北側の海はすばらしい。
 そこで、山を降りて海岸に出た。海は、須磨や淡路なんかとは比べものにならないほどきれいだ。 なにより感心したのは、ゴミが全く見当たらないことだ。そういえば、砂丘にも、ゴミらしきものは なかった。海の水は温かくて、海水浴にはもってこいだ。子供たちがたくさん、海で遊んでいた。
 砂丘をたっぷり満喫したあと、リフトで上って、売店でみやげ物を買い、バスで鳥取駅へ。


●乗り遅れたはずの「まつかぜ2号」に乗車

 鳥取駅のコンコースで梨を買い、「あさしお6号」に乗るつもりで自由席特急券を買った。そうして ホームに上ると、駅員の放送。
「特急まつかぜ2号は、車両故障のため、約2時間遅れて走っております。恐れ入りますが、しばらく お待ち下さい。当駅には14時45分到着の予定です…」といったことを、ひっきりなしに放送している。
 なるほど、まつかぜ2号は2時間遅れか。つまり、砂丘でのんびりして来て、結果的には良かった わけだ。もし予定通りにまつかぜ2号を待っていたら、大あわてのところだった。 本当、何が幸いするかわからない。
 「あさしお6号」も「まつかぜ2号」も、今日だけは時間的に大差ないのだが、まつかぜの方が なんとなく好きだったので、まつかぜに乗ることにした。待つ間に、鳥取名物の駅弁「かにずし」を 食う。うまい。

 14時50分に、「まつかぜ2号」入線。かなり遅れている、というので、さぞかし満員になっている だろう、と思っていたが、なんと、中はガラガラ。意外な心持ちで6号車に入ると、1人もいない。 キハ181−31には、僕一人だ。
 14時50分、鳥取を発車。そこで車内を歩いてみると、どこまでいってもガラガラだ。僕を含めて、 乗客は5人しかいない。こんに少ないんならば、あさしおにでも移して走行中止にでのすれば赤字も やわらぐだろうに。
 まつかぜ2号は、2時間少々の遅れを保ったまま豊岡へ。単線区間なので、 あまり遅れを取り戻せない。
 豊岡で下車、「まつかぜ2号」に別れを告げた。


●播但線経由、臨時急行「但馬ビーチ」

 豊岡は、僕もわりと気に入った駅だ。感じが福知山線の谷川駅と似ている。こういう駅のはずれを 歩くのも、僕は好きだ。大きい駅でもなく、小さな駅でもなく、そういう駅のホームを端まで歩く と、鉄道旅行の良さを味わうことができる。それが夕方の西日がさすような時なら、なおさらだ。
 十数分待って、臨時急行「但馬ビーチ4号」に乗り込む。「飾磨港線」に行けなくなった以上、 姫路で降りる必要もないので、神戸までこの列車で帰れるのだ。そう思ったら、やけに眠くなった。 だから播但線を走っているころには居眠りをしていたので、印象なし。
 姫路を過ぎれば、もうおなじみの快速や新快速、国電などが顔を表し、窓の外も都会の街並みに 変わって行く。
 周遊券を戴くために、明石で「但馬ビーチ」を降りて、山陽電車で帰った。

 こうして、僕の鳥取旅行は幕を閉じた。このたびで新たに乗りつぶした国鉄線区は約390キロ。 こうやって、少しずつ僕は国鉄を「征服」していく。いつ、完全に征服できるのか、また、果たして 生きているうちに征服できるのかどうかも分からないけれど、僕はこれからも鉄道を旅していくだろう。

(完)
急行「能登」乗車旅行(1982年11月6〜7日)

 1982年11月号の大改正時刻表を見て、いささか驚いたのは、改正を最後に客車グリーン車が 全廃してしまうことでした。〔注・「客車」とは?いちおうご説明すると、普段皆さんが乗っている のは「電車」。運転部と客席が一体となっている車両です。対して「客車」とは、機関車(電気で はしるかディーゼルか、はたまた蒸気…いわゆるSLであるか、を問わない)が、客席専用の車両を 引っ張って走るものを指します。電車に比べて、鉄道旅行の旅情は倍増。乗り心地の贅沢さを味わう ことができるのです。〕
 グリーン車など、一貧乏学生の私には全く無関係な世界ではありましたが、そこは私も鉄道ファンの はしくれ。国鉄の風情ある列車が消えて行くのは寂しいことだと感じました。
 その存在が、私の脳みその中でクローズアップされたのは、同年の鉄道ジャーナル7月号の誌面 でした。そこには急行「越前」ルポが書かれてありました。それを本屋で読みふけっているうちに 出くわしたのが、『くたびれたグリーン車』と書かれた写真でした。それが白黒の写真だったもの ですから、余計に何か古めかしく見えて、妙に私の心を引きつけました。客車大好き少年だった 私は、それに乗ってみたいもんだな、と思ったのでした。


急行「能登」乗車旅行へ続く

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