悲しきレイン・トレイン
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86.7 北海道旅行




     ———これから僕は独りきり、人生の長い旅に出る。
         そこはとても寒い町らしい。海も見えない町らしい。



●9.ノスタルジア 【6日目】 

 どんより曇った雨空の中、列車は16時25分、清水沢の駅に着いた。僕は急いで飛び降りた。 向こう側のホームに、三菱石炭鉱業線の、古びた、くすんだような客車が、静かに発車の時を待っていた。
 僕には向こう側のホームだけが、時間を越えて数十年前に逆戻りしているように見えた。 そしてこれは何故だか分からないが、非常に懐かしい思いにとらわれたものだ。
 跨線橋を渡り、ホームへ降りた。ディーゼル機関車に、旧型の、チョコレート色の客車が 2両。さすがだ。堂々とした、この風格。学生たちが、一人二人と列車の中へ入っていく。
 僕も、客車の中へ入った。多少の予備知識はあった。日本で最後の3軸ボギー客車、スハニ6型 の方に入った。

 車内は、信じられないほど暗かった。結構、乗車率は良かった。殆どが高校生だ。
 比較的後ろの方に、進行方向に向かって座った。車内はニス塗りの木の壁、背もたれも木製だ。 勿論、床も木。「なにか魚の腐ったような臭いがするね」誰かが囁いた。そうだ、今までの どの客車でも感じられなかった、独特の匂いだ。このじめじめした雨のためなのか、この客車の 本来の匂いなのか。

 清水沢では、国鉄線とは2分の連絡だ。僕が乗り込んでしばらくするとすぐに発車した。「ゴウン」 と衝撃が一度あって、それからゆっくりと動き出す。旧客車独特の発車の仕方だ。距離は短いが 情緒に溢れる客車の旅が、始まったのだ。

 列車はゆっくりとカーブを曲がる。車窓にはターン・テーブルも見られる。昔はこのレールでも、 SLが走っていたのだろう。が現在でも、その情緒は劣っていない。列車が上り坂にさしかかる と、先頭のディーゼル機関車は「ピヒュー…」と汽笛を上げた。国鉄のDD51のような、スマート な汽笛ではない。何か、絞り出すような、ハスキーな声だ。それがかえって、この坂を一生懸命に 登っているような、真剣さを感じる。
 一向に、速度は上がらない。ゆっくり、ゆっくり、坂道を上っていく。レールの継ぎ目を拾う音も、 ゆっくりとスローなリズムを奏でている。カタン、カタタン。カタン、カタタン。3軸ボギー車が、 不思議なリズムを立てる。前の客車は普通の2軸車だから、こんな変化が起きているのだ。 カタンカタンではなくて、カタン、カタタンなのだ。カタン、カタタン、これは僕を昔の世界に導く、 時間旅行の音なのだろうか。ディーゼル機関車の、絞り出すような汽笛は響く。

 客車の中は、もう1986年ではなかった。昭和二、三〇年代に戻っていた。かつてのSL全盛時代 から活躍し、そして今も現役で走り続ける超旧型客車。その車内は、SLの匂いをほのかに残す。 昔の旅の世界へ戻ってゆく。汽車があくまでも汽車らしく、まだ汽車旅が世間の憧れであった時代を 今も、このスハニ6型は残している。

 途中で唯一の駅、遠幌に停まる。さびれた駅。さびれたという形容が拙ければ、原始的、とでも 言えようか。草ボウボウで手入れも何もない。一線だけのプラットホームは、土を盛っただけといった 感じだ。あの倉吉線の終点、山守駅にも似ている。ホームからかなり離れた所に、廃屋のような 駅舎がある。果して駅員はいるのだろうか。
 遠幌を発車、再びゆっくりと、速度を上げることなく走ってゆく。カタン、カタタンのリズムと ハスキーな汽笛は続く。雨は相変わらず降り続き、ガラスに当たっては流れ落ちる。旧型客車の 旅に、雨はあまりにも似合いすぎるシチュエーションだ。

 そして列車はやがて集落にたどり着いたところでその速度をさらに落とし、プラットホームへ たどりついた。終点の南大夕張へ着いたのだ。7.6km の距離を、21分もかけて坂を上ってきた 訳だ。
南大夕張にて、高台にある駅舎を見上げる。
 駅舎は、ホームから土手を少し上った所の高台にあった。三菱のマークと共に「南大夕張駅」と 書かれた看板が見える。改札で60円という激安の運賃を払って、外へ抜けた。

 待合室のベンチに荷物を置いて、駅付近を歩いてみた。
 石炭によって生まれた町、良くも悪くも石炭と運命を共に生きていく町。その町並みはくすんだ イメージを僕に与えた。駅を中心にして周りを囲んだ、ひっそりとした町。ひと昔前のタイプの 集落。
 ひと昔前…。この言葉が、南大夕張の町を形容するのにぴったりである事に、僕は気が ついた。見渡せば至る所、そんな印象を生み出す環境ばかりである。
 駅からさらに向こうにも、レールは続いていた。鉱工業に尽くす、いわば「産業線」には、こういった 光景が多い。駅からすぐの所に、集炭場がある。見れば十何両もの連結貨車が、少しずつずらしては 順番に、石炭を積み込んでいた。夕張へ向かう途中で、清水沢駅で見た貨車と同じものだった。 あの車両は、今でも現役なのだ。一日に何往復も、この夕張で石炭を運んで走っているのだ。 何か、ほっとした気分にさせられる。今も、石炭の町は生きている。その思いを、貨車が活躍して いるのを見て、改めて確認できるのである。思えば、今乗ってきた三菱石炭鉱業線こそ、石炭が、 石炭の町が、生きている証なのだ。石炭と共に生きる町、石炭と運命を共にする鉄道。この町は、 その全ての機能が石炭によって一体化されているのだ。
 街を歩いていってまず気がつくことは、新しい建物が殆ど見られない事だ。町並みがくすんだイメージ を受けるのは、天候のためだけではない。山に囲まれた古びた町は、どこか疲れた感じが漂う。この くたびれた建物たちは吹き飛ばされそうだ。
 街を歩いていても、雨が降っているからかも知れないが、人通りは少ない。商店街らしきものもない。 町全体に、活気がない。
 新しい建物がない、それは何年も前から、町並みの風景が変わっていない事を示す。成長の止まった 町。石炭の衰退と共に後退した、前進を忘れた町。
 ひと昔前の風景…。この言葉がまた、僕の脳裏をよぎった。南大夕張の町自体が、ひと昔前の姿 そのものだった。いまだ石炭という鉱物のみに頼っているという、一品産業方式。交通の主要手段 としての鉄道が、これまた全国でも恐らくNO.1の古びた車両。町に並ぶ建物が、十年以内に 建てられたであろうものが殆どないという状況。
 恐らく、もし十年前に僕がここを訪れても、やはり今日とほぼ同じような風景だったろう。いや、 むしろ石炭が落ち込んだ分だけ、町も活気を失っている。昔はもっと賑わっていたであろう。十年前は おろか、二十、三十年前でも、この風景は変わっていないのではないか。
 時代から、取り残された町。昔の面影を、そのまま今も残している町。
南大夕張駅
 僕は、心の中に何か故郷でも見たかのような、ノスタルジアを感じていた。この感情は奇妙だった。 とても懐かしいものを見たような気がしたのだった。何故こんな風に思われてきたのか分からない。 当然のことながら僕は、南大夕張のようなタイプの町をこれまでに見た事がないのだ。それなのに、 何故なのだ、こんなに懐かしい感情がこみ上げてくるとは。
 唯一解説の手だてを求めるとすれば、ここは僕の父か母が暮らしたことのある町の風景とそっくりな 所で、その懐かしい思いが次世代の僕にも伝わって残っていた、という見方しかない。
 それと、この南大夕張という所は僕が今までの汽車旅の中でも特に、僕の探していた風景に近い町である 、という見方は確かにできる。鉄道の駅を中心に町ができ上がり、今でも駅が町の拠点である。その 駅から町の主産物である石炭をも運んでいる。鉄道が、本来の鉄道としての機能を果たしている町。 それは今までずっと、僕が求めてきた光景だった。それを目の当たりにしたことで、「懐かしい」という 感情になって湧いてきたのだろうか。
 町から少しはずれた所に、温泉ホテルがあった。やはりかなり昔に建てられた、古びた建物だ。こんな 場所にも、温泉が湧いているのか。

 駅に戻って復路の切符を買うと、駅員が乗車記念切符セットを買わないか、と勧めてくる。この事は 事前知識で知っており、記念セットを売り込んでくることは予想していたので、迷うことなく購入する。 北海道最後の私鉄の増収にも協力できるし、珍しい切符は手に入るしで、一石二鳥である。駅員は 記念スタンプも用意してくれた。
 記念セットは200円だったが、内容は濃い。一応は使い古しの切符が入っているだけだが、中味が 凄い。大夕張鉄道時代の特殊乗車券やら、今はもう廃止されて存在しない区間の駅名(千年町など)も 入っている。この切符には「2等」の表示も見える。大夕張鉄道時代には1等車が存在していたの だろうか。
 中には期限切れの定期券も入っていた。「59年4月13日まで有効 青木芳枝 15才」とある。 女子生徒のものだ。58年10月現在で15才、今頃は18〜9になっているだろう。

 一枚の古い定期券は、僕をファンタジーの世界に誘い込んだ。いや、ファンタジーと呼ぶにはあまりに 現実的な空想であるが…。今年春に高校を卒業して、彼女は今、どこでどうしているだろうか。石炭 しかない南大夕張を、故郷の町を捨てて、札幌や東京へ出て行ったのだろうか。それとも町に残り、 夕張のどこかで働いているのだろうか。
 青木芳枝さん。あなたはこの夕張に生まれ、夕張で育った。高校生になったあなたを思い浮かべるとき、 僕にはある一つの情景が浮かび上がってしまうのだ。ボーイフレンドと南大夕張の原っぱで「一緒に 都会へ行こう、この町を二人で出よう」と約束している君。そのボーイフレンドの誘いに、「いいえ、 私は夕張に残る」と返事をする君を、僕はどうしても想像できないんだ。彼の誘いに静かに頷き ながら、やがて春になって、古びた客車に乗って町を出て行ってしまう君が、どうしても思い浮かんで しまうのだ。
 故郷に、思い出はあるけど夢がない。夢は見るけれど、夢を賭けるものがない。石炭の町に生まれて、 石炭の衰退と共に育ってきた。そして彼女は恐らく、この町にもう未来がないことを知っているだろう。 夕張に残っていても、もう何の夢も希望もない。それでも彼女は、残るだろうか。それほどに、この 故郷を愛しているだろうか。

 やがて18時05分、上り最終列車は南大夕張を発車した。雨は、まだ降り続いている。もう外は そろそろ薄暗くなっている。列車内には、灯がともっていた。もちろん蛍光灯ではない。昔のままの、 白熱灯…柔らかな灯りだ。クリーム色の温かな灯りが、木製にかためられた車内を照らし、包み込んで いた。

 僕は恐らくこれが最後になるであろう旧型客車の旅を、心の底から堪能していた。ニス塗りの車内、 木の背もたれ、丸く柔かな白熱灯。
 今、国鉄は変わった。僕が鉄道旅行に取りつかれ出した5年前と比べても、大きく変わった。分割・ 民営化の波。その中で地域ごとの活性化を図り、古い車両を次々と新しいものに取り替えていった。 僕を鉄道旅行の世界へと導いた福知山線にも、もう旧型の客車は存在しない。全国を見渡しても、 来るべき61−11改正で、旧型客車は姿を消す。国鉄に旧客車はなくなってしまう。そんな中でも、 独立独歩、三菱石炭鉱業線は、その旧型客車を残す数少ない鉄道となった。成長を忘れ、進歩する 術を忘れた町の波及効果が、こんな所に現れたのだ。考えてみれば、「いつまでも変わらない 南大夕張」に喝采の拍手を贈らねばならない。

 カタン・カタタンのリズムと「ピヒュー」の絞り出すような汽笛の旅は終わろうとしていた。清水沢 の駅が近づいてきたのだ。列車が速度を落とした。僕にとっての最後の旧客の旅は終わった。 列車は清水沢の駅に着き、そして停まった。僕はしばらく席を離れなかった。ニス塗りの車内、 木の背もたれ、丸く柔らかな白熱灯…車内外の一つ一つを、しっかりと眼に焼き付けていた。 ようやく席を立ち、車掌室のストーブ(7月というのに、火がついていた)の石炭のひとつぶを 記念に頂いた。Adiew −僕は旧型客車に別れを告げた。

 この北海道旅行から1か月後、僕はこの南大夕張炭鉱が廃山の意向を決意している事を新聞で知った。 三菱が石炭業から手を引くことを決めたのだ。「二、三年後までには廃山したい」とのことだ。
 石炭が廃止になれば、それを運んでいた、あの三菱石炭鉱業線はどうなるのだろうか。石炭と運命を 共にしてきた南大夕張の町は、定期券の娘はどうなるのだろうか。
 僕は廃止になる前にもう一度、旧型客車に乗って南大夕張を訪れたいと、今、痛切に感じるのである。 そして出来るものなら、定期券の娘−青木芳枝さんにも会ってみたいものだ。彼女が南大夕張の町を、 そして客車列車の我が鉄道を、どんな風に感じ、何を思っているのかを聞いてみたいのだ。
 北海道の、光と影…その影の部分を一身に背負った夕張の町は、今回の旅行の中で最も印象に 残った場所となったのである。





「10.釧路本線の原野」へ続く



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