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中居屋重兵衛<19.6.7記>

 群馬県の北西部に嬬恋村がある。この村に、幕末の横浜開港地で一商人として活躍した中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)の生家と墓がある。しかし、この人物について詳しく語れる人は、県内にもそう多くはない。「幕末に生糸の輸出で財をなした豪商」と答えられる程度のことであり、重兵衛の全生涯を語ることは難しい。

 なぜ語れないのだろうか。それは、中居屋重兵衛に関するデータが少ないことにある。生家が、明治初年に火災にあい、文書類が焼けてしまったことが大きな理由である。もう一つは、波乱の生涯を他の大きな力によって閉ざされたがゆえに、証拠となる手がかりが得られないという事情もある。今までに得られた情報は、後年、重兵衛の身近にいた関係者の口伝として聞き取ったものが多く、証言の信憑性に欠けるものが多いのである。

 僕も重兵衛のことをよく知らない。いつまでもこのままにしておくのも、それはそれで気になってしかたがない。そんなわけで、踏ん切りをつけて図書館通いを繰り返すこととなった。調べているうちに、重兵衛の容易ならぬ姿が、霧の向うから次第にはっきりしてきた。重兵衛を紹介している文献がないわけではなかったのだ。例えば郷土史家の萩原進氏が、昭和24年に著した「横濱開港の先驅者 中居屋重兵衛」がある。107ページの小冊子ではあるが、戦後の復興期に出版されたもので、紙質がザラザラして茶色く変色していた。

 これを読むと、生糸商人と言うだけではあまりにも単純すぎる。幕末の動乱期を、波にもまれ、嵐の先に光芒をつかんだかに見えたが、難破してしまう。その生き方に大きな感動を覚えたのである。この本は記録文学としての価値があり、その後の研究者に、更なる情報収集のヒントを与えるきっかけとなったに違いない。時代が下って昭和47年、佐佐木杜太郎氏が重厚な書物を著した。この本は、古文書の掘り起こしと、関係者への取材が丹念に行なわれている。そのせいか読むのにかなり疲れる本である。文献は文末に示すが、それらの本から中居屋重兵衛をダイジェストにしてご紹介する。

注)できるだけ時系列的に、かつ満年齢で記述した。

文政3年3月(1820)重兵衛誕生
 時代は文政元年(1818)に遡る。重兵衛の家系は、上州中居村(現-群馬県嬬恋村三原)の名主である。祖父が草津温泉の山清という旅館の経営を任されており、父もその手伝いをしていた。当時、草津温泉は江戸の文化人が往来していた黄金時代である。そんな環境のもとに、父は画人としても風流な素養の持ち主であった。

 ある日、旅館に容姿端麗な女性がやってきた。上州勢多郡樽村(現-渋川市赤城町樽)の豪農辰巳屋-須田儀右衛門の養女のぶである。儀右衛門は和歌や書道をこなし、書画の道で父-黒岩幸右衛門とは、じっこんであった。二人は互いに見染め合い、結婚した。そして生まれたのが武之助であり、成人して撰之助となった。

 黒岩家は、南に浅間山を眺め、北に本白根山(もとしらねさん)を控えて、その狭間を流れる吾妻川(あがつまがわ)の段丘上にある。代々富豪の郷士として、養蚕・薬草・質物の扱いなどをしていた。変り種は家伝の火薬を製造していたことである。


中居屋重兵衛生家

万座鹿沢口駅前の顕彰碑

天保4年(1833)撰之助13歳
 このころ、教養人の父から多岐に亘って教えを受けた。学問・農業・狩・火薬の製造と、ありとあらゆることをである。鉄砲撃ちが好きであったが、たまたま信州から砲術家と名乗る若い武士がやってきた。撰之助は、その武士から銃の構造や射撃の姿勢、標的の狙い方などを教わった。その武士こそ、後年、撰之助が江戸で再会した先覚的な識見を持つ、西洋流兵学砲術の大家佐久間象山である。ちなみに象山の読み方は一般的にはしょうざんであるが、長野県ではぞうざんという。

 父-幸右衛門と撰之助の草津行きは、その後も続いた。そのたびに、江戸の政治・文化・風俗等の話が耳に入る。その情報に、父も撰之助もいたく刺激を受けたらしい。

天保5年(1834)撰之助14歳
 ある日、父-幸右衛門が、絵の修行と称して放浪の旅に出てしまった。名主の役目も家長の責任も放棄したのである。2年前から甲州の金峯山で銅鉱山の事業に手を出し、千両箱を馬につけて運び出すことが続いていた。しかし遂に底をつき、財産のほとんどをなくしてしまった。自責の詫び状を残し、飄然として姿を消したのである。

 残された母-のぶと、撰之助の試練が始まった。苦しい家計をやりくりする母を助けて懸命に働き、名主役も務めた。あるとき、荷駄馬を曳いて信州に出かけた帰りに馬が暴れ、激流に流され死にそうになって助けられたことがある。このことが心境の変化をきたしたのか、父の残した書物を読みふけった。労多くして報われない生活に疑問を抱いたと思われる。

天保7年(1836)撰之助16歳
 家伝書により火薬製造に熱中。白根山から硫黄を採取してきて水車小屋に入り浸り、その秘法を独学で会得した。このころ、水戸藩が大砲の製造をしている。

天保8年(1837)撰之助17歳
 飢饉に見舞われた。村の農家に副業を奨励。養蚕・薬草採取・緊急時の備蓄等を指導した。撰之助は、いっぱしの大人になったが、働けど働けど暮らしは一向に楽にならない。父のなくした財産を挽回したいけれど、自分はまったく無力である。どのように道を切り開けばいいのだろうか。まさに青年-撰之助の苦悩の日々が続いた。その姿には、周りの目から見ても、何か只ならぬ気配が感じられたという。

天保9年(1838)撰之助18歳
 後見役の叔父-黒岩七兵衛は、撰之助を妻帯させるに限ると、娘のみや15歳をめとらせた。撰之助の従妹に当たる。しかし事態は改善されなかった。

天保10年(1839)撰之助19歳
 春蚕(はるご)の上蔟期がやって来たころ、撰之助は勧進元として旅芝居の巡業一座を招く計画を立てた。家族は忙しい時期なので反対したが、結果は大成功だった。ある朝、撰之助は山へ仕事に向かったまま姿をくらました。芝居で稼いだ金を路銀にして出奔し、江戸へ向かったのである。あるべき財産がなければ、志を達することも、成すべきこともできぬと、後年の著作「子供教草(おしえぐさ)」に述懐している。

 行き先は、日本橋四丁目の和泉屋書店-牧野善兵衛方である。母のぶの生母すなわち撰之助の祖母の再縁先に当たる。撰之助は、そのことを知っていたのだ。善兵衛は、撰之助の立志を聞いて、快く寄食を引き受けてくれた。ここで撰之助は店員と同様に働きながら、書物を読みふけり、学識を大いに深めていく。

天保11年(1840)撰之助20歳
 和泉屋の顧客には各藩の武家や、旗本、学者、医者などの出入りが多かった。ここで多くの識者に接する機会が得られたのである。かつて古里で、鉄砲の撃ち方を教えてくれた佐久間象山が書院塾を開いていることを知り再会した。その機縁を喜んで門弟になった。

天保12年(1841)撰之助21歳
 蘭学・医学を学び、剣術の修行は剣客-斎藤弥九郎の教えを受けた。天分の知識欲と実行力によって、高名な学者や文人との面識が深まり、韮山代官-江川太郎左衛門や、その師-高島秋帆の知遇を得る。とき恰も、欧米の列強がひんぱんに日本へアプローチをかけた時期である。幕府は国防の備えを開始した。水戸斉昭が大砲を鋳造。高島秋帆は、幕命により徳丸ヶ原において砲術演習を行なった。現在の板橋区高島平である。地名は高島秋帆に由来する。

天保13年(1842)撰之助22歳
 商売もさりながら読書を重ね、医学や科学の先進技術にも興味が広がり、学識はさらに深まった。

 どういうことなのか、この年、幕府は異国船打払令を緩和し、薪炭を給することを決す。

弘化3年(1846)撰之助26歳
 このころ付き合っていた学者によって海外事情を知り、国防の急務と国内の政情に関心を抱き、憂国の志を自覚し始める。

嘉永元年(1848)撰之助28歳
 蘭法医-伊東玄朴に就いて医術薬法を学ぶ。江戸遊学中の信州の医者-松田玄仲と知り合う。玄仲は後年、中居屋重兵衛店の大番頭となり、中居重衛門を名のることになる。

 この年、佐久間象山が、洋式野砲三門を鋳造し、砲術教授の塾を開いた。撰之助もそこで学んだものと思われる。

嘉永2年(1849)撰之助29歳
 和泉屋善兵衛は、撰之助の非凡な才能を見抜いて助力を惜しまなかった。日本橋三丁目に店舗を持たせて独立させた。書籍・和薬・唐薬などを扱った。このとき撰之助は、故郷の中居村から、母のぶと妻みやを呼ぼうとしたが、二人とも応じなかった。撰之助には身の回りを世話する女性が必要と思い、善兵衛は、自分の娘-そのをめとらせた。古里の妻とは離婚していないので、重婚であるが、当時としては不思議なことではなかった。古里の妻みやの父親は、撰之助が帰郷する意思がないものとして、次男清七を撰之助に代わって後継ぎにした。

 撰之助は独立を機に、黒岩姓ではなく中居撰之助を名乗っている。いうまでもなく故郷の中居村を指している。ちなみに、これより後の故郷へ宛てた手紙には、黒岩姓も用いているので、姓は使い分けていたのであろう。

 この年、幕府は異国船打払令復活の可否を諸大臣に諮問し、諸大名に沿岸防備を厳命。

嘉永3年(1850)撰之助30歳
 江川坦庵(たんなん)や佐久間象山の教えを受け、西洋流砲術にも通じ、鉄砲や火薬の重要性を悟る。象山が深川藩邸に砲術教授の看板を掲げた。門人多数集まり、勝海舟も入門。

 撰之助は象山に見込まれて、国防に必要な火薬の製造に乗り出した。このころ和薬の製法は、多くの流派ごとに秘伝として守られていた。しかし外国の火薬に比べると劣悪であった。撰之助は九州大村藩の火薬製造所を見学し、研究に没頭した。顕微鏡や抜羅覓的爾(バロメートル=晴雨計)を使い、木炭・硫黄・硝石を調合して実験を繰り返した。研究は十数年を要したと云われる。

 基礎的実験に成功すると、製造に着手。その場所は、郷里の中居村・信州小県(ちいさがた)郡依田村飯沼(現長野県上田市生田)・上州勢多郡樽村(現渋川市赤城町樽)が知られている。水車を動力として火薬原料を搗(つ)いて粉末にする作業場を作った。中居村は撰之助の生地、飯沼は医学の勉強で知り合った友人松田玄仲の生地、樽村は母が養女として住んでいた土地である。

 樽村は、赤城山の西麓が利根川に落ち込む川岸に形成されている。当時は中州があって、そこに火薬製造所があったと、軽トラで案内してくれたこの地の中年男性が語ってくれた。史跡を示す木碑は平成6年に赤城村歴史散歩の会が建てたものである。1848年から1849年まで製造し、水戸藩を初め諸大名に納めたが、爆発事故があり廃業とある。


樽村の火薬製造所跡地

向うの木が生えている辺り
さらに向うは利根川


入口に木碑がある

 飯沼については、長野県上田市丸子社会教育課に調べていただいた。その結果、子孫の話として『江戸時代に河原で火薬の製造をしていたようであるが、爆発事故により破壊され、現在は跡形も残っていない。』ということであり、さらに、この地区には”松田姓”のお宅があるが、『玄仲の資料は全く残っていない』ということであった。

嘉永4年(1851)撰之助31歳
 尊王儒者-林鶴梁の門下生として儒学を学び、佐久間象山の学塾にも通う。象山の塾生には、吉田松蔭もいた。象山は塾生勝海舟の妹-順子を正室に迎える。

嘉永5年(1852)撰之助32歳
 林鶴梁門下の中井数馬(長居)・国蔵(長観)・忠蔵(長鎮)の三兄弟や水戸の志士と交誼を結ぶ。佐久間象山が大森海岸にて大砲の演習を行なう。

嘉永6年(1853)撰之助33歳
 黒船4隻を率いて、アメリカからペリーがやって来た。ペリーは久里浜に上陸して、奉行所の役人に開国を求める大統領の親書を手渡した。幕府はオランダ式兵学にくわしい伊豆韮山代官-江川坦庵(たんなん)を起用して、品川お台場の築造に取りかかる。このとき撰之助は、すでに坦庵(たんなん)の教えを受けており、多量の火薬を製造して納入していたと考えられる。

 幕府は諸侯に意見を徴し、水戸の徳川斉昭らを幕政に参与させる。水戸藩は車架大砲74門を幕府に献上した。この年、江戸は大不景気だったと、撰之助は郷里の名主に宛てた手紙で伝えている。

嘉永7年(改元-安政元年1854)撰之助34歳
 1月、ペリーが再び来航し、神奈川沖に停泊して威嚇の挙に出た。品川お台場の築造は半分もできていない。幕府は慌てふためくばかり。佐久間象山は横浜を開港すべきと主張した。3月3日、遂に日米和親条約を締結。下田・箱館二港の開港が決まる。

 このときの米船によって、吉田松蔭が密航を企てたが成功せず、自首して捕らえられ、長州藩へ檻送されて幽囚される。佐久間象山は連座を問われ信州松代に永蟄居となる。前後してイギリス・ロシアとも和親条約を締結。品川お台場の築造は必要がなくなって中止された。

 この急展開に撰之助はただちに反応し、ひそかに下田港で密貿易を始めて、外国事情を調査していたようである。 

 撰之助は、「子供教草(こどもおしえぐさ)」という著書を出版した。自分が心に思いつつも、親孝行が出来なかった自戒を述べ、社会道徳や商業道徳を説いている。特に、「商人は、利を先行させてはならない。義をもって望むことこそ、利につながるのである。」と戒めている。早くも外国との貿易を意識して、正道の商人を育てようとの意識がはたらいたのではなかろうか。

 このころ撰之助の母のぶは、結婚前の樽村(現渋川市)にある養家先に戻っていた。撰之助に代わって清七という後継ぎが来たことで居座る必要がなくなったからである。撰之助は母の寂しさを紛らわせるために、手紙や本を送るように努めていたという。

安政2年(1855)撰之助35歳
 撰之助は、長年研究していた火薬の研究成果がまとまり、「集要砲薬新書-中居剛屏」を発表した。外国列強の脅威が増す時期だけに、大局的見地に立って秘伝とせず、あえて公開したのである。このとき著者名は、撰之助を使わずに剛屏という号を使っている。守りの強いバリアの意味であろうか。

 この書の中で、”猶存居主人”なる人物が書いた序文がある。撰之助のことを『お台場の築造に関連し、寝食を忘れて火薬の製造に打ち込み・・・』と賛辞を述べている。この人物を郷土史家-萩原進氏は、佐久間象山であろうと推測している。賛辞を寄せたのは象山だけではない。西洋砲術の大家-高島秋帆もそうである。

 この新書を全国の大名諸侯へ献上したことによって、剛屏は、時の人となった。各藩大名家から招かれることが多くなり、自分の国家社会へのかかわりを強く意識した。この意識は故郷にも向けられた。好むと好まざるとに係らず、剛屏の名声は故郷にも伝わり、運上金の徴収に困窮している村民のために、領主に交渉して村民を救っている。領主と交渉するほどの、存在となっていた。

 この年、フランス・オランダとも和親条約を締結した。

安政3年(1856)撰之助36歳
 米国総領事ハリスが下田に着任。江戸に出て、将軍に謁見することと、幕府閣老との会談を要求したが、幕府はこれを許さなかった。この年、吉田松蔭、萩に松下村塾を開講。

安政4年(1857)撰之助37歳
 幕府には内憂外患の二つの厄介な問題があった。一つは将軍の世継ぎ問題、二つめは開国か攘夷かの国際問題である。しかもこの二つが複雑に絡み合っていた。お世継ぎ問題に対して撰之助は、幼少の紀州慶福を不適任とし、一橋慶喜を支持していた。開国-攘夷問題では、水戸の徳川斉昭は攘夷派の領袖であり、撰之助は開国派であった。この時期、政治家も識者も、もっとも頭を悩ませた時代である。誰とて、これが最も正しい方策だと自信を持てた為政者はいなかったであろう。お互いがお互いの立場で、複雑に主義主張が微妙に異なっていても不思議ではない世であった。徳川斉昭とて、いずれ開国は避けられないと考えていた。しかし今はそのタイミングではない。不用意に開国すると外国の列強に侮られ、下手をすると植民地にもなりかねないと考えていた。しかし撰之助は、成り行きは確実に開国に向かっている。外国の文明を一刻も早く取り入れて、国防体制を整えるのに猶予はならないとの立場であった。

 そのような政情のもと、前年のハリスが要求していた幕府閣老との会談に対して、オランダ人からの忠告があった。「支那が外国人を待遇するのに尊大であったため、イギリスと戦火を交える禍を招いた」というのである。遂に堀田正睦がハリスを私邸に招いて懇談した。ハリスは120項目にわたって、「アメリカは友好的に日本と付き合い、侵略の意思はないこと、他国が日本を脅かすようであれば、米国がこれに忠告を与える」と言うようなことを説いた。聡明な堀田は、充分にハリスの誠意を感じとって、開国の腹を決め、下田条約締結にいたった。ハリスは10月将軍に謁見、国書をわたして日米通商条約の締結を急ぐべきと説いたのである。12月、幕府は和親条約から日米通商条約へ改定するか否かを諸大名に諮問した。すでに開国は避けられない事態となったが、それには朝廷の勅許が必要である。

 そんな中、撰之助は機敏な動きを見せていた。それを物語る一つのエピソードがある。料理屋に遊びにきていた通訳3人が、女中に品の注文をしようとしたが言葉が通じない。たまたま隣室にいた撰之助が通訳して注文できたというのである。これが縁で米国領事館のデヴィスと知り合い、絹織物の取引を始めたという。

安政5年(1858)撰之助38歳
 老中-堀田正睦は、1月朝廷に趣き、日米通商条約締結の勅許を請うた。しかし3月、朝廷は調印不許可を宣した。この難局を収拾するため、4月、井伊直弼大老に迎えられた。6月、下田に入港した米艦からの情報が入った。英仏の連合艦隊が清国に勝利し、その余勢をかって日本に向かうおそれありというのである。それよりも早くに、ロシア艦の方が先に来航した。ハリスは取り急ぎ堀田に危急の事態を知らせた。ただちに幕閣協議が行なわれ、井伊大老は、勅許をとるいとまがないまま、外交全権使節-岩瀬肥後守を神奈川に赴かせた。そして、米艦ポーハタン号上で6月19日、歴史的な「日本国 米利堅合衆国 修好通商条約」(以後、日米修好通商条約という)を締結してしまった。引き続き、この年オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を締結した。

 なおかつ井伊は、この難局を乗り切るために、かねてから病弱だった将軍の世継ぎに、紀州慶福を次期将軍として強引に決めてしまった。しかし、これが尊皇攘夷派の反感を買い、やがて大事件へと発展する。

 光明天皇は条約締結の既成事実に怒ったが、後の祭りであった。井伊大老は開国反対派であった政敵の弾圧を決意する。安政の大獄が始まったのである。10月25日、紀州慶福が名を徳川家茂と改め将軍に就任した。

 この年の暮れ、中居撰之助は日本橋から芝金杉片町の新居に移転。元-金座役人が建てた豪勢な邸宅である。2.5km先の品川沖には、無用となったお台場が見える。撰之助は、あえて移転先をここに決めたのだろうか。やがて、この湾に貿易の異国船がやってくる。貿易商として生きる決意をした移転であろう。

 ところで、日米修好通商条約には、開港地を神奈川と明記している。いよいよとなると、これが問題となった。幕府が懸念したことは、神奈川はあまりにも東海道の宿駅に近く、参勤交代の大名行列の往来もあり危険である。まして攘夷派の暗躍も見逃せない。これらの理由で井伊大老は、開港地を横浜村と主張したのである。そのころ、米国・英国・仏国・オランダの公使・領事らは、神奈川に宿所を設けていた。

 当時、横浜は人家の少ない片田舎であった。ハリスは通商貿易を行なうためには、繁華な人の集まる神奈川にすべきだと頑強に主張した。条約に『"port and towns(港と町)"とあるではないか』というのである。そこで幕府は、港の機能面を追加主張した。「神奈川は遠浅で、大型船舶の停泊に不便である。それに対して、横浜は港も深く良港である。」というのだ。そもそも横浜説を最初に言い出したのは信州松代藩士-佐久間象山であるという。外国奉行の岩瀬肥後守忠震(ただなり)と水野筑後守忠徳も同調した。撰之助は、かねてから三人と親交があった。横浜に港を開くことの現実味を実感した。

 とにかくハリスと幕府の交渉は繰り返された。・・・が埒はあかず、幕府は貿易盛んな街づくりをすべく、次のような苦肉の策を考え、お触れを出した。 

今度、神奈川(註:横浜村をあえて、このように表現した)を開港し、外国と貿易を行なう。江戸市中の諸問屋商人の中で、出店または出荷して取引したい者は、役所へ申し出ること。

 しかし応募はなかった。そこで白羽の矢を立てたのが、三井八郎右衛門と中居撰之助である。二人に先鞭をつけさせ、あとの進出をしやすくしたのである。なかば強制的な措置であった。

 何はともあれ、ハリスと役人との開港地争いに対して、撰之助は岩瀬と水野に大いに協力し、港町の造成を既成事実とすべく努力した。抜かりなく物産の交渉や、有能な人材を集めた。

安政6年(1859)撰之助39歳
 撰之助はこの年の元日から「昇平日録」なる日記を書き始めた。あらかじめ記入枠と日付が印刷されている和綴じの帳面である。西洋の温度計を使って気温が書かれているのが面白い。どういうわけか日記は4月1日で終わっている。

 ところで、撰之助の父-幸右衛門は、故郷を捨ててから久しい。撰之助が少年のときに出奔したのだが、その後どうしていたのだろうか・・・。実は、いっぱしの画家になっていたのである。撰之助といつ接触したのかは不明であるが、江戸築地の淀藩-稲葉侯の屋敷に寄食していた。江戸を本拠地にしながら、京都御所の紫宸殿に昇殿を許されて、左近の桜を描いたりしている。故郷の菩提寺、常林寺本堂に格天井画も描いている。安政6年に刊行されたと思われる「文画人名禄」に名前を連ねる程の存在になっていた。中居儀八郎と名乗り、号を墨峯といった。

 撰之助が、すでに波乱の道に入り込み、味方もいるが、敵も多くなる中で、常に身の危険を抱えることになるが、父はひそかに息子を助けることになる。撰之助の日記には、しばしば「親父方へ参る」と書かれているが、具体的な内容は書かれていない。

 横浜へ乗り込むのに相談をしたのが、岳父の和泉屋-牧野善兵衛と、実父の黒岩墨峰である。善兵衛には資金面を頼み、墨峰には、寄食先の稲葉侯を通じて、諸大名への接近周旋を頼んだものと思われる。

 墨峰は、かつて鉱山事業で失敗し、家運を傾けた過去があった。そのために故郷から出奔したのだが、今は画人として名が知られ、見識の高い人物になっていた。この二人のバックアップを得て、撰之助は行動を起こしたのである。取り扱う物産は、以前から上州・信州・越州を手がけていたが、新たに紀州・会津・上田に対して工作を仕掛けた。

 その日録によれば、最初に輸出商品の引き合いに応じたのは、会津藩である。かねてから同藩の用人に知り合いがいたからである。

 会津藩に一歩遅れて、紀州藩との交渉が行なわれた。一度は外国奉行の水野筑後守から紀州藩の願書について難色を示されたが、結局は成約している。上田藩については、むしろ藩の方から声がかかった。撰之助が故郷にいたときから、上田とは歴史的な商業圏として信頼関係にあったのであろう。とんとん拍子にことは進んで、御用達の権利を得た。

 この他にも、奥州(福島県)棚倉藩、南部藩(岩手県)からも引き合いがあり、その他の藩へも波及していった。噂が各藩に及んで取引は増えていく。これには先年、火薬の製造販売で、各藩に縁故ができていた利もあった。

 以上は藩関係であるが、噂は広がり諸国の一般商人も訪れた。荷主の権利を得ようとしたのである。とりわけ生糸商人の引き合いは熾烈だった。

 3月4日、一女たかが生まれた。

 中居撰之助は4月の初めに、神奈川貿易許可願を外国奉行所に提出。番頭が上州の仕入先-須田与兵衛に宛てた5月18日の書状によれば、4月25日に許可が下り、5月22日までに完成させるようにとのお達しであること、突貫工事にかかり25日に店開きの予定であること、奉公人60余人を抱え近日中に引っ越す予定であることを報せている。須田与兵衛は、現渋川市の樽に撰之助の母が娘時代に養女として育てられた家の本家である。後年、母は須田与兵衛の後妻になっている。須田与兵衛には横浜村出店の世話をした。さらには中居村の捨てた家を継いでくれた従弟にも、同様の世話を持ってその恩に報いている。

 突貫工事といえども、1ヶ月も要さずに完成させることは無理だった。開港日は6月2日(陽暦7月1日)と決まっていたから、重兵衛は未完成のまま開店したのであろう。場所は当時の横浜本町四丁目(現2丁目)、もっとも繁華な中心街である。店の屋号を中居屋重兵衛と名乗ることにした。銅板葺きのひときわ目立つ建物は、誰いうとなく「あかがね御殿」と呼ばれた。

 商品は売れるものは何でも扱ったが、筆頭は生糸である。中居屋の大福帳「日下恵」には、正月から買い付けを始めていた。大番頭の中居重右衛門が8月に信州の飯田・高遠、甲州の韮崎・石和・大月・駒木野、12月に倉賀野・高崎・松井田・碓氷峠・軽井沢・小諸と精力的に歩いて商談をしている。

 引き合いは急拡大し、各藩のみならず、あまたの商人が訪れた。岐阜県中津・仙台・越後からの買い付けも記録されている。荷主から依頼されて、商取引の仲介も行ない多額の口銭を得た。輸出総額に対する蚕糸類)の輸出額は、 <官営富岡製糸場> をご覧いただきたい。

 10月頃になると、生糸の相場が高騰した。各地方の仲買人が横浜で直売を始めたのである。投機的な生糸の売り込みで、莫大な儲けを得るかと思えば、瞬時に財産を無くす仲買人もいた。

 とばっちりを受けたのは、国内の機織(はたおり)業者である。上州の桐生の例を見よう。7月には、買い値の暴騰に留まらず、糸不足に見舞われたのである。家業を継続できないから、生糸貿易の禁止を糸商人に命じてもらいたいと、ただちに嘆願書を提出した。しかし糸価の高騰は続いた。機織を休業したり、下請業に転落したりした。9月、桐生領下の下請け業一同が旗揚げした。生糸の買占めを始めた機屋が領下に三人いる。これが続けば、我々はその機屋に打入りをすると名主に訴えた。10月、桐生領35ケ村総代は再び嘆願書を提出。町役人や恨み相手の居宅に脅しの張り札をする者が現れた。この現象は機織業者のいる、京都その他の各地でも発生し大恐慌を起こしたのである。

 ところで長い鎖国の日本は、開国の貿易に対して、いささか無知であった。外商との取引は、洋銀で代金を受け取るやり方が多かった。そのうちに、大量の金が外国に流れる現象に発展していった。正確な話はややこしいので、分かりやすく例題的に説明する。

 欧米では金1を買う為に、銀15を必要とした。ところが開港した日本では、銀6弱で済む。・・・ということは、外商は日本で金を半値以下で購入できるという旨い話になるわけだ。しかも同じ銀貨でも質の悪いメキシコドルを使えばさらに利益が増すのである。要するに、金銀貨幣の換算比率の違いを巧みに利用されて、金小判が百万両も海外に流出してしまったという。

 米国領事のハリスは、さすがに見かねて日本に同情し、幕府に勧告してくれた。幕府はあわてて小判の売買を禁制にした。安政6年(1859)7月のことである。

 さて、政情はどうだったのか。井伊大老による大獄によって、水戸藩を始めとする尊王攘夷派が次々と捕らえられた。井伊大老の強要を受けて、朝廷までも多くの公家達が謹慎を命じられた。中居屋重兵衛は、尊王開国の立場をとっている。水戸の志士達との交流がありながらも、攘夷の立場にはいない。井伊大老は、開国の恩人であるが、弾圧の悪逆非道ぶりに対しては、大きな義憤を感じていた。

 井伊大老の弾圧を阻止すべく、水戸派の志士達が中居屋重兵衛を訪れた。時局の相談である。重兵衛は、井伊大老を倒す密謀に荷担することになった。そして次のような提案をした。井伊邸に密偵を潜入させ内情を探る。そのためには雑用係の茶坊主に近づけばよいと・・・。そこで練られた策として、志士の中井国蔵の妻、ふく子を金貸し役に仕立てる。茶坊主に金を貸すことで油断させ、「甥っ子を茶坊主としてご奉公させたい」と口車にのせることを提案した。この作戦は当たり、首尾よく潜入できた。甥っ子とは水戸の志士であり、金貸しを始め内偵の活動資金は、もちろん重兵衛が調達している。まさに黒幕的存在となったのである。

 7月には井伊直弼の弾圧によって吉田松蔭が伝馬町の獄に入牢し、10月に処刑された。 横浜港では中居屋重兵衛の店の近くで、ロシア兵の斬殺事件が発生した。日本娘に戯れたので、水戸の浪人が切り伏せて逃げたのである。このとき、問題の処理に対して役人は及び腰であった。重兵衛は、死体を収容させて、手厚く弔っている。のちにロシア艦長から感謝の言葉を寄せられている。

 8月27日、岩瀬肥後守と水野筑後守が井伊大老によって罷免された。

 そうこうするうちに、茶坊主の密偵から金貸しのふく子を通じて情報が入った。水戸家を減禄し、東北辺に国替えをさせる陰謀が察知されたのである。水戸斉昭を蟄居させる使者を差し向けて、わざと家臣に狼藉を働かせ、それを理由に国替えをさせるというものである。その陰謀に対する協議が固まらないうちに7月末、使者が来た。一触即発の危機を辛うじて防げたのは、ふく子からの密書である。それによって水戸斉昭蟄居の請け書を差し出して、裏をかかされずに事なきを得た。大獄に容赦はなく、一橋慶喜も隠居慎みに処された。

 密偵の志士は、このあと危険を感じ、てんかんを装い井伊邸を辞して姿をくらました。ふく子とともに中居屋へかくまわれた志士は、その後、外国商館に託して保護してもらった。治外法権で幕吏も手を出せなかったからである。

 この年、横浜港は外国との貿易で活況を呈することとなった。各地の特産品を売り込もうとの荷主の出店によって港町が形成された。その中で中居屋重兵衛の店は、群を抜いて規模が大きかった。

安政7年(改元-万延元年-1860)重兵衛40歳
 重兵衛は有能な人材を抱えていた。大番頭の中居重右衛門は、かつて重兵衛が田舎にいた青年時代に医学の勉強で知り合った友人である。信州依田村飯沼(現上田市)の松田玄仲という医者だ。変った役目として影武者もいた。身の安全と、役所から咎められるような事態が発生した場合の身代わり業務である。重兵衛は、通常の業務はそれらの責任者に指図を与えるだけで、表面に出ることはなかったという。

 8月、神奈川奉行の赤松左衛門尉範忠から呼び出された。「町人の身分で二階建て、あまつさえ御禁制の銅瓦を葺くなどとは以ての外である」と咎められ、5日間の閉店謹慎と土瓦に取り替えよと申し渡された。これに対して重兵衛は、「自分自身のために豪奢にしたわけではない。粗末な建物では、外商から侮られる。外国奉行の水野様(前年の7月に罷免されている)からも、美麗に致すようにと言われている。閉店の儀は迷惑仕極でござる。銅葺きにしたことは私の落度であるから、早速に取り払います」と反駁したという。重兵衛は、木板に麻張りし、チャン(アスファルト)塗りに改めた。閉店謹慎はお目こぼしになっている。この事件によって、中居屋重兵衛は硬骨の傑商として名声を高めた。

 この神奈川奉行からは、12月にも吟味があったが、何の咎めかは不明である。このとき取調べのとき入牢させられたが、影武者を仕立てたようだ。

 このころ生糸の製品形態は産地によってまばらであり、品質にも差があった。しかし当時は規格品という概念がなかった時代である。国内においてはほとんどの物を手作業で作っていたから、製品の出来形がいろいろあり、品質に差があるのは当然であった。良品か粗品であるかは、買い手の感覚的なニーズに応えられるかどうかで決まる。そんな中で、とりわけ外国商人に人気があったのは、「前橋の提糸(さげいと)」である。中居屋重兵衛は人気のある生糸を良品と位置付けて、商売に励んだ。その姿勢が信頼を得て、外商の出入りは他の店を圧倒していた。はからずも、総合商社の手法が備わっていたというべきであろう。

 ところで、大老井伊直弼に対する攘夷派の暗躍が活発になってきた。目に余る大獄に対抗してのことだ。1月、井伊直弼が神田見附で狙撃されたが、未遂に終わった。幕府の探索によって水戸の浪人が捕縛され、拷問攻めの結果おもわず「ナカイ・・・」と口走った。しかしハッと気がつき、舌をかみきり悶絶したという。しかし取り調べの役人は、まさか「ナカイ」が中居屋重兵衛であろうとは、夢にも思わなかったという。後年、史料の研究や子孫の証言によって、重兵衛は自ら提案し、水戸浪士に短銃20挺を渡していたという。

 3月3日、桜田門外で降りしきる雪の中、登城する井伊大老の行列が、複数の水戸脱藩浪士と薩摩浪士に襲われた。駕籠を大刀で突かれ、大老が引きずり出され、ついに首級を挙げられた。このとき短銃によって、太股から腰に抜ける貫通銃創があったことを、井伊家藩医の遺骸検死報告書に記されているという。

 同じその日の宵、横浜の中居屋では盛大な雛節句の祝宴が開かれていた。重兵衛の一人娘たかの初節句である。重兵衛は、おもだった番頭たちに「今日は私にとってもめでたいが、そのうちに他にも良い報せがあるだろう。」と言ったという。祝宴が進んだ最中、江戸から急飛脚があった。重兵衛は井伊大老の死を、吉報として皆に発表したというのである。5か月後、水戸の徳川斉昭死亡、61歳の生涯を閉じる。

 3月19日、幕府は生糸の高騰と内需の品不足を抑制するため、「五品江戸廻し令」を発布した。五品とは、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸である。重要輸出品を地方から直接横浜に送ることを禁じ、許可を与えた江戸問屋を通させる貿易統制を行なった。しかし、外商からは自由貿易に反するとの圧力がかかり、中居屋重兵衛ら日本の売り込み商人からの反対もあった。荷主は幕府に対抗するために、貿易利潤の分配にあずかろうとする雄藩と結託するものが出てきた。雄藩が公然と密貿易に乗り出したのである。それぞれの藩の役人を開港場に駐在させ、専売品の輸出、武器艦船の輸入に当らせるに至った。この混乱に身内の神奈川奉行・外国奉行からも反対された。

 重兵衛は咎められたが、入牢したのは身代わりの番頭-吉右衛門である。重兵衛は外商と協議のうえ、上申意見書を出した。日本が外貨を稼ぐのは、生糸をおいてほかにない。生糸を輸出することこそ国のためである。生糸の増産を奨励すれば、内需の品不足は起こりえない。自由貿易こそ望ましい方法であると具申した。重兵衛は生糸の取引で莫大な利益を得た。

 初夏、重兵衛は番頭や手代を連れて、21年ぶりに故郷へ凱旋した。母のおのぶや妻のみやとも顔を合わせた。みやは離縁こそしていないが、すでに他人であった。

 この年の秋、重兵衛は岳父-和泉屋牧野善兵衛と京へ旅をしている。

万延2年(改元-文久元年-1861)重兵衛41歳
 「五品江戸廻し令」を徹底させる一つの事例を見てみよう。正月15日、上州の前橋町では、糸商人で協議し、本陣に産物改所を設け、すべてそこを通すよう、町年寄の名で文書を流した。仲間うちから違反者を出さないようにしたのである。しかし守られなかったので、再布達を出した。

 桜の咲くころ、重兵衛は病気で伏せった。このときアメリカ一番館のウォールシュ・ホール商会のフランシス・ホールが医師をともなって中居屋を訪れている。その日は1861.6.11(文久元年)火曜日となっている。太陽暦であろうが、6月に桜というのは妙である。それはともかくとして、ホールの観察眼は重兵衛の病気には関心がなく、中居屋そのもに向けられている。「先ず訪れたとき、2,3人の番頭と小僧が客の来るのを待っている。静かな様子なので、商売が繁盛しているようには思えない。今は中居屋の財力は落ち目になっていて、取引はほとんどない。」と書いている。これがどういうことなのか疑問である。

 晩春、重兵衛は二人の手代を供にして、東海道から上洛した。大阪と神戸の開港が文久3年(1863)に予定されていたことから、それへの進出をもくろんでいたようだ。大阪と京の富豪2名と会見し、さらに神戸まで足を伸ばした。横浜へ帰ったとき、待っていたのは大変事の凶兆であった。井伊大老襲撃事件の嫌疑によって、近く幕吏の探索が行なわれるとの情報であった。

 重兵衛は家族に累が及ぶのを恐れて、妻そのを離縁し横浜を脱出した。小舟に乗って房州に渡り、岳父、和泉屋-牧野善兵衛の親戚を頼ったようだ。その後、江戸へ潜入し芝の隠れ家に潜伏した。この隠れ家で、8月2日流行の麻疹(はしか)にかかって急死。全身に吹き出物があったことから、毒殺説もあるが真実は不明。逃避行ゆえに謎の死と言わざるを得ない。享年41歳、波乱万丈の生涯を閉じた。横浜在住期間はわずか2年ほどである。

 巨万の富と店舗がどうなったかは不明である。その後の火災で跡形もなく焼け落ちたと伝えられている。

 中居屋重兵衛亡き後、父-黒岩墨峰と親交のあった牛込神楽坂の日蓮宗善国寺の住職によって荼毘に付された。遺骨は明治20年代にいたるまで匿されていた。過去帳が上州勢多郡樽村(現渋川市)の辰巳屋本家の須田家に保存されていて、記された俗名は中居撰之助となっていた。

 郷里の墓地が、現在の嬬恋東小学校の西側にあり、そこに重兵衛の墓石が据えられている。墓石には、二人の名が刻まれている。右側に中居撰之助、左側に黒岩みや子とある。みや子とは、故郷に残した妻-みやのことである。重兵衛の遺髪が、ギヤマンの容器に収められて埋葬されているという。


吾妻川段丘上の墓地

中居撰之助と黒岩みや子の墓

 重兵衛の横浜の妻そのは離縁し、和泉屋-牧野善兵衛の元に身を寄せたが、明治22年没。遺児たかは、会津藩士で重兵衛の友人である佐瀬得所に託されて成長し、祖父の和泉屋の跡目を嗣いで牧野たかを名乗った。

 明治になって家運没落し、後年杉並区高井戸の老人ホームに入居していたことを、昭和12年(1937)に郷里-黒岩家の子孫、黒岩敏而・安斎幸男の兄弟が探し当てた。郷土史家-萩原進氏は二人に同行し、78歳になっていた牧野たかから、重兵衛に関する色々のことを聞くことができた。その後まもなく、たかは死亡した。

 たかは男の子をもうけていた。ある大藩の家老の次男が許嫁であったが、国事犯で亡くなったという。兄の方は、盛岡の県令だった。藩名を訊いても、それ以上たかは口を閉ざして答えない。幸男はあきらめなかった。『盛岡県令』を手がかりにルーツをたどった。その結果、許嫁は萩の乱で罪を問われた前原一誠であり、詰め腹を切らされていたのである。

 話はややこしくなるが、許嫁が死んだために、和泉屋ではたかを番頭と結婚させた。安斎幸男は、たかが生んだ男の子の父親は、番頭ではなく、萩藩士の前原一誠であろうと考えた。その根拠は、男の子の名前が誠一だからである。前原一誠の名前を逆にしたのであると考えた。誠一は牧野望東(1876-1913)の号で俳諧の分野で明治文壇に名を残している。37歳で胃がんで死亡した。誠一には子がいなかったので、重兵衛の末裔はここで絶えたことになる。

 重兵衛亡き後、父の黒岩墨峰は、文久三年(1863)の夏、帰郷し、慶応2年(1866)に他界した。重兵衛とともに、故郷の墓地に眠っている。

 母のぶは、上州勢多郡樽村(現-渋川市赤城町樽)の、辰巳屋本家-須田与兵衛の後妻になったが、明治26年(1893)、89歳で他界している。樽の田中堂がある、須田一門の墓地に眠っている。


田中堂の右手⇒


三人の戒名のうち左側がのぶ

 「新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛/著者-萩原進」は新たな情報を紹介している。それによると、重兵衛亡き後、中居屋重兵衛店は、常磐屋という店が経営していた。明治3年(1870)、上州中居村の格之助なる人物が、中居屋重兵衛を相続した上で、常磐屋との間で紛争を起こしたというのである。この紛争は1年がかりで解決し、12月、正式に中居屋重兵衛店は黒岩家を離れたのである。この格之助なる人物が誰なのかは不明である。

 中居屋重兵衛店が有った所在地は、現在の中区本町2丁目22で、日本生命横浜本町ビルが建っており、1階には東京都民銀行横浜支店が入居している。その玄関先歩道には、顕彰の解説板が設置されている。2003年に群馬県吾妻郡嬬恋村の中居屋重兵衛顕彰会の手によるものである。


東京都民銀行横浜支店


歩道の解説板



<中居屋重兵衛の生家について>
 「中居屋重兵衛」とは、横浜港の店の屋号である。一方、郷里の生家は、「中居屋旅館」の屋号が玄関入口のガラス戸に書かれている。
 中居屋旅館の家系は、撰之助が江戸へ出奔した為に、従弟が当主を務め傍系となった。
 中居屋重兵衛に関する資料は乏しかった。明治初年に火災にあい、資料が焼けてしまった為、結局は外部から捜すしかなかったのである。資料発掘に執念を燃やして活躍したのが、7代目の黒岩敏而氏と弟の安斎幸男氏である。僅かな手がかりを人づてに辿る苦労は想像を絶するものがあったようだ。北は岩手県から南は山口県まで、関係先の子孫に書簡で問合せ、あるいは訪問調査をしている。見つかった資料もあるが、口碑を文字化する作業がだいぶあったようだ。その真偽のほどを確認する作業も難渋したという。その時期は終戦間もなくに始めたらしいが、しだいに事実が明らかになっていくに従って、いよいよ中居屋重兵衛の波乱の人生に興奮したことが窺える。それは佐佐木杜太郎氏の著書に「跋(ばつ)の言葉」を寄せており、一般読者も思わず感情移入してしまうほどの真迫るものがある。
 その結果、郷土史家の萩原進氏を初めとして、その後の研究者に受け継がれ、新たな資料が発見されるたびに、実像がしだいに明確になってきたものと考えられる。

 生糸商としての中居屋重兵衛は、現代の感覚ではどう評価されるであろうか。貿易をとおして外国文明が国内に流通した功績の一端は、重兵衛にあったと思われる。一方、生糸の貿易によって重兵衛は2年足らずで大富豪になった。その陰には全国で物価の高騰に苦しみ、家業を閉じる零細業者が続出した。バランスのとれていた経済活動が、一気に混乱の渦に巻きこまれたのである。「五品江戸廻し令」に違反し、混乱を継続させた罪を問われたのであろう。中居屋重兵衛の謎の死はそこにあると思われる。

<主たる文献>
1.横濱開港の先驅者 中居屋重兵衛/著者-萩原進-昭和24年5月15日/発行-群馬文化協会
2.開国の先覚者 中居屋重兵衛/著者-佐佐木杜太郎-昭和47年11月25日/発行-新人物往来社
3.新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛/著者-萩原進-平成6年6月20日/発行-有隣堂

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください