アスレ名簿
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アスレチックスOB部員名簿

[敬称略(プライバシー保護のため本名は伏せてあります)]
内容は一部誇張してます。 くれぐれも全部本気にせんように。

情報は随時更新していきます。乞う情報


アスレチックスOB部員名簿・81〜84年入学組 はこちら

アスレチックスOB部員名簿・88年入学組 はこちら


エースA木(84年度入学) 投手 背番号16

アスレには珍しい、本格派熱血野球部員。そもそもそんな本格的に野球を やろうという人が、なんでアスレなんかに入ったんだろう・・・と考える のは、NT世代以降に入部した奴だ。もともとアスレは、黙々と野球に取り 組む、本格野球同好会だったのである。
そのような本格派の代表格だった彼は、野球に対して常に真摯に取り組んでいた。 が、筆者がこのコーナーで「部員が軽率なプレーをすると激怒しマウンドにグローブ を投げつける」などとさんざん誇張しまくっていたものだから、いつの間にか そのイメージだけが独り歩きしてしまうようになった。…ここで本人の名誉のために 申し添えるが、実際には、そんな怖い人ではないんですよ。OB会でもフランクに語り合い、 「今日はええOB会やったなぁ〜」と感慨にふける、愛に溢れた人なんです。
現在、妻と娘2人の4人家族。
ノリピーID口(86年入学)マネージャー

4年間も男子ばかりの野球同好会のマネを務めながら、ついに誰 にも口説かれることのなかった、貴重な存在のマネージャー。
大体、アスレに入ってきたマネージャーは、3つのパターンに分類される。 まずは、新歓コンパでアスレの非道なノリについてゆけず、二度と現れる ことなく去っていくパターン。2つめは、部員の誰かの甘い言葉に騙されて つきあい始め、最後には案の定ポイ捨てされて、泣きながら傷心のもとに去っていくパターン。 そして3つめ が、彼女やはっちゃんなど、お局さんとして立派に定年退職まで勤め上げるパターン。 とはいえ、竹を割ったようなからっとしたキャラクターは、アスレを象徴 する存在であり、先輩後輩を問わず、すべての部員から可愛がられていた。 とにかく、野球が好きだったことだけは確かなようである。
99年9月、ついに結婚。和歌山で夫婦生活を送っている。毎年、旦那と 一緒になってオモロい年賀状づくりを楽しんでいるようだ。
岡本光・稲D(85年入学)主将・投手 背番号8

入学時には驚くほどすばらしい豪速球を投げ込み、卒業時には驚くほど 情けないヘロヘロ球しか投げられなくなっていた元投手。晩年には「岡本 光」の異名をとっていた(岡本光のことを知っている奴も、もう少ないん だろうなあ)。86年の秋には、公式戦で登板中に右腕を骨折。投手生命を 終えた彼を哀れむ者は、しかしながら誰もなし。「京都稲D会」の手厚い 看病のもと入院生活を謳歌する彼の姿を、心の底から妬んでいた輩が 多かったと聞く。
かように、常に女に囲まれて大学生活を送っていた彼は、結婚後も 波風のない日々を送れぬ結果となり、娘さんまで もうけていたにもかかわらず、結局離婚。
そして1999年11月6日に、 再婚。挙式は和歌山で行った。 アスレからは5人が披露宴に招かれたが、開始の時点で席についていたのは 3人だけ。残る2人のうち、K村は事前連絡なく1時間遅刻。NTに至っては 無断欠席。結婚早々ケチをつけられる結果 となった。
漫研ウエジョ(85年入学)内野手 背番号6

漫画研究同好会とアスレを掛け持ちしていた、風変わりな部員。小柄でポチャッ、 眼鏡をかけた無口な学生・・・と、漫研の標準的外観は兼ね備えていた。 お世辞にも戦力になる・・とは言いがたいプレイぶりだったが、年に一回だけ、 素晴らしい快打を放つのが特徴だった。筆者は今でも、マリナーズ戦で満塁 から鮮やかな走者一掃の左中間二塁打を放った彼の活躍が脳裏に刻まれて いる。
T橋さん情報によると、ウエジョ氏もすでに結婚しているとのこと。 (これで、独身のままでいるのは、いよいよK西と落研ニシダくらいか?)かつては四国の 新居浜に勤務していたのは間違いないようだが、今は夫婦でどこに暮らして いるのだろうか、情報乞う。
ヒゲ魔人E指(84年入学)捕手 背番号14

本格派熱血部員・A木の一番の理解者。実際、彼の豪快かつ堅実なプレイ は、A木の信頼を得るに充分であった。
しかし、その一番の理解者であるはずの彼が、たまたまA木が欠場した 試合(86年春の関大戦)の前に「今日はノビノビ野球やなあ」と ニコニコしながら発言したのを、他の部員は聞き逃さなかった。
男気に溢れる親分肌でもあった。86年秋、筆者が登板した試合が2試合連続0−0に 終わったとき、次の試合(京大戦)が始まる前に「今日こそはこいつ(筆者のこと) を男にしてやろうぜ!」と部員に叫んでくれたときには、胸にジーンと来るものがあった。 しかし、その試合で彼はなんと、3打席3三振!やはり、アスレに熱血感動ドラマ は似合わないようである。
現在、兵庫県公務員。県内を駆けずり回っている。
パパガーO柿(86年入学)投手 背番号9

アスレの主だった行事にはことごとく参加しているくせに、残したエピソード がほとんど全くない、退屈な人物。OB野球にもこまめに来ているが、笑い を提供することができないので、代わりにガラクタ参加景品を提供してお茶を濁して いる。
佐々木伸一(87年入学)内野手 背番号69

性格は、背番号がすべてを物語っている。
入部当時は、まったくのオチャラケ非戦闘要員。セカンドを守らせても、 意味なくグラウンドを転げまわるだけで、そのグラブにボールが入っていた 試しは一度としてない。そんな彼が、2年になって突如開花。アスレ史上 に輝く、1試合5打数4安打の固め打ちを果たしたり、首位打者を獲得 したりと、大活躍。球場外でも「運転手さん、テンノ〜ジお願い します」と、連夜のようにバットを振り回していたらしい。
現役時代、アスレの合宿の夜、麻雀に加わったNTは、後ろで見ていた彼に 「おい、オレ麻雀よう知らんから、後ろからあれこれ言うてくれよ」と言った。 すると彼は 踊りながら、「あれこれアレコレあれこれアレコレあれこれアレコレあれこれ アレコレ〜」とやり、NTに「ドアホ〜!」と蹴りを入れられた。
津田・K月(85年入学)外野手 背番号7

3年の夏にヨーロッパ旅行に出かけてしまったために、同期のT橋から 妬まれ、除名されてしまった、気の毒な元部員。
しかし、彼の側にも 問題なしとは言えない面があったのも確かで、元々アスレの奴らが企てる 旅行といえば、神戸から伊豆まで高速道路など使わずに一般道だけで走り 抜いたり、日本海に行ったはいいが宿泊代をケチって 海辺でキャンプを張ったり、スキーに出掛けたは いいが夕食代をケチって自動販売機で200円のカップヌードルを2個 買って「今夜は豪勢な晩めしやなあ」とほざいたり・・・といった、超貧乏 旅行ばかりなのであった。それなのに、あろうことか海外旅行とは・・・ 海外といえば淡路島しか知らないT橋にばれた時点で、もう不運だったというしかない。
バイリンガルK西(85年入学)外野手 背番号11

アスレには珍しいガチガチの硬派キャラ。そのバイオレンスぶりは、球場 でも私生活でもひときわ光っていた。
まず野球では、センターを守る 彼からのキャッチボールの球を受けたレフトが、あまりの威力に手首を ネンザしたというほどの強肩。加えて、キャッチボールの球がとんでもない方向に行って しまい、外野の端まで取りに走らねばならないこともしばしばだったという ほどのノーコンぶり。
そして私生活では、山陽電車に座っていると、 目つきが悪いという理由で突然高校生に絡まれ、目が合うやいなや、 そのチンピラをボコボコにしばき上げてしまったというほどの喧嘩っ早さ。
長い間仕事の関係で渡米していたが、2003年夏、4年ぶりに帰国。全く 喋れなかった英語も見事に上達して帰ってきた。
坂根(86年入学)投手 背番号不明

あまりにも野球がうますぎたため、同期のNTから疎んじられ、ついには 締め出しを食らってしまった、気の毒な元部員。
しかし、彼の側にも問題なしとは言えない面があったのも確かで、バイト に行く時間が迫ってきたために、3塁走者だった彼はノーサインで突如、 ホームスチールを敢行。しかもそれがセーフになり、悠々とベンチに戻る と、「それじゃ」とクールに言い残して帰っていってしまうなど、個人 プレーも目立った。こういうキャラクターは、アスレに入ってしまった時点 で、もう不運だったというほかない。
海外勤務SW田(84年入学)主将・内野手兼外野手 背番号26

ぽっちゃりした体がトレードマークの、元主将。「ウォェホホホ〜」と いう独特の笑い声は、いつでも周囲をなごませる不思議な魔力を持って いた。
彼が主将時代、印象に残っている試合は・・・。 0対0で1アウト3塁でバッター、某部員。 彼が近寄って「スクイズと打つのはどっちが確率が高い?」 と聞いたら某部員が「スクイズは下手なので、打つほうがまだマシです」 と情けない返答をした。 その打席は、なんとか犠牲フライで点を取り、1対0のまま逃げ切り勝利を 収めた。主将として部員を信頼し、部員も結果を残して信頼に応えた その試合で彼は、主将として充実した気分になったそうだ。しかし、 その時に某部員は打った瞬間、「やった、ホームラン!」と思ったというほどの 完璧な手応えだったにもかからわず、打球はヘナヘナと外野の定位置に までしか飛ばない凡フライで、犠牲フライになるのがやっとだった、という 秘話は、今だ某部員(背番号9)の口から明かされていない。
現在は某フィルム会社に勤める。2001年、Y田家具にテーブルを20万円で注文。 注文後半年たって届いたテーブルは見事な出来栄え。 その素晴らしさは 「家具館」 のコーナーにて確認されたし。
2002年末、アメリカへの海外転勤を命じられ、高級食卓は残念ながら持っていけず 倉庫保管ということになった。
世渡りC方(86年入学)内野手 背番号17

現役当時から女を口説くのがうまく、後輩のマネージャーを手に入れたり、またバイク で人身事故を起こしたとき「歩行者の側に問題があった」と主張、歩行者 から損害賠償をせしめてしまったというしたたかさを持ち合わせていた、実に要領のいい 世渡り巧みな部員。
2003年6月、卒業して以来13年ぶりに筆者は彼と再会を果たした のだが、現在は某一流企業で課長代理を務め、秋には高級住宅街にマンションを購入する予定 とのことで、世渡りの巧さはまったく衰えていなかった。
ギバS本(87年入学)内野手 背番号3

アスレ史上屈指のトップバッター。初優勝を果たした88年秋のシーズン は特に活躍。堅実な守備にも定評があった。加えて、 柳葉敏郎に似た甘いマスク。にもかかわらず、女を騙してポイ捨てなどといった、 非人道的なことはやらない。・・・こんな奴が、なんでアスレで生き残る ことが出来たのだろう?
現在、N生命に勤務。会社の先輩・C方から、ポイ捨てのマニュアル を学んでいるらしい。
すぎゃの(87年入学)捕手兼外野手 背番号44

元ヤクルト・八重樫のような風貌の、アスレきっての野球おたく。どういう ところがおたくかと言うと・・、例えば走者を2塁に置いて打順が回る。 普通なら「よし、ここはタイムリーヒット打ったる!」と意気込んで打席に 向かうものだが、彼の場合はセカンドゴロを打つのだ。そして、「俺の 進塁打でランナー3塁に行った」ことで、チームに貢献した自分に深く 満足するのである。このようなおたく性を秘めた性格であったため、しか も自己陶酔の気もあったため、彼を麻雀のメンツに加えると独り言がうる さかった・・・いや、面白かった。
昔から、何だか良いパパといった風貌 だったが、今では本当に良いパパさんになっているらしい。
神出鬼没T口(87年入学)マネージャー

いつも知らない間に球場に現れ、知らない間に消え去ってしまっていた 謎のマネージャー。2001年のOB会でも子供を連れて突如現れ、知らない 間に消えてしまった。旦那さんはなんと、T橋が勤める会社の顧問弁護士を しているらしい。結婚してからも、アスレとの輪は断ち切れない運命にあるようだ。
ライダーT尾(86年入学)投手兼外野手 背番号不明(情報乞う)

NTのツーリング仲間。現役時代からどうも、野球よりもバイクに本腰を入れていた ようであった。C方と決定的に違ったのは、NTを立てて乗せるのが上手かった こと。Y田と並び、NT操縦法の腕前では双璧の存在だった。
95年の 阪神大震災では、須磨の実家が被害に遭ったものの、無事に復帰。現在も 元気にバイクを操っている(はずである)。OB野球にも参加しているが、 いつも泊まりなしで帰ってしまう。たまにはゆっくり飲み明かしたいもんだ。 2000年5月、めでたく結婚。いかにも幸せな家庭を築きそうな予感だ。
毛穴ボンT野(85年入学)外野手 背番号不明(情報乞う)

知らない間に入ってきて、知らない間に出ていった風来坊の部員。88年冬の赤倉スキー旅行に出かけたとき、「イエロ〜 ア〜ト。」「毛穴がボン!」のギャグで、人気が爆発した。 現在、神戸で教師をやっている・・・筈である(乞う情報)。
あごむしT橋(85年入学)主将・捕手 背番号5

その輪郭からして、花王にでも入っていればぴったりだったのに、なぜか Oムロンに入社。22年間住みなれた姫路から離され、東京配属 にされる。慣れない東京生活にやがて耐え切れなくなり、 たった1年で転職。姫路に本社のある某社にFAしたのだが、 なんと、そこでも東京に配属!あきらめて東京に根を降ろせばいいものを、 わざわざ姫路につくった彼女と遠距離恋愛。ついには結婚にこぎつけ、後に 本社転勤で晴れて地元復帰。現在も、地元・姫路でいきいきと暮らしており、 2人の娘に、「う〜ん、ふたりともカワユイでちゅね〜」 と、べたべたの日々を送っている。
嫁はんのことも紹介したいのはやまやまだが、「うちの嫁はん、美人やろ。 ここで紹介されて、男が寄ってこられたら困るから、やめて。」との 本人からの申し出により、ここでは断念する。
NT(86年入学)主将・捕手 背番号0

ご存知、アスレ帝国の「恐怖の大王」。本格野球同好会だったアスレチックスが いつの間にか爆笑暴走軍団のアスレに変わり果ててしまった原因のすべては、 彼である。
NTの諸行の数々は、とてもこの項で書ききれるものでは ないので、別枠の「アスレ暴虐の足跡」というヒストリーのコーナーをご参照 いただきたい。あちこちにNTの名前で活躍の歴史が刻まれている筈である。
1999年10月、東京出身のべっぴんさんのお嬢さん・Cさんと 結婚。身内だけで式を済ませたあと、友人を呼んで 二次会を開催。アスレ史上に残る大宴会になるか…と思っていたら、 本人はアスレ連中をほっぽりだしたまま、仕事の関係者と3次会に行って しまった。NTにして、旧友よりも仕事のコネクションを優先するとは… 。
あのいい加減さに、すぐに奥さんが我慢できなくなるのではないか …との周囲の心配をよそに、今のところは夫婦生活を続けているようである。
サーファーT本(84年入学)外野手

'85年和歌山の夏合宿に、良い波がないことを知り、不参加を機に来なくなってしまった。 物凄い強肩で外野捕殺をやったことがある。
てんやわんやN出(87年入学)主将・内野手兼外野手 背番号37/8

88年、アスレが初優勝を飾ったときの主将。といっても、そんな事ァ誰も 覚えちゃあいない。みんなが憶えているN出は、謎の手術事件で大事な 試合を3週間ばかり欠場した N出であり、ボンバーズ殴打事件で前歯と引き換えに10万円をせしめたN出であり、89年春 の合宿にて掃除機で悪ふざけをして、腹を抱えて笑ったN出で あり、89年夏の合宿で手足を縛られて体じゅうマヨネーズを 塗りたくられたN出であり・・・。そんなおちゃめなN出も、 けっこう素直なところがあり、95年にヨースケY田が結婚したとき、式の 案内状に「平服でお越しください」と書かれていたため、本当に普段着で現われ、 「Y田、平服でって書いてたやないかー。」と言ったというエピソード を持つ。いや〜、 オレは好きだなあ、こういうキャラクター。2001年10月、ついに結婚した。 相手のHさんは純情で内気そうなお嬢さん。アスレの面々を見て、卒倒しなければ よいが…。
最後に、N出が現役時代に見せたスーパープレイをひとつご紹介。筆者が登板 したある日の試合で、相手打者に快心のセンター前ヒットを打たれた。と 思った矢先、センターを守っていたN出は、その打球を掴むやいなや、一塁へ 矢のような大返球。見事打者走者をアウトにした。「ライトゴロ」はたまに 見かけるが、打者走者を刺して「センターゴロ」を達成したのは、後にも先 にもN出のこのプレイしか筆者は記憶にない。
落研・西D(86年入学)投手兼内野手 背番号14

黙っていればちょっと二枚目風のいい男なのに、口を開くとアスレ丸出し の、個性派部員。その人格は高校時代に、男性部員が彼一人だけだったと いう「落語研究会」で形成されたようである。
アスレの連中にはまっとうな 人生を歩むのが苦手な輩が多いが、彼もまた、理学部の大学院にまで進学 していながら、なぜか当然、中退。進学塾の講師に転身し、現在に至っている。
近況は不明だが、いい年してT橋夫人の妹に合コンを申し込んだりしているところを みると、まだ独身のままブラブラしているようだ。しかも、その合コンの場で、 デビルマンはじめアニメの話題でひとり盛り上がり、ギャル連を思いっきり 引かせてしまったなどという話を聞くと、結婚の予定も当分はなさそうである。
スナックH野(84年入学)守備位置不明

俊足で高校時代体操部。なかなかバットに球が当たらなかったが、当たれば でかかった。カラオケ好きで既になじみのスナックを持っていた。
スーパーサラリーマンF永(84年入学)守備位置不明

MBAと限定解除を持つスーパーサラリーマン。1回生のとき、初出場の初打席でいきなり 二塁打をかっとばしたスーパールーキー。 その後E指に取って代わられるまで4番バッターを務めていた。
2001年9月、筆者と十何年ぶりかで会ったF永氏は、ややふっくらした顔ではあったが、ほぼ大学 時代のまま。銀行員からFAして、衛星を取り扱っている会社に入り込んでいた。
メゾンド・セリーヌF川(87年入学)外野手 背番号1

アスレの笑い増幅器。彼自身は特別オモロいことを言ったりしたりするわけ ではないのだが、誰かがアホをしたときに彼が「ははははは〜!」とバカ笑いすると、 なんだかとてつもなくオモロい事が起きたような雰囲気になって、その場が 盛り上がる、という不思議な力を持っていた。彼は人生哲学において、シンデレラを 反面教師にしていたふしがあり、どんなに場が盛り上がっているときでも、 帰りの終電の時間が近くなると、「ははははは〜!ハア〜、・・・帰りますわ」と 言って、静かに去っていくのであった。
現役時代から車が好きだったが、 就職先もやっぱり「Tヨタ」。
タイムリーF村(87年入学)投手 背番号25

88年秋、アスレを初優勝に導いた、屈指の名投手。いつもクールで、いか なるときでも表情を崩したことのなかった彼だが、優勝のビールかけの際 撮った記念写真には、不覚にも取り乱した彼の姿が写し出されていた。部員 はみな、優勝したこと以上に、F村の取り乱した姿が見れたことを 喜んだ。
NTが何かギャグをとばすと、「うーん、タイムリー!」とか、 「ちょっと外したかな〜?」と合いの手を入れるのが得意で、その度にNTが 、「おのれ、いちいち俺のギャグを評論すな!」とぼやいていた。
現役のときから、投球内容も私生活も堅い奴だったが、就職先もやはり、 堅く「M紅」。現在、エリートコースをまっしぐらに進んでいる。
マッシーM嶋(87年入学)代打一振り稼業 背番号64

個性派ぞろいのアスレの中でも、ひときわ異彩を放っていた名部員。 88年冬頃、某部員の下宿に頻繁に出没していた外国人ギャルの一人は ある日、M嶋を見て、「あなたフィリピーノ?」と聞いた…という逸話 から、どんな風貌であったかは大体想像できよう。
大量リードを奪われた7回の攻撃になると、代打で登場することが多く、 「アスレ名物7回表」 の異名で我々を楽しませてくれた。
2000年11月1日、がんのため 逝去。ご冥福をお祈りいたします…
三重殺M本(84年入学)内野手

長身。トリプルプレーをやったことのある二塁手。2001年のOB会に 実に久々に現れたが、すっかりサッカープレーヤーに変身してしまっていた。
シニアY岡(85年入学)守備位置不明

田淵にフォームが似ており、1回生の時はT橋よりよく打っていた。 2回生になり、「ジュニアY岡」が入部すると、徐々に現れなくなった。
ジュニアY岡(86年入学)外野手 背番号不明

筆者とは同期の部員。なかなか野球もうまく、戦力になっていたのだが、 そういう奴に限って最後まで生き残らないのがアスレの宿命か。
ヨースケY田(87年入学)投手兼外野手 背番号24

ニコニコした、いかにも好青年といった感じの第一印象だが、NTを盾にして その後ろでいつでもやりたい放題悪さをしていたのは、すべて彼で ある。彼の活躍をあげればきりがないが、2,3挙げるとすれば、K村の下宿を めちゃめちゃに破壊しておきながら、修繕費の大半を、なぜかK 村の兄貴やT野に払わせた「Y田大震災事件」とか、89年春の小豆島合宿で、旅館の車を持ち 出して山道を「ウォリャ〜!パリダカじゃ〜!」と叫びながら暴走し、砂道で 横転。その弁償金の大半をNTに払わせたという「パリ・ダカ事件」が双璧である。 ・・・ある意味では、アスレの中でも最もアスレ らしい人物である。92年の夏、気まぐれで受けた共同通信社に、なぜか 合格。彼以上にパワーのある女の子を社内で見つけ、 嫁にめとったかと思うと、97年暮れに突如退職。家具職人になると 言い出して、長野の塩尻で修行を開始。99年11月より、いよいよ独立。自分の仕事場をスタートさせた。
昔から火遊びの好きな奴だったが、2001年2月、本当に作業場を燃やしてしまった。これには さすがにアスレの面々も心配しまくったが、まるで火の中から飛び出した不死鳥のごとく、復興に向けて まっしぐらに進んでいる。2002年には新しい工房も完成。2004年、新居を手作りで建設中。
独立後、NTのテーブル(40,000円)に 実家の座卓(150,000円)、N出の妹さんが注文した飾り棚兼書棚(120,000円)、T中の娘さん用子供机(¥カニ食べ放題) など、多数の家具を鋭意製作。Y田に家具を注文したい方は 「吉田家具のコーナー」 をご参照のうえオーダーされたし。

ここから先は、特別OB部員の名簿です。

びっくらこSライ(86年入学)マリナーズ 内野手 背番号26

アスレのライバル、神大マリナーズの元三塁手。 89年11月2日のグリーンスタジアム神戸における アスレ−マリン対抗戦を企画。両チームにとってひときわ思い出深いイベントを 成し遂げた、功労者である。
その破天荒なキャラクターは、 真面目でスマートなイメージのマリナーズに置いておくには惜しい存在だった。 彼が学生時代にいつも言っていた「サンキュー、オバQ、おにぎりキュー。」 というギャグは、長い間、我が家の流行語になっていた。彼からのメールには いつも、文末に「地上に降りた最後の天使」と署名されている。彼の過去の諸行の 数々をよく知っている筆者は、「なーにが天使や」と思いつつ、「地上に這い出た 最初の悪魔」と署名して、返信している。
99年10月12日、那須の教会にてミホ夫人と結婚。夫人も彼に負けない、なかなかの キャラクターの持ち主だ。2000年2月には長い地方勤務を終えて、 遂に首都圏に復帰。2001年12月には待望の長男・ユウ君も誕生。 2002年には栃木に土地70坪もある超豪邸を購入!順風満帆の生活を送っている彼に、今後 どのようなアクシデントが襲ってくるのか、こうご期待。
アベシT坂(86年入学)マリナーズ 外野手 背番号28

本名を言っても「誰?それ」とみんな首をひねるが、「あだ名はアベシ」と言うと、「 ああ、あいつね」と、誰もがピンとくる人物。現役当時、チームメイトのSライがよく 「今世紀最後の珍獣」と形容していたが、新世紀を迎えてしまった今はどのような姿に 変わっていることやら。現在、独身のまま愛知県に在住。 2002年にはインドに出向したはずだが、その後の消息は不明。
ウエウU野(86年入学)マリナーズ 外野手 背番号?(情報乞う)

アスレのマネージャー、ノリピーID口が結婚した旦那さんとは、高校時代の友達。 ただ、彼はふたりが結婚することを、直前までまったく知らなかったそうだ。
当の本人は、 雑誌の編集をしている才色兼備の奥さんと結婚していて、子どもをふたり(女の子と男の子) もうけている。
 

・アスレ諸氏へ情報提供のお願い
このOB会名簿は、常に最新の情報に更新しています。
ただ、私だけでは、持っている情報量が決定的に足りません。
そこで、皆さんの中で、各部員について知っている最新情報があったら、ぜひ 「掲示板」を使って、教えていただきたいのです。
すでに名簿に載っている部員について、「こんなオモロいエピソードも あった。」という類の情報、「いまヤツはこんなことしている」 という近況情報も歓迎します。
また、不明だった部員の情報の数多くを、Y田くんに提供して いただきました。この場をお借りして、深く感謝申し上げます。 御礼の意を込めて、無償でコマーシャルを一つ。「手作り家具のご用命は、 Y田家具 へ。」

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