アスレ暴虐の足跡
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アスレ暴虐の足跡

[アスレ非業の歴史]

情報は随時更新していきます。乞う情報

??年?月 野球同好会、神大アスレチックス誕生。・・・とはいえ、アスレがいつ頃 誕生したのか、全く不明。70年代半ばではないかという情報もあるが、定かではない。 誰か知っている方がいたら、その名前の由来 等も含め、ご一報ください。
1982〜83年 当時のS山主将が中心となって、ドジャース型の ユニフォームを作り、現在に至る。
 それまでは揃いのユニフォームというのはなく、バラバラだった。 胸のマークだけを上級生から渡され、各自勝手に買ってきた野球の ユニフォームにアイロンでくっ付けていただけで、ユニフォームの色 などは各人バラバラだったのだ。「それでは格好悪い」ということで 1人15,000円でユニフォームを作ったわけだが、なぜ「オークランド・ アスレチックス型」ではなく「ドジャース型」だったのだろうか? ちなみに熱血部員・A木は、新ユニフォームを「1番嫌いなタイプ」と 言ってけなしていたそうである。
1984年4月 高校時代からの同級生、F永とSW田は、神大に入学すると 野球同好会に入るべく、キャンパスのポスターに見入っていた。 マリナーズも含め4つほど回り、ボンバーズにでも入ろうかと思った瞬間、 後ろでわけのわからん人物がビラ配りを始め、「明日からでもすぐ試合に出してやる。 他やと出られへんで」と勧誘。 当時のアスレは83年入学者が一人もおらず、存続の危機に立たされていたのだ。 二人は甘言に乗り、ホイホイとアスレに入部したのであった。
しかし、二人を嘲笑することは誰も出来ない。なぜならアスレ部員の殆どが、アスレの練習風景を 見て「これなら今日からでも試合に出れる」と自信をつけて入部してきたのだから。
1983〜4年ごろ この頃、部費の支払い義務はあってないようなもので、 みんな気が向いたときにしか払っていなかった。ボールが少なくなってきたら、麻雀をやって 「4位がボール2個、3位がボール1個 自前で買ってくる」という賭けをするなど、 非常におおらかな雰囲気に満ちていた。
 しかし、SW田が主将になると毎月厳しく部費を 取り立てられた。…といっても、部費は1ヶ月せいぜい500円くらいだったのだが。それでも N田氏のように、1年間で4ヶ月分くらいしか払わなかった部員もいて、要するにアスレは 当時からアスレ独特の伝統が出来上がっていたようだ。
1984年ごろ この頃、リーグ戦ではK学の2チームになかなか勝てなかった。 接戦にはなるが、3回やって1回引分、あとは1〜2点差負け・・・という戦跡。 リードしていてもエラーで自滅して同点になったり、K学側から出された塁審の身贔屓判定に 泣かされたことも複数回あった。このままK学の2チームに勝てずに卒業してしまうのでは ・・・とあきらめてかけていた84年秋に、84年入学組の活躍でようやく勝利を 飾ることができたという、感動の歴史あり。
85年?月 T橋、ジーパン姿のまま試合に出てひんしゅくを買う。
85年?月 K西、山陽電車で「目つきが悪い」と高校生に絡まれるが、目が合う やいなや、その高校生をボコボコにしばき上げてしまう。
86年5月 アスレに、後の「恐怖の大王」、NTが入部。アスレの全部員は、この運命の いたずらを深く嘆くべきである・・・いや、大いに称えるべきである。
86年7月 本格派熱血部員・A木とおちゃらけ部員・NTの、奇跡のバッテリー誕生。 しかし、1点リードで迎えた7回裏の守りは、2死1・3塁のピンチとなり、 ここで相手チームは見え見えのダブルスチールを敢行。ところが、 シンキング・ベースボールなどとは無縁の捕手・NTは、あろうことか3塁 走者を伺いもせず、2塁へ山なりの送球。当然、3塁走者は手を叩いて同点の ホームイン。その瞬間、A木はグラブをマウンドに叩きつけて悔しがり、 アスレの雰囲気はチーム史上最悪の状態となった。
試合後、NTは記者会見で、「ランナーが2塁に盗塁したら、2塁に放るのが 当たり前やんか。刺す自信?もちろんあったで」と涼しい顔をして答えた。 以降、A木とNTの関係は険悪化。95年に奇跡の和解をするまで、一触即発 の状態が続いた。
86年9月 アスレ、和歌山県・箕島で夏合宿。まるでスポ根マンガの ようなハードメニューに、へどを吐く部員が続出。夜になると、A木・K月・ NTらによる、マネージャー争奪戦が激化。
86年秋 アスレ、マリナーズの真弓投手にノーヒットノーランをくらう。
この試合で筆者は、バスケットシューズを履いてマウンドに登り、ひんしゅくを買う。
86年10月 稲Dは試合で登板中、右腕を骨折のアクシデント。 太く短い投手生命を終える。
87年9月 アスレ、滋賀県・琵琶湖畔で夏合宿。この合宿における夜の宴会でT橋は、「アルプスの少女ハイジ」を絶唱し、喝采を 浴びる。
87年秋季 アスレ、ダントツの最下位に終わる。
この頃のアスレの戦いぶりを 象徴する試合を幾つか紹介すると、…いつも捕手をやっているNTは ある日、気まぐれでサードを守ってみたくなったらしく、試合前の シートノックの時にいきなりサードの位置につき、驚くほど軽快な フィールディングを見せてスタメンを強要し始めた。これに幻惑 されたキャプテン・稲Dは つい、メンバー表に「サード・NT」と記入してしまった。そして、いざ 試合が始まると、一回表にNTはいきなり、3失策!この回6失点の ビッグイニングとなる引き金を作ってしまったのである。なぜ、こんな ことを事細かに覚えているかというと、その試合の先発投手が、他でもない 筆者だったからである。こめかみから血が吹き出しそうになったのを、 いまでも鮮明に覚えている。
このように、ボロ負けする試合がこの シーズンは多く、最終回(7回)の攻撃を迎えるころにはいつも大量 リードを奪われていた。当時のキャプテン・稲Dは、「どうせなら 試合に来たメンバーを一人でも多く出場させよう」という民主的な 采配を振るっていたので、7回の攻撃になると、M嶋のようなメンバー が代打に出されることが多かった。これには相手の投手もすっかり調子 が狂ってしまい、四球を連発したので、「アスレ名物7回表」 の異名で恐れられた。しかし、そうしてせっかく相手がくれたチャンスも、 1・2塁から1塁走者のM嶋が、いきなり単独スチールを おっぱじめ、2塁走者が憤死してしまうなど、ドタバタのうちに 試合終了を迎えてしまうアスレなのであった。
87年11月 M嶋と、NT・筆者の3人で、 学園祭において「人間ダーツ」を敢行。これはM嶋にダーツの的を首に ぶら下げさせ、1回50円でダーツを投げ、見事真ん中に当たると、賞金 1000円…というルールでやったものだった。2日間で、3人の打ち上げ 呑み代が浮くほどの収益が上がった。
87年秋 この頃、アスレにN村という、ちょっと可愛いマネージャー が入っていた。NTは密かに食い物にしてやろうと狙っていたのだが、ある日 N村から呼び止められると、天にも昇るような気持ちで(オオ〜ッ!向こう からワシの方に来よった〜!)と有頂天になった。しかし、そこでN村の 口から出たのは、「NTさん、私と(ピー)さんとのキューピットになってください。」 という言葉だった。
NTは、「ケッ!」と心の中で叫びながら、(ピー) と 彼女の橋渡しをやり、やがて二人はつきあい始めるようになった。・・・ そして、彼女は気の毒にも、(ピー)に捨てられる結果となってしまうのである。 いやはや、彼女も、まだ男を見極められるだけの経験がなかったんだなあ。 だからといって、NTとくっついていれば同じ轍を踏まずにすんだ、という 訳では決してないが。
88年3月 アスレ部員有志で、赤倉へスキー旅行に出かける。T野が 「毛穴がボン!」「イエロ〜ア〜ト。」のギャグを連発し、一躍時の人となった。
また、M嶋はこのとき、ホテルのゲームコーナーにあった「究極タイガー」 というシューティングゲームにはまり、まるで何かに取り憑かれたかのように夜を徹してこのゲームに のめり込んでいた。そして3日目の夜、ついにM嶋はそのホテルでのハイスコアを叩き出し、 歓喜の雄叫びを上げた。最初は「たかがゲームに何もそこまで…」という冷ややかな目で 見ていた部員たちも、彼のこの姿には一種感動さえ覚えるようになっていた。
しかしその時、 たまたまゲームコーナーを通りがかった落研西Dは、「ふーん、面白そうなゲームやなあ」 と言ってゲームの前に座ると、M嶋が3日もかけて記録したハイスコアを、たった1回で更新 してしまったのであった。
88年3月 アスレの年度末打ち上げコンパで、当時の主将・稲D は、時期主将に、なんとNTを指名!ここにアスレは遂に、名実ともにNT時代を 迎えることになった。
88年春季某日 この頃のアスレは、試合を終えるといつも球場の近くにある「Sunday's Sun 」 というファミレスに立ち寄り、試合後のひとときを過ごしていた。しかし、 そこは貧乏人ぞろいのアスレ。コーヒー1杯で何時間も粘り、散々騒ぎまくって 店の品位を落とし、あげくの果てに会計時に進呈される「コーヒー無料券」を 次の試合後に使い、無料でまたしても何時間も粘り、散々騒ぎまくり、 結果として金を払うのは2試合でコーヒー1杯分だけ、という 悪行を繰り返していた。
しかもその頃、NTがバイクで店の入り口階段 に突っ込むという暴挙に出たこともあって、店のウエイトレスたちはアスレの メンバー、 とりわけNTの顔を見ると、スマイル0円の笑顔がひきつり出すようになった。
ひたすら耐えるしかない…と思われた「Sunday's Sun 」であったが、その鬱憤は 後日、NTが珍しく頼んだサラダのなかに巨大な青虫を混入する、という仕返しを 食らわせることによって、晴らされたのであった。
88年6月 アスレ部員有志で、日本海へ1泊2日のキャンプに出かける。このキャンプを 計画した部員たちは、当初、「NTをまぜるとロクなことがない」と考え、彼を メンバーから外していた。しかし、予定日が近くなったある日、N出の手帳 をたまたま覗きこんだNTは、そこに「アスレキャンプ」と書かれているのを見逃さず、 「オレも連れてけ〜!」と火を噴いた。かくしてこのキャンプは結局、 いつものアスレ名物ドタバタ狂騒劇に終始することになるのである。
88年9月 三重県・志摩半島にて、アスレ夏合宿。しかしながら 筆者は、この時の合宿の記憶が、不思議なくらい欠落している。ただ真面目に 野球の練習をしていた、としか思い出せないのである。そして合宿から帰る と、NTは自身の教育実習のため、アスレへの参加が困難となり、試合を長期 欠場するととともに、N出に主将の座を譲ることを表明。こうしてアスレは、 初優勝に向けて磐石の体制を整えていったのである。
88年10月 新主将となったN出は、一見してさしたる外傷が見られ ないにも拘わらず、なぜか3週間ばかり試合を欠場した。アスレの面々は いまだに、あの時なぜN出が試合を休んだのか、不思議に思っている。噂では 当時、N出はある手術を受けた、とも聞くが、真相はまったく謎のままである。
88年秋季 このシーズン、アスレ有史以来の快進撃。
初優勝も夢ではなくなったある日の試合、主将のN出は、教育実習から復帰して きてやる気マンマンのNTをスタメンから外した。優勝がかかった試合でこの 措置は当然、と部員たちは思っていたのだが、当のNTはメンバー表を見て激怒。 N出をネット裏まで引っ張って行くと、「お前!何でワシを試合に出せへんのじゃあ!」 とN出の胸ぐらをつかんだ。そこでN出「NTさん、あなたがそんな度量の狭い人 だとは思いませんでしたよ!もっと大物だと思ってたのに。」
…それを聞いた NT、急に手を離してにっこりと微笑むと、「冗談に決まっとるやないかぁ、N出。」と 囁き、いかにも“オレは大もん”といった風情でノッシノッシとベンチに入っていった。
88年11月30日 秋季リーグは、この日、アスレとマリナーズの 勝ったほうが優勝という、大一番を迎えた。アスレ・F村、マリン・O川の 両エースの先発で始まった試合は、マリンが1点を先制したが、5回裏、ルーキー・ 木村が、起死回生の逆転満塁ホームラン。このリードをF村が守りきり、 アスレ悲願の初優勝を果たした。
歓喜にむせぶアスレ部員たちは、神大 教養学部のテラスに舞台を移し、一大ビールかけをやった。このビールかけの最中、 筆者は割れたビール瓶で右手人差し指の付け根を負傷。10針縫うケガを負い、 せっかくの祝賀会をアルコール抜きで行わねばならなくなった。
88〜89年冬 この頃、某部員の下宿に、謎の外国人ギャル軍団が頻繁に 出没。おこぼれにあずかった後輩たちも多かったらしい。 
89年1月 この頃ピザ宅配のバイトをしていたNTはこの日、ピザ屋の バイトでバイクを運転中に、接触事故に遭う。頭を強打する結構マジな交通事故 であった。
怪我を負ったNTは、後輩の下宿先に「お、おい、俺な、交通 事故に遭ったんや。見舞いに来てくれへんか」と電話をしたのだが、普段の行動が 行動だっただけに、後輩からは信用してもらえず「NTさん、もうその手には乗りませんよ。 じゃあ。」と、冷たく電話を切られる始末。もちろん、本当に下宿先に来て くれる優しい後輩もいるにはいたのだが、そいつはさんざん家事や何やの 手伝いをさせられ、正直者がバカを見る結果となったのであった。そして 接触事故の相手も、NTとの示談交渉ではいろいろと大変な目にあったのだ ろうと推察されるが、真相はNTの口から相手の悪口しか出てこないうちに、 闇の中に葬られた。
この事故で、後遺症が心配されたNTだったが、 ドモりが少々ひどくなっただけで済んだのは、不幸中の幸いだった。
89年2月 この日、年度末打ち上げ会を行ったアスレは、その後 宴会会場をK村・T野の下宿先に移した。「この下宿も近々、取り壊すことに なってなあ。」「へー、そうなんですか。じゃあ、もうオレらでぶっ壊しても どうってことないですねえ。」 ほんの冗談だったはずの破壊活動が、NT、Y田と いった破壊魔たちは、徐々に本気になり始めた。最初は面白がっていた部員 たちも、「ちょー、ちょー、それまずいっすよ!」・・と、シャレにならない 状態になり始めた。さすがのNTも、「ちょっとやり過ぎたかな」と思いとどまった のだが、最後まで目をマジにしたまま、「いや、このままじゃ手ぬるい!」  と、真剣に破壊し続けたのが、ヨースケY田。かくして彼らの下宿は壊滅 状態となり、その惨状は「Y田大震災」と名付けられた。結局、住人である K村・T野は、大家から修繕費と共に敷金の大幅カットを言い渡され、その 損害がY田から支払われることは、ついになかった。
94年2月、他の アスレ部員たちと共に、Y田を新居に招いた筆者は、Y田にだけは 家をぶっ壊されないよう、厳しくチェックした。が、幸いにも、「ちょっとジャージ 貸してください。」という彼にジャージを渡し、「これ、ジャージやなくて トレパン、っちゅうんですよ。」とケチをつけられただけで済んだ。
89年3月下旬 小豆島で、アスレ春合宿。
合宿4日目の昼休み、 Y田、NT、F村、F川の4人は旅館の車を持ち出し、山道をドライブに出かけ た。NTを助手席に、F村、F川を後部座席に従え、Y田は軽快に…いや、かなり 暴走気味に飛ばしまくった。悪路の砂道カーブにさしかかり、Y田が「ウォリャ〜、 パリダカじゃ〜!」と叫んだ瞬間、車は横転。アスレ史上に残る、大事故を やらかした。事故った瞬間、Y田が口にした言葉は「NTさん、急に猫が 飛び出したことにしましょうね。」 という、反省のかけらもないセリフだった。 また、それまで「もっと飛ばせ。スピード上げろ」 と口走っていたNTが、 事故の瞬間ため息とともに呟いた戯(ざ)れ言は「そ、そやから、気ィつけろよ言うた んや」 というものだった。 横転した車から、一人ずつ、「ボコッ」「ボコッ」と頭を出しながら脱出する さまは、まるでアポロから出てくる宇宙飛行士たちを見るようであった。
車の修理代は結局、Y田とNTで弁償。あのNTがよく 金を払ったもんだと思うが、そのしわ寄せは、毎夜のようにフロに入りに 来られたり、自分が勝つまで賭けを続けさせられたり…という目に遭った、 後輩部員たちに回ってきたのであった。 
89年春 神大の狭いグラウンドで、アスレは昼休み、いつも 「ボンバーズ」という野球同好会と並んで練習をしていた。ボンバーズとは 特に仲良くもなく、悪くもなく、隣り合っていたのだが、この頃アスレの 誰かが、明らかにボンバーズのバットをパチって練習に使っていた。
そのことに気付いたボンバーズのある部員が、ある日、クレームをつけに来た (まあ当然のことだ)。「お前ら俺らのバット盗ったやろ。返さんかい。 謝らんかい。」これに応対したのが、N出。「誰も盗っとらんわ。なんで 謝らなあかんのじゃ。変ないいがかりつけてきやがって。そっちこそ謝らんかい」 険悪なムードの中、押し問答が続いた。ボンバーは憤懣やる方ないといった 表情で、とりあえずこの場は下がろうとした。すかさずN出「こら。いいがかり つけてきやがって。最後に謝らんかい。」ボンバーは怒り心頭の形相で、 「スンマセンでした!」N出は腕組みしたまま、「そうや。それで ええんや。」 次の瞬間、ボンバーの怒りの右ストレートが、N出の顔面を 炸裂した。
いきり立つ部員たちを抑えて、N出はボンバーの顔を見ると、 「ニヤッ」と笑って、血の混じった唾を吐き捨てた。唾と一緒に、折れた前歯の 欠片がボンバーの胸に飛んだ。「うわっ、これ傷害やで、傷害」 後に保険 会社に就職することになるS本が、すかさず叫んだ。傷害の言葉に、ボンバー はひるんでしまった。
後日、アスレ、ボンバー両部員立会いのもと、 「N出に10万円の治療費を支払う」ことで示談が成立した。勿論、N出の 前歯の治療には10万円もかかってはいなかったのだが…。
後になって、 筆者は「血の唾に、折れた前歯を一緒に吐き捨てるとは、N出、なかなか カッコええやないか。」と言ったが、別の後輩部員は「それにしても、あれ くらいのパンチ、せめてよけるくらいのことはして欲しかったなあ」と呟いた。 
89年11月2日
 マリナーズ・Sライの呼びかけにより、グリーン スタジアム神戸にて、86年入学組・アスレ対マリナーズ対抗戦を開催。 両チーム部員にとっても、ひときわ思い出深いイベントとなった。
大和とか住吉とか、草野球まるだしの球場でしか野球をやったことがなかったアスレだが、この日は 電光掲示板に両軍のメンバーが並び、場内アナウンスまで付き、Sライの コンタクトレンズがずれたためベンチに戻ると、「Sライ選手、ただいま 手当てを行っております。しばらくお待ちください」との場内放送。いや〜、 いい気分だったなあ。
もっとも、アスレの86年入学組は人数が足りない ため、87年組の助っ人を大量に擁しての出場。しかも、その日最も活躍したのは、 ダメ押しランニング・ホームランを放ったタイムリーF村。86年入学組は、 試合では殆ど目立たなかった。 
90年夏 87年入学組有志とNTによる卒業旅行(東北)敢行。 しかしながら、この旅行も結局は、いつものアスレ名物ドタバタ狂騒劇に終始したようだ。
まずはY田とNTで車を走らせていたところ、夜も更けたので無人のドライブインの駐車場で 泊まることにした。するとNTが突然、体をピクピク震わせて「エッ、エッ。」とうなされ出した。 「どうしたんですか、NTさん。」Y田が聞くと、ハッとしたNT「い、今な、キツネが出たんや。 車の外をキツネが取り囲んどったんや。」怖がるNTを見て、面白くなってきたY田「キツネなんて いるわけないですよ。さあ、寝ましょう。」と言いつつ、横目でNTの様子をうかがっていた。 するとNT再び、体をピクピク震わせて「エッ、エッ。」とうなされ出した。「もうあかん、絶対 ここ動くぞ!」と恐怖に満ちたNTであった。
92年3月 事故(2回目)。NTの引っ越しをNT、Y田で敢行。 2トンのトラック(ロング)をレンタルし、NTが運転。NTのマーク2(バン)をY田が担当。1回で完了し、 NTの父博が「ほらな。おとうちゃんの言うた通り1回でいけたやろ。ロングにして良かったやろ」とご満悦になっていた。その帰り、高速のインター降り口でY田がトラックに追突。マーク2が全損した。その夜の博のせりふ「え、事故した?せやからおとうちゃん大きい車はあかんいうたやろ」  
92年春 元アスレ部員、K藤(86年入学)急死。死因は不明。 
94年8月 京都府・亀岡において、すぎゃの幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。以降、年1回の定期的なOB野球が開催される ことになる。 
95年9月 滋賀県・草津において、Y田幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。熱血野球部員・A木と、恐怖の大王・NT、 奇跡の和解。
96年9月 滋賀県・草津において、Y田幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。夜の宴会での佐々木伸一、稲D、N出らの演説は、後世に 語り継がれるべき名トークだった。
97年10月 大阪府において、N出幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。稲Dが連れてきたギャル軍団の一人が、アスレ 部員たちに酒を呑まされまくり、急性アル中でぶっ倒れるハプニング発生。 また、ギャル軍団の別の女性はこの日、K村と劇的な出逢いを果たし、これがきっかけとなって、そのまま 結婚に至った。
98年9月 大阪府・富田林において、NT幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。NTが幹事をやったにしては、驚く ほど立派な球場で、なかなか良かった。しかし、野球の前に、とある彫刻家 のバカでかい彫刻の搬出を手伝わされ、さんざん体力を消耗し、午後の 時点で既に野球どころではなかったのが、残念であった。
99年9月5日
 ノリピーID口、ついに結婚。相手はアスレのライバル、 マリナーズに在籍していたU野(86年入学)の高校時代の友達。ただし、 U野はふたりがそのような関係になっていることを、結婚式直前まで全く 知らなかったらしい。
ID口の旦那のキャラクターであるが、式に出席したT橋の報告によると、
①外見や行動パターンはY田に似ていた (結構 男前)
②話術に長けている。 (なかなかのもん)
③アスレチックな経歴 (卒業してから定職に就くまで色々と経験した模様。 塾の先生、ウェイター、役者?などをしてたらしい。 定職に就いても台湾で働いていた模様?)
「一度ゆっくり話をしてみたいと思わせるオモロイ奴や」との事である。 要するに、アスレ的な人物、ということのようだ。
左の写真は、結婚式での2人。なるほど、Y田に似た感じの、なかなかの 男前だ。

99年9月 長野県・赤石において、Y田幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。・・・筈だったが、参加者が集まらない、対戦 相手がいない、台風が接近する、の三重苦に陥り、開催3日前に中止が決定。 風雅な温泉ツアーは幻と消えた。
99年10月 NT、Cさんと結婚。親戚家族だけで式を 挙げた後、友人を呼んで二次会が開かれた。しかし、会のあとはNTは仕事 関係の人間と三次会に出かけ、出席していたアスレの面々は置いてきぼりを 食った。 
99年11月6日 稲D再婚。和歌山で結婚式を行う。
アスレからは、NT、N出、F留、K村、T橋の 5名が1つのテーブルに座る予定だったが、 テーブルにいたのは3人だけのスカスカ状態で 披露宴を迎えた。
結局、K村は1時間遅れ(事前連絡はなし)。 NTは欠席。前日?にN出が橘に 聞いたところ…
(二人の会話)
「橘さん。結婚式どうするんですか?」
「うーん・・・・。やめとくゎ。」 と、ただそれだけだった。
ちなみに、二週間前のNTの二次会で、NTは稲Dに しつこく披露宴の案内を送れと催促までしていた。

2000年11月1日 元アスレ部員、M嶋(87年入学)逝去。 ご冥福をお祈りいたします…

2000年11月 長野県・長谷村において、Y田幹事のもと、アスレ OB有志による野球&カラオケ大会が開催される。会の模様については、
OB会報告 をご参照されたい。
2001年2月  昔から火遊びの好きな奴だったY田だったが、この日ばかりは本当に作業場を燃やしてしまい、 シャレにならない事態を迎えてしまった。これにはさすがにアスレの面々も心配しまくったが、 まるで火の中から飛び出した不死鳥のごとく、再び復興に向けて まっしぐらに進んでいる。
2001年6月 兵庫県・姫路市において、T橋幹事のもと、アスレ OB野球大会が開催される。会の模様については、 OB会報告 をご参照されたい。
2001年10月 N出、Hさんと結婚。筆者も披露宴に出席するつもりで楽しみに していたのだが、直前に仕事が入ってしまい、泣く泣く欠席を余儀なくされた。当日の式に 出席した人がいたら、ぜひ式の様子を教えていただきたい。
2001年現在  いまもアスレは営々と存続中。現役部員による 公式HP も出来ている ようだ。
 

・アスレ諸氏へ情報提供のお願い
このアスレ小史は、将来的にすべての出来事を網羅したいともくろんで おります。たとえば、外国人ギャル事件とか、トメ・野首事件とか、キイチ詐欺被害事件とか。
ただ、私だけでは、持っている情報量が決定的に足りません。
そこで、皆さんの中で、過去の事件について知っている情報があったら、ぜひ 「掲示板」を使って、教えていただきたいのです。
すでに小史に載っている出来事について、「これは実はこれこれこういうことで、 こういうエピソードまであった。」という類の情報も歓迎します。

情報は「掲示板」まで

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アスレチックスOB会名簿
彫刻家・橘宣行のページ
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