雑草鉄路
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〜 雑 草 鉄 路 〜


急行「能登」乗車旅行(1982年11月6〜7日) 文章は1982年作品



●「能登」乗車計画

 飯野(筆者注・高校時代の友人)が急行「能登」へ乗りに行く計画を持ち出したのは、10月も 下旬に入ったころだった。飯野とは、これまでもディーゼル時代の特急「やくも」へ乗りに行く 計画や東北へ足を伸ばす計画を立てたりしていたのだが、いずれも僕の都合(部活)がつかなくて お流れになっていたのだ。今回は、丁度僕も客車グリーンに興味を感じていたので、部活をさぼって でも行く気になっていた。
 だが、二人が行く気になっても、今度は日程のほうが問題になってきた。何しろダイヤ改正の11月 14日までに乗らなければ、客車グリーンは無くなってしまうのだ。11月13日だと、鉄道マニア で満員になるのは分かりきっている。10月中は僕ら自身、試験の真っ最中で、それどころではないのだ。
 結局、行くチャンスは11月6日しかなかった。しかしまだ問題がもう一つ残っていた。それは、 僕の部活だった。普通の練習日ならさぼってもたいして影響ないが、試合ともなると、そうはいかない。 だから部活次第でこの旅行の運命が決まってしまうところだったが、その試合日も11月21日と 決まり、安心して旅行に行けることになった。

 6日前の10月31日に、「能登」のグリーン券を買いに、神戸駅のみどりの窓口へ飯野と行った。 ダイヤ改正が近づいているので、係員のおじさんも戸惑ったのだろう、急行券を特急券として しまっていた。当然、僕らは訂正してもらった。
「もう発売してから24日もたつのに“3A”と“3B”やって。能登のグリーンって、ひょっと してガラガラとちゃうか」
飯野が言った。1Aから順にマルスが売り出して行くとしたら、僕らは9人目と10人目のお客、 ということになるのだ。確かに売れ行きは悪い。もっとも、売れないからこそ廃止になるのだろうが …。
 今回のダイヤ改正では、特急と急行の設備にかなり差をつけた ようだ。「十和田」では寝台を廃止して座席車の方のみを残したし、「能登」は所要時間を長く させた上にグリーン車とA寝台を廃止だ。急行の自由席が増えて、マニアとしては喜ばしいが、こんな やり方は急行列車のお客をなくしているようなものだ。将来、国鉄は特急と快速と普通だけになって しまうのかもしれない。
 旅行へ行く前日の11月5日に、今度は乗車券を買った。『神戸市内から京都市内ゆき東海陸、高田 上尾東北東海経由 8日有効』という変な切符になってしまった。京都市内で途中下車禁止、とは どこにも書いていないので、これは切符がいただけるかもしれない、と顔がほころびてくる。しかし、 この切符だと、同じコースをぐるぐる回ってもバレないのではないかと疑問に思った。


●特急「雷鳥」で金沢へ

 「旅は神戸駅から」。これは、僕にとって一つの合言葉だ。去年加古川線めぐりをして以来、僕は 何度となく旅に出た。東京、120円旅行、鳥取、そして今回の「能登」と、全て神戸駅から旅が 始まっているのだ。
 神戸駅には、何となく旅情を感じるおもむきがある(筆者注・これは、昭和57年当時の記述である)。 僕は神戸駅に行くとき、必ず地下道を通ってくるのだが、その地下道からエスカレーターに乗って 地上へせり上がるときに徐々に見えてくる大きく薄暗い駅の構内は、僕を旅の世界へひきずり込んで いくような不思議な魅力がある。その原因はというと、適当に古ぼけた、その時代遅れといってもいい、 どっしりとした感じからくるものに違いない。言ってみれば、国鉄らしさが神戸駅にはある。そう いえば、「能登」のグリーンにも同じ事が言えるかもしれない。

 その神戸駅から快速で大阪へ向かう。阪神間の街並みは既に日が暮れていて、窓の外は空に輝く 星と街の灯り−。ラッシュ時なのに空席の目立つ快速電車は、僕の日常生活と旅の世界との媒介人 だ。
 大阪駅を降りて特急券を買い、18時5分発の特急「雷鳥29号」へ乗るべく11番ホーム へ向かった。3両しかない自由席は賑わっていて、僕は通路側の席へやっとの思いで座ることが できた。乗客はみな、背広を着た出張者らしき人ばかりで、「ビジネス特急」の名のとおり、僕の ようなマニアにはいっこうにお目にかかれない。
 18時5分、定刻に大阪駅を発車。車掌さんも「雷鳥29号は定刻18時5分に発車しました。 それでは…」と、旅の世界へと引き込んでくれる。
 京都を過ぎたあたりから徐々に腹が減ってきたが、車内販売は一向に来ない。本当は食堂車へ 夕食を取りに行くつもりだったのだが、立ち客がいっぱいいたので、食堂車へ行っている間に 座席を取られてしまう。だから車販の弁当を食べようと思っていたのに、それがなかなか来てくれない。
 結局、湖西線を大分奥に入ったころに車販は来た。弁当がなかったので、サンドイッチと ジュースを買った。500円札で充分だろうと思っていたが、「すみません、合計760円なんです けど…」何と、こんな小さいサンドイッチが、560円。缶ジュースは200円もするシロモノ だったのだ。ああ…こんなことなら大阪駅で弁当を買っておけばよかった…という後悔に襲われ つつサンドイッチをほおばった。
 敦賀の二つ手前で、直流電源と交流電源とを交替するために、ふっと灯りが消える。マニアの僕は 興味深々でその場を見つめていたが、他の旅慣れたおじさんたちは平然そのもの。
 敦賀、福井と夜の越前を走り抜けて行くうちに、徐々にお客さんが減って行く。一足先に 急行「ゆのくに」で金沢へ向かった飯野も、もう金沢へ着いている。そして僕も、たいして面白く ない特急列車の旅を終えて、そろそろ金沢へ着こうとしていた。

●急行「能登」 最初で最後の客車グリーン

 「雷鳥29号」は10分ほど遅れて金沢へ着いた。ホームへ降りて階段を降り、通路を走って ホームへ上がると…急行「能登」と飯野が待っていた。おお…「能登」、そしてその車両の中に 一つ、グリーン車があった。外側は客車独特の濃い青色で他の車両と変わりはないが、中は木目調 で、風格とも老年ともとれる雰囲気であった。ただ、僕が想像していたよりはるかに中は明るかった。
 飯野は、「ゆのくに」の車内で高2のマニアと知り合いになったらしい。その彼はここ金沢に 留まって、翌朝の下り急行「越前」で福井へ帰るらしい。「明日の朝って、そしたらあの人、ここで 駅ネ?」と飯野に聞くと、まあ、そういうことになるなあ、と言った。マニアもなかなか大変だ。 「あの人の友達が、津幡から“能登”に乗ってくるらしいで」と飯野は言った。 もうすぐ廃止される急行たち、それらにマニアが一人また一人と集まってくる息吹きを、ひしひしと 感じる。「雷鳥」のような黒字列車にはない、暖かみを感じる。

 接続するはずの特急「しらさぎ」がまだ遅れて、到着してこないので「能登」も5,6分遅れて 発車すると車内放送が伝えた。といっても残り時間が少ないので、写真を急いでパチリ。そして 夜食用にジュースと、パンを買い、慌てて車内に飛び込むと、間もなく「能登」は発車した。
 「能登」のグリーン車は、見事にガラガラ。僕らのほかに、小学5、6年くらいのマニアらしき 少年が2人と、中年のオッサンと、計5人しかいない。あらかじめ予測はついていたことだが、 こうガラガラだと、何かみじめったらしさを感じる。
「おい、暑くないか」飯野が言った。僕は少し冷えたジュースを飲んでいたので、そうも感じなかったが、 確かに暖房は効きすぎていて、座席の横が熱くなっている。「窓を開けようや」飯野が言う。そう いえば、この客車グリーンは窓が開くのだ。
 窓を目いっぱい開くと、11月の北陸にしてはさわやかな風がふいて来る。僕は顔を乗り出して みた。風がまともに僕の顔を叩きつける。時速70〜80キロは出ているだろうか。“急行”の もたらす風は福知山線や山陰線の鈍行客車のそれとは違うものがある。
 車掌さんが、「そろそろトンネルが来るから、窓を閉めたほうがいいよ」と言ってきた。僕らは 窓を閉めようと思ったが、これが閉まらない。普段、窓を開けることなどないので、たてつけが 極端に悪くなっているのだ。いくら力を入れても、この古い窓はびくともしない。そうする うちに、列車はトンネルに突っ込んでしまった。トンネル内のあの独特の匂いが入ってくる。 僕らは車掌さんに手伝ってもらって、ようやく閉めることが出来た。もしこれがSLの引く ような時代だったら、そこらじゅう真っ黒けで、大変な所だったな、と苦笑した。
 そんなひと騒ぎのあと、列車は津幡に着いた。飯野が知り合った人の友達が入ってきた。丸坊主で まゆ毛が濃いが、優しそうな顔をしていた。
「へえっ、君らグリーン車に乗ってるのか。 うらやましいな」
「そっちは自由席なんか?」飯野が聞いた。「いや、指定席だ。ほら」 とそのキップを見せた。津幡から長岡。硬券だ。「ええなあ、硬券か。俺らなんか、マルスで 買うたから、軟券や」「それでも、グリーン車だから、ええじゃないか。それじゃ」と、自分の 座席に戻ろうとした。「おっと、カセット、カセット」と、飯野の持っていたカセットをもらって 去って行った。
「なんや、あのカセット、お前のとちゃうかったんかいな」と僕は飯野に 言った。飯野は「何言うとんねん、あれはあの人のや」と言った。なに…あれには、僕ら二人の、 発車してからのおしゃべりをみんな録音していたのだ。僕は、飯野のものだとばかり思っていた ので、かなり恥ずかしいことをおくめんもなくしゃべっていたのだ。ああ…赤面。
 彼は、秋田・男鹿ミニ周遊券を持っていた。それに加えて、長岡までの指定券を持っていた から、恐らく長岡で急行「鳥海」に乗り換えて、そのまま秋田まで行くのだろう。そうこう するうち、車内は減光。一層、客車旅情は増していく。
 僕らは座席をリクライニングさせて座って、いや寝そべっていた。なかなか寝心地はよい。 しかしリクライニングさせると、窓の外が見えなくなってしまうのは残念だ。真夜中といっても、 窓の外を眺めるのは楽しいものなのに。

 うつらうつらしては、ガクッと揺れる衝撃に目が醒め、またうつらうつらして…それを何度か 繰り返すうち、「能登」号はほどなく長岡に着いた。長岡で15分停車するので、その間に 能登の外観や、上り下りともに休んでいる急行「鳥海」号を撮るのだ。
急行「能登」の勇姿。
 外へ出てみると、僕らの「能登」の向こう側に、やはり同じような客車列車が2編成、 停まっていた。まぎれもない、急行「鳥海」号だ。早速陸橋を渡って鳥海のいるホームへと 降りた。
 そこには、無人のホームに古ぼけた客車列車が、駅のプラットホームの薄暗い 明かりを受けて静かに休憩を取っていた。その車両は、「急行」であるにもかかわらず、そんじょそこらの 鈍行列車と何ら変わりばえしないものだった。言いかえれば、普通列車に使う車両を、 そっくりそのまま急行として使っているようなものだった。鈍行列車と違うところは、幾らか 並べられた寝台車が、すでに深い寝息をたてているくらいだ。
 僕はこれまで、何度か夜行列車に乗り、様々な駅で降り立ってみたが、真夜中の駅というのは、 いつ降りてもいいものだ。言葉や文章では言い表せない、独特の雰囲気がある。ふと上を見る と、上越新幹線のホームが浮かんでいる。
 「鳥海」と「能登」をそれぞれ写真に収め、我らが「能登」に戻った。夜のひとときを充分 満喫させてくれた長岡駅を、やがて発車した。夜の車窓に、駅の薄暗い、白と黄色の灯りが 流れ、列車はまた闇の中に入った。

 ここからはしばらくノンストップ、その間、夜の上越線の、過ぎゆく駅々と列車の光でわずかに 見える風景を、座席から、デッキから眺めた。飯野も一緒だった。言葉はなかった。夜の 夜行列車の旅を味わうのに、言葉はいらなかったのだ。
「車掌さんの話でも聞くか」飯野が言い出した。
「いや、ええやないか」
そう言って僕はまた座席に戻った。あと数時間で永久に乗れなくなってしまう客車グリーン、 車掌さんと話すよりも、こうやって、目と耳と、列車の響きと−過ぎゆく時と、流れる駅の ライトと、他のお客さんと……この感動とで、黙って客車グリーンを祝福してあげたかった のだ。
 次の停車駅、水上に着くまでに僕はいつしか眠りについていた。客車グリーン… こんなに優しく、こんなに暖かく僕を眠らせてくれた列車が、他にあっただろうか。 青い夜の流星は、たくましく、かつ優しく…もうすぐ開業する上越新幹線の下を交差しつつ、 上野へ向かっていた。
 ふと僕は目覚めた。もうほのかに、外は明るくなっていた。 こみあげる満足感を抑えることができなかった。窓の景色を眺めることしかしなかった。
 やがて「能登」は終着・上野へ着いた。寂しくはなかった。こうして9時間余、僕は最初で 最後の客車グリーンの旅を終えた。いや、終わりではない、この思い出は、いつまでも、いつまでも −他の旅の思い出と一緒に−僕の胸に残るに違いない。

 その日僕らは、上野駅で、もうすぐ消える列車たちの撮影に没頭した。

(完)



九州旅行へ続く


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