雑草鉄路
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〜 雑 草 鉄 路 〜


九州旅行(1983年8月11〜14日)その1 文章は1983年作品



●旅立ち

 8月11日の朝9時過ぎに、僕と香川は神戸駅に着いた。『みどりの窓口』へ行って九州ワイド 周遊券を買うと、嫌でも期待に胸はときめく。今日から3泊4日の九州旅行。今から既に心は 九州へ飛んでいる。
 九州ワイド周遊券にパンチを入れてもらって神戸駅構内に上がっていくと、時計はまだ9時過ぎを 指していた。次に来る列車を知らせる表示幕には、「みささ・みまさか1号」と記されてあった。
 周遊券なので、僕らは特権を駆使して自由席に乗り込んだ。汽車旅にふさわしい、ディーゼルカーの 匂いの中での旅立ちとなった。


●山陽路のローカル線

 急行「みまさか1号」の増結1号車の中で、友人たちの話題を香川と語り合っていると、あっという 間に姫路に着いてしまった。姫路で50分近くもの余裕があったので、駅前をぶらぶら散歩。
 姫路駅に戻って、10時53分発の赤穂線回りの岡山行きに乗り込む。ここからは、僕も未乗地域で、 新幹線の車窓でしか僕は山陽路を知らないのだ。
 定刻通り姫路を出た231M列車は満員だ。盆だからだろうか、それとも休日はいつもこんな具合 なのだろうか。窓側の席を確保した僕らは思索にふけった。とにかくこの列車は赤字地方交通線 を走っていくのだ。
 相生を出ると赤穂線はトンネルまたトンネルだ。播州赤穂を出てもその傾向は変わらず、時刻表の 地図を見る限りはいかにも海沿いを走っていそうだが、海などはちらりちらりと、たまにしか 見えない。
 西片上付近で片上鉄道と立体交差してからは、徐々に風景が広がってきて、香登を 過ぎると、完全に岡山平野に入ったのが分かった。香川は「のどかの一語に尽きるなあ」と言った。 確かに平野の農村部というのは見ていてすがすがしい。僕はこんな風景を追って鉄道に のめり込んできたのかも知れない。そう言えばいつしか乗客もまばらになったようだ。
 岡山に12時47分着。やはり満員の451Mに乗り換え、2分後に発車。糸崎で、接続している 343Mに乗り換え、三原に着いたのが14時25分だ。
 三原で、呉線経由の広島行き937Mに乗りかえると車内はガラガラで、ようやくひなびた雰囲気が 出てきた。
 呉線は最初の4〜5駅間が風景のハイライトだ。三原を出た113系電車は山腹を えぐるように左へ左へとカーブする。最初の駅、須波を過ぎてしばらくすると海へ出て、今度は 一転、右へ曲がる。線路のすぐ前にまで海が押し寄せ、彼方には因島がぼやっとかすんで見える。 香川がここぞと瀬戸内の風景を写真に収めていた。
 広島を出て、通勤客で混み合う中を岩国へ、ここから岩徳線に乗る。
 岩徳線はいい風景であった。 山の中を、まばらな集落と田んぼのじゅうたんの中、突き抜けていく。香川は「日本も、街を一歩 出たらどこでも似たような風景やなあ」などと言っていたが、僕はそうは思わない。ローカル線 でも、線区ごとにやはり、微妙に風景は違う。線路沿いの風景も、僕は一線一線、よく覚えて いる。レッド・トレインをDD13が牽く岩徳線は、更に風情も増していた。
 徳山へ着き、「えびちらし寿し」なる駅弁を買い、新型車両115系の中で香川と食べた。徳山 発は19時19分、周りは暗くなってきていた。
 こうして、山陽本線の在来線を3回も回り道して、13時間近くもかけて、ようやく門司に 着いたのが22時01分だった。山陽路のバイパス3線はどれも風景が良かったが、あえて順位を つけるとすれば呉、岩徳、赤穂ということになるか。


●「ながさき」1421レ

 門司から鹿児島本線の起点である門司港駅へ入り込む。ここから佐世保行きの夜行鈍行「ながさき」 に乗るのだ。
 22時16分に門司港へ着くと、「ながさき」は既に入線していた。雑形客車で 中にはチョコレート車両(僕の一番好きなやつ)も連結されていたが、佐世保行きは2両しか なかった。といっても、充分に座れるほどすいてはいたが。
 まだ時間があったので、門司港駅 の外に出てみた。この駅の駅舎がとても立派な造りで、一見の価値があると常々聞いていたが、 暗闇で全貌はつかめなかった。入場券も軟券しかないので買わなかった。
 22時40分、列車は静かに動き出した。客車の走り出しの良さは、いきなりスピードを上げて しまう電車列車とは比べものにならない。
 8分経って、門司に到着。この「ながさき」は 、門司で13分、小倉でも15分停車し、11キロ走るのに42分もかかる。小倉あたりから 列車は通勤帰りの客が多くなり、戸畑、八幡でも客を拾って折尾付近で車内は満員になって しまった。二人で1ボックスを占領していた僕らも、1ボックス4人を余儀なくされた。列車は どこまでいっても乗客の減る気配はなく、僕らもやっと1ボックスを2人で使えるようになった 位で、どうやら眠れそうにない。この客車の座席は窮屈で、1つの席で眠るには、僕の体は 大きすぎる。
 そうこうするうちに博多へ着くと、更に乗客が増え、僕らはまた1ボックス 4人制になってしまった。僕と香川で窓側を取り、通路側には若いアベックが座った。結局 僕は鳥栖を出るまで寝つけなかった。
 目が醒めると、列車は駅に停まっていた。「はいき」 と駅名標に書かれていた。もう佐世保は目と鼻の先だ。香川は眠ったままだった。2人連れの アベックも、女のほうが目を醒ましたようだ。二人の九州弁は印象的であった。
 ひょっとすると、この2人は兄妹なのかな?− その答えも解けぬうちに、列車はまだ暗い佐世保に流れ着いた。6時間8分の乗車は、長時間 乗車の3位、ロンゲスト乗車の5位に食い込む(注・58年当時)旅であった。

●朝の松浦線

 5時2分、まだ夜も明けぬ佐世保駅を、松浦線上り1番列車626Dは発車した。暁の佐世保を 北へ、ゆっくりとディーゼルのうなりを上げて走る。
 香川は列車が佐世保を出る前からシートに横になっていた。どうやら昨夜の「ながさき」号 ではあまり寝たりなかったと見える。僕も充分な睡眠だったとは言い難いが、かの有名な 宮脇俊三さんがローカル線ベスト10に挙げた松浦線とあって、とても眠る気にはなれない。 香川は汽車の中では、殆どと言っていいほどよく寝る。元々汽車に乗るのが目的である僕と、 長崎・高千穂さえ観れば良いという香川では、当然といえば当然の相違と言えるのだろう。 僕も、「この線はええ風景やから、お前も見たらどうや」とは、この旅行では言わなかった。
 さて松浦線は、相浦を5時半に出たあたりから明るくなってきて、佐々へ着くまでには 朝陽も出てきたが、海は相浦あたりからちらっ、ちらっと見える程度で、佐々よりこっち、 海にはお目にかかれなくなってしまった。
 僕は松浦線を海の線路だと思っていたが、それはどうやら勘違いだったようで、いま地図 を開いてみると海沿いを走るのは平戸口より向こう半分で、それまでは北松浦半島の中を 突き抜けて走っている。宮脇氏も、松浦線を推したのは平戸口の向こう半分なのだろうか。 “山側”松浦線も、それなりに田舎のローカルな風景は一見の価値はあるにしても。

日本最西端駅、平戸口 。
 平戸口に6時21分到着、ここで列車は12分間停車する。僕は眠ったままの香川を尻目に、 改札口を飛び出し、日本最西端の小さな駅舎に目をやった。
「やった。いま俺は、最西端にいる。今、俺より西で国鉄に乗っとる奴はおらん。俺はどんな 鉄道ファンよりも西へおるんや…」
そう思うと、わけもなく嬉しくなってくる。
駅舎を出て左手に、『ここは最西端の駅です』という、塔と記念碑があった。それをしばらく 見入っていると、小学生らしい、一見してマニアと分かる少年が来て、
「あのう、すいません。このカメラで、写してくれませんか。ピントは合ってますから」
と頼んできた。2枚撮ってあげると、小学生は礼を言って、また駅舎の中へ消えた。少し 小さ目のバッグを持っているけれど、何処から来たのだろうか。僕に写真を頼んだという事は、 一人で旅行しているのだろう。ふと、小5の時、「和歌山へ行ってくる」と言って、親に 猛反対されたことを思い出し、苦笑した。
 日本最西端というだけで、駅前には何もなかった平戸口を6時33分に出発した。平戸口では 起きてきた香川だが、列車が走り出せばまた、眠ってしまった。

 平戸口を過ぎたあたりから、駅や列車で行商のおばさんが目にとまり出した。地元で獲れた ものだろうか、品物は魚が主流である。そう言えば、車窓にも海がよく見えるようになってきた。 時にはレールのすぐそばまで海が押し寄せてくる。香川は「呉線の海辺はええ風景やった」などと 言っていたが、この松浦線を一目見れば、呉線などの比ではないだろうのに。
 やがて列車は伊万里に到着。『わたしの旅』スタンプを押して、9分連絡の有田行きに乗り 継いだ。伊万里−有田間は香川も起きており、夫婦石などという珍しい駅名もあったりした のだが、列車はオールロングシートDC(ディーゼルカー)で、香川に汽車旅の良さを教える には至らなかった。


●長崎市街めぐり

 有田から佐世保へ出て食料の補給をした後、大村線を南下して諫早へ降りた。悔しい事に、 僕は大村湾のよく見える大村線の風景を見ることが出来なかった。前夜の「ながさき」号での 寝不足がたたってぁ、不覚にも居眠りをしてしまったのだ。だが佐世保発長崎行きのこの829 D列車のシートは赤色で、何か新鮮な気がした。香川が「おい、この車両、指定席とちゃうか」 と言っていたが、普通列車に指定席などある筈はない。だが国鉄の座席は青色と決め込んで いた僕にとっても、戸惑いの色は隠せなかった。
 諫早でホームが続いている島原鉄道の車両をカメラに収め、長崎を目指すべく特急「かもめ5号」 に乗り込む。盆とあって、自由席は満員だ。
「原爆跡へ行くんやったら、浦上で降りた方がええんとちゃうか」
とは香川の提案。原爆資料館は一見の価値があるから是非見てこいと家族中から言われていたので、 長崎市街めぐりの最初はそこと決めてあったのだ。とはいっても、ここ長崎では19時57分 発の列車に間に合えばそれで良く、慌てる必要はみじんもない。

 浦上には12時34分到着、チンチン電車で原爆投下地へ向かう。このチンチン電車がまた 良い。僕が長崎で楽しみにしていたものと言えば、原爆資料館、長崎ちゃんぽん、そしてこの チンチン電車だったのだから。チンチン電車に乗るのは1年前に東京市電に乗って以来だが、 もちろん長崎市電に軍配が上がろう。というのは、東京市電は「残された」市電であるが、 この長崎市電は今もなお市民の生活の足として健在であるからだ。しかしそれゆえに、地元の 人はこのチンチン電車を市バス並みにしか思っていないようで、市電に乗って感激しているのは 僕ぐらいだ。

 さて平和公園へ着いたものの、ここは僕が想像していたものよりも、遥かに 小さく、そして静かだ。一見普通の公園とは、何ら変わりはない。ただ公園の奥に『原子爆弾 落下中心地』とあり、高さ7〜8メートル、幅50センチ位の柱がそびえている。根元には 花束やお供え物が並べられていて、何だか神妙な気分になってくる。
 もし、タイムマシンで38年前に戻ったら、今ここはどのような状況なのだろうか。想像する 手助けをしてくれるのが原爆資料館だ。原爆投下時の写真や、遺品や当時の社会の情勢、 まさに目を覆いたくなるような悲惨な壊滅状態の長崎。
「戦争の時の事は、よく両親から聞かされていましたが、まさかこれほどとは。僕らはこの日の 衝撃を深く胸に刻み込み、二度と戦争を起こしてはならない。」
感想欄というノートに、そういう主旨の言葉を書き込んだ。それほど、この資料館が僕らに 訴えるものは大きかったのだ。

 その資料館を後に、チンチン電車で僕らは一路出島へ。ここで知ったのだが、この長崎市電では 両替する時に50円玉1枚と10円玉5枚入った小さな袋を100円と引き換えにくれるのだ。こんな 両替の仕方は初めて見た。なかなかユニークなアイデアではないか。両替機でジャラリと やられるよりも、こっちのほうが面白いし、両替もスムーズに行くのでは?
 出島といっても、今は完全に市街地の一部になってしまって、今では昔の面影は殆どない。 が、オランダ商館跡という資料館があり、古いオランダやポルトガルの道具や地図、絵、文書 などが展示されてあった。その内容や建物の造りは、僕が抱いていた「長崎」というイメージに大変 近いものであった。だからこの『出島オランダ商館跡』は、不思議によく印象に残っている。 恐らくここは長崎を知るという点では原爆資料館にもひけを取らず、長崎観光の穴場といって いいだろう。(筆者注・平成12年に筆者が長崎を訪れた時は、この出島付近は観光スポット として見事に整備されていた。2、3年後には昔の出島そのままの姿に復元されるそうである。)

 近くのデパートで着替えをした後、長崎の名所、オランダ坂に立ち寄って見たが、ここには 正直言って失望した。ただ石畳の坂があるというだけで、どうしてこんな所が人気があるのか 分からない。そう香川に言うと香川曰く、
「やっぱりこういう所は雨のしとしと降る6月頃に、 恋人と一緒に歩いたらその良さが分かるんやで」
これは名言、まさにその通りと思った。 石畳なら、チンチン電車の道床の石畳のほうが、余程情緒があるように思われた。
 そのオランダ坂から更に歩いて、今度は大浦天主堂へ入ってみた。長い階段と美しいステンドグラス が印象的だ。聞くところによると、日本一古い天主堂とか。
 大浦天主堂の横にはグラバー 園が広がっている。動く歩道で長い時間をかけててっぺんまで登れば、眺めは絶景だ。長崎市街 を一望できる所から写真をパチリ。港の風景や、山の斜面をせり上がるようにして広がる市街地 などは、何処となく神戸の街と似ている。そういえば重要文化財のグラバー邸やオルト邸などの 洋風住宅も、神戸異人館によくありそうな造りだ。ここも横に恋人でもいたらムード満点、 格好のデートコースだ。ふと横を見て香川の顔を見てゲーッ。

 グラバー邸を降り、土産を買うと、香川が
「観光通り言うとこがあるで。面白そうやから 行ってみよか」と言う。さて市電に乗り観光通りという所を歩いてみると、神戸でも見かける アーケード街と何ら変わりはない。別に土産物を売っている訳でもなく、何故ここが観光通りと 呼ばれているのか、まるで見当がつかない。むしろそこを更に歩いた、小さな鄙びた通りの 方がそれらしい趣がある。
 ここまで来ると、そろそろ長崎も夕日が差しかかる頃になってきた。途中、2軒ばかりべっ甲を 売っている店に寄ってみた後、僕らは長崎駅前に帰ってきた。駅前でいよいよ長崎ちゃんぽん を食べることになった。ちゃんぽんは野菜や具が多くボリューム満点。僕はちゃんぽんはラーメン の一種だと思っていたが、どちらかというとヤキソバに近く、味は格別である。値段も、思った より安価であった。
 19時57分、特急「かもめ26号」の発車まで、まだ1時間以上も余裕があったので、長崎 駅前や駅構内をぶらつく。『タイガーマスク引退』という新聞の見出しを見たのも、この時 であった。
オランダ坂の誤算はあったが、まずは満足のいく長崎の7時間だった。


●乗客たった3人の佐賀線

 長崎を発車した特急「かもめ26号」は21時45分に佐賀に着いた。佐賀からは29分の 待ち合わせで第二次廃止対象となっている佐賀線に乗るのだ。
 瀬高行きの佐賀線列車は既に入線していた。2両連結のオールロングシートカーだ。いくら 景色の見えない夜だといっても、やはり汽車旅はクロスシートに限る。ロングシートでは いつもの通勤列車と何ら変わりはなく、面白くも何ともない。
 22時14分に佐賀を発車。同線の最終列車とあって、客はまばらだ。夜の風景を見る限り では、決してへんぴな所を走っている様子でもなくて、終始街の灯りが目にとまる。それでも 廃止対象になるくらいだから昼間でも大して乗客はいないのだろう。途中筑後大川と筑後柳河 という二つの市中心駅を持ちながら、マイカーやバスとの競争にあえなく敗れ去っているのだ。 鉄道ファンとしてはやるせない思いである。
 終着駅の瀬高に着く頃には、2両編成の列車に乗客は僅か3人。うち2人は香川と僕だから、 地元の利用者はたった1人しかいないことになるのだ。
 瀬高は小さな駅だった。31分の待ち合わせを利用して上のシャツを着替える。着ている 時は気づかなかったが、今こうしてみると白い服は薄茶色に変色してしまっている。今日の 長崎は暑かったなァ、汗を拭きながら思ったことである。


●駅ネ初体験−熊本駅

 一旦鳥栖までバックした後、臨時特急「有明51号」に乗り込む。5両の自由席は満員で 立ちっぱなしだ。僕らは熊本駅で降りるからいいが、西鹿児島まで行く人は一晩中、立ったまま 夜明けを待つのだろうか。普段はガラガラで非難の的となる国鉄が、帰省の季節になるともっと 臨時列車を増やせと非難される。
 午前1時40分に「有明51号」は熊本へ。そしてこの熊本駅こそ、今日の僕らの宿となる 所なのである。僕も今まで何度か旅に出てきたが、駅構内で一夜を過ごすなどという事は 初めてだ。この点については香川のほうが先輩で、彼は1年前に自転車で東京へ行った時に 東海道線の駅で駅ネを経験している。
 駅の改札を出ると、待合室には思いのほか多くの人が 座っていた。これから一夜をここで過ごすのか、あと十数分で来る急行「かいもん」を待っているのか。 僕は開いていたキヨスクで明日の朝食代わりのドーナツを買った。恐らく明日は朝食を取る 時間も場所もないだろうと踏んだのだ。
 僕らは改札を入って駅の中のベンチで寝ることにした。 手頃なベンチを2つ見つけると、早速僕はごろんと横になってみた。前夜の「ながさき」号では 足も伸ばせぬ程満員で、体を休めるすべもなかった。今寝転んでうーんと体を伸ばすと、何とも 気持ちいい。
 やがて下り西鹿児島行き急行「かいもん」が到着。薄暗いホームに青い車体が 浮かび上がって、ムードは最高だ。「かいもん」号が発車した後は熊本駅は静かで、ただ駅の ホームの灯火だけがぼんやりと夏の夜空に浮かぶ。真夜中の駅は何度味わってもいいものだ。
 何処から迷い込んで来たのか、一匹の白い犬がトコトコとやって来て、僕らの近くで戯れている。 僕がびっくりして起き上がると、その白い犬はまたトコトコと改札の方へ消えた。やれやれ安心と 思って寝転ぶと、また白い犬は僕らの方へやってくる。見れば僕らのベンチと駅員室との間に 犬小屋がある。犬はゆっくりと小屋の中へ入った。この犬に気づかないのかもう眠ってしまったのか、 香川はもう動かなかった。
 寝ている間にワン公に噛みつかれたりバッグを荒されたりする んじゃないかと心配する暇もなく、眠気が僕を襲ってくる。僕は知らぬ間に眠りに入った。
 朝は確か、香川に起こされたように思う。時刻5時30分、既に空は白み始めている。ホームの 洗面所で顔を洗い、歯を磨くと、ああ俺らはこの熊本駅で泊まったんや、と改めて実感が湧いて くる。
 まだ寝ぼけ眼のまま、早朝で乗客まばらな豊肥本線下り2番列車に乗り込み、一夜を 明かした熊本駅に別れを告げた。
 こうして、僕にとっては初の駅ネを体験した訳である。 「駅ネ」の感想としては、まず僕が予想していたよりもなかなか寝心地は良かったこと。夜行列車 で足も伸ばせないまま眠っているよりも、駅のベンチで横になっている方がずっと楽だ。駅員が 僕らを見かけても何も言わなかった所を見ると、駅ネというのはある程度認められているのだろうか。 それから思ったことだが、やはり駅ネは無人駅、夜行列車の走らない(停まらない)線区では やめた方が無難だと思った。香川がいてさえも犬にびくついた位だったから…。

●雄大な車窓の高森線

 午前6時5分に熊本駅を発車した下り豊肥本線、733D列車は7時4分に立野駅に到着、 ここで高森線4121D列車と分割する。高森線に乗らんとする僕らにとっては、立野は 16分の余裕があり、7時20分に発車するのだ。
 香川はまた眠っていた。その香川を列車に残し、僕は立野のホームに降り立ってみた。 風が強く、海抜も恐らくかなり上がっているのだろう、Tシャツ1枚では肌寒い。
 見れば遥か北の山の中腹あたりをオレンジ色の帯がゆっくりと西へ動いてゆく。何だろうと 思ってよく見ると、何とこれが列車なのだ。ここで僕は、この立野がスイッチバック駅であることを ようやく思い出した。立野のスイッチバックは有名だが、高森へ行く僕らはスイッチバックを 通らないので、うっかり忘れてしまっていたのだ。
 列車を見つけて大分時間が経って、ようやく上り列車が立野駅ホームに入った。その上り列車が 発車した後で下り列車が発車、今度は下り列車がスイッチバックしていく。
 香川は眠ったままだ。僕は香川にスイッチバックの事を教えてやろうかと思ったが、2、3歩 行った所でやめにした。香川にスイッチバック云々といっても大して興味を示さないだろう し、逆に睡眠の邪魔をするなと怒られそうだ。
 またかなり時間の過ぎた後で、下り豊肥本線列車は 北の山の中腹を突き抜けていった。空は曇って、今にも雨が降りそうだ。寒くなってきた 僕は列車に戻った。
 やがて高森行き列車は発車した。列車は阿蘇外輪山の中をゆっくり 登って行く。ふと風景が広がったかと思うと、一面緑のじゅうたんを敷きつめた外輪山の中だ。 車窓右手には外輪山が遥かに続き、その山々は一面を緑で覆われている。それも木々の緑では なく、芝の、草原の緑であり、それは見事だ。車窓左手には霧にかすんだ阿蘇五岳。
高森線の終着駅・高森
 ここでも香川は眠ったままだ。一々起こす気にもならないが、この旅行で香川は随分損を しているなと感じた。彼は、松浦線といい、この高森線といい、後で出てくる高千穂線といい、 僕がいい風景だと思わず興奮してしまった線では全て眠りの中なのだ。つまりこの旅の思い出 というか、吸収するものが僕に比べ半分しかない訳だ。彼が言った「都会を離れたらローカル 線はどこも同じような風景や」という言葉は撤回したほうがいい。
 昨夜、熊本駅で買ったドーナツをここで頬張る。香川は腹は減らないのかな、と思った。何しろ 彼は昨夕長崎駅前でちゃんぽんを食べてからこっち、何も口にしていないのだから。香川は まだ眠りの中だ。
ようやく7時52分、高森駅着。


●小雨降る高千穂峡

 8時発のバスに乗って一路高千穂へ向かう。
 僕はバスに弱く、バス旅行では必ずといっていいほど 車酔いするので高千穂までの1時間35分は不安だった。が、酔い止めの薬のためか、熊本駅駅ネ の寝不足のためか途中で眠ってしまったので、酔う事はなかった。
 バスは5分ほど遅れて 高千穂へ着いた。幾つになってもバス旅行はどうも好きになれない。俺も旅のプロにはなれねえ な、と思いつつバスを降りると、高千穂は雨が降っていた。ほんの小雨程度だが、旅行中の雨は 歓迎できない。
 バス営業所の待合室のロッカーに荷物を入れ、身軽になったところで高千穂峡 の散策だ。まず近くのラーメン屋で腹ごしらえをした後、1キロ先の高千穂峡へ向かう。
 高千穂峡は僕の想像以上にスケールが大きかった。五ケ瀬川が奥深くまで侵食して、峡谷は何十メートル もの断崖になっている。川の水は綺麗な緑色で、深緑の木々と相重なって美しい風景だ。川には 多くのボートが狭い水路を漕いでゆく。ボートで水面の高さから見れば、この峡谷も一層スケール を増すのだろう。時間さえあれば是非ボートで探勝したい所だ。
 高千穂大橋は高千穂峡の最上部に 架けられた橋で、峡谷の最下部の川は遥か下だ。ここから見下ろすと改めて高千穂峡の大きさを感じさせる が、橋自体はもう一つ下にある古びた橋の方がこの峡谷にマッチしている。僕の撮った写真にも 古いほうの橋だけが写っていた。
 この高千穂峡に小1時間ばかりいて、小雨の中の峡谷を 充分満喫した所で高千穂峡を後にした。この高千穂峡は静かなムードで、今まで僕が見て来た 九州の自然とは少し違い、正に神話の国・高千穂らしい峡谷で僕は気に入った。香川は「ここも 造られた観光地になっとるなあ」なんて言ってたけど。
 帰途につき、高千穂神社で一休み。高い杉の木でうっそうとしている静かな所だ。11月頃になると 「夜神楽」でにぎやかになるらしい。
 再びバス営業所に戻ってロッカーから荷物を取り出し、 今度は国鉄高千穂駅へ向かう。もちろん、高千穂線に乗るためだ。
高千穂駅にて。
 高千穂駅は町外れにあったが、駅前にはスーパーらしきものもあって賑やかだ。1972年誕生 のため駅舎はまだ新しい。3両連結の赤いディーゼルカーが到着し、改札を入ると降客、 ともに多い。僕らは列車の一番向こうの端にやっと空席を見つけた位で、発車前から既に車内は 満員だ。恐らく高千穂の観光帰りなのだろうが、車両を3つも連結してなおかつこれ程乗客が 多いのだから、廃止になってバスが走り出すようになるとこれだけの乗客をさばき切れるのだろう か?この高千穂線も第2次廃止対象線だから、どうせ平日はガラ空きなんだろうけど。高森へつながる 筈の、途中で分断されたレールが痛々しい。(筆者注・この高千穂線と、さきの高森線はいずれも 廃止対象線区だったのだが、第3セクター方式により、それぞれ「南阿蘇鉄道」と「高千穂鉄道」 の名で、平成12年現在も健在である。)
 12時49分、列車は発車した。日本一高い高千穂鉄橋を通り、日之影まではトンネルまたトンネル。 日之影を過ぎると今度は五ケ瀬川が右に左に移る。小雨はまだ降り続いていて川の水面を揺らす。
 五ケ瀬川は高千穂峡からずっと流れて来ており、従って川の水の色も高千穂峡と同じ緑色だ。 高千穂線は終始この五ケ瀬川沿いを走り、景色はいい。途中直角にカーブし、川を横切ってそのまま トンネルに突っ込んだのには驚いた。いい風景なのに、やはり香川は眠っている。
 延岡に 近づくに連れて空は明るくなり、やがて雨は止んだ。空から陽の光が差し掛かるようになった頃、 列車は延岡に着いた。


(続く)


九州旅行・その2へ続く

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