想い出のランドスケープ
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86.7 北海道旅行
———君は歌いながら、
心に舞い降りてきた。
●6.大雪山の万年雪 【5日目】
砂川から一路北上、旭川に着いて、駅弁の昼食を取る。食欲の方は、相変わらず回復しない。 仙台でマコちゃんにもらった栄養剤が、こんなに役に立とうとは思いもしなかった。函館の 谷地頭温泉で体重を量ったら少しウエートダウン気味だったのが気にかかってくる。
旭川からは11時17分発の特急「オホーツク3号」で上川へ向かう。これは余談だが、 旭川のホームで「北尾→双羽黒、保志→北勝海」のスポーツ紙を読んでいると、二人組の 旅行ギャルが「えーっ、もう名前決まったんやなあ」と声を上げて、新聞に見入っていた。 驚いたのは、相撲も人気があるんだなあという事と、これは後から気づいた事だが彼女らは 大阪弁だったのである。思わず常磐線のサイクリングギャルが頭に浮かぶ。
「オホーツク3号」は旭川からノンストップで上川に着いた。石北本線はのどかな農村… という形容はどうも北海道ではしっくり来ないが…時折、牛の姿も見える。
上川からは、バスで層雲峡へ。層雲峡のバス・ターミナルに着いたのは12時40分だった。 層雲峡温泉街は予想以上に静かで、山峡地のムードを盛り上げてくれる。自然を売り物に している観光地は静かな方がいい。人の声や音がうるさい所は、安っぽく思えてくる。 層雲峡は、函館で出会ったバイクの兄ちゃんも推奨していた所だ。期待も大きい。
その層雲峡めぐりは後にして、ひとまずロープウェーで黒岳に登ることにする。
ロープウェーは満員となった。僕は最後部の、一番展望の良い所に陣取る。満員の中、 人の頭しか見えない人は気の毒だが、こればかりは電車の座席みたいに気安く譲ることは出来ない。 外国人の金髪の男性もいて、カメラをスタンバイしている。大雪山も国際的だ。
やがてベルが鳴り発車。ロープウェーが高く上がっていくにつれて、層雲峡の小さな温泉街が 山の中に吸い込まれるように、箱庭のミニチュア模型と化してゆく。標高は更に上がり、 大雪山がその全容を現してくる。スケールの大きい、雄大な山々。この緑の中に、どれほどの ヒグマや、エゾシカや、その他の諸々の生物を抱いているのだろう。見事なパノラマに ロープウェーの乗客一同、「おーっ、すげえもんだ」と歓声を上げる。カメラのシャッター 音がリズムを奏でるように、カシャッ、カシャッと続く。
ロープウェーも頂上に着き、 降りればそこはもう山の中だ。高山植物を植えた花壇がある。『あなたは今、ヒグマの生息地 に足を踏み入れています。ヒグマには充分、注意しましょう。』と書かれた看板が立ち、熊に 出会った場合の指示が、細かく書かれている。なんだか、読まずにはいられない気持ちになってくる。 「ヒグマの生息地」…何とも北海道らしい。
そこからはリフトで更に上へ。ロープウェー頂上が黒岳の5合目、リフトを上がると7合目だ。 リフトはえぞまつ、とどまつ等の森の中を抜けて行く。この辺まで来ると、さすがに肌寒い。 日中になって気温が上がっていた為に、カーディガンは下の温泉街ロッカーに置いてきている。
リフトはどうも、中途半端な所で終わっていた。花壇の周りでシマリスがチョロチョロと動き回り、 可愛らしい姿を見せてくれるが、展望は必ずしも良くなく、物足りない。「霧が晴れていれば、 下の景色が素晴らしいんだけどねえ。あいにく今日はね」と、山の監視員が言う。霧というよりは、 何か雲の上に来てしまったような感じで、少し視界を下へずらすと白い水蒸気のスモークが、 厚く下界を覆っていた。
見ると、「黒岳頂上」への登山道がある。黒岳は標高1984メートル、 今は7合目まで来ているから、あと600メートルほど登れば頂上に着く。所要時間を訊くと、 一時間ちょっとで行けると言う。
僕の中の冒険心が騒ぎ始めた。時間的に余裕はある。 この場を行かずして、どうするか。僕はためらう事無く、入山書に名前と住所を書き、やや足場の 悪い山道を登っていった。鉄道旅行に来ていたこの時の僕は、革靴にカバンを片手に持つという、 とても登山をするような格好ではなかったのだが…。
初めのうちは、予想以上にしんどく辛かった。少し登ると、足場はジュクジュクになり、旅行での 疲労も手伝って、登山は難航を極めた。それを頑張り通せたのは、今夜はIBAの部屋でゆっくり 寝られるという意識があったのと、他の登山者たちとの快い挨拶のお陰だった。
登れども登れども、同じような道が続くだけで、景色が全く変わらない。さすがに途中で くじけそうになってくる。随分登ったところで、やっと八号目の立て札だ。「まだ3分の1か… いや、もう3分の1だ。もう少し、頑張ろ」と気を取り直す。依然、頂上は見えてこない。
この八号目を過ぎた頃から、上から降りてくる登山者と盛んにすれ違うようになってきた。 随分と、中年層の女性登山者の姿が目につく。皆、一様に登山服でリュックを背負っている。 その登山者たちが皆、すれ違いに「こんにちは!」と声を掛けてくる。例外なく全員がである。
最初は僕も訳がわからず、「こんにちは」と返事はするものの、何だかおかしな人たちだなぁと 思っていたものだ。「ひょっとして、知り合いの誰かと人違いしているのではないか」とも 思っていた。が、しばらくすると、これは人違いでも何でもなくて登山者同志の挨拶なのだ、 ということに気がついてきたのだ。「こんにちは」のひと言で、仲間意識が広がる、地元民も 旅行者もない、みんな同じ“登山者”仲間なのだ。そう思えてくるような、気持ちのいい挨拶だ。
そう考えると、「こんにちは」のひと言にも、込める気持ちが違ってくる。
そうした挨拶を何十回と繰り返すうちに、僕は周囲の景色が変わってきたことに気づいた。 いつの間にか、周りの山々の頂上よりも上に来ていたのだ。リフト場付近でうっとおしく取り巻いていた スモークが、今はきれいに晴れ渡っている。もうとっくに、ドライアイス群の上に突き出ていた のである。
そして見渡せば、おお、まさに斜め45度前にある山の頂上付近に、白く輝く 雪渓…万年雪が見えるではないか。僕は目を見張った。もう邪魔っけな雲はない。夏の7月の 日光を浴びて、万年雪はきらきらと輝いていた。鮮やかな緑の山々に、眩しい雪の白い残像が 浮かぶ。道の付近には、赤や黄色の高山植物の花が咲いている。そして見事な、透き通るような 青空…。自然の織り成す見事な配色のコントラストに、僕の心は高ぶっていた。
もう少し進んでいくと、今歩みゆく道の日陰に、雪の塊りが残っていた。泥がついたそれは 茶褐色に濁っていた。が、雪は雪。生まれて初めて間近に見る、万年雪…。触ってみると、 既に氷と化してゴワゴワしている。が、ひんやりして気持ちが良い。表面の部分をガリガリ削ると、 内部には真っ白な雪が保存されていた。7月のホワイト・スノー。僕は自分が既に、俗世から 離れた別天地…「聖域」の中に到達していることを悟った。そしてそこから歩いてそう遠くない 所で、僕は九号目の立て札を過ぎていた。
九号目を過ぎると、もう付近に樹木は見られなくなっていた。高山植物が咲き乱れる、 お花畑…といっても斜面は急勾配のままである…が広がる。もう、樹木の生存限界を超えている のだ。高山植物の楽園。赤、黄、紫…様々な花が、一面に咲き誇る。ここは自然そのままの、 天国なのだ。
陽がさして、まばゆい。その中を登ってゆく。もう僕は、すれ違う 登山者たちに「こんにちは」の挨拶だけでなく、その後で一声掛けるようになっていた。
「こんにちは。結構しんどいですね、この道は」
相手も笑って話しかけてくる。
「まあ、ゆっくり、のんびり行きなさいよ。せっかくこんなに綺麗な花が咲いてるんだから、 慌てる事はないよ」
また別の登山者が来る。また「こんにちは」の後に一声添える。
「こんにちは。いい景色ですね」
「ああ。頂上へ行けば、もっと素晴らしいよ」
「頂上までは、あとどれくらいですか」
「もう、すぐだよ。頑張って登ってごらんよ、本当にいい景色なんだから。頑張れ、頑張れ」
と勇気づけられる。流れる汗を拭きながら、前のおばさん二人を追い越す。
「こんにちは、お先を失礼します」
「まあ、若い人は元気があるねえ」
「マイペース、マイペースよ」
と、登り続けていく。時間的に、今が登山者のピークの頃で、すれ違う人がひときわ多い。 その中のひとりのおじさんが、革靴にカバンを持って歩いていく僕を見て、
「おや、こんな所まで出張かい」
と言うので、思わず笑ってしまった。花畑は、遥かに 続いていた。
頂上は、突然開けて現れた。大きな岩の横をすり抜けると、もう上は なかった。「黒岳頂上」と書かれた立て札が立っていた。その少し左手には岩を積み上げたような ものが見られる。よく見てみると、簡易の山小屋だった。恐らく監視員のためのものだろう。 背景には、幾つもの万年雪の筋が、まるで氷河のように、河のようになって残っている。山の 尾根沿いには緑が、谷沿いには白い雪が、緑と白のストライプを形成している。例えは悪いが、 ちょうどスイカのような感じである。
見事だ。本当に見事だ。普通にはまず見ることの出来ない 風景の中に、間違いなく僕はいるのだ…。俗世から離れた「聖域」の、最深部。
僕は一種恍惚のようなものを感じた。初めて見る不思議な風景に、戸惑いと驚嘆を覚えた。
石を積み上げたような小屋の周辺には、愛くるしいシマリスが何匹も駆け回っている。登山者 があげたのだろう乾パンを、一心不乱にかじっている。人を怖がらないのは、ここに登ってくる 者たちには、自然を愛し動物を愛する心があるからだろう。シマリスに危害を加えるような 者など、ここにはいないのだ。「可愛いねえ」「本当だ。食べてる、食べてるよ」周囲の 人たちも腰をかがめて見入っている。食べ物を手に持ち、口にほおばる姿の、何と可愛らしい ことか。僕も思わず、そのしぐさに見入っていた。
フイルムを巻き、その姿を写真に収めた。 シャッターの音にも、シマリスは驚かなかった。この写真は、今回の旅行中に撮った中でも 最も気に入った一枚となったのである。
もと来た道を、僕は降りていった。登ってくる人たちと「こんにちは」の挨拶を交わしながら、 お花畑を、万年雪を、遥か見渡せる周囲の山々を、脳裏に焼きつけながら降りていった。
リフト場まで戻ってくると、若い女の子の二人組旅行者がシマリスを見つけて「いやーん、 かっわいいー」と声を歓げていた。僕は軽い優越感を覚えた。もっと上へ行けば、もっと沢山の リスたちが、人間を怖がりもせずいっしょに過ごしているのだ。ほんの少し自分の足で進んで ゆけば、全く違った光景が待っているのだ。旅とは本当に、ちょっとした一歩で大きく印象が 違ってくるものなんだなあ…と思わずにはいられなかった。
リフト、ロープウェイと乗り継いで温泉街まで降り、レンタ・サイクルで今度は層雲峡を 巡ってみた。が、あまり時間が残っておらず、急いで回るはめになったのと、余りにも先の 黒岳の印象が強く残っていたために、層雲峡じたいはいま一つだった。確かに峡谷の壁は壮大 だったが、途中の道路を工事していたりで興ざめだった。「銀河の滝」をはじめ、いくつかの 滝は見事な眺めだった。ただし滝についても、後にもっとユニークな滝に出会うことになる ので、印象はさほど強く残っていない。とりあえず大函まで行って、引き返してきた。
そして急いでバスターミナルへ戻り、乗客が僕一人しかいないバスに乗って層雲峡を後にした。 18時00分、上川駅に戻ってきたのである。
「7.IBAとの再会」へ続く
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