アスレ名簿
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

アスレチックスOB部員名簿・81〜84年入学組

[敬称略(プライバシー保護のため本名は伏せてあります)]
内容は一部誇張してます。 くれぐれも全部本気にせんように。

情報は随時更新していきます。乞う情報

ベアーS山(81年度入学) 背番号6、セカンド兼ファースト兼監督、83年度主将

体格、人柄まさに監督。試合に出ている印象がない。 おそらく出ていないのであろう。試合中に相手チームが彼を指し、「熊の置物のとこ打ったらみんな ヒットやぞ」との野次を聞いて 82年入学のY本はしばらく笑いがとまらなかった…らしいような体型を想像してください。
ハセヤンH谷川(81年度入学) 背番号7、レフト、83年度副主将

男前。外野守備は非常にうまく、彼女も美人だった。アスレにないタイプ。
セーヤンS川(81年度入学) 背番号11、ショート兼ピッチャー

投打の中心。大柄。グローブを震わせて投げるフォームをE指がよく真似をしていた。
マジギレK林(81年度入学) 背番号17、サード兼ピッチャー

粘投派。顔に似合わず非常に激しやすく、相手チームを野次って乱闘になりかけたことがある。 アスレきっての武闘派・K西とは、ちょうど入れ替わり。鉢合わせなくて、よかったなあ。
ブルペン打者H井(81年度入学) 背番号5、ファースト

長距離バッター。教養部グランドでのフェンスオーバー連発。しかし試合で はほとんど球があたったのを見たことがない。
スパルタK岡(81年度入学) 背番号4、キャッチャー兼ピッチャー

A木が唯一恐れ尊敬する非常に怖い人。本当はやさしいが、後輩を 非常に厳しく夏の戸狩合宿で鍛えてくれた恩人。 84年の春季リーグでは最も打ち、盗塁も刺せる名捕手だった。
一留N田(81年度入学) 背番号2、センター

1年間勉強を多くやったので、後輩部員と2年付き合えた。 一留しただけあって、外野守備も一流だったらしい。 顔はいかめしいが、ギャグは非常におもしろかった。 まじめなのかふまじめなのかよくわからない、アスレ的人物であった。
2003年暮れ、ひょんなことから「ガーガーらんど」にアクセスしてくれた物好きな先輩。 これからも貴重な話を提供してくれる情報源として期待しております。
甲子園T田(81年度入学) 背番号8、セカンド

身長は81年度組で1番低かったが、守備・打撃共渋いプレーで野球をよく知っていた 。「超」がつくほどの高校野球好きで、高校野球のTV中継中は 友人からの電話にも決して出ず、スコアブックを書きながら見ていたらしい(筆者とは かなり気が合いそうだ)。就職してからも 「8月8日から14連休」の休暇取得を目標にしているとのこと。20年後にはきっと、 連日ネット裏に通い「名物甲子園 おじさん」として有名になっていること間違いなし。
実に真面目な性格で、講義への出席・欠席を「出席→○」「欠席→×」「遅刻または途中退席→△」 「休講→傘のマーク(←スポーツ新聞の見すぎ)」などと出欠を記録していた。(同じことを 後輩のアスレ部員にやらせたら、きっと途中から「彼女と→H」「自分で→千」「福原へ→泡」 などといった内容に堕ちていくことだろう)。このように学業に関して真面目で、 工学部で同じクラスであったセーヤンS川氏が卒業できたのもT田のおかげである、との情報あり。
サブマリンY本(82年度入学) 投手 背番号18

18番のエース。オーバースローで投げるとノーコン。「肩が痛い」と言って アンダースローで投げ出した途端、いきなりアスレが勝ちだした。 ('84秋リーグ。ちなみに'84春は全敗(2引分けぐらいか?)) 明るくくだらないギャグを飛ばす愛すべき和歌山県人であった。
漫研I川(82年度入学) 漫画稼業に専念

漫画研究会兼務。そっちが忙しかったのかあまりこなかった。結構怖い人。
極道くんY下(82年度入学) 守備位置不明

色眼鏡がトレードマーク。風貌も合間って、かたぎの人間とはとても思えなかったが 非常にやさしく面白い人。野球も非常にうまかった。
ジャビットH内(82年度入学) 内野手

大の巨人ファン。ラジオにイヤホーンは欠かさず持っていた。部員たちは最初、競馬にでも 熱中しているかと思っていたが、実は巨人戦を必ず聞いていたのであった。 長距離ヒッターだったが、なかなかボールに当たっていなかった。 内野守備は非常にうまく、1試合3併殺を記録したこともあり。
助っ人K冶(84年入学)助っ人

'85に来てもらった助っ人。E指、A木と同じ高校の同級生。
助っ人2号(84年入学)助っ人

A木の友達で、西宮グランドで柵越えホームランを打った男。 大和公園でもホームランを打ち、2試合連発の偉業達成。 助っ人だったためユニフォームではなくジャージであった。 当時、他チームからは「アスレのジャージには気をつけろ」との標語が でき、キャプテン会議で「ジャージ禁止令」が出てしまった。
このように、リーグ会議で標的にされてしまうことがアスレには多く、86〜89年ごろ アスレにいたNTはことのほかヤジが下品で、とりわけ味方が凡フライを打ち上げたときに 相手が捕球寸前に「プ〜。」と声を上げるという、まるで小学生そのもののような行為を 繰り返していた。これもリーグ会議で槍玉に上がり、「プーは禁止にしましょう。」という プー禁止令が出されてしまい、出席した某主将が赤っ恥をかいたということもあった。


アスレチックスOB部員名簿・84年以降入学組 へ続く


 
・アスレ諸氏へ情報提供のお願い
このOB会名簿は、将来的にすべての元部員を網羅したいともくろんで おります。たとえば、端野さんとか、吉岡シニア・ジュニアとか、纐纈とか。
ただ、私だけでは、持っている情報量が決定的に足りません。
そこで、皆さんの中で、元部員について知っている情報があったら、ぜひ 「掲示板」を使って、教えていただきたいのです。
すでに名簿に載っている部員について、「こんなオモロいエピソードも あった。」という類の情報、「いまヤツはこんなことしている」 という近況情報も歓迎します。
また、81〜82年入学組の部員については、情報のすべてをSW田さんとN田さんに 提供して いただきました。この場をお借りして、深く感謝申し上げます。

情報は「掲示板」まで

アスレ・トップに戻る
アスレ暴虐の足跡
彫刻家・橘宣行のページ
・アスレ情報はこちらへ。 「掲示板」


トップページに戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください