このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
<岬と灯台写真館>
豆酘崎と豆酘埼灯台(長崎県)
1996年9月15日午前に対馬の豆酘崎(長崎県)で撮った写真です。
9泊10日で、九州北部の旅に出かけ、まず最初に飛行機を乗り継いで、対馬空港へ下り立ちました。その日は、観光バスで厳原町周辺部をめぐり、民宿「豆酘」に泊まりました。ここは、宮本常一編著『日本の宿』に出てくる郷宿に起源する宿で、昔、豆酘(つつ)の人々が厳原に出てくるとき泊まるために設置されたものです。翌日は、朝からレンタカーを借りて、下島を西海岸から一周してみることにしました。加志浦、今里浦と静かな入り江があり、漁港となっています。時々車を停めながら、景色を眺めて写真を撮りつつ、巡っていきました。小茂田、椎根あたりには、石屋根倉庫が見られ、独特の風情があります。山に入ったり、海岸に出たりして、南端の豆酘(つつ)へと至りました。美女塚を見てから、尾崎山へと上っていったのですが、そこには、白亜の豆酘埼灯台がそびえていました。天気も良く、対馬海峡も見渡せてすばらしい景色です。ワンダフル!
☆豆酘埼灯台 | 地図 |
豆酘埼灯台 (1996年9月15日撮影) |
| <特徴> <歴史> <現況> |
豆酘崎周辺の海 |
東シナ海に突き出るように豆酸(つつ)崎が伸びています。この辺りは朝鮮海峡と対馬海峡の境目にあたり、潮流が速く、昔から会場の難路として知られてきたところです。岬一帯は、尾崎山自然公園として整備されていて、遊歩道、休憩所、展望台などが設けられています。また、水平線に沈む夕陽のすばらしいところとしても有名です。
豆酘の美女塚 |
豆酘に美女塚があり、碑文に次のように書かれていました。「昔、豆酘の天神山の麓に鶴王という美しい娘がいた。年老いた母親をとても大事にし、村一番の働き手でもあったので、誰言うとなく「美しい孝行者の鶴王御前」とよぶようになった。鶴王御前の評判が、やがて都に伝わり采女(うねめ)として召し出されることになった。老母を残しての旅立ちに心を痛めた鶴王は、輿をこの村境の「トンモト山」の丘にとめ。役人に急に小用がしたいといって、道より少し離れたやぶの中に入り舌をかみ切った。真っ赤な血にそまり、息もたえだえに「美人に生まれたが故に、こんな悲しい思いをして死なねばならない。どうか、いまから、豆酘には美人が生まれないようにお願いします」と言って息絶えた。村人達は、薄幸な美しい孝行娘鶴王の死を哀れみ、この場所にねんごろに葬り、その上に平石を立て墓石としたという話である。」
主藤家住宅 |
豆酘には、1969年(昭和44)3月12日に国指定重要文化財となった主藤家住宅があり、説明文に次のように書かれていました。「建築の質、意匠にすぐれ、保存も きわめて良く、平面及び構造も典型的で、対馬地方を代表する農家の遺例として重要である。建築年代について直接明らかにする資料はないが、部材の形状や構造から判断すれば、およそ19世紀中頃に建てられたもののようである。平面は土間と「だいどころ」(居間)「ほんざ」(座敷)「なんど」(寝室)からなるいわゆる3間取り平面で、その表側に幅1間の入側を付加し、さらに縁が2方についている。「だいどころ」が広く、土間は比較的せまい。このような間取りは対馬では一般的であるが長崎県下の他の地方ではみられず全国的にも特色ある型といえる。」
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